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八王子めじろ台バプテスト教会 hachimejib.exblog.jp

〒193-0833 東京都八王子市めじろ台2-15-2 ℡.042-663-7036  礼拝(日)AM10:00~12:10              祈り会( 水曜日 午前10時~11時20分


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不思議な出会い

聖書箇所  :使徒言行録10章34-48節(参考:10章1-33節)
2019年1月20日礼拝メッセージ要旨         吉村知子

要旨:
導入:この世の中には、神の導きがなければ決して出会うことのない人がいる。
   それが使徒言行録10章に登場するコルネリウスとペトロである。今日は、二人がどのように出会ったのか、出会って何が起こったのか考えたい。

1)カイサリアに住むコルネリウスは異邦人であったが、ユダヤ教に好意的で祈りと施しに励んでいた。このコルネリウスに主の使いが現れ、ヤッファにいるペトロを家に招待するようにと命じる。その理由もわからないまま、コルネリウスは神の言葉を信じて従い、召使たちをヤッファへ送る。

2)ペトロはヤッファの友人宅で、祈るために屋上へ行くと、天が開け不思議な幻を見た。天から布のような入れ物が降りてきて、中には、律法で食べるのが禁止されている動物が入っていた。驚くペトロに天から「これを食せよ」と声が聞こえる。厳格なユダヤ教徒のペトロは勿論断る。すると「神の清めた物を、清くないなどとあなたは言ってはならない」との神の叱責を受ける。まさにその時、コルネリウスの使いがペトロを探し当てたのだ。「彼らを遣わしたのは私だ」という神の声に従い、ペトロは彼らを迎え入れ、翌日カイサリアヘ出発する。

3)50キロ離れたカイサリアのコルネリウスの家では、大勢がペトロの言葉を聞くために待ち構えていた。ペトロには、今こそ幻の意味が明らかになった。異邦人にも福音を語るようにとの聖霊の導きを得て、彼はユダヤ人に語ったように、イエス・キリストがすべての人の救い主であること。十字架にかかり3日目に復活したこと。誰でもイエスの名を信じるは救われると力強く説教する。

4)するとその時、聖霊が異邦人たちの上に下った。ペトロに同行していたユダヤ人達は異邦人が異言を語り、神を賛美するのを見て驚いた。異邦人はその場でバプテスマを受け、ペトロはコルネリウスの客人となり数日滞在した。いまや彼らは「主にある兄弟姉妹」となったのだ。こうしてユダヤ人も異邦人も、すべての人を救おうとされる神の大いなる計画が実現した。

結論:神は私たちを「主の証人」となるために幻を与え、新しい心を与えられる。共に祈りあい、主の恵みを伝える者として歩みだそう。


# by hachimejibap | 2019-03-22 10:12 | メッセージ

すべての国の人のため

テーマ 礼拝
聖書 マルコによる福音書 11章 15~19節
2019年1月13日    主日礼拝             牧師 左右田 理


 「…両替人の台や鳩を売る者の腰掛けをひっくり返された。(15節)」…この光景の背
後には、異文化社会からエルサレム神殿礼拝に集まる人々の姿があります。歴史的動
乱で、遠隔地に散らされていたイスラエル人たち(離散の民、ディアスポラ)が、巡礼の長
旅、その危険で疲労困憊した果てに要求されたのは、神殿で通用する通貨への両替、
そして捧げ物にふさわしい生け贄の調達でした。しかもその一つ一つの段取りの手数料
の相場も巡礼者には不明だったようです。神殿管理側からすれば巡礼を助けてあげて
いるつもりだったとしても、イエス様の見方とは大きくくい違っていました。(17節)
 当時のユダヤ教社会には異邦人改宗者を受け入れる“寛容さ”が開花していました。
とは言っても彼ら外国人改宗者には神殿まわりの経済事情の難解さに加え、礼拝領域
に制限があり、しかもその礼拝可能域に商人たちが集中したとも言われます。なお本日
の聖書箇所の出来事は、四福音書すべてに並行記事として載っています。それら主イ
エスの神殿礼拝批判について、もしマタイ21:12~17を経済格差批判、ルカ19:45~48を利
潤追求批判、ヨハネ2:13~22を命の犠牲(生け贄)批判および利潤追求批判として受ける
なら、本日のマルコは人種差別批判として聴くことができましょう。
 イスラエルの選民思想の歴史において、神の民でない者たち(異邦人、よそ者)に対す
る寛容さは、そのよそ者の歴史的功罪によって増減されていたようです。(申命記23:4~
9) 同じように礼拝したくとも、過去の功罪によって礼拝に制限が割り振られていたこと
になります。しかし初代教会のクリスチャンはイエスの教えを受け、あらゆる人があらゆ
る功罪差別から解放され、誰もが等しく礼拝の民として受け入れられていくキリストの明
日を信じて、バプテスマを受けてきたのではないでしょうか。(ガラテヤ3:27~28) 
 キリストの礼拝は福音に満ちた家として、すべての国の人の祈りの家です。より広く、
共に祈ることのできる環境に向け改革していくことは礼拝者の使命と言えましょう。けれ
ども時に礼拝の改革は、従来の慣例や信仰的平安をもたらす作法を根底から見直し、
揺さぶり、また中断させる出来事へと発展します。(15~16節) 改革に対する反発も激し
くなります。(18節) しかしそれでも、“すべての国の人の祈りの家であるべき”というキリ
ストの熱情は永遠に変わらないのです。


