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八王子めじろ台バプテスト教会 hachimejib.exblog.jp

〒193-0833 東京都八王子市めじろ台2-15-2 ℡.042-663-7036  礼拝(日)AM10:00~12:10              祈り会( 水曜日 午前10時~11時20分


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天の故郷

テーマ 信仰
聖書 ヘブライ人への手紙 11章 13~16節
2019年3月10日    主日礼拝                牧師 左右田 理

 この人たちは皆…(13節) ヘブライ人への手紙の著者は11章で旧約聖書に登場する
信仰の英雄たちを列挙します。そして著者は彼らのことを天の故郷を熱望していた人々
だったと証しします。(16節) ヘブライ人への手紙に於いて“天の故郷”とはこの地上の
聖域を乗り越えていくための合い言葉ではないでしょうか。(13:11~14参照) 著者は十字
架の道の果てに天の故郷を見据えつつ、なかなか地上で手放せないものを手放し続け
ていこうとする、いわば自分との戦いに生きる信仰を描き出してくれています。「信仰に
よって、アブラハムは、自分が財産として受け継ぐことになる土地に出て行くように召し
出されると、これに服従し、行き先も知らずに出発したのです。」(ヘブライ11:8)
 今から8年前、2011年3月11日にあの東日本大震災が起こりました。先日のニュース
で生存者のコメントがありました。「大切なものなどを自宅に取りに戻った人たちが津波
にやられた」…福音書にも世の終わりの艱難が預言されていますが、何も取りに戻って
はならないと警告されています。(マルコ13:15~16) たとえその大切さに、物的価値のみな
らず、思い出など情緒的な価値があっても、取りに戻ってはなりません。そもそも“懐か
しさ”、“居心地の良さ”をもたらす対人関係すらも捨てた先にこそ、新たな出会いに満ち
た永遠の命の福音が約束されているのですから。(マルコ10:29~30)
 ヘブライ人への手紙11章の多くはアブラハムなど創世記の人物が登場していますが、
出エジプト記の中心人物モーセも登場します。出エジプト後の荒れ野の旅路は、郷愁の
念に囚われた民が指導者モーセに逆らい、未知なる約束の地への前進を拒み、くり返
し後戻りしようとする旅路でもありました。(出エジプト17:3~4、民数記11:4~5、14:4) しかし
神はモーセに民を前進させるよう命令し、その命令を翻すことは決してありませんでし
た。聖書は信仰を、神の前進命令に対する服従として描きます。
 地上の故郷は、記憶を辿り、過去へさかのぼる者を迎え入れますが、天の故郷は未
知なる出会いを探し求めていく者を迎え入れます。(14節) 懐かしく居心地の良かった
時に戻りたいという誘惑に抵抗し(15節)、人知を越えたキリストの明日をひたすら熱望し
た者は、神によって地上での恥辱をことごとくぬぐい去られ、天の故郷へと豊かに迎え
入れられることでしょう。(16節) 


# by hachimejibap | 2019-03-22 10:32 | メッセージ

新しい ぶどう酒

テーマ 希望
聖書 マルコによる福音書 2章 18~22節
2019年3月3日    主日礼拝              牧師 左右田 理


 日本では保守的思想家が聖徳太子などを引き合いにして和の精神、和の文化を唱え
ます。日本人は和の文化を持っている民族であり、秩序や安寧を乱すような個性や自
由は許されない、というような思想です。けれども本日の聖書箇所でユダヤの人々が
主イエスに投げかけている問い(18節)にも、和の精神、和の文化に通じる感覚がある
ように見えます。だとしたらこのユダヤの人々の問いは、現代日本に生きる私たちが抱
える問いでもあり、主イエスの応えは私たちに対する答えでもあるでしょう。
 和の精神、文化ということで、某政党のキャッチコピーを思い出します。それは“安定
は希望”です。しかし一方で“安定は衰退の始まり”と言う企業家もいます。では希望は
どこにあるのでしょうか。その企業家は希望について、人生は自分が主役だという信念
を持ち、自分に期待することである、と謳っていますが…和の精神、文化を自力で突破
しようとしても、多くの人が孤立し失意と失望の底に沈むだけではないでしょうか。孤立
の厳しさはとくに身内や仲間との別れです。ところが本日の聖書箇所で主イエスは、そ
のような別れの失意のただ中に希望を見ているのではないでしょうか。(20~22節) 
 主イエスに問うた人々にとって断食は、民族の誇り、身内の結束や仲間の証明といっ
た、いわば秩序と安定の象徴だったのかも知れませんが、主イエスにとって断食は、別
れがつらくて食事も喉を通らない、というような人の世の常として起こる一過性の出来事
を象徴しているに過ぎなかったのでしょう。本日の聖書箇所で、今ある環境を守ることは
明らかに主イエスの関心事とは異なります。主イエスの関心は、出会いがあれば別れも
ある、人の世の常であるその“別れにこそ訪れる新らしさ”、すなわち十字架の福音とし
ての希望へとひたすら向かいます。
 “別れに訪れる新しさ”は復活の命です。伝道者パウロによれば復活の命は“過去と
の決別”として現れます。(2コリント5:15~18) 昨日までの対人関係、さらにイエス・キリスト
との関係や理解すら“肉”として、日々くり返し葬り去られていかなければならないという
ことでしょう。こうして古い布、古い ぶどう酒に執着する人々が、新しい布、新しい ぶど
う酒に生きる人々へと創造されるとき、世に復活の命が広がり、和解の福音で世が満
ちる希望が成就するのです。


