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八王子めじろ台バプテスト教会 hachimejib.exblog.jp

〒193-0833 東京都八王子市めじろ台2-15-2 ℡.042-663-7036  礼拝(日)AM10:00~12:10              祈り会( 水曜日 午前10時~11時20分


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本当に価値あるもの

テーマ 主の十字架
聖書 ルカによる福音書 16章 1~13節
2018年12月30日    主日礼拝                  牧師 左右田 理

 福音書には、主イエスが神の国イスラエルに於いて非国民的存在とされていた人々と
共に生きる姿を、指導者層が批判する場面が描かれています。本日の聖書箇所はその
ような批判に対して、主イエスが弁明のために用いた一連のたとえ話の一つだったと考え
られます。(ルカ15:2、16:14) 本日の聖書箇所の一つ前は、いわゆる“放蕩息子”のたとえ
話です。そこでは神の国に負い目のある者の側に立ちつつ和解の福音に向け苦闘する
神が描かれています。そして本日のいわゆる“不正な管理人”では、神の国に負い目の
ある者どうしの連帯をほめる神が描かれ(8節)、神の国に対する負い目の連帯が永遠
の住まい(9節)、すなわち“新たな”神の国として証しされています。
 神の国イスラエルは神の裁きであるバビロン捕囚前に、預言者イザヤ、エレミヤなどを
通してくり返し悔い改めが迫られていました。しかし、その頃に公表されたと考えられる
申命記を見ると、神の民が、イスラエル草創期からすでに自己正当化に固執していた様
子がうかがい知れます。(申命記9:6) そのような神の民の頑なさに対して主イエスは、
低評価しか受けられない働きに忠実な者こそが、本当に価値ある大仕事にふさわしい、
とおっしゃっているのではないでしょうか。(10~11節) 主イエスは、いわゆる失格者の苦
しみに仕える忠実さに、“新たな”神の民を見るのです。
 指導者層には金に執着している者がいて、主イエスの一連のたとえ話を嘲笑ったとあ
ります。(14節) 金とは欲しいものを手に入れるなど、思い通りにまわりを動かす力で
す。宗教社会においては神の側(裁く側)に身を置くこともできましょう。ところが主イエス
の一連のたとえ話に聴き従うなら、裁かれる側に立つ一方ではありませんか。主イエス
は“まことの人”として裁かれる側へ招きます。本当に神の側に立つ(創世記1:27~28参
照)つもりなら“他に仕え、他を生かす側”に立ちなさいと招くのです。(ルカ22:25~27)
 人生の失格者として裁かれる者たちの中に立ったのが主の十字架です。人が裁かれ
る側に立つとき、たとえ人生の最後までダメ出しされようとも、主イエスと共に命の希望
を分かち合っています。(ルカ23:39~43) 裁く側に固執するのか、主イエスの招きに応えて
裁かれる側に立とうとするのか…主の十字架は、世を永遠の命へ招くための“本当に
価値ある問い”として今、教会に任されています。(11~12節)


