八王子めじろ台バプテスト教会

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テーマ 新生
聖書 ヨハネによる福音書 3章1~15節
2018年4月29日    主日礼拝              牧師 左右田 理

 キリスト教の救いとは神の国に入ること、また新たに生まれること(新生)です。本日の
聖書箇所でまさに主イエスがおっしゃっています。しかし当時の宗教指導者ニコデモの
疑問も もっともです。「年をとった者が、どうして生まれることができましょう。…」(4節)
寿命が来れば世を去って終わりでしょう。また新生が精神面を指すと考えても、人生経
験が増えるほど過去に囚われて新たな発見、出会いが難しくなるというのも人の常で
す。社会的地位があれば手放せないもの、囚われるものは無数にあることでしょう。し
かし主はおっしゃるのです、水と霊によって新生し、神の国に入ることができる。(5節)
 “水と霊”は当時のイスラエルの教師にもわかることだったのでしょう。(10節) ユダヤ
人(選民)として自然に生まれることについて“水から生まれる”という表現があったそうで
す。けれども主の他の教えから見ても、ここで主が伝えたいのは民族的選民主義では
なく、自然な生き方(自然体)だったことでしょう。(マタイ6:26,28) 風が吹くままに…自然体
に、さらに自然界全体に、すでに霊が働いていることをニコデモに気づいてもらいたかっ
たのではないでしょうか。“すでに”の恵みに目が開かれることは新生であり、そのときす
でに人は神の国に入っているのです。とはいえ主の教えは、自然体(自然界)に、ただ居
心地の良さだけを見出せるかのような教えでなかったことは確かです。(マタイ6:30)
 主は今日の聖書箇所で、誰もがわかることを教えている、と訴えているようです。たと
えば、雲から降りてきたものしか、また雲にまで上がることはできない…だとしたら、人
の子イエスが“天にいた”ことが天に上がる資格(権威)なのではなく、天から“降ってき
た”ことこそが天に上がる定め(権威)を証ししているのではないでしょうか。(13節) 
 人の子は、呪われた蛇と同じように十字架に上げられました。(14節) この世で忌まわ
しい、呪われた、地獄へ堕ちてしまった、と見なされるあらゆるものを神の国へ、すなわ
ち永遠の命へ贖うために。それゆえに、主の十字架を仰ぎつつ、「呪われしものにこそ
すでに救いの希望がある」ことを信じる者もまた、すでに永遠の命へ新生しているので
す。(15節) “罪の増したところにこそ、恵みがなおいっそう満ちあふれた”(ローマ5:20)とい
う言葉に、神の国の自然体を見ることができるでしょう。肩の力を抜いて“ただ神の御旨
が成りますように”と祈り委ねつつ、共に明日へと歩み出しましょう。


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# by hachimejibap | 2018-05-19 16:30 | メッセージ

説教要旨    吉村知子(2018.4.15)

導入:教会墓地の墓標に刻まれた「永遠の命」の四文字は、証しの言葉。 

I. 死の狭間で行われた「ラザロの復活」:
ラザロの復活はイエスの7つ目の奇跡であり、最後の奇跡である。そして
死の脅威のもとで行われた奇跡である。イエスは目の見えない人を癒した
ことで、危うくユダヤ人たちに石打ちされそうになった。ラザロの復活が
きっかけになり、ユダヤ人たちはイエスを殺害することを決断して、イエ
スは十字架へと向かうことになる。死を賭して行ったラザロの復活の出来
事を通して、イエスは私たちに何を伝えようとしたのだろうか。


II. 奇跡の遅延とマルタ・マリアとの会話:
 ラザロが重篤と聞いてもいまだ腰を上げないイエス。4日後にベタニア
に到着するが、すぐにラザロの墓に行かず、出迎えたマルタとの時間を
大切にするイエス。悲しみに打ちひしがれるマルタとの「復活」問答。
終わりの日には復活することを信じるマルタに「私こそが復活である」と
宣言するイエス。涙されるイエス。復活の奇跡はこの時から始まっている。


III. 「ラザロ、出てきなさい」:
 死後4日たつラザロに「出てきなさい」と命じるイエス。当時流行してい
た“奇跡を行う見世物”と一線を画するため、父なる神に祈るイエス。この出
来事は「神の栄光を現すもの」である。マルタに「信じれば神の栄光を見る
ことができると言ったではないか」と再度呼びかけるイエス。それに対して
沈黙のマルタ。マルタの悲しみの深さ。それでもイエスは「信じ続けなさい」
と呼びかける。主は、私たちにも呼びかける。


