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八王子めじろ台バプテスト教会 hachimejib.exblog.jp

〒193-0833 東京都八王子市めじろ台2-15-2 ℡.042-663-7036  礼拝(日)AM10:00~12:10              祈り会( 水曜日 午前10時~11時20分


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悲しみが喜びに変わる

テーマ:悲しみ、喜び  
聖書:ヨハネによる福音書16:16~24
2018年11 月18 日                  協力牧師 北島靖士

今日のメッセージは、今読みましたようにヨハネによる福音書からお話ししたいと思います。ヨハネによる福音書はヨハネという名前の人によって指導されていた教会で書かれたものです。書かれた時期は1世紀の末ごろと考えられています。そのころのヨハネ教会の人々の様子が今読みましたところにもよく現れています。
1) 18節に「『しばらくすると』と言っておられるのは、何のことだろう。何を話しておられるのか分からない。」とあるように、彼らは「分からない」という不安の中にありました。よく、キリスト教はむずかしい、わかりにくいという人がありますが、初代教会の人々も分からなかったのです。その点では安心していいのです。初代教会の人々も分からなかったのですから、わたしたちにとってむずかしいのは当然だと考えてください。ヨハネの教会の人々は19節にあるように、いくら論じあってもわかりませんでした。この「論ずる」という言葉はまた「求める」とも訳することができることばです。かれらは論じ合ったけれども分からない。求めたけれども、与えられない、得られない、その焦燥感の中にあったのです。
2) この分からない事が次には「悲しみ」になってきます。20節。いくら論じ合っても分からない。求めても得られないと、はじめは怒ります。次に深い悲しみになってきます。相手の言う事がわからないということは相手と言う人そのものがわからないということです。こちらのいうこともわかってもらえない、自分をわかってもらえない、悲しみです。相手から切り離された、相手と関係がなくなった悲しみと不安です。
3) 21節。ここでは悲しみは苦痛になると言われています。ヨハネの教会の人々は外側からはユダヤ教によって迫害される苦痛の中にありました。しかしそれ以上に大きかったのが内面の苦痛、苦しみでした。かって自分達が人生の杖とも頼んだイエスさまが、最早よく分からなくなってしまった苦しみ、悲しみの中にあったのです。
(これはメッセージの冒頭部分です。)


# by hachimejibap | 2018-12-15 12:50 | メッセージ

テーマ 賛美
聖書 詩編 8編 1~10節
2018年11月11日      主日礼拝                牧師 左右田 理

 賛美とは神の“みわざ”に圧倒されることです。森羅万象が“みわざ”として迫り全身全
霊が楽器のように打ち鳴らされます。(2節) そしてすべてが“みわざ”として迫るとき、自
分(の力)で生きているのではなく、生かされていることに気づかされます。賛美は、神に
生かされているという実感です。生かされているという実感を全身全霊で受けとめてい
るのは乳飲み子、幼子です。おとなになるに連れ、生かされているという実感が失われ
ていきます。賛美とは乳飲み子、幼子をかたち造る霊に満たされつつ、生かされている
恵みが実感せしめられる出来事です。復活の力です。賛美を捧げるとき、すでに神の国
に生きているのです。(3節a、マルコ10:35)
 生かされていることに気づいたなら、“生きること(存在)がゆるされている”という感謝、
喜びで満たされます。さらにその感謝と喜びが満ち満ちて、あふれ出るなら、森羅万象
にまで、そのゆるしが満ちることを祈ります。森羅万象というからには自分を悲しませる
ような存在、苦しめるような出来事も含まれでしょう。賛美は、自分を悲しませ、苦しめる
相手も自分と共にその存在がゆるされていくこと、共に生かされていくことを喜び、祈り、
感謝する力となるのです。(3b~4節、マタイ5:44~45、1テサロニケ5:15~18)
 賛美は、人が神より少し低いものとして造られ、神の威光の冠にあずかり、森羅万象
を治める存在とされている恵みを思い起こさせてくれます。(6節) 森羅万象を治めると
いう人の威光については、神の子イエス・キリストが十字架の栄光を指し示してください
ました。(マタイ18:4、23:11、20:28)  羊や牛が、野の獣が、空の鳥、海の魚、海路を渡る
ものが養われるよう、人が身を低くして仕え、命を捧げていくところに神の威光が満たさ
れ、天の冠が授与されるのです。(7~10節) 主を賛美せよ!
 やがて世界は一つになります。世においてもっとも低くされた主、十字架に上げられた
イエス・キリストのもとにあらゆるものが、天も地もすべてが集められるのです。その救
い(エフェソ1:10)を共に賛美するために。十字架の主のもとでは、あらゆる合否、比較優劣
を生むルールが廃棄され、あらゆる敵対関係が無効となるでしょう。すべてがキリストの
もとでゆるされた存在、生かされている存在として和解し、一つになるのです。「…天に
おられるわたしたちの父よ、御名が崇められますように。」(マタイ6:9)