by hachimejibap | 2018-12-30 19:30 | メッセージ

テーマ 救い
聖書 ルカによる福音書 2章 1~12節
2018年12月23日    クリスマス礼拝              牧師 左右田 理

 2節の住民登録…それは侵略国家の都合でした。植民地化されていたイスラエルの民
には、いわゆる国粋主義的な愛国心が強要される結果となりました。従わなければ反逆
者として排除されます。本日の聖書箇所では身重のマリアが、自分と胎児イエス、二つの
命の危険をはらんだ長旅が強要されています。国粋主義的に強要される愛国心の残酷
さが見えてきます。しかし愛国心と愛郷心(故郷愛)とは違う、という考え方もあります。だと
したら危険を乗り越え故郷に帰り着いたマリアたちを、故郷は温かく迎えてくれたのでしょ
うか?残念ながら故郷でも彼らの居場所はありませんでした。(7節)
 愛郷心(故郷愛)の背後には、ある種の防衛本能があるようです。その昔、日本にも座
敷牢がありました。地域の安定、平穏無事を脅かすならたとえ身内であっても排除する
ということは古今東西、珍しいことではありません。懐かしい人が身重になって里帰りと
もなれば、いつもなら温かく迎える人たちだって、お上からの命令に不手際があっては
なりません。自分たちだって命が掛かっているのです。もはや身重のマリアのことなど
皆の意識の外へ排除されていたとしても不思議はありません。国粋主義的愛国心に対
するとき愛郷心はひれ伏すのです。こうして故郷からも背を向けられてしまったマリアと
夫ヨセフのもとに赤ん坊救い主、神のひとり子が生まれました。
 赤ん坊イエスを受けとめたのは飼い葉桶です。(7節) 家畜小屋のエサ箱です。家畜を
生かし、人を生かします。しかし誰からも顧みられることはありません。そしてこの飼い
葉桶の赤ん坊の行く末に待っていたは、他を生かし、自らは捨てられていくキリストの十
字架でした。(マルコ15:34) その飼い葉桶に招かれたのは羊飼いたちです。(12節) 当時
のイスラエルに羊の牧畜は欠かせなかったのに、牧草を求め放浪生活に生きる彼らは
住民登録からも外れ、社会的には“ものの数”にも入りませんでした。世界で最初のクリ
スマスは、他を生かしながらも報われない者どうしの出会いでした。それこそがまことの
神と人との出会い、まことの人と人との出会い、すなわち救いでした。(12節) 多様化社
会の現代、人々は性急に報いを求めて、民族主義、国家主義を台頭させています。しか
し私たちは飼い葉桶にまことの神、まことの人を見ましょう。そこから出会うべき人たちと
出会っていく先々で、救いの力が満ちあふれていくのですから。(1コリント1:18,25~29)


by hachimejibap | 2018-12-30 19:00 | メッセージ

テーマ 和解の福音
聖書 ルカによる福音書 1章 50~53節
2018年12月22日    クリスマス・イブ礼拝          牧師 左右田 理

 クリスマス物語でひときわ輝いている神の恵みは“憐れみ”です。旧約聖書においては
“慈しみ”という言葉にも対応していますが、“憐れみ”が神の言葉として、代々にわたっ
て後生に受け継がれていくことは神の定めです。(詩編103:17~18) クリスマス物語で主
要人物であるエリサベトには、子宝に恵まれないことで社会的に肩身の狭い思いをして
いる者の希望として“憐れみ”が臨み、救い主イエスを胎に宿したマリアには、社会から
抑圧され、排除されてきた未婚の母、婚外子の救いとして“憐れみ”が臨みました。こう
してクリスマスの“憐れみ”は、社会的に抑圧され、口を塞がれていた者どうしを出会わ
せ、その唇から賛美を満ちあふれさせ、歌い交わす輪を生み出したのです。
 “憐れみ”は代々にわたって栄枯盛衰をもたらします。(51~53節) しかしそれは単なる
諸行無常ではなく、歴史の主の御旨です。さらにそれは単なる下克上とも違います。下
克上は復讐を招きます。ルワンダは第一次世界大戦以降、ベルギーの支配下に置か
れました。ベルギーは支配しやすいよう、ルワンダ内部に民族間の格付けを強要し、や
がて1994年、フツ族過激派によるツチ族に対する復讐、大量虐殺へとつながってしまい
ました。ルワンダに日本バプテスト連盟が派遣している佐々木和之さんは今、和解の福
音の重責、その困難に奉仕しています。そして“憐れみ”は和解の福音にあらゆる人々
を招く神の言葉として(ルカ6:33~36)、そのような奉仕を祝福しています。“憐れみ”が歴史
に栄枯盛衰をもたらすのは単なる下克上のためではなく、和解の福音にもとづく出会い
と対話に全世界が従うようになるためです。(詩編103:17~18、2コリント5:18~20)
 かつて日本バプテスト連盟ホームレス支援委員会主催シンポジウムで、ホームレス相
互にも格差が生じてしまっているという悲しい報告がありました。“自分の惨めさも、アイ
ツ(ら)よりはマシだ…” 誰かを貶め、見下すことで自らを慰めようとする風潮は現代の
国粋主義、民族主義台頭をも後押ししていないでしょうか。しかし“憐れみ”の歴史的ご
支配は、世の栄枯盛衰を通して、見下される惨めさも、見下す惨めさもコインの裏表、
一体であることを証ししています。そして紙一重としてお互いを受けとめ合う和解の福音
の希望を証ししていきます。世の救い主、まことの王が家畜小屋のエサ箱に生まれたと
ころ(ルカ2:7,12)に起こされる出会い、対話に私たちも向かいましょう。


by hachimejibap | 2018-12-30 18:30 | メッセージ

2018 クリスマス

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by hachimejibap | 2018-12-15 13:30 | 教会からのお知らせ