# by hachimejibap | 2019-01-14 14:30 | メッセージ

多くの人のために

テーマ 神の国の食卓
聖書 マルコによる福音書 14章 22~26節
2019年1月6日    主日・新年礼拝            牧師 左右田 理

 本日は、2019年最初の主の日、このメッセージに続いて主の食卓を覚える主の晩餐
式があります。なお本日の聖書箇所について歴史的には“最後の晩餐”として紹介され
ることがあります。十字架で裂かれる主のからだ、流される主の血、そのような主の最
期から証しされる救い(贖い)が意識されているのかも知れません。しかし最後の晩餐は
“始まり”の食卓だったのではないでしょうか。より「多くの人のために」(24節)…それこそ
救い主イエスが思い描き、飢え渇き待ち焦がれている食卓なのではないでしょうか。
 イエスのからだであるパンを「取りなさい」(22節)…並行記事であるマタイによる福音書
26:26では「取って食べなさい」と記され、イエスとの一体化(贖い)がイメージされますが、
本日マルコ14:22では「取りなさい」と、招きに集中しています。“どのようなものかわから
なくとも、まずは手に取ってごらん、どのような食卓かわからなくとも、まずは共に食卓に
ついてごらん…” 主イエスの切実な招きです。主の晩餐が過越の祭の出来事であった
ことを思えば、マタイのように贖いを意識して主の言葉に耳を傾ける大切さも認めつつ、
四福音書の中で執筆時期がもっとも早いと考えられるマルコを軸にさらに聴きましょう。
 「パン」に続き「杯」についても、マタイ26:28では「罪のゆるし」という旧約概念、
贖いの契約が反映された招きになっていますが、本日マルコ14:24では“救い主の”血の契約と
して聴くことができます。(ゼカリヤ9:9~12) それは強い者勝ちの世から諸国の民が解放さ
れる希望の契約です。マルコにおいて主の食卓は、世の虐げられし万民が解放される
その時まで、神の国は成就しない、イエス自身も自らを楽しませることはない、という世
の救い主としての強い決意が証しされる食卓となるのです。(24~25節) マタイ26:28~29
が「あなたがた」という弟子たちへの呼びかけを通して、キリストに贖われた教会が「多く
の人々」となる“広がり”に神の国(の食卓)を期待しているとすれば、マルコは救い主か
らの“一方的福音的宣言”として神の国(の食卓)を保証しています。(マルコ1:15)
 ここから主イエスの進む先に待ち受けていたのは十字架の死です。しかしそれは単な
る最期ではなく、賛美の始まりです。(26節) 十字架の向こうに神の国の食卓を証ししよ
うという主の決意に満ちた賛美です。多くの出会い、その痛みの向こうにこそ備えられて
いる神の国の食卓に向け、共に賛美し、共に食卓を囲みましょう。


