八王子めじろ台バプテスト教会

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にわとりが鳴く時

テーマ:受難  
聖書:ヨハネ18:15~18、25~27 
2018年3月25日                協力牧師 北島靖士

エルサレムに行きますと鶏鳴教会というところがあります。これは古代
の大祭司の屋敷あとに建てられていると言われています。教会の屋根に
は普通は十字架がついていますが、ここには鶏がついています。言うま
でもなく今日の聖書の箇所にちなんだものです。ほかにもたくさん遺跡
を見てまわりましたが、わたしにはここが一番印象的でした。なぜなら、
先ほどの連梼にもあったように、わたしもペトロと同じようにイエスさ
まを裏切るものだ、ということを思い知らされる場所だからです。わた
しが最初に牧師になった神戸バプテスト教会近くの北野町にはいわゆる
異人館が沢山あって、その何軒かの屋根にも風見鶏がついていました。
その屋根を仰ぐたびに自分がイエスさまに従っているものであるか、
どうかを問われたものでした。
ところで、わたしたちはこの聖書の話を読んで、どうしてこんな話が聖
書の中に載せられているのだろうかと、不思議になります。ペトロはイ
エスさまの弟子の中では頭といわれた人です。カトリック教会ではペト
ロを初代ロ-マ司教、ロ-マ教皇としています。こんなエライ人がイエ
スさまを裏切ったという話です。世の中の権力者と言われる人たちは自
分の過去の暗いところは、恥ずかしいところはできるだけ隠そうとしま
す。小さい時からりっぱな人間だったということになっています。
しかしペトロについてはこんな話が伝わっていたということは、ペトロ
自身が自分のことを告白したからだと考えるほかありません。ではどう
してペトロは告白したのか。それはペトロがわたしたちの信仰にとって、
このことは大変重要だと考えたからだと思うのです。人間はみんな信仰
するという時に、ペトロのような過程を通らざるを得ないのです。終始
一貫、迷いのない信仰生活を続けて、躓かなかった人間は一人もいない
のです。わたしも迷いました。今も迷うことがあります。そのような迷
いの中から悔い改めてもう一度イエスさまの愛に気づくのが信仰です。
躓き倒れる、挫折する。そこからもう一度イエスさまに手をかしてもら
って立ち上がる、それが信仰生活です。
(以上はメッセージの冒頭の部分です。引用聖句は裏面にあります。)

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# by hachimejibap | 2018-05-19 14:30 | メッセージ

主の葬りを見つめて

テーマ 復活の希望
聖書 マルコによる福音書 15章42~47節
2018年3月18日    主日礼拝              牧師 左右田 理


 キリストの救いとは何か…そう問われて思い浮かぶのは何でしょうか。病の人を癒した
り、神の国の教えを広めたり、貧しい人と共に歩んだり…思い浮かぶことは人それぞれ
でしょう。しかし救いについて、イエス様ご自身が予想外のお応えをなさった場面のあっ
たことを私たちは忘れてはならないでしょう。高価な香油をイエス様お一人のために使
い切ってしまった女性に対して、なぜ多くの貧しい人々のために有効活用しないのかと
責める人々を尻目に、イエス様は言い放つのです、「この女性は私の埋葬の準備をして
くれた、これこそ世界的に記念すべき福音の出来事だ」、と。(マルコ14:3~9)
 主イエスの十字架と向き合う受難週の始まりを来主日に控えています。本日は主の苦
難と向き合うところに起こされる復活の希望を共に聴きたいと思います。主の苦難は十
字架の金曜日で頂点に達しますが、その苦難の死は弟子たちの中に生き続けたと考え
られます。捕縛されるイエス様を置き去りにして散っていった側近の弟子たちがいまし
た。(聖書教育の本日該当箇所) また主の遺体の引き取りを名乗り出た者や、主が葬
られたところをただ見つめる女性たちもいました。(本日の聖書箇所) 遺体を引き取り
葬った者に関しては国家的謀反人の肩を持ったと見なされ、自らも社会的に葬られてい
った可能性がありました。
 女性たちについて福音書のルカ23:55~56では、葬りの準備に協力し始める姿が描か
れていますが、マタイ27:61、および本日のマルコ15:47に描かれているのは葬られる遺
体をただ見送っている姿です。それは愛する者に今まで注いできた愛もすべて葬り去ら
れた瞬間です。自分の愛の無力を突きつけられ、それと向き合い続けていかなければ
ならない時間でもあります。けれども、この世人の絶望のときこそが福音の世界的記念
であると宣言されたのは、他ならぬイエス様ご自身です。マルコによる福音書において
主の葬りは、人知を越えてすべてが復活に向かう希望のしるしでした。(マルコ4:26~29)
 世においてもっとも良き理解者であったヨハネが捕縛されたときに、主は宣言されま
した、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」。(マルコ1:15) 決し
て難行苦行に身をやつすことが復活の道なのではありません。主の葬りを見つめ、主
の死を思うところに、復活の命に満ちた神の国が人知を越えて来るのです。


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# by hachimejibap | 2018-05-19 14:00 | メッセージ