テーマ 主を待ち望む
聖書 使徒言行録 16章 6~10節
2018年12月9日    アドベント(待降節)第二主日礼拝     牧師 左右田 理

 今はクリスマスを待ち望むアドベント(待降節)…しかし聖書の時代に生きていた人々
は、自分たちが誰を待っているのか、いったい誰と出会うことになるのか、さっぱりわか
っていませんでした。“アドベント”は、(キリスト、救い主の)“出現”、“到来”という意味で
すが、関連語に“アドベンチャー”があります。古くは“未知の存在に近づくこと”という意
味で、現代では“危険な冒険”という意味になっています。アドベントは本来、ただ恒例の
年中行事として巷を彩るイルミネーション、クリスマス・ツリー、サンタグッズでは出会うこ
とのできない何かを待つときなのではないでしょうか。
 本日の聖書箇所で伝道者パウロは、新しい出会いを求めて旅をしています。それでも
直前の聖書箇所では、出会いに備えて下準備をしていたようにも見えます。伝道方針の
違いによる仲間割れを経て(15:39~40)、出会いが受け入れられるにはどうしたら良いの
か、伝道者パウロの葛藤、試行錯誤がにじみ出ているような気がします。(16:1~3) いよ
いよ出会いが実を結ぶことを期待して出発…ところが本日の聖書箇所、行く先々で伝道
が妨げられます、聖霊、イエスさまによって。その地方のユダヤ人のご機嫌を損ねない
よう取り組んだせっかくの下準備も実を結ぶことはなかったのです、神によって。
 すでに申しましたように、アドベント(待降節)とアドベンチャー(危険な冒険)は関連語で
す。主を待ち望むところでは、人としての情緒、都合、好みをすりあわせて平穏無事を
かたちづくろうとする道がことごとく閉ざされていくのでしょう。替わりにまだ見ぬ地での
出会い、あらかじめ根回しなどできない うめき、叫び(9節)とへ招かれていくのでしょう。
主を待ち望むとは、待ちぼうけではありません。未知なる出会いにこそ福音が実ること
を信じ、絶えず向こう岸へ渡る決断です。(10節)
 パウロが向こう岸に渡ったことで何が起こったのか…福音が前進したのです、パウロ
の身に降りかかった苦難を通して。(フィリピ1:12~14) すなわち十字架の苦難の主の言葉
が神の力(1コリント1:18)として“到来”、“出現”したのです。主を待ち望む私たちは、身内、
仲間内では味わうことのなかったような困難な対話へ招かれることでしょう。それでもな
お、十字架の言葉を携えて、より広い出会いを祈り求めましょう。未知なる対話にこそ十
字架の言葉による神の力が、豊かに“到来”、“出現”するのですから。


by hachimejibap | 2018-12-15 13:20 | メッセージ

テーマ 主を待ち望む
聖書 使徒言行録 27章 13~15,23~26,33~38節
2018年12月2日    アドベント(待降節)第一主日礼拝     牧師 左右田 理