# by hachimejibap | 2019-01-06 13:00 | メッセージ

本当に価値あるもの

テーマ 主の十字架
聖書 ルカによる福音書 16章 1~13節
2018年12月30日    主日礼拝                  牧師 左右田 理

 福音書には、主イエスが神の国イスラエルに於いて非国民的存在とされていた人々と
共に生きる姿を、指導者層が批判する場面が描かれています。本日の聖書箇所はその
ような批判に対して、主イエスが弁明のために用いた一連のたとえ話の一つだったと考え
られます。(ルカ15:2、16:14) 本日の聖書箇所の一つ前は、いわゆる“放蕩息子”のたとえ
話です。そこでは神の国に負い目のある者の側に立ちつつ和解の福音に向け苦闘する
神が描かれています。そして本日のいわゆる“不正な管理人”では、神の国に負い目の
ある者どうしの連帯をほめる神が描かれ(8節)、神の国に対する負い目の連帯が永遠
の住まい(9節)、すなわち“新たな”神の国として証しされています。
 神の国イスラエルは神の裁きであるバビロン捕囚前に、預言者イザヤ、エレミヤなどを
通してくり返し悔い改めが迫られていました。しかし、その頃に公表されたと考えられる
申命記を見ると、神の民が、イスラエル草創期からすでに自己正当化に固執していた様
子がうかがい知れます。(申命記9:6) そのような神の民の頑なさに対して主イエスは、
低評価しか受けられない働きに忠実な者こそが、本当に価値ある大仕事にふさわしい、
とおっしゃっているのではないでしょうか。(10~11節) 主イエスは、いわゆる失格者の苦
しみに仕える忠実さに、“新たな”神の民を見るのです。
 指導者層には金に執着している者がいて、主イエスの一連のたとえ話を嘲笑ったとあ
ります。(14節) 金とは欲しいものを手に入れるなど、思い通りにまわりを動かす力で
す。宗教社会においては神の側(裁く側)に身を置くこともできましょう。ところが主イエス
の一連のたとえ話に聴き従うなら、裁かれる側に立つ一方ではありませんか。主イエス
は“まことの人”として裁かれる側へ招きます。本当に神の側に立つ(創世記1:27~28参
照)つもりなら“他に仕え、他を生かす側”に立ちなさいと招くのです。(ルカ22:25~27)
 人生の失格者として裁かれる者たちの中に立ったのが主の十字架です。人が裁かれ
る側に立つとき、たとえ人生の最後までダメ出しされようとも、主イエスと共に命の希望
を分かち合っています。(ルカ23:39~43) 裁く側に固執するのか、主イエスの招きに応えて
裁かれる側に立とうとするのか…主の十字架は、世を永遠の命へ招くための“本当に
価値ある問い”として今、教会に任されています。(11~12節)


# by hachimejibap | 2018-12-30 19:30 | メッセージ

テーマ 救い
聖書 ルカによる福音書 2章 1~12節
2018年12月23日    クリスマス礼拝              牧師 左右田 理

 2節の住民登録…それは侵略国家の都合でした。植民地化されていたイスラエルの民
には、いわゆる国粋主義的な愛国心が強要される結果となりました。従わなければ反逆
者として排除されます。本日の聖書箇所では身重のマリアが、自分と胎児イエス、二つの
命の危険をはらんだ長旅が強要されています。国粋主義的に強要される愛国心の残酷
さが見えてきます。しかし愛国心と愛郷心(故郷愛)とは違う、という考え方もあります。だと
したら危険を乗り越え故郷に帰り着いたマリアたちを、故郷は温かく迎えてくれたのでしょ
うか?残念ながら故郷でも彼らの居場所はありませんでした。(7節)
 愛郷心(故郷愛)の背後には、ある種の防衛本能があるようです。その昔、日本にも座
敷牢がありました。地域の安定、平穏無事を脅かすならたとえ身内であっても排除する
ということは古今東西、珍しいことではありません。懐かしい人が身重になって里帰りと
もなれば、いつもなら温かく迎える人たちだって、お上からの命令に不手際があっては
なりません。自分たちだって命が掛かっているのです。もはや身重のマリアのことなど
皆の意識の外へ排除されていたとしても不思議はありません。国粋主義的愛国心に対
するとき愛郷心はひれ伏すのです。こうして故郷からも背を向けられてしまったマリアと
夫ヨセフのもとに赤ん坊救い主、神のひとり子が生まれました。
 赤ん坊イエスを受けとめたのは飼い葉桶です。(7節) 家畜小屋のエサ箱です。家畜を
生かし、人を生かします。しかし誰からも顧みられることはありません。そしてこの飼い
葉桶の赤ん坊の行く末に待っていたは、他を生かし、自らは捨てられていくキリストの十
字架でした。(マルコ15:34) その飼い葉桶に招かれたのは羊飼いたちです。(12節) 当時
のイスラエルに羊の牧畜は欠かせなかったのに、牧草を求め放浪生活に生きる彼らは
住民登録からも外れ、社会的には“ものの数”にも入りませんでした。世界で最初のクリ
スマスは、他を生かしながらも報われない者どうしの出会いでした。それこそがまことの
神と人との出会い、まことの人と人との出会い、すなわち救いでした。(12節) 多様化社
会の現代、人々は性急に報いを求めて、民族主義、国家主義を台頭させています。しか
し私たちは飼い葉桶にまことの神、まことの人を見ましょう。そこから出会うべき人たちと
出会っていく先々で、救いの力が満ちあふれていくのですから。(1コリント1:18,25~29)


# by hachimejibap | 2018-12-30 19:00 | メッセージ