八王子めじろ台バプテスト教会

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大きな喜び

テーマ 新生
聖書 ルカによる福音書 2章8~10節
2017年12月23日    クリスマス・イブ礼拝        牧師 左右田 理

 世界で最初のクリスマス、それは植民地に科せられた人口調査の時期でした。侵略
者、支配者から役に立つ人間と見なされるかどうかは、その後の社会生活を大きく左右
します。身重のマリアが危険な旅路を経なければならなかったのも、マリア自身、そして
胎児イエスの将来、その命が掛かっていたからでしょう。ところが侵略者のその命令に
従うことなく野宿していた人たちがいました。羊飼いたちです。呑気で良いご身分だった
のでしょうか?そうは思えません。ものの数にも入っていないということは、侵略者のご
機嫌を損じた際、交渉の余地も無ければ、恩赦の対象にもまったくならなかったというこ
とです。だとすれば羊飼いたちのもとに権威者が出向くということは排除、抹殺される危
険性も高かったと言えましょう。羊飼いたちが天使と出会ったときの恐怖は(9節)、彼ら
の社会的無力さとも関係していたのではないでしょうか。
 しかし天使は喜びを宣言します。社会的に無力な者たち、底辺に位置する者たちこそ
が、民全体に及ぶ大きな喜びをもたらす神の器であると。(10節) これは無力な者たち
が有力になる、ということとは限りません。実際、天使のお告げに従った羊飼いたちは
天から降りてこられた神の御子、赤ん坊イエスと出会いますが、その後、何か社会的な
地位や名誉が向上したという歴史的痕跡はまったくありません。では なぜ、民全体に及
ぶほどの大きな喜びが、まず羊飼いたちに届けられたのでしょうか。それは社会の本当
の喜びは、社会の真ん中から広がらない、というメッセージではないでしょうか。社会の
片隅、社会の周辺から真ん中に届いてくる喜びこそが“本物の”喜びだというメッセージ
だったのではないでしょうか。これこそクリスマスの真理、神の真理に違いありません。
そしてこの真理に生きる群れこそがキリスト教会なのです。(1コリント12:21~27)
 クリスマスの喜びは、当時、世界の中央に居座る権力者、ローマ皇帝に向かうことな
く、まず社会の周辺、片隅を放浪していた羊飼いたちに訪れました。そして社会的高み
へ昇っていく先で陣取っている皇帝に満ちることなく、家畜小屋のエサ箱へ産み落とされ
た赤ん坊に満たされたのです。私たちは今、クリスマスの喜びの方向へ共に目を向けま
しょう。その方向へ共に歩み出しましょう。やがて目の前に、そして全身、全生活に新た
な喜びの光が満ちあふれてくるに違いありません。(ルカ11:34)


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# by hachimejibap | 2018-02-27 17:42 | メッセージ

心の底から新たにされて

テーマ 新生
聖書 エフェソの信徒への手紙 4章20~25節
2017年12月17日    アドベント(待降節)          牧師 左右田 理

 あなたがたはキリストをこのように学んだのではありません(20節)…では、どのように
学んだのでしょうか。それは、キリストは降りてこられた方だったということです。(10節)
そして降りてきたことによってすべてが満たされたということです。そして、そのすべての
満たしとは、天に昇ることではなく、天よりもさらに高く昇ることでした。降りる方が昇るよ
りも高かった…まるで なぞなぞのようです。しかし歴史的教会は、家畜小屋のエサ箱に
生まれた赤ん坊イエスこそ、天から降りてこられた神の御子だったというクリスマス・メッ
セージを世に告げ広めてきたのです。私たち教会も このクリスマスに、天から降りてき
たからこそ、天よりも高くなったという神の不思議と向き合い、またそのような神の不思
議を多くの人々と分かち合うよう、招かれているのではないでしょうか。
 本日の聖書箇所はその直前で、異邦人を倫理的に愚か者として断罪しているように
見えます。(17~19節) エフェソの信徒への手紙1:1にはこの手紙がパウロの作であると
記されてはいますが、現代の聖書学的見解としては、異邦人伝道に専心してきたパウロ
が異邦人を悪し様に書くだろうか、と問われています。いずれにせよ倫理的優劣を盾に
取った批判は上昇志向への“誘惑”でしかありません。私たちが聴くべきは、真理がイエ
ス様の内にある、ということです。(21節) 当時の社会で低い評価を浴びせられていた徴
税人や遊女と呼ばれる人々と共に生きようとしたイエス様の内にこそ真理がある、という
ことです。社会の低みに降りることによって天よりも高くなったお方の内にこそ、真理が
あるということです。だとしたら放縦、ふしだら(19節)、情欲、滅びに向かう古い人(22節)、
それらは社会的経済的安定に あぐらをかこうとするような生き様、社会の底辺で苦しむ
人々に無関心な生き様を指摘しているのではないでしょうか。
 このアドベント(待降節)、私たちは神にかたどって造られた新しい人を身に着けるその
時を待ち望もうではありませんか。(24節、フィリピ2:6~11) 赤ん坊イエスが私たちの魂の
底にその霊的産声をあげるとき、私たちは新しい人を着ることになるでしょう。来主日ク
リスマス礼拝に続く祝会において、新しい人として多くの人々と食卓を囲もうではありま
せんか。(ルカ14:12~14) 「…御心が行われますように、天におけるように地の上にも。わ
たしたちに必要な糧を今日与えてください。」(マタイ6:10~11)


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# by hachimejibap | 2018-02-27 17:39 | メッセージ