# by hachimejibap | 2018-12-15 12:40 | メッセージ

苦しめる者を前にしても

テーマ 賛美
聖書 詩編 23編 1~6節
2018年11月4日      主日礼拝                牧師 左右田 理

 クリスマス・シーズンまであとわずかとなりました。クリスマスのルーツは春を待ち望む
北欧の宗教儀式だったと言われます。クリスマス物語には天使たちが野宿する羊飼い、
および羊の群れに救い主誕生が告げられる場面がありますが、12月末に野宿などした
ら羊飼い(人間)も羊の群れも凍死の危機です。キリストの福音がユダヤ地方から北欧
に伝道されていった際、日照時間がほとんど無くなり暗く凍てつく冬に春の光を待ち望
む北欧の宗教儀式が人々の希望でした。そこで伝道者が永遠の春の光として世の救い
主キリストを証ししたのがクリスマスの始まりだったのではないでしょうか。そして本日の
聖書箇所も、春の光を待ち望む多くの人々にとって希望となったかも知れません。
 「【賛歌。ダビデの詩。】主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。」(1節) 聖書
において救いの民は羊の群れに例えられます。.羊は方向音痴で臆病だと言われていま
す。驚くとすぐに浮き足だって道から逸れ、戻ってこられなくなると。しかし羊飼いの声を
聞き分ける能力には秀でていて救われると。同じように、救いの民は神の声、神の言葉
によって確かな方向性を得るのです。(マタイ11:15、13:9、13:43、マルコ4:9、4:23、7:16、ルカ
8:8、14:35) 本日の聖書箇所はダビデの詩です。ダビデは絶望の闇の中でも、救いの
方向性は“人知を越えた明日”だということを聞き分けていました。(サムエル下12:13~23)
 詩編でダビデの詩と銘打たれている一連の詩は22編に続くかたちで本日の23編が位
置しています。しかし22編はまるで地獄の責め苦の描写のようにも見えます。地獄の責
め苦のような描写に続いて春の光を思わせる23編が位置するというのも不思議です。
ただ22編後半には春の光を予感させる描写もあります。(詩22:27~28,31~32参照) 春の
光の予感…それは地獄の底にこそ証しされる“人知を越えた明日”だったのではないで
しょうか。
 「わたしを苦しめる者を前にしても/あなたはわたしに食卓を整えてくださる。わたしの
頭に香油を注ぎ/わたしの杯を溢れさせてくださる。」(5節) わたしたちの羊飼いである
主イエスは、自分を苦しめる者と共にも食卓を囲む“明日”に備えよ、と招いておられる
のではないでしょうか。(ルカ6:27) 苦しみの闇が深ければ深いほど、“人知を越えた明
日”に招く主をひたすら信じ、賛美しましょう。(6節、1テサロニケ5:15~18)



