八王子めじろ台バプテスト教会

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狭い戸口から入るように

テーマ 悔い改め
聖書 ルカによる福音書 13章 22~30節
2018年8月26日    平和月間  主日礼拝          牧師 左右田 理


 救われる者は少ないのでしょうか(23節)…どうして「救ってください」と必死に訴えない
のでしょうか。23節はどこか他人事です。本日の聖書箇所で主イエスは、“信じる”こと
が緊張感の喪失を招く場合があるという、罪の世の誘惑を指摘なさっているのではない
でしょうか。自分は救われているという安心感が“緊張感の喪失”をもたらすとき、他者
への心配が“高みの見物”に変質していても気づかないでしょう。信仰とは果たして自分
が天国に入る保証書、いわゆる天国行きの切符なのでしょうか。
 狭い戸口から入るように努めなさい。(24節)…並行記事(マタイ7:13)では、「滅びに通じ
る門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い」とあり、救いに入る難しさは
前提です。しかし本日の聖書箇所では救いに入ることが実際に難しいわけではなく“難
しいかのように必死に求めなさい”とも読めます。だとしたら この招きは、“自分は信者
(クリスチャン)になったから救われた”という慢心に対する警鐘に通じるでしょう。未信者
(ノンクリスチャン)を“求道者”という呼び方をして信者と区別するのも不思議な話です。
なぜならクリスチャンこそが“永遠の”求道者のはずだからです。(ヨハネ14:6)
 神の国の食卓、神の平和を満喫した経験者なら神の民でしょう。(26節) しかし神の民
でありながら神の国の外側に出てしまっていたというのは不思議です。(25節) 理由を
本日の聖書箇所全体から探るなら、冒頭で言及したように一つには“緊張感の喪失”が
考えられるでしょう。そしてもう一つは“高みの見物”ではないでしょうか。主イエスの証し
する神の国は民を世界各地から呼び集める活動です。(29節) 一口に神の民と言って
も出身の文化、性別、個性など千差万別です。ここで神の民は問われます。救われた
ときの安堵感を保つため、神の国の食卓に飛び込んでくる混乱、喧噪を避けて外野席
に身を遠ざけるのか、混乱、喧噪があっても神の国の食卓にとどまるのか…
 神の国からはるか遠く、まだ救われていない、だから救われたいと集まる人々は切実
でしょう、まるで狭い戸口からもぐり込もうとするかのように…切実な“求道者”たちと一
つ食卓を囲み、彼らに倣い、立ち帰る者たちは幸いです。初心に立ち帰る者たちこそが
神の国にいるのですから。(ローマ5:6,8,10、ヨハネ黙示録2:4~5) この8月平和月間に際し、
十字架の救いに共に立ち帰りましょう。(ルカ23:39~43参照)


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# by hachimejibap | 2018-09-06 15:00 | メッセージ