テーマ 十字架による希望
聖書 マタイによる福音書 27章45~56節
2018年3月11日    主日礼拝              牧師 左右田 理

 2011年3月11日金曜日、首都圏でも恐怖を覚えた人々は少なくなかったことでしょう。
しかし、ようやく復旧したテレビモニターに映し出された東北地方の映像はさらに驚愕で
した。あの東日本大震災から7年経ちました。あの悲惨は現在進行形です。外見上の
復興は進んでいても、目に見えない放射能の危険でわが家を、そして故郷を捨てざるを
得ない人々が後を絶たない惨状、しかもその放射能の原因である原発は首都圏の電
力をまかなうためだったという冷酷無残な社会体制は、いまだ変わらないのです。
 主イエスの十字架と向き合う受難節が今年は2月14日から始まっています。本日は十
字架の苦難の叫びがもたらした“悲惨のただ中から現れた希望”を共に聴きましょう。並
行記事のマルコによる福音書15:33~41では悲惨は悲惨のまま、ローマ兵による「本当に
この人は神の子だった」という信仰告白にもどこか“後の祭り”の感が否めません。しか
し本日のマタイによる福音書では復活を見ることができます。この復活は地震にともなう
聖なる死者たちとの再会でした。これは死(者)の美化に潜む偽善(マタイ23:29~31)を覆す
悔い改めへの招きの出来事だったのではないでしょうか。だとしたらローマ兵の「本当
に、この人は神の子だった」も、罪無き人を殺めてしまったという後悔の告白というより、
過去の過ちの美化が正される希望の告白、あらゆる虚栄、偽善が覆される希望の告白
ではないでしょうか。
 「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」…この十字架上のイエス
の断末魔の叫び、その問いかけについて、並行記事のマルコによる福音書15章には答
らしきものが見あたりません。しかし本日のマタイによる福音書27章からはその答として
再会の希望を見ることができます。そしてその再会は十字架の主が、世の虚栄、偽善
によってかき消された叫びをことごとくよみがえらせる明日、世から排除された者たちを
ことごとく聖なる者として立ち上がらせてくださる明日となるのではないでしょうか。
 私たちは今日、世の繁栄の回復に向かって進もうとしているのでしょうか。それとも十
字架の主によってやがて立ち上がらされる者たちとの再会、すなわち虚栄、偽善がこと
ごとく覆される明日に向かって進もうとしているのでしょうか。「御国が来ますように。御
心が行われますように、天におけるように地の上にも。」(マタイ6:10)


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# by hachimejibap | 2018-05-19 13:30 | メッセージ

神の国が来るまで

テーマ 最後の晩餐
聖書 ルカによる福音書 22章14~23節、マタイによる福音書 26章26~30節
2018年3月4日    主日礼拝              牧師 左右田 理

 今年は主イエスの十字架と向き合う受難節が2月14日から始まっています。本日は
“最後の晩餐”のメッセージを当教会の主の晩餐式式文を通して聴きたいと思います。
式文ではルカによる福音書での“最後の晩餐”が引用されてから、マタイによる福音書
の“最後の晩餐”が引用されています。まずはルカによる福音書から聴きましょう。
 食卓には使徒たち“も”同席していました。他の福音書と違ってルカによる福音書では
いわゆる12弟子の他に72人が主イエスによって派遣された記事があります。(10章)
ルカによる福音書の“最後の晩餐”には、“派遣の使命”を分かち合う食卓というイメー
ジがあるのかも知れません。だとしたら“最後の晩餐”からは「十字架の言葉による出会
いと対話」に出かけていく伝道的使命が託されているのでしょう。では、私たちはどこへ
派遣されていくのでしょうか。
 式文の順にそってマタイによる福音書に描かれた“最後の晩餐”からも聴きましょう。
食卓に同席していた者たちとして描かれているのは弟子たちです。彼らは主イエスの宣
教活動に従い、主イエスと寝食をも共にしてきた者たちだと考えられます。マタイによる
福音書の“最後の晩餐”は、罪を赦す権威者イエスをひたすら見つめる者たちの交わり
です。では、私たちはどこで主イエスを見つめることができるのでしょうか。
 天(神の国)に迎え入れられる“正しい人たち”は社会的弱者の中に主イエスを見ること
になった者たちです。(マタイ25:31~40) 彼らは社会的弱者の中に生きる…いや、死んで
いく主イエスをひたすら見つめたことによって罪赦され、“正しい”とされたのではないで
しょうか。八王子めじろ台バプテスト教会の主の晩餐式のテーマ「イエス・キリストにあっ
て共に死に、共に生きるために」は、私たち教会が誰と共に死ぬために派遣されていく
のか、その使命を問いかけてくれています。
 「12…昼食や夕食の会を催すときには友人も、兄弟も、親類も、近所の金持ちも呼ん
ではならない。その人たちも、あなたを招いてお返しをするかも知れないからである。13
宴会を催すときには、むしろ、貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見え
ない人を招きなさい。14 そうすれば、その人たちはお返しができないから、あなたは幸
いだ。正しい者たちが復活するとき、あなたは報われる。」 (ルカによる福音書14章12~14節)