霊的な命

テーマ 新生
聖書 コリントの信徒への手紙 二 3章1~6節
2017年12月10日    アドベント(待降節)        牧師 左右田 理
 
 待降節…私たちは待ち望みます。主のご降誕を祝うクリスマスに向かって。しかし待ち
望むということは単なる待ちぼうけ、果報は寝て待てではありません。逆です。絶えず目
を覚ましているということです。それは神さまが今、何を私たちに期待してくださっている
のか、注意し続けるということでもあります。(マルコ13:34~37) 言い方を変えれば、神さま
を待ち望むということは、神さまが私たちの身の上について待ち望んでくださっている
“何か”があるということを信じ、そしてその“何か”を求め、探し、たたき続ける日々で
す。(マタイ6:31、7:7)
 世界で最初のクリスマス、その喜びの知らせは、まず羊飼いたちに届きました。(ルカ2:
8~10,14) それは旧約聖書に証しされ、長きにわたって待ち望まれてきた救いでした。そ
して天使のお告げどおりに羊飼いたちは赤ん坊イエスと出会います。しかしそれだから
といって、羊飼いたちの社会的待遇に何か向上があったかのような聖書記述はありま
せん。赤ん坊イエスの誕生が原因で、その晩に、誰かが何かを手に入れたという歴史
的痕跡もありません。しかし羊飼いたちは神の期待に応えたのです。そして神の期待に
応えた生き様として、多くの人たちの心に救いの言葉が刻み始められたのです。(ルカ2:
17~19) ですから主を待ち望む先に何か社会的御利益が保障されているわけではあり
ません。主を待ち望む先にあるのは、神さまが私たちの身の上に待ち望んでくださって
いる“何か”が起こされるという恵みです。そして恵みであるその“何か”をひたすら待ち
望むその生き様こそが、人々の心に救いの言葉を広く刻んでいくのです。
 本日の聖書箇所で伝道者パウロは宣言します、「文字は人を殺す」と。パウロがここで
批判している“文字”とは、いわゆる社会的推薦状、社会的評価です。推薦される人、評
価される人の背後には推薦されない人、評価されない人が無数に生み出されてしまいま
す。しかしキリストの救いの契約は、人々に不思議な思いを抱かせ、キリストによる“何
か”へ広く招くのです。そうです、人知を越えた“何か”を待ち望んでいる教会の生き様を
通して、クリスマスを待ち望む礼拝を捧げている今の私たちの生き様を通して、すでにキ
リストの不思議が、救いへの招きが豊かに出現しているのです。
「…御心が行われますように、天におけるように地の上にも。」(マタイ6:10)
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# by hachimejibap | 2018-02-27 17:37 | メッセージ

クリスマス 2017

メリー・クリスマス!
今年も皆様のお越しをお待ちしています。

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# by hachimejibap | 2017-12-07 12:50 | 教会からのお知らせ

律法からの解放

テーマ 希望
聖書 ローマの信徒への手紙 7章5~6節
2017年12月3日    アドベント(待降節)        牧師 左右田 理

 処女降誕の物語(マタイ1:18~19)は歴史的にはファンタジック(幻想的)に語り継がれてき
ました。しかし当のマリアにとっては命がけの危険でした。イスラエルの律法文化には命
に関わる性差別があったからです。たとえば男には婚前の女の不実を訴える権利があ
りました。訴えが認められれば女は死刑です。ところが女には男の婚前の不実を訴える
権利条項は無く、たとえ男の偽証が発覚しても男は罰せられはしても殺されず、女は一
生その男との結婚を強いられたと考えられるのです。(申命記22:18~21)
 そもそもイエス様降誕の物語には系図がともない(マタイ1章、ルカ4章)、旧約における神
の救いの約束は“人知を越えた”恵みとしてイエス様の身の上に継承され、成就したこと
を証しする意図があったと考えられます。ところがキリスト教会2000年の歴史において、
いつの間にか救いの約束の継承に関する“人知を越えた”確かさが、マリアの純潔神話
にすり替えられ、律法文化を彷彿させるような性差別による抑圧を世にもたらしてきてし
まったところはないでしょうか。男には「男らしくない」と裁き、女には「女らしくない」
と裁き、男とも女とも一括りにできない人を病気扱いするような抑圧的言動に迎合、もし
くは黙認、容認しておきながら、どうして“人知を越えた”救いを証しできるでしょうか。
 キリスト教会にはバプテスマという入信儀式があります。水に沈められることによって
イエス様と共に葬られ、水からあがることによってイエス様の復活の命に与るという希望
が込められています。もしこれが単なる通過儀礼なら復活の命を受けた信者とまだ受け
ていない未信者という差別、抑圧をもたらす新たな律法文化でしかないでしょう。しかし
バプテスマはあらゆる差別を乗り越える使命を受ける出来事であり、キリストがあらゆる
差別、抑圧から解放してくださるという希望を受ける出来事です。私たちキリスト教会は
このキリストの希望に向け一致し、奉仕するよう招かれた群れです。(ガラテヤ3:27~28)
 主の食卓は徴税人や罪人として社会的に差別され、排除されていた人たちと共に囲
む食卓でした。月の第一主日の礼拝式で執り行われる主の晩餐式はそういう主の食卓
の象徴です。だとしたら処女降誕もまた後生に純潔を強いる象徴ではなく、差別され、
抑圧されている者たちこそ神の国の食卓に招かれているという希望だったのではない
でしょうか。「わたしたちに必要な糧を今日与えてください。」(マタイ6:11)


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# by hachimejibap | 2017-12-07 12:40 | メッセージ

みんなで歌おう!共に話そう!そして一緒に祈ろう! 〒193-0833 東京都八王子市めじろ台2-15-2 ℡.042-663-7036


by hachimejibap