聖書 :マタイ福音書26章47~54節
中心聖句 :マタイ26:51~52
2018年8月19日  主日礼拝                  鈴木 重義 
                 
 そのとき、イエスと一緒にいた者の一人が、手を伸ばして剣を抜き、大祭司の手下に打ちかって片方の耳を切り落とした。そこで、イエスは言われた。「剣を鞘に納めなさい。剣を取る者は皆、剣で滅びる。・・・」
 裏切者ユダの先導により、祭司長以下の一群の捕り手が主イエスを取り囲んだ。そのとき、イエスの側にいた者の一人が、大祭司の手下に打ちかかり、片方の耳を切り
落とした。・・・この場面についてヨハネ福音書18:10では、この者は、他ならぬシモン・ペテロだという。彼・ペテロは最後の晩餐の場で「たとえ、御一緒に死なねば
ならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません」と主イエス
に決死の意志表明をしていました。
 そのため、捕り手に囲またとき、ペテロは主イエスを助ける思いで剣を抜いたと想像することができるのでしょう。然し、この場面で、異なった推測もできます。剣や
棒を持った多勢の捕り手に囲まれたとき、ペテロは主イエスを守ろうとして、死ぬ気で勇敢に剣を振ったのだろうか?と疑問を呈してみましょう。
宗教改革者ジョン・カルヴィンは、この場面のペトロについて「この男は、一見、
自分の弱さを忘れて、主イエスを身をもって守り、仕えているように見えるけれども、
彼が、ここで選んだのは滅びでしかなかった」と述べています。
 主イエスは、ペトロの危うい心を見抜いたように「剣を鞘に納めなさい。剣を取る
者は皆、剣で滅びる」と制止の声かけ給いました。主イエス御自身は、仮りに戦うなら天の神は12軍団以上の天使を派遣することができる、との確信を持ちつつも断乎
として平静に捕縛を受け入れました。これは、十字架への道に連なっています。その
剣と不法を受け入れる、一見、弱さ(・・)と見える主イエスの御姿は、万人に救いの道を開
く愛(・)の(・)強さ(・・)を秘めた御姿でした。
(Ⅱコリント13:4 キリストは弱さのゆえに十字架につけらましたが、・・・・)
 さて、聖書の文脈で知る限り、「剣を取る者は皆、剣で滅びる」の一言は、十字架
への道を進む主イエスだけが宣告できる言葉にちがいありません。
 けれども、この御言葉は「平和を実現する人々は幸いである。」(マタイ5:9)と連関して、反戦平和を奨励する御言葉として、キリスト者間で尊重されています。
古来、人類の歴史に戦争は付き物でした。そして、勝利した国家権力が紡ぐ歴史において正義の戦争の大義名分は、概ね手前味噌に粉飾されたものでした。
 ヤコブ4:1~2 何が原因で、あなたがたの間に戦いや争いが起こるのですか。あなた
がた自身の内部で争い合う欲望が、その原因ではありませんか。あなたがたは、欲しても得られず、人を殺します。・・・・
ところで最近の北朝鮮・アメリカ両国の核・ミサイル問題をめぐる外交的確執が極限まで暴走してきた愚かな出来事を思い起してみましょう。核ボタンを押す国家権力者
が人間性を喪失した暴発寸前・地球的規模の緊張状態を惹起した出来事をお互いに体
験しました。この間、メディヤで知る限り、日本社会では、多くの人が核戦争に巻き込まれる不安を増幅させ、世論でも、防衛戦力強化を必要とする声が高まりました。そこに便乗して防衛大臣も防衛システム強化、米国製新兵器購入の予算計上を発表しました。
 このような事態に直面し、日本国に生きるキリスト者として、私たちはいかに対応
すべきでしょうか。この場合、私たちを困惑させるのは、パウロのローマ書13:1です。
 すべての人間は、上位にある権威に服従しなさい。神によらない権威はないからであり、存在している権威は神によって定められてしまっているからである。
(岩波書店版・青野太潮訳)
ここで、「上位にある」とは、天的、超越的な上、絶対的な上ではなく、地上的・相
対的な上でしかありません。それ故、上位と訳すのが、適訳となるのです。
権威とは、直接的には国家権力を意味しますが、その統治能力は、神の容認と委託を
受けたものとしての国家権力であり、その限りにおいて権威なのです。国家権力は、人が構築した統治機構でありつつ、見えない超越的な支配力をもって、神意が許容する範囲で国家統治をするべきです。その意味で国家権力は、相対的に善政(・・)を担います。但し、時に、その超越的な支配力は神意に背き、その許容範囲を逸脱し、堕落し、その極限として悪魔化し反キリストの牙をむくこともあるのです。(ヨハネ黙示録13章:ローマ皇帝礼拝の迫害)
そのため「権威に従う」とは、無気力な絶対的服従ではなく、キリスト者として、
良心的に従うことが求められます。別言すればキリスト者が良心的に従うとは、神の
御心に従う延長線上で、国家権力にも従うということです。そのため、パウロは、弟
子テモテに「願いと祈りと執り成しと感謝とを、すべての人々のためにささげなさい。
王たちやすべての高官のためにもささげなさい」(Ⅰテモテ2:1~2)と奨めています。
 このようなキリスト者の執り成しの祈りは、国家が、善政に値するか否かを問わずにささげるべきでしょう。仮りに、国家が反人権、反平和の悪虐を強めるような事態でも、祈りの責任は減退することなく、寧ろ、深刻化します。ペテロ第一書は悪魔的な国家権力の極限状態で良心的に従う祈りに生きる姿をキリスト者に教えています。
 Ⅰペトロ2:13~14 主のために、すべて人間の立てた制度に従いなさい。それが統治者としての皇帝であろうと、あるいは、悪を行う者を処罰し、善を行う者をほめるために皇帝が派遣した総督であろうと、服従しなさい。
 Ⅰペトロ5:8~9 身を慎んで目を覚ましていなさい。あなたがたの敵である悪魔がほえたける獅子のように、誰かを食い尽くそうと探し回っています。信仰にしっかり踏みとどまって、悪魔に抵抗しなさい。
 このように種々相を見せる国家権力に祈り人(・・・)として対峙するキリスト者は、国家権力と距離をおき、近視眼的な判断や行動で混迷に巻きこまれる愚を戒め、冷静に、是々非々主義に生きなければならないでしょう。そして、あるときは非協力、あるときは反対声明そして、あるときは〝デモ“を、しかし、バプテストとしては、あくまで、人権尊重反戦平和の基本線に沿って決断的に、非暴力的に実践したいものです。
 話を核戦争の危機に対峙するキリスト者の問題に戻しましょう。
 古来、戦争は、人間に、人殺し、その他あらゆる残虐行為を強制し、人は非人間化させられることに不感性になってしまいます。今や、現代戦争は相互に国家全滅的消耗戦になるのが常です。そして地球崩壊的な核兵器の大量拡散は、地球規模の〈恐怖の均衡〉を現出し、ある意味、不安定な平和が保たれているに過ぎません。そこで、
私たちは、地球上に吹き荒れる政治的・軍事的旋風に振り回されず、天からの神の声
に傾聴すべきです。昔、アッシリアの侵略の魔手に怯えたイスラエルに告げられた
神の言葉の中の一句に耳を傾けましょう。
 イザヤ30:15 まことに、イスラエルの聖なる方、わが主なる神は、こう言われた
「あなたたちは、立ち帰って静かにしているならば救われる。安らかに信頼してい
ることにこそ、力がある」と。
                                 アーメン