# by hachimejibap | 2019-03-22 10:29 | メッセージ

テーマ 平和
聖書 マルコによる福音書 9章 42,45,47~50節
2019年2月10日    主日礼拝               牧師 左右田 理


 「小さな者」(42節)については文脈的に、マタイによる福音書18:6が子どもを、ルカに
よる福音書17:2が“徴税人や罪人”を意識するのに対して、本日のマルコによる福音
書は、子ども(33~37節)の他に、共同体に未加入の賛同者を意識しているようです。(38
~41節) マルコでの小さな者とは、共同体にとって貢献度が見えづらく、やがて袂を分
かつ可能性すら秘めた存在でしょう。ここに礼拝共同体でも何らかの制限を設けたくな
る誘惑があります。(38節) しかし主イエスは、このような小さな者と互いに平和に過ご
すことをこそ、他の何を失ってでも求めよ!と心を込めて招くのです。(41~50節)
 片手、片足、片目を切り捨ててしまいなさい…本日の聖書箇所は、白内障手術後の
片目での生活を味わった私としては、少なからずドキッとさせられます。しかし主イエス
のこの過激な言葉には、じつは礼拝について旧約時代から語り継がれてきた差別(サ
ムエル下5:6~8)に対する厳しい批判がこめられていたのではないでしょうか。(マルコ12:37
参照) “昔の偉い人の言い伝え(マルコ7:9,13参照)により差別が紛れ込んだ礼拝に執着
したところで地獄の業火に投げ込まれるだけだ。それなら礼拝に制限を設けられた者
たちと連なる方が、よっぽど互いに平和に過ごすことができる!
 「塩気」はマタイによる福音書5:13では“迫害の苦難”との関係で、ルカによる福音書
14:34でも“十字架を背負う苦難”との関係で意識されています。しかし本日マルコによ
る福音書9章では「塩気」が“火”によって生まれ、“互いの平和”に至るという希望の出
来事(49~50節)として意識されています。塩気とは、さまざまな資格や条件による差別
の“火”によって焼け出された小さな者が、主イエスを頼りに、互いに平和に過ごす交
わりへ迎え入れられていく恵みの出来事でしょう。ですから十字架の主を仰ぐ礼拝の
交わりは、そのような「小さな者の一人」に資格や条件を問いません。(2012.3.25八王
子めじろ台バプテスト教会定例総会議決「主の晩餐式」式文参照)
 シャロームの会、NAミーティングなど、八王子めじろ台バプテスト教会は「小さな者の
一人」との出会いに取り組んできました。私たちとの平和は、すでに彼らが主イエスに
頼ってきた何よりの証しです。「主イエスを信じるこれらの小さな者の一人」との出会い
に向け、また交わりに向け、ますます、より広く取り組んでいきましょう。