# by hachimejibap | 2018-12-15 12:30 | メッセージ

栄光をお受けになるとき

テーマ 召天
聖書 マルコによる福音書 10章 35~45節
2018年10月28日   召天者記念礼拝              牧師 左右田 理

 子どもの頃、天国は高いところにあって、光り輝いているイメージでした。“栄光”と聞
けば高みからまわりを見下ろせるような場所のような気がしていました。実際、小学校
の運動会であれオリンピックであれ、一等賞の人は表彰台の一番高いところに立ちま
す。主イエスの弟子たちも主が世の救い主、神の栄光に満ちたお方であることを信じ、
きっと高みを目指して主に付き従っていたのでしょう。だから本日の聖書箇所でも二人
の弟子が、主が栄光をお受けになるとき、その両脇に立ちたいとコッソリ頼み込んでい
るのではないでしょうか。出し抜かれた弟子仲間は怒ります。高みを目指すことで争い
が生じてしまうなら、天国に行くということは、果たしてまわりを見下ろせるようなところに
登ることなのでしょうか。
 世の救い主の栄光に近く立ちたいなら、主イエスの杯を受け、主イエスのバプテスマ
を受ければ良いのです。(マルコ1:9~12、14:36) それは十字架の苦難に向かう主の道へ
招かれるということです。十字架の主の道は、その時代、その社会から無用なものとし
て排除されていく命の傍らに立つ道でした。十字架の主の苦難は、世において低くされ
ていく命の隣人として立ち続ける苦難でした。(43~44節) そのような苦難の道の完成者
としての栄光こそ、十字架の主の栄光でした。
 もし十字架の主の栄光が世に満ちたら世界は平和になります。争いはありません。あ
るのは、ひたすら無償の愛です。天国は報いを求めない愛で満ちています。しかしその
ような栄光に誰が入りたがるでしょうか。(38節) 十字架を前にして弟子たちは逃げ出し
ます。弟子仲間を出し抜いてでも主の近くを求めた二人の弟子も。出し抜かれたことを
怒った残りの弟子たちも。すべての人が十字架の主の栄光に背を向けました。
 しかし十字架の主の栄光は、主を見捨てて逃げ去った者たちが贖われる(買い戻され
る)ための“身代金”でした。(45節) それは買い戻された者たちの中に、復活の主が生
きるためでした。“高み”に囚われていた者たちが買い戻され、世において低くされた者
たちの傍らに仕えていく群れが起こされていく…それは教会の目標であり、十字架の主
の栄光が成就した天国の姿です。十字架を仰ぐ礼拝に立ち帰るとき、先に天に召され
た方々が互いに仕え合う姿に私たちが連なる明日が見えてきます。(マルコ10:26~27)


# by hachimejibap | 2018-12-15 12:20 | メッセージ

わたしがお前に代わって

テーマ 命の主
聖書 サムエル記下 19章 1~9節
2018年10月14日      主日礼拝                牧師 左右田 理

 謀反を起こして父親であるダビデの王位を奪い、さらにダビデを殺そうとしていたアブ
サロム…けれどもダビデに忠義を尽くした家来の手によってついにアブサロムは殺され
ました。謀反人成敗の報を受けてダビデは叫びます、「わたしの息子アブサロムよ、わ
たしがお前に代わって死ねばよかった(1節)」。仲間たちを守るため命を賭して戦った部
下たちの勝利を祝うことよりも、裏切り者の死を嘆き悲しむことに身を捧げていくダビデ
…それが神の国の王でした。(7節、マタイ5:43~44)
 “わたしがお前に代わって死ねば良かった”…この 嘆きは、かつて わが子が自分の
罪のゆえに死んでしまったという“命の負い目”が、いまだダビデの中を貫いていること
を表しているのではないでしょうか。(サムエル下12:23~14) “命の負い目”に貫かれている
者にとって身内、仲間内の歓喜は、愛する者がそこにいないという自責の念が呼び覚ま
させる引き金になるだけのことでしょう。そして“命の負い目”のただ中にある魂は“和解
の完成としての再会”へ招いてくれる和解の福音に捕らえられ、敵と味方、生と死、あら
ゆる“隔ての壁”を越えていこうと苦しみもがくのでしょう。(エフェソ1:10,2:14~16,18参照)
 しかし敵の死を嘆くということは、味方の労苦、犠牲に対する冒涜です。(6節) 敵の命
を尊ぶなら味方が敵になります。しかし福音は、たとえ昨日の味方が今日の敵になるこ
とがあろうとも、敵を愛するよう招いているのではないでしょうか。(ルカ12:51~53) 家来 ヨ
アブは、このままではダビデがひとりぼっちになってしまうと警告をします。(8節) しかし
この時点で、実質的にダビデは身のまわりを不信感で取り囲まれていたのではないでし
ょうか。もう すでにひとりぼっちだったのではないでしょうか。霊的に、十字架の主のも
とへすでに招き入れられた者として。
 ダビデはヨアブの忠告に従って立ち上がり、味方の前にその姿を現します。(9節) と
はいえ、つい先ほどまで味方を意気消沈させていたのです。全面的な信頼を集めるに
はほど遠かったでしょう。すでに昨日の味方が今日の敵となっていたのではないでしょう
か。しかし、だとすれば新たに和解の福音が始まっているのではないでしょうか。昨日
の味方が今日の敵になったからこそ、新たに出会うのです。もはや死ぬためではなく、
“わたしがお前に代わって、お前たちの分までも、和解の福音に生きるために。”


# by hachimejibap | 2018-12-15 12:10 | メッセージ