IV. 結び:
イエスは死も命もすべてつかさどるお方である。命を包み込むイエスのもと
で私たちは憩う。悲しい時慰めてくださり、嘆きを希望に変えてくださる。
私たちの悲しみ、痛み、弱さすべてを背負い、十字架にかかられた。私たち
を罪から解放し、赦しを与えるために。イエスは今も私たちに呼びかけてお
られる。「私は復活であり、命である。」あなたは私を信じ続けるのかと。
復活したイエスは、私たちのそばにおられる。すでに天に召された者たちは、
「キリストの永遠の命の中に憩う」ことを証しする。そして、今生きている
者は、悲しみの中から立ち上がり、希望の中へと歩み出す。


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# by hachimejibap | 2018-05-19 16:00 | メッセージ

テーマ 罪の赦し
聖書 マルコによる福音書 14章66~72節
2018年4月8日    主日礼拝              牧師 左右田 理

 連盟諸教会が共有している、ここ最近の聖書日課であるルツ記、サムエル記などを見
ると、神の民は、“赦された罪人”の群れだなぁ、と思います。だとしたら本日の聖書箇所
で描かれているペトロの裏切りもやはり赦されているのでしょうか。しかし並行記事であ
るルカ22:54~62やヨハネ18:15~27にはない描写がマタイ26:74、そして本日のマルコ14:71
にはあります。“(ペトロは主イエスについて)呪いの言葉さえ口にしながら”…つまり、た
だ主を知らないと言っただけでなく、呪いの言葉さえ口にしたというのです。はたしてこの
ようなペトロにも罪の赦しが及ぶのでしょうか。(1コリント12:3 口語訳)
 興味深いことは、ここで真実を語っているのは主の弟子であるペトロではなく、迫害者
側だということです。“あなたも、あのイエスと一緒にいた”(67節) 神の民は敵対者側か
ら神の真実を聴くことがあります。旧約聖書のヨナタンもそうでした。(サム上14:9~10) し
かしヨナタンが信仰に満ち満ちていたのに対して、ペトロの内側は臆病風が吹き荒れて
いたのではないでしょうか。“あなたも、あのイエスと一緒にいた”…すなわちこの真実は
このときのペトロにとって、「あなたは神の国イスラエルの謀反人の仲間、国賊の仲間
だ」(69節)という有罪宣告に等しかったことでしょう。愛する主と一緒にいたこと自体が忌
まわしく、呪われた事態になってしまっていたと言えましょう。
 ですからペトロはくり返し主を否認します。ところが主イエスの敵は執拗に問いただし
てきます。“あなたも、あのイエスと一緒にいた”…これは真実でした。敵の口を通して表
れた神の言葉でした。ペトロが弟子としての使命にどれほど挫折し堕落しても、神はペト
ロの罪をすでに赦し、真実のうちにペトロを守り支えてくださっていたのです、敵の口を
通して。マタイによる福音書を分かち合う人々はこのメッセージを受け、力強く賛美する
ことでしょう。“私たちがどんなに罪深くとも、神、われらと共に居ます!”(マタイ1:23)
 本日のマルコによる福音書には、他の福音書にない例え話があります。(4:26~29) 人
には神のご加護、神の恵みがわからない、いや、呪いにさえ見えてしまうことがあるので
しょう。しかしそのような罪人の現実を越えて恵みは働き続け、発展し続け、その人を主
の証し人として立たせてくださるのです。そしてその人の周りではすでに、人知を越えて
神の国建設が始まっているのです。


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# by hachimejibap | 2018-05-19 15:30 | メッセージ

