八王子めじろ台バプテスト教会

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心を入れ替える

テーマ 捧げる(奉仕、献金)
聖書 マタイによる福音書 18章1~5節
2018年2月4日    主日礼拝            牧師 左右田 理

 2月はスチュワード月間です。捧げる、ということについて共に御言葉に聴きましょう。
礼拝、奉仕、献金…しかし高齢化社会を迎えた現代日本には、さまざまな“衰え”による
無力感が蔓延しているのも現実です。今の時代に生きる私たちが、神さまのために何
を、どのように捧げたら良いのか、不安が過ぎってもおかしくないと思います。天国では
誰が一番偉いのか(1節)…この問いを発した弟子たちも、ひょっとしたら競争心や野心
ではなく(20:20~28)、日常的に自らの弱さ、至らなさと直面していたがゆえに、何をどのよ
うに捧げれば良いのか途方に暮れていたのかも知れません。(17:14~23)
 だとしたらイエス様のお応えは、無力感に苛まれる弟子たちを励ます言葉になるでしょ
う。「…心を入れ替えて子どものようにならなければ天の国に入れない。自分を低くして、
この子どものようになる人が天の国でいちばん偉い」。(3~4節) とはいえ、もし、“してあ
げた”記憶はゼロで、“してもらった”ことばかり、という子どものような思い(心)が天の国
での豊かさならば、捧げれば捧げるほど“自分がしてあげた”感覚へと誘惑され、天の
国での豊かさから離れてしまわないでしょうか?
 かつて“衰え”を前向きに受け取る考え方の一つとして、“忘却力”という言葉が流行っ
たことがありました。イヤなことを忘れる、ということのようです。少し違いますが、本日
の聖書箇所であるマタイによる福音書にも、“忘れてしまう”人々がいます。イエス様の
ために“捧げたことを忘れた”だけでなく、自分の奉仕に先だって相手の中に生きて働い
ておられたイエス様と出会った人たちです。(マタイ25:37~40) これは“自分が”捧げたとい
う自覚(記憶)を、すべては神さま、イエス様の“おかげ”という感謝、礼拝賛美に書き換え
てえてもらった人たちだったのではないでしょうか。(ヨハネ黙示録4:10、マタイ25:20)
 “捧げる”とは捧げたことを忘れることです。捧げ尽くし、忘れ尽くすなら、“してあ
げた”という思い(記憶)から解放され、子どものように、「イエス様の“おかげ”」とい
う感謝、賛美で埋め尽くされることでしょう。そこはすでに天の国です。その人こそ天の
国で最も偉いのです。「聖霊様、どうか私たちの記憶のすべてを書き直してください」。
…『天におられるわたしたちの父よ、御名が崇められますように。御国が来ますように。
御心が行われますように、天におけるように地の上にも。』


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# by hachimejibap | 2018-02-27 17:50 | メッセージ

五つのパンと二匹の魚

テーマ:イエスの力
聖書: ヨハネによる福音書6:1~15  
2018年1 月28 日                協力牧師 北島靖士

はじめにわたしが、ずっと以前に書きました文章を紹介したいと思います。
西洋なしの形をしたガリラヤ湖の北端、フィリポ・カイサリアに源を発したヨルダン川が
流れ込むあたりの丘の上に今日あまり大きくはないが、白い八角形をした教会堂が立って
いる。この教会堂のまわりを廻っているバルコニーに立つと、目の下に青いガリラヤ湖が
さざ波を立てていて足元から涼しい風が吹き上げてくる。ここがイエスのマタイ5~8章の
山上の説教がなされた場所だと伝えられている。そしてその背後にある草が生えているな
だらかな斜面、こここそあの五千人に対する給食の舞台なのである。イエスの恵みの豊か
さを覚える時、あまり、木や草が見あらたらず荒野が多いイスラエルの中で、特にみどり
豊かな丘が物語の舞台とされたということはうなずけることである。
これはわたしがイスラエル旅行をした直後にその印象を書き止めたものです。しかしこの
風景は今も変わっていないようです。
ガリラヤ湖の向こう岸のユリウス・ベッサイダの村へ行こうとされたイエスさまには大勢
の群衆が従って行きました。イエスさまが病人たちになさった奇跡を見て、あのような働
きが自分たちの上にも起こるようにと期待していたのでしょう。大多数の人が病気を持っ
ていたのでしょう。イエスさまは丘に登られます。弟子達もイエスさまと共に座につきま
した。見下ろすと群衆もまた主のみそば近くへとひしめきあうように丘を登ってくるのが
見えます。
この時イエスさまは病気も癒されたでしょうが、マルコによる福音書を見ると「大勢の群
衆を見て、飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ、いろいろと教え始められた。」
とあります。これが、マタイ5~8章の山上の説教です。
(以上はメッセージの冒頭部分です。)


