八王子めじろ台バプテスト教会

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わたしたちの言葉で

テーマ:聖霊降臨
聖書: 使徒言行録2:1~13
2018年5 月27 日                協力牧師 北島靖士

降臨祭またはペンテコステといいまして、クリスマス、イースター、復活
祭と並んで、キリスト教の3大祭りと言われるものの一つです。
聖霊とは何でしょうか。よく精霊や妖精や幽霊などと間違えられます。結
論からいうと、キリスト教の神さまは三位一体の神さまであることはご存
知のことと思いますが、三位は位格(ペルソナ)と言いまして父、子、聖霊
を指します。この三位が一体であるということです。信仰の内容を理解し
てもらうために「信仰問答」というものが使われました。1543年にドイツ
のハイデルベルグというところで作られた信仰問答書には次のように書か
れています。
第53問 聖霊についてあなたは何を信じていますか。
答  え 第一は聖霊が父と子同様に永遠の神であられるということを信
じます。第二に聖霊はわたしにも与えられており、真の信仰によってわた
しにキリストとキリストのすべての恵を与え、わたしを慰め、永遠に至る
まで、わたしの許に留まってくださる方であることを信じます…とありま
す。
―どうでしょうか。これで聖霊についておわかりいただけたでしょうか。
あるいはますますなんだかわからなくなったという方もあるかもわかりま
せん。
大事なことは聖霊とは永遠に至るまで、わたしのもとに留まってくださる
神さまであるということです。
父なる神さまはわたしたちの上に(ON)おられてわたしたちの歩みを導
いてくださる神さまですが、目に見ることはできません。 
子なるイエス・キリストはわたしたちの(かたわに)BESIDE居られる神さ
まですが、十字架、復活ののちに天に帰られました。 
聖霊なる神さまはわたしたちの中に(IN)住まわれる神さまで、わたした
ちの内に永遠にとどまってくださるのです。 3節に「留まった」とあると
おりです。しかし、留まるというときに何か、いつまでもよどんで動かな
いもののように考えるならそれはあやまりです。炎は燃える時、一瞬もじっ
とはしていません。絶えず動き、激しく形を変えますね。聖霊とはそのよう
にダイナミックな動きがあるものなのです。
第2に聖霊がわたしたちに与えられる時、どんなことがおこるかということ
です。
(これはメッセージの冒頭部分です。要約ではありません。)


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by hachimejibap | 2018-05-27 13:00 | メッセージ

あなたがたのためになる

テーマ 賛美
聖書 ヨハネによる福音書 16章5~11節
2018年5月20日    主日礼拝              牧師 左右田 理

 その昔、私は大人の方に尋ねました。「復活したイエスさまは、なぜ居なくなってしまっ
たのか」。本日の聖書箇所で、その問いに対して主イエスご自身がお応えくださっていま
した。“あなたがたのためになる”から…(7節) ヨハネによる福音書は新約聖書の四福
音書の中で最も後代に執筆された書と言われています。“あなたがたのためになる”か
ら…これは生前のイエスの言葉というよりは、主から遣わされた聖霊なる神の言葉だっ
たのではないでしょうか。(14:16~17a) イエス・キリストの名のゆえに迫害が激しくなって
いくただ中に訪れた聖なる“弁護”は、初代教会にとってさぞや大きな励ましだったことで
しょう。神が弁護してくださる…これこそ殉教を前にしてなおクリスチャンたちの唇からあ
ふれ出た祈り、そして賛美の原動力だったことでしょう。
 待ち望んでいた主の再臨のないまま、初代教会は世から裁かれ、排除され、死に別
れが繰り返されました。しかし初代教会はそのような悲惨な死に別れのただ中に聖霊
の“弁護”を聴きました。“十字架のイエスこそ昇天の主、神の栄光、神の右に座したも
う主”(使徒7:55~60)…この聖霊の“弁護”こそが初代教会を支える信仰告白であり賛美
でした。罪とは、世から裁かれ排除されていく者たちのただ中にこそ命の主が降り立っ
てくださるという十字架の救いを信じないことです。(9節) 義とは、主の昇天を喜ぶこと
によって(14:28)地上の保護者イエスを見なくなることです。(10節、17:12,13a) 裁きとは、
裁く側の安定が滅ぼされるということです。(11節、フィリピ2:6~11) 聖霊の弁護に反撃、復
讐はありません。なぜなら聖霊の弁護は“抗弁”ではなく“賛美”だからです。
 主の復活はその再会によって賛美する人々の間に起こされた出来事です。その再会
に至るまでは悲しみに満たされていた人々の間に起こされた出来事です。(6節) だとし
たら別れの悲しみがどれほど繰り返されても、初代教会はそのたびごとに復活を保証す
る聖霊の弁護として賛美の言葉を受け、その賛美がますます満ちあふれたのではない
でしょうか。聖霊による賛美の群れは知っていたのです。十字架に上げられ悲惨な別れ
を世に証しされた主こそ天に昇り神の栄光に座し、世から裁かれ排除されし者たちを贖
う主であることを。「御国が来ますように。御心が行われますように、 天におけるように
地の上にも。」(マタイ6:10) 賛美は“あなたがたのために成る”のです。