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# by hachimejibap | 2018-05-19 13:00 | メッセージ

テーマ キリストの愛に駆り立てられて  
聖書 マルコ福音書 12章41~44節,14章3~9節
2018年2月25日                          鈴木重義

(1) レプトン二枚をささげた やめもの場合(マルコ12:41~44)
  41節
a)さいせん箱:エルサレム神殿・婦人の庭に置かれた。その受け口は雄羊の角で作られ、
ラッパを縦にした形で、13箱並んでおり、12箱は別々の目的献金のため、1箱だけが自由
献金のため用いられていた。
  42節
b)・レプトン銅貨:ローマ銅貨。1デナリオンの128分の1
・デナリオン:ローマの銀貨。ギリシャ銀貨ドラクメと同価値。
・マタイ20:2以下によると、当時の労働者一日の労賃は1デナリオン。
c)現在の日本の日給にあてはめると。1デナリオンは6,400円と推定され、従ってレプト
 ン(複数ではレプタ)2枚は100円、そしてレプトン1枚は50円に相当する。いずれにし
 ても少額である。
  43節
d)弟子たちを呼び寄せて:主イエスは、やめものひたむきな献金を見て、弟子たちを集め
 て(恐らく)小声で教え、説かれた。彼女と主イエスは外見では行き違っているが、霊
 的には、確かに出会っている。
e)誰よりも沢山入れた:この沢山は、金額・量的な沢山ではない。それは霊的な豊かさに
 裏付けられた質的・信仰的な沢山である。
  (参照)箴言30:8b~9…貧しくもせず、金持ちにもせず わたしのために定められた
 パンで わたしを養ってください。飽き足りれば、裏切り 主など何者か、と言うおそれ
 があります。貧しければ、盗みを働き わたしの神の御名を汚しかねません。
    マタイ6:31 だから、「何を食べようか」「何を飲もうか」「何を着ようか」と
 言って、思い悩むな。
f)・皆は → 大勢の金持ちを意味する。(41節を参照)
・生活費 この語は、いのちの意味をも含む。従って、「生活費を全部入れた」とは、こ
 の献金で〔神に、すべてを委ねる信仰〕を証ししていることになる。
・有り余る中から入れた=ヤコブ5:5 あなたがたは、地上でぜいたくに暮らして、快楽に
 ふけり、屠られる日に備え、自分の心を太らせ…、Ⅰヨハネ2:16 肉の欲・目の欲・生
 活のおごりは…
g)・このやもめは、イエス、特に十字架の救いの恵みを知らないにもかかわらず、ひたむ
 きにささげる信仰を表白した。<ヤハウェ信仰・エルサレム神殿>
  (マタイ6:33  何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。)
(2) ナルドの香油をささげた女性の場合(マルコ14:3~9)
  3節A)・一人の女:マルコでは匿名性を大切にしている。(ルカでは罪深い女、ヨハネ
 ではマリア)
B)・純粋で非常に高価なナルドの香油:インド産、おみなえし科〔かんしょうこう〕の根
  から採取した香油。日常的に香水として用いられる他に、死者の埋葬準備に用いられた。
 ・香油をイエスの頭に注ぎかけた。:この女性の無意識の行為であるがそれはイエスが
  油注がれた者(メシア)であることを証しした。
4節
C) なぜ、こんなに香油を無駄遣いしたのか
  この香油注ぎは、表面しか見えない者にとっては馬鹿げた無駄遣いにしか見えない。こ
  の注いだ香油を換金すれば300デナリオン以上になった筈ならば、それは概ね当時の労
  働者一年分の労賃に相当する。従って、人々が、この油注ぎを無駄遣いと思って憤慨す
  るのは当然だろう。
6節
D) なぜ、この人を困らせるのか
  この女性は、香油注ぎの意義を説明することができず、困惑して立ち往生してしまった
  のだろう。然し、主イエスは彼女のひたむきな信仰に貴重な意味づけをして、彼女を、
  かけがえのない証し人として評価してくださった。
7節
E) しかし、わたしはいつも一緒にいるわけではない
 貧しい人々、また社会的弱者の人たちに寄り添うことは、日常的奉仕の課題である。然し
 イエス・キリストの十字架のみわざは人類救済の唯一の決定的な、歴史的な時である。
8節
F) この人はできるかぎりのことをした。つまり前もってわたしの体に香油を注ぎ、埋葬の
 準備をしてくれた。
 彼女の香油注ぎは、一つにはメシア(油注がれた者)を証ししているのだが、二つには、
 より大切な、復活の主の十字架死を予見した結果となった。そこで、主イエスは彼女の
 「ひたむきな信仰」を評価し、主イエス御自身の十字架のみわざに付随する貴重な奉仕
 である旨、確言した。

(3) ひとすじの信仰
     Ⅱコリント5:13~14 わたしたちが正気でないとするなら、それは神のためで
 あったし、正気であるなら、それはあなたがたのためです。なぜなら、キリストの愛が
 わたしたちを駆り立てているからです。


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# by hachimejibap | 2018-02-27 17:53 | メッセージ

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