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# by hachimejibap | 2018-02-27 17:48 | メッセージ

キリストに結ばれて

テーマ キリストの交わり
聖書 使徒言行録コリントの信徒への手紙 二 2章14~17節
2018年1月21日    主日礼拝            牧師 左右田 理

 クリスチャンの道は神さまの光に照らし出されてまっすぐ歩むことができる…教会学校
に通っていた小学生時代に耳にしたことです。しかし本日の聖書箇所の事情(1章)として
あの大伝道者パウロの立てた伝道計画が変更を余儀なくされていたようです。神さまに
救われ、また守られているなら、計画の変更など起こるはずないのではないか…コリン
ト教会に渦巻き始めていたパウロへの疑問だったのではないでしょうか。ところがパウ
ロはそのような疑問を一蹴するかのように力強く宣言します。コリント教会訪問が遅れた
のは諸問題に対して性急な裁きをしない、という思いやりの決意の表れに過ぎない、と。
(1:23,2:1参照) 果たしてこれは、パウロが開き直って自己推薦を始めているのでしょう
か?(3:1) お互いの言い分がどこまでも平行線をたどっていくように見えるとき、人は途
方に暮れます。しかし教会の交わりはそのようなときにも、絶えずキリストに立ち返るこ
とができるのです。
 本日の聖書箇所でパウロは宣言します、私たちはいつもキリストの勝利の行進に連な
っていると。キリストの十字架は、律法など諸々の規定による証書によって社会的に不
利な評価を受けた人々に連なり、その評価を破棄して取り除きました。キリストの勝利
は、世の権威(比較優劣、合否)、武装の愚かさを明らかにしてくれました。(コロサイ2:14~
15) 教会は社会的に不利な評価を浴びせられている人々と出会い、交わり、連なるこ
とによってキリストの勝利の行進に連なり、命から命に至らせる香りを世に解き放って
いくのです。しかし世の権威に執着し、武装する人々にとってそれは、死から死に至ら
せる香りであるかのように誤解し、教会を裁き、また迫害するのです。
 けれども教会は裁き返すことはありません。そもそも報酬、見返りを求めていないか
らです。ただキリストに結ばれた交わりを求めていくからです。(17節) それでも教会もま
た道を踏み外すことがあります。社会的に不利な評価を浴びせられている人々を避けて
しまった負い目は、キリスト教会2000年の歩みにもあります。裁く側へと誘惑され世の権
威、武装に堕してしまったときがあります。教会は、ひたすら悔い改めの交わりです。
「わたしたちの負い目を赦してください、わたしたちも自分に負い目のある人を赦しまし
 たように。わたしたちを誘惑に遭わせず、悪い者から救ってください。」(マタイ6:12~13)


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# by hachimejibap | 2018-02-27 17:47 | メッセージ