 救い主のご降誕を祝うクリスマスを待ち望む一ヶ月、すなわちアドベント(待降節)。本
日はそのアドベント第一主日です。救いの訪れを待ち望むときは、弱々しく膝を抱え込
み、うずくまるようなときではありません。なぜなら“雄々しく、心を強くせよ”と招かれて
いるときだからです。(詩編31:25) 本日の聖書箇所には、暴風と闇が支配する海上で、
絶望が支配している難破船で、「食卓を囲んで元気を出そう」と呼びかける伝道者パウ
ロの姿が描かれています。まだ一寸先が闇の時点で。本日は、クリスマスを待ち望むア
ドベントに際し、当教会が心すべき救いのメッセージを共に求めましょう。
 本日の招詞(箴言4:25~26)は、先月天城で開催された日本バプテスト連盟第64回定期
総会のテーマ聖句です。当教会も加盟している日本バプテスト連盟は今、嵐の中を進ん
でいるのかも知れません。先の総会では、加盟する諸教会の教勢低下が顕著な昨今、
数値的低下に対する対策を正面から取り上げようという声があがった一方で、正面から
向き合うべきは数値なのか、という問いもありました。いずれにせよ従来の考え方、生
き方にあぐらをかいている場合ではない、という点では、皆が一致していたように思えま
す。そして本日の招詞“目をまっすぐ前に注げ”を拠り所にしつつ議論を重ねたのです。
 本日の聖書箇所には、総会最後の閉会礼拝の聖書箇所が含まれています。メッセン
ジャーは言いました、追い風だけでなく逆風もまた、神の風、神の霊としての働きだった
のではないか、と。(13~15節) 少なくともパウロはそのように、前向きに受けとめていた
のではないでしょうか。そして逆風をも神の霊の働きとして受けとめる秘訣は、暴風吹き
すさぶ闇を前にしても、神からの使命に対してまっすぐ耳を澄ましていく生き方にあるの
ではないでしょうか。(24~25節)
 神からの使命に耳を澄ましていくとき、人としての気分、思惑から解放されます。人とし
ての気分、思惑に囚われている隣人を主の食卓へ招きます。「どうぞ何か食べてくださ
い。…一同の前でパンを取って神に感謝の祈りをささげてから、それを裂いて食べ始め
た。そこで、一同も元気づいて食事をした。」(34~36節) 救いを待ち望むなら、主の食卓
を囲みましょう。招き合いましょう。神からの使命にまっすぐに向き合おうとする食卓から
は、暗闇の逆風を軽やかに進む群れが生まれるのです。(38節)


by hachimejibap | 2018-12-15 13:10 | メッセージ

鹿が水を求めるように

テーマ 賛美
聖書 詩編 42編 1~12節
2018年11月25日      主日礼拝                牧師 左右田 理

 旧約聖書に登場する鹿はカモシカ類と言われます。そしてイスラエル文化においては
“美”の形容詞的な存在でもあったようです。(雅歌2:9、3:5) 神の民が憧れる生き物だっ
たと言えましょう。しかし本日の詩編に描かれる鹿の姿に、いったい誰が憧れるというの
でしょうか。渇きを癒すために涸れた谷をさまよっている鹿の姿…人々の目には死を間
近にした絶望的な生き様として映るのではないでしょうか。もちろん、ここでの鹿の姿は
神を慕い求める姿としての比喩です。(2~3節) 絶望的なまでの渇き…救いの民、神の
民とは、神を慕うその求め方が絶望的なまでの渇きとなっている群れを指しているので
はないでしょうか。神の民に見られる究極的な美は賛美する姿です。そして賛美とは本
来、いわゆる満腹満足としての楽しみ、喜びとはまったく異なるのではないでしょうか。
 主イエスは飢え渇きを、その乏しさ、悲しみを神の幸いとして証しされました。(ルカ6:20~
26) それは人から来る幸いではありません。神の幸いを受ける者にとって人から来るも
のとは、「神から見捨てられた者、忌み嫌われた者」という蔑み、罵りのたぐいでしかな
いことでしょう。(4、11節) 主イエスが証しする幸いによれば、神の幸いは、“人から来る
幸い”に対する絶望から生まれます。そして賛美は神の幸いの中にあります。だとしたら
賛美もまた、“人から来る幸い”に対する絶望から生まれることでしょう。(ルカ6:24~26)
 先にも申しましたように、神を慕うその求め方が絶望的なまでの渇きとなっている群れ
が神の民だとすれば、彼らは具体的に何を求め続けるのでしょうか。それは礼拝賛美
に満ちた群れです。礼拝賛美の喜びに満ちた群れを、魂を注ぎ出すほどまでに、ひたす
ら思い起こそうとするのです。(5節) けれども救いの民がくり返し堕落の民となったこと
は聖書的現実です。(ルカ6:24~26) それは礼拝賛美に満ちた群れを思い起こそうとすれ
ばするほど、うなだれてしまう救いの民の歴史的現実です。(6節) それゆえに神の民は
礼拝堂をはみ出して広く神を慕い求めます。森羅万象すべてに、昼夜を問わず、神の
御顔を尋ね求めます。(6~9節) 
 私たち教会の民は、神の御顔を知っています。それは十字架に掛けられた主イエス・
キリストの御顔です。十字架の叫びの主こそ“人から来る幸い”の絶望を証しする御顔で
す。(マルコ15:29~34) 鹿が水を求めるように、十字架の主を共に慕い求め賛美しましょう。