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# by hachimejibap | 2018-09-06 14:30 | メッセージ

まだ席があります

テーマ 悔い改め
聖書 ルカによる福音書 14章 15~24節
2018年8月12日    平和月間  主日礼拝          牧師 左右田 理


 主イエスが証しする神の国(ご支配)に幸いを見る人たちは少なくない、しかし、実際に
その御国に入ろうとする人は少ない…本日の聖書箇所で主は世の不可解を指摘されて
いるのではないでしょうか。主と食卓を囲む人が聴き取った幸い(15節)は、12~14節にあ
るとおりです。返礼を求めない食卓、すなわち無償の愛による交わりは、復活の希望に
満ちた神の国です。なんと幸いなことでしょう。にもかかわらず、人がその食卓に背を向
けてしまうとすれば、それはどういうことなのでしょうか。
 本日の聖書箇所で主の食卓、神の国の食卓は宴会に例えられます。当然ご馳走も
用意されていたことでしょう。しかし招待客は一様に断るのです。ここにはこの世の繁
栄、安定を求めるとき、神の国の宴会に対する期待、感謝が失われてしまうという真理
が証しされているのではないでしょうか。(18~20節) 神の国の宴会は当時、世の繁栄、
安定に向かう希望を持っていなかった人々、その社会、その共同体で“身の置き所の
無い人々”に開かれていきます。(21節)
 この世で身の置き所の無かった人々が、方々で招かれていきます。広場、路地、通
り、小道…(21,23節) 街中でも何事かと、ひとしきり注目されるような騒動だったことで
しょう。しかし“僕”は言うのです。「まだ席があります」。(22節) 先の招待客は、なぜ思
い直して宴会に来なかったのでしょうか。冒頭で申しましたように、神の国の交わりが無
償の愛の交わりであることを称賛した人(12~15節)に対する応答として、本日の例え話が
語られていることに留意したいと思います。そこには、身の置き所の無い人への施しは
好んでも、彼らと同席し並ぶこと(同じ扱いを受けること)は嫌うという、罪の世に生きる
人の“本性”が指摘されているのではないでしょうか。
 宴会の主人による最後の言葉(24節)を冷たい断罪宣告として聴くのか、“まだ席があ
る”ことが伝わらないもどかしさ、歯ぎしりせんばかりの口惜しさ、救い主の飢え渇きとし
て聴くのかは、聞き手(読み手)に委ねられていると思います。(ルカ8:8,8:18,6:37) 神の
国の幸いは神の平和です。平和月間に際し当教会も連盟諸教会と共に、“まだ席があ
る”ことを、すなわち世で身の置き所の無い人々と“共に”生き、“共に”歩むところにこそ
神の平和が成ることを、身をもって証しし、世に告げ広めていきましょう。(エフェソ2:17)




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# by hachimejibap | 2018-09-06 14:00 | メッセージ