主の名によって

テーマ 教会の成長
聖書 使徒言行録 9章26~31節
2018年1月14日    主日礼拝            牧師 左右田 理

 新約聖書には初代教会が受けてきた迫害の厳しさも物語られています。まさに命がけ
の教会活動でした。しかし彼らは内に こもることなく伝道に邁進しました。「一人でも多く
の人たちがまことの救い主イエス様と出会えますように」…人々がイエス様と出会うため
に、教会は人々との出会いを喜びました。しかし本日の聖書箇所を見ますと、そのよう
な彼らでも誰に対しても笑顔で出会えたわけではないことがわかります。サウロは教会
に対する迫害者でした。つい最近までクリスチャンの命を奪う急先鋒でした。ところが い
きなり「君たちの仲間だ」と迫ってくるのです。こんな場面で誰が前向きな態度で迎えるこ
とができましょう。
 ところが ここにバルナバという人物が登場します。バルナバという名には「慰めの子」
という意味がありました。(使徒4:36) バルナバは教会活動の中核を担っていた使徒た
ちのもとにまでサウロを案内し、引き合わせます。サウロがスパイでも暗殺者でもないと
いう根拠は イエスの言葉を聴いたサウロの証し、そしてそのイエスの言葉を告げ広め
たサウロの生き様でした。(27節) イエス・キリストの言葉を共有するなら、それまでの敵
対関係、損害を度外視して希望をもって迎える、そこに教会の成長がありました。さらに
は、これからの損害も度外視して支える、そこに教会の成長がありました。サウロを迫
害者から匿い、逃がした後、迫害の矛先は教会に向いたことでしょう。(30節) 教会は自
分たちの命を奪った者の命を支えることによって、後の大伝道者パウロを迎えていたの
です。
 教会に保たれる平和は、和解の福音です。天と地ほどもある開き、隔たりを取り壊し
てあらゆる命を一つにつなげる十字架の力です。そこでは あらゆる合否判定基準、比
較優劣の規定が廃棄され、差別した者、排除した者が、差別された者、排除された者と
共に、主の十字架のもとで一つにされるのです。(エフェソ2:14~16) 教会は律法のゆえに
失格者の群れとしてサウロたちから迫害されましたが、その迫害者サウロをキリストの
言葉のゆえに受け入れたことを通して、大伝道者パウロを世に派遣することとなりまし
た。出会う命を主の名によって受け入れることによって、教会は人知を越えて発展し、
成長していくのです。(31節)


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# by hachimejibap | 2018-02-27 17:46 | メッセージ

勧めを聞き入れた民

テーマ 神の民
聖書 出エジプト記 18章24~27節
2018年1月7日    新年礼拝           牧師 左右田 理

 新年に際し教会形成のルーツをたどりたいと思い、本日の聖書箇所と出会いました。
旧約時代の神の民イスラエルがどのように共同体を組織化していったのか…ところが
私に届いたメッセージは組織化の手引きといったものではなく、共同体形成を導いたの
は誰か、という問いでした。並行記事である申命記1:9~15では、民の形成を導いたのは
民のリーダーであるモーセ、という至極当たり前の描写になっているのですが、本日の
聖書箇所によればリーダーであるモーセが、ミディアン人である舅(18:1)の指示に従った
結果として、神の民イスラエルがその共同体を形成できたことになります。
 昨年の礼拝メッセージで、申命記がモーセの時代よりはるか後代、イスラエル王国が
滅びの危機を脱するためにもがいていた時代の作品だった可能性を指摘しましたが、
もう一つ王国時代の一つの常識として、ミディアン人はイスラエルの歴史的仇役だったと
いう事実があげられます。(イザヤ9:3、士師7:15) 国家の建て直しが図られるとき、生粋
の血筋の人物に誉れを帰するような、いわゆる愛国運動的物語が量産され、仇役に花
を持たせるような物語など焚書にされそうなものです。しかし そうはならず、本日の聖書
箇所が神の言葉として今の私たちの手元にまで届いているのは不思議です。じつは、
ここにこそ神の国の神の国たるゆえん、この世の国と異なる神の国の本質がありはし
ないでしょうか。神の国としての共同体が形成されるためには、身内、仲間内の、自画
自賛的な物語に終始することなく、他者の見解、自分と異なる見解に耳を開くときにこそ
恵みと出会ったという物語もまた必要不可欠だったのではないでしょうか。
 並行記事である申命記は、各部隊の隊長がリーダーのモーセを支えることによって神
の国の共同体が形成されたという点に集中しています。しかし本日の聖書箇所は、各隊
長が異邦人(よそ者)にも広く耳を開くという潜在的使命を負っていくところに神の国の共
同体が形成されたことをも証ししてくれているのではないでしょうか。ややもすれば この
世の国は外界との接触を制限し“変わらない”ことで自らを保とうとします。しかし異見を
喜び“変わる”ところにこそ、神の国は訪れるのです。
「わたしたちは、キリストの体として世の力から独立し、キリストの平和を祈り求め、(八王
子めじろ台バプテスト教会の契約)」…「御国が来ますように。(主の祈り)」


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# by hachimejibap | 2018-02-27 17:45 | メッセージ

みんなで歌おう!共に話そう!そして一緒に祈ろう! 〒193-0833 東京都八王子市めじろ台2-15-2 ℡.042-663-7036


by hachimejibap