by hachimejibap | 2018-12-15 13:00 | メッセージ

悲しみが喜びに変わる

テーマ:悲しみ、喜び  
聖書:ヨハネによる福音書16:16~24
2018年11 月18 日                  協力牧師 北島靖士

今日のメッセージは、今読みましたようにヨハネによる福音書からお話ししたいと思います。ヨハネによる福音書はヨハネという名前の人によって指導されていた教会で書かれたものです。書かれた時期は1世紀の末ごろと考えられています。そのころのヨハネ教会の人々の様子が今読みましたところにもよく現れています。
1) 18節に「『しばらくすると』と言っておられるのは、何のことだろう。何を話しておられるのか分からない。」とあるように、彼らは「分からない」という不安の中にありました。よく、キリスト教はむずかしい、わかりにくいという人がありますが、初代教会の人々も分からなかったのです。その点では安心していいのです。初代教会の人々も分からなかったのですから、わたしたちにとってむずかしいのは当然だと考えてください。ヨハネの教会の人々は19節にあるように、いくら論じあってもわかりませんでした。この「論ずる」という言葉はまた「求める」とも訳することができることばです。かれらは論じ合ったけれども分からない。求めたけれども、与えられない、得られない、その焦燥感の中にあったのです。
2) この分からない事が次には「悲しみ」になってきます。20節。いくら論じ合っても分からない。求めても得られないと、はじめは怒ります。次に深い悲しみになってきます。相手の言う事がわからないということは相手と言う人そのものがわからないということです。こちらのいうこともわかってもらえない、自分をわかってもらえない、悲しみです。相手から切り離された、相手と関係がなくなった悲しみと不安です。
3) 21節。ここでは悲しみは苦痛になると言われています。ヨハネの教会の人々は外側からはユダヤ教によって迫害される苦痛の中にありました。しかしそれ以上に大きかったのが内面の苦痛、苦しみでした。かって自分達が人生の杖とも頼んだイエスさまが、最早よく分からなくなってしまった苦しみ、悲しみの中にあったのです。
(これはメッセージの冒頭部分です。)