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by hachimejibap | 2018-05-22 13:20 | メッセージ

テーマ 賛美
聖書 使徒言行録 3章1~9節
2018年5月13日    主日礼拝              牧師 左右田 理

 新約聖書には、身体的、精神的ハンディを負った人たちが、周囲からの施しで生きて
いた現実が描かれています。欧米などの“貧しい者に施すことは富める者の務め”とい
うチャリティー精神の歴史的起源を、当時のイスラエル社会に見ることもできましょう。
(箴言28:27) そしてハンディによって貧しさの中にある人々にとってそれは、施しを受け
ることは当然の権利だということを意味するでしょう。だとしたら本日の聖書箇所で身体
的ハンディを癒された人は施しを受ける社会的権利を失ったことになります。本日の聖
書箇所で賛美は、“してもらう権利”の終わりとともに始まるのです。
 では賛美を通して、いったい何が始まるのでしょうか。“躍り上がって立ち、歩き出す”
のです。どこに向かって?主の名によってこの世で裁かれる者の側に連なる場に向か
って。そして十字架の主こそ癒しの主であることを証しする場に向かって。(使徒4:14)
賛美は癒しをもたらすと同時に、十字架の苦難の主へ招きでもあるのでしょう。この点
については福音書からも聴きましょう。使徒言行録の前編に位置するルカによる福音
書(ルカ1:3、使徒1:1)では、人知を越えた招きとして、十字架の苦難の主に向かう歩みが
描かれています。(ルカ23:26) 側近の弟子たちの固い決意でも、十字架の苦難の主に従
うことは全うできなかったわけですが、神の招きが、人の服従を成就させてくれたのでは
ないでしょうか。(ルカ9:23) ここに賛美があります。本日の聖書箇所で癒された人も期せ
ずして、主の名によってこの世で裁かれる者の側に迎え入れてもらったように。
 賛美への招きは神のみわざとして始まり、神のみわざとして成就します。そしてそれは
“してもらう権利”を持たない外国人が招き入れられる癒しでもあります。その国、その
社会、その共同体のルールで裁かれてしまいやすい よそ者が招き入れられる癒しでも
あるのです。(ルカ17:17~18) 初代教会は賛美がもたらすその癒しを受けるために、同胞
ユダヤ人の特権意識(安息日規定、割礼主義)から解放され、“してもらう権利”、“救わ
れる資格”を持たない者たちを覚える異邦人伝道に向けて“躍り上がって立ち、歩き出
した”のでしょう。賛美は満足、安住ではありません。十字架の主の招きに応える歩み
です。その歩みのただ中で味わう幸いです。(使徒20:35) 私たちも主の招きに応える幸
いをもって大いに賛美しましょう。


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by hachimejibap | 2018-05-19 17:30 | メッセージ

テーマ 賛美
聖書 マルコによる福音書 14章22~26節
2018年5月6日    主日礼拝              牧師 左右田 理

 主イエスはどういうときに賛美をなさったのか…福音書では共に食事をするときに賛
美をなさるお姿が印象的です。本日の聖書箇所でも、いわゆる“最後の晩餐”と呼ばれ
る食卓を囲んでいるところで賛美をなさっています。そして大切なことは、この食卓の行
く末に待っていたのが、十字架の死だったということです。
 「十字架から降りて自分を救ってみろ。…」(マルコ15:30~32) 迫害者たちの言い分はこ
うだったのではないでしょうか。“当人が救われていないのに、人を救ったなどというの
は本当なのか…” しかし、主イエスによって救われた、と喜んだ人々は大勢いたはず
です。見えるようになった人、歩けるようになった人、患いを癒された人…(ルカ7:21~23) 
ところが主が十字架に掛けられたとき、その中の誰もその傍らにいませんでした。マル
コによる福音書では、主を罵る人以外、誰もそばに居なかったのです。賛美の食卓の
先で主を待ち受けていたのは、厳しい孤立、激しい疎外感だったのではないでしょうか。
 死は孤独です。永久の別れ、と表する人もいます。いつの日か誰もが強制的にこの孤
立、疎外感に追いやられるのです。しかし賛美には力があります。(詩編147:1~3) 崩壊
した社会、共同体を建て直す力があります。散らされ、離ればなれになっていた人々を
呼び集める力があります。孤立、疎外感で心傷ついていた人々を癒し、包み込む力が
あります。だからこそ主は、十字架に進んでいくあたって賛美に身を委ねたのではない
でしょうか。賛美に身を委ねるとは、滅びゆく先に復活を見る喜びです。孤立の果てに
無限の再会を見る喜びです。傷つけられた者どうしが神の愛で包まれ、結び会わされ、
一つにされていく明日を見る喜びでもあります。主は最後の晩餐においても力の主、賛