急いで降りてきなさい

テーマ 悔い改め
聖書 ルカによる福音書 19章 1~10節
2018年8月5日    平和月間  主日礼拝          牧師 左右田 理


 徴税人とは、侵略者であるローマ帝国に貢ぐための税を同胞のユダヤ人から取り立
てるお仕事、まさに売国奴です。徴税人は開き直り、空威張りでもしなければ生きてい
けない哀れな立場だったことでしょう。徴税人ザアカイがイエス一行に近づけなかったの
も(3節)、群衆が意地悪だったというより、今さら人々に頭を下げて頼むような真似は優
越願望がゆるさなかっただけではないでしょうか。だとしたら木に登り高みから見下ろそ
うとしたその姿は(4節)、ザアカイが抱えていた霊的問題を象徴的に表していたと言えま
しょう。そして主イエスの「ザアカイ、急いで降りて来なさい」(5節)という招きこそ、優越願
望からの解放という霊的救いを象徴的に表していたと言えましょう。(ルカ22:26~27)
 広島原爆(8/6)、長崎原爆(8/9)、そして敗戦(8/15)…高みから降り注いだあの殺人光
線から73年が経ちます。今でもアメリカ社会ではあの原爆こそが戦争終結を早めたと肯
定する声が少なくないそうです。長崎での被爆体験を訴えても、被爆に負けない強い人
といったような羨望のまなざしが返ってくることさえあるそうです。正義、平和の希望が、
高みから力を行使するスーパーヒーロー願望、待望に飲み込まれてしまうとき、結局そ
の先に待ち受けているのは優生思想、現代版弱肉強食なのではないでしょうか。
 「ザアカイ、急いで降りて来なさい」…ザアカイは急いで降りました。主をお迎えしたこと
によって、優越願望からも急いで降りました。(6,8節) 人々の窮乏に応える道、自らの
過ちを償う道へと降りていきました。それは所有を半減させる道であり、自己正当化を
手放す道でした。それに対して主は言われます、「今日、救いがこの家を訪れた。この
人もアブラハムの子なのだから。」(9節) その昔、アブラハムは面倒を見てあげていた
甥が豊かな方の土地を選び取ることをゆるしました。(創世記13:5~11) ザアカイは今、
すべてを与え尽くした十字架の主の幸いを迎え入れたのです。(使徒20:35)
 古今東西、多くの人が蓄え積み上げ、高みから見下ろすところに栄光を見ようとしてき
ました。しかし福音は低められている命と一つになるため降りていく十字架の主の栄光
を証しします。(フィリピ2:6~11) 私たちはひたすらこの主の栄光に永遠の幸い、平和、正
義を期待し、多くの人々を招きましょう。栄光の食卓を共にしようと、主は今も人々の心
の扉をたたいています。(ヨハネ黙示録3:19~20)



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# by hachimejibap | 2018-09-06 13:30 | メッセージ

聖書箇所  :ヨハネによる福音書4章16-26節
2018年7月29日礼拝メッセージ要旨  吉村知子


”霊“と言う言葉には「風、息」という意味がある。創世記2章にあるように、
私たちは神によって造られ、命が与えられ、今生かされている。人はイエスに出会い、愛され、赦されて新しい人生を歩む。サマリアの女性もイエスと出会い、人生が変えられた。

 当時、ユダヤ人とサマリア人は数世紀にわたって、宗教的な理由で反目していた。ユダヤ人であるイエスとサマリアの女性の出会いは、その意味でも画期的な出来事であり、そこから”神の救いの出来事”が始まる。

 サマリアの町スカルにあるヤコブの井戸端で交わされた二人の会話は、最初は”水”に関するものだった。しかしある質問を通して話が急展開する。この女性には神の目から隠そうとしていたことがあったのだ。彼女はそれを直視し、認め、イエスに正直に告白し、イエスはその告白を受け入れた。

 神に愛され、赦されたサマリアの女性は、神を心から礼拝したいと思うが、そこにはユダヤ人とサマリア人の歴史的確執が横たわっていた。どちらの神殿が聖いのか。しかしイエスは「霊とまことをもって礼拝せよ」と言う。神は霊であるから、場所に制限されない方。イエス自身、私は救い主・メシアであると宣言する。

人目を避けていた女性は、イエスと出会い、その愛に触れ、罪赦されて、この喜びを伝える者へと変えられる。教会に集う私たちも礼拝からこの世へと遣わされる。


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# by hachimejibap | 2018-09-06 13:00 | メッセージ

みんなで歌おう!共に話そう!そして一緒に祈ろう! 〒193-0833 東京都八王子市めじろ台2-15-2 ℡.042-663-7036


by hachimejibap