命のパン

テーマ 復活
聖書 ヨハネによる福音書 6章48~54節
2018年4月1日    イースター礼拝              牧師 左右田 理

 復活の主と出会うためには、十字架の死を受け入れなければなりません。十字架無き
復活は無いからです。そして実際、復活の主と最初に出会った女性たちは主が葬られ
たところを見つめていました。(マタイ27:61,28:1,9) 主が葬られたところを見つめるとい
うのは、どういう心境でしょうか。さまざまな思いが去来したことでしょう。しかし一つだけ
確かなことがあります。それは愛する者の死を目の当たりにして、自分の無力と向き合
わされる苦しみです。“私のせいで”という思いが後から後から押し寄せてくる苦しみで
す。しかし本日の聖書箇所で主イエスが自らを命のパンとして証ししたのは、こういうこ
とだったのではないでしょうか。「わたしはあなたの“せいで”死ぬわけではない。あなた
の“ために”死ぬのだ」。
 主イエスの言葉は当時の人々の感覚だけでなく、現代の私たちの感覚にも受け入れ
がたいものがあるでしょう。(52節) ただこの聖書箇所を見ると今の私には、ある日本映
画が思い出されるのです。「ブタがいた教室」というタイトルでした。担任の先生が子ども
たちにブタを飼わせ、卒業時に皆で食べよう、と提案します。子どもたちはブタをPちゃん
と呼び、かわいがり育てます。が、やがて決断の時が来ます。クラスの意見は食べる派
と食べない派で真っ二つになるというストーリーです。食べるとは生きることです。そして
生きるとは残酷なことでもあるのです。しかし復活はその生きる残酷さの中に希望を見
出していく力です。それは「私のせいで死んでしまった」という絶望が、「私のために死ん
でくれた」という希望に生まれ変わる瞬間です。「あの人のせいで死んでしまうのか」とい
う絶望も、「あの人のために死んでいくのだ」という希望へと生まれ変わる瞬間です。復
活の主は、自分のために死んで終わるはずだった罪人の命を、他者を生かす十字架の
主の器へと生まれ変わらせてくださる希望の主です。(ヨハネ12:24~26) 
 だとしたら終わりの日の復活(54節)として忘れてはならない出来事は、終わりの日の
再会でしょう。その再会は自分のために死んでくださった主との再会であり、十字架の
主の器として奉仕した相手が生き生きしている姿との再会に他ならないでしょう。私たち
教会はキリストのからだです。終わりの日の復活に向けて共に前進しましょう。命のパ
ンであるキリストを分かち合い、命のパンであるキリストのもとでつながっていきましょう。


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# by hachimejibap | 2018-05-19 15:00 | メッセージ

にわとりが鳴く時

テーマ:受難  
聖書:ヨハネ18:15~18、25~27 
2018年3月25日                協力牧師 北島靖士

エルサレムに行きますと鶏鳴教会というところがあります。これは古代
の大祭司の屋敷あとに建てられていると言われています。教会の屋根に
は普通は十字架がついていますが、ここには鶏がついています。言うま
でもなく今日の聖書の箇所にちなんだものです。ほかにもたくさん遺跡
を見てまわりましたが、わたしにはここが一番印象的でした。なぜなら、
先ほどの連梼にもあったように、わたしもペトロと同じようにイエスさ
まを裏切るものだ、ということを思い知らされる場所だからです。わた
しが最初に牧師になった神戸バプテスト教会近くの北野町にはいわゆる
異人館が沢山あって、その何軒かの屋根にも風見鶏がついていました。
その屋根を仰ぐたびに自分がイエスさまに従っているものであるか、
どうかを問われたものでした。
ところで、わたしたちはこの聖書の話を読んで、どうしてこんな話が聖
書の中に載せられているのだろうかと、不思議になります。ペトロはイ
エスさまの弟子の中では頭といわれた人です。カトリック教会ではペト
ロを初代ロ-マ司教、ロ-マ教皇としています。こんなエライ人がイエ
スさまを裏切ったという話です。世の中の権力者と言われる人たちは自
分の過去の暗いところは、恥ずかしいところはできるだけ隠そうとしま
す。小さい時からりっぱな人間だったということになっています。
しかしペトロについてはこんな話が伝わっていたということは、ペトロ
自身が自分のことを告白したからだと考えるほかありません。ではどう
してペトロは告白したのか。それはペトロがわたしたちの信仰にとって、
このことは大変重要だと考えたからだと思うのです。人間はみんな信仰
するという時に、ペトロのような過程を通らざるを得ないのです。終始
一貫、迷いのない信仰生活を続けて、躓かなかった人間は一人もいない
のです。わたしも迷いました。今も迷うことがあります。そのような迷
いの中から悔い改めてもう一度イエスさまの愛に気づくのが信仰です。
躓き倒れる、挫折する。そこからもう一度イエスさまに手をかしてもら
って立ち上がる、それが信仰生活です。
(以上はメッセージの冒頭の部分です。引用聖句は裏面にあります。)

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# by hachimejibap | 2018-05-19 14:30 | メッセージ

みんなで歌おう!共に話そう!そして一緒に祈ろう! 〒193-0833 東京都八王子市めじろ台2-15-2 ℡.042-663-7036


by hachimejibap