by hachimejibap | 2018-12-15 12:50 | メッセージ

テーマ 賛美
聖書 詩編 8編 1~10節
2018年11月11日      主日礼拝                牧師 左右田 理

 賛美とは神の“みわざ”に圧倒されることです。森羅万象が“みわざ”として迫り全身全
霊が楽器のように打ち鳴らされます。(2節) そしてすべてが“みわざ”として迫るとき、自
分(の力)で生きているのではなく、生かされていることに気づかされます。賛美は、神に
生かされているという実感です。生かされているという実感を全身全霊で受けとめてい
るのは乳飲み子、幼子です。おとなになるに連れ、生かされているという実感が失われ
ていきます。賛美とは乳飲み子、幼子をかたち造る霊に満たされつつ、生かされている
恵みが実感せしめられる出来事です。復活の力です。賛美を捧げるとき、すでに神の国
に生きているのです。(3節a、マルコ10:35)
 生かされていることに気づいたなら、“生きること(存在)がゆるされている”という感謝、
喜びで満たされます。さらにその感謝と喜びが満ち満ちて、あふれ出るなら、森羅万象
にまで、そのゆるしが満ちることを祈ります。森羅万象というからには自分を悲しませる
ような存在、苦しめるような出来事も含まれでしょう。賛美は、自分を悲しませ、苦しめる
相手も自分と共にその存在がゆるされていくこと、共に生かされていくことを喜び、祈り、
感謝する力となるのです。(3b~4節、マタイ5:44~45、1テサロニケ5:15~18)
 賛美は、人が神より少し低いものとして造られ、神の威光の冠にあずかり、森羅万象
を治める存在とされている恵みを思い起こさせてくれます。(6節) 森羅万象を治めると
いう人の威光については、神の子イエス・キリストが十字架の栄光を指し示してください
ました。(マタイ18:4、23:11、20:28)  羊や牛が、野の獣が、空の鳥、海の魚、海路を渡る
ものが養われるよう、人が身を低くして仕え、命を捧げていくところに神の威光が満たさ
れ、天の冠が授与されるのです。(7~10節) 主を賛美せよ!
 やがて世界は一つになります。世においてもっとも低くされた主、十字架に上げられた
イエス・キリストのもとにあらゆるものが、天も地もすべてが集められるのです。その救
い(エフェソ1:10)を共に賛美するために。十字架の主のもとでは、あらゆる合否、比較優劣
を生むルールが廃棄され、あらゆる敵対関係が無効となるでしょう。すべてがキリストの
もとでゆるされた存在、生かされている存在として和解し、一つになるのです。「…天に
おられるわたしたちの父よ、御名が崇められますように。」(マタイ6:9)


by hachimejibap | 2018-12-15 12:40 | メッセージ

苦しめる者を前にしても

テーマ 賛美
聖書 詩編 23編 1~6節
2018年11月4日      主日礼拝                牧師 左右田 理

 クリスマス・シーズンまであとわずかとなりました。クリスマスのルーツは春を待ち望む
北欧の宗教儀式だったと言われます。クリスマス物語には天使たちが野宿する羊飼い、
および羊の群れに救い主誕生が告げられる場面がありますが、12月末に野宿などした
ら羊飼い(人間)も羊の群れも凍死の危機です。キリストの福音がユダヤ地方から北欧
に伝道されていった際、日照時間がほとんど無くなり暗く凍てつく冬に春の光を待ち望
む北欧の宗教儀式が人々の希望でした。そこで伝道者が永遠の春の光として世の救い
主キリストを証ししたのがクリスマスの始まりだったのではないでしょうか。そして本日の
聖書箇所も、春の光を待ち望む多くの人々にとって希望となったかも知れません。
 「【賛歌。ダビデの詩。】主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。」(1節) 聖書
において救いの民は羊の群れに例えられます。.羊は方向音痴で臆病だと言われていま
す。驚くとすぐに浮き足だって道から逸れ、戻ってこられなくなると。しかし羊飼いの声を
聞き分ける能力には秀でていて救われると。同じように、救いの民は神の声、神の言葉
によって確かな方向性を得るのです。(マタイ11:15、13:9、13:43、マルコ4:9、4:23、7:16、ルカ
8:8、14:35) 本日の聖書箇所はダビデの詩です。ダビデは絶望の闇の中でも、救いの
方向性は“人知を越えた明日”だということを聞き分けていました。(サムエル下12:13~23)
 詩編でダビデの詩と銘打たれている一連の詩は22編に続くかたちで本日の23編が位
置しています。しかし22編はまるで地獄の責め苦の描写のようにも見えます。地獄の責
め苦のような描写に続いて春の光を思わせる23編が位置するというのも不思議です。
ただ22編後半には春の光を予感させる描写もあります。(詩22:27~28,31~32参照) 春の
光の予感…それは地獄の底にこそ証しされる“人知を越えた明日”だったのではないで
しょうか。
 「わたしを苦しめる者を前にしても/あなたはわたしに食卓を整えてくださる。わたしの
頭に香油を注ぎ/わたしの杯を溢れさせてくださる。」(5節) わたしたちの羊飼いである
主イエスは、自分を苦しめる者と共にも食卓を囲む“明日”に備えよ、と招いておられる
のではないでしょうか。(ルカ6:27) 苦しみの闇が深ければ深いほど、“人知を越えた明
日”に招く主をひたすら信じ、賛美しましょう。(6節、1テサロニケ5:15~18)



by hachimejibap | 2018-12-15 12:30 | メッセージ