# by hachimejibap | 2019-03-22 10:24 | メッセージ

テーマ 悔い改め
聖書 ルカによる福音書 5章 27~32節
2019年2月3日    主日礼拝              牧師 左右田 理


 イエス様が招き、悔い改め(方向転換:32節)させようとしていたのは具体的に誰だっ
たのでしょうか。まず考えられるのはイエス様の招きに応え“何もかも捨てて立ち上が”
った徴税人レビでしょう。(28節) だとしたら、この悔い改めを知るには、まず徴税人に
ついて考察することは有益でしょう。徴税人は侵略者であるローマ帝国に上納するた
め同胞ユダヤ人から税を徴収する仕事です。誰が好きこのんで同胞を苦しめたりする
でしょう。背景にはもともと同胞社会であまり顧みられなかった徴税人たちの生い立ち
が透けて見えるのです。権力と富を笠に着て、なんとか“裁く側”へ“裁く側”へ立ち回ろ
うと、あがいてきた彼らの生き様が透けて見えるのです。
 とはいえ権力と富を笠に着ても同胞から裏切り者として命を狙われたのでは困りま
す。恨まれても存在意義は印象づけねばなりません。宗教社会イスラエルにおいて徴
税人が存在意義をアピールしやすいのは多額の献金でした。徴税人にはそれが可能
でした。侵略者ローマの権力を笠に着て大衆から余計に徴収、着服して神殿税として
大金を納めれば、侵略者ローマだけでなくイスラエル内の権力者である宗教指導者か
らの後ろ盾も取り付けることが出来ます。こうして徴税人は一般大衆から、また表向き
宗教指導者からどれほど非難されようとも、絶えず“裁く側”に立ち回れたことでしょう。
 古今東西、その社会また共同体の枠組みの中で無用なものとして裁かれ、差別、排
除されてきた命が無数にあります。人類の歴史は、生き残りをかけて裁く側に立ち回ろ
うとしてきた者たちの歴史でもあったのではないでしょうか。しかし主イエスは、裁く側に
執着する生き方に対して悔い改め(方向転換)を迫るのです。そして裁かれる側に立つ
者たちと囲む食卓へ招くのです。(30~32節) 主の食卓は裁かれる者たちとの連帯への
招きであり、十字架の側への招きです。(2018.12.30「今日のメッセージ」参照) 
 主は十字架からおりませんでした。(マルコ15:32、ルカ23:37) それは裁く側に転身した
くなる誘惑への「否」でもあります。なぜなら裁かれる側に踏みとどまるところにこそ復
活の命が出現するからです。(ルカ9:22) そして神の言葉にあらゆる裁きを委ね切る世
界の一員となるとき、永遠の命が成就するでしょう。(フィリピ2:6~11) だから祈りましょう。
裁く側に立ち戻らせようとする誘惑から救ってください。(マタイ6:13参照)


# by hachimejibap | 2019-03-22 10:23 | メッセージ

あなたがたの知らない方

テーマ:バプテスマ
聖書: ヨハネ1:19~34
2019年1 月27 日                協力牧師 北島靖士

わたしが、前に牧師をしていました三鷹バプテスト教会では隠れもない事実でしたが、わたしは山田洋次監督で渥美清が主演した「男はつらいよ」シリーズの映画が大好きです。お正月に新しいものが封切られる時には必ず見に行っていました。このシリーズが49作で終わって淋しい思いをしていました。ところが、なんと今年の12月に22年ぶりに新作が発表されるということが報道されました。「絶対見に行くぞ」と今から張り切っています。わたしはこれまでの発表された全作品のビデオを揃えています。そしてこれはわたしの癖ですが、なにかに凝りだすと徹底せずにおれなくなりますので、寅さんに関する本も古本屋を回ってほとんど集めました。実は牧師である自分がこんなことでいいのだろうかと思っていたのですが、関田寛雄という先生がおられます。先生は元青山学院大学神学部の教授で、日本基督教団神奈川教区の巡回教師をしておられました。説教学をはじめとする実践神学の分野で活躍された方で、その方面で多くの本をお書きになりました。先生がバプテスト連盟で招いたある集会で、ダボダボのスーツに帽子をかぶり、古いトランクを持ったあの寅さんの格好をして登場されたという話を聞いて、牧師で寅さんフアンはわたし1人ではないと知って安心したものです。そして、その後「寅さんとイエス」という本を書いたカトリックの神父さんまで現れました。
なぜわたしが寅さんを大好きかといえば、それは寅さんはわたしと正反対の人だからです。その性格もその生き方もわたしと全く違います。だから大好きです。
今日の聖書の箇所で、バプテスマのヨハネに対して、人々は「あなたはどなたですか」と執拗に問い続けています。それに対してヨハネは、わたしはメシアではない、預言者エリヤではない、世の終わりに来るあの預言者でもないと否定します。「それでは一体あなたは誰なのです」と問われた時に「わたしは荒野で叫ぶ声だ」と答えました。そして、「あなた方の中にはーあなた方の間にはあなたがたが知らない方が居られる」という驚くべき答えをしました。
(これは今日のメッセージの冒頭部分です。アウトラインではありません。)


# by hachimejibap | 2019-03-22 10:22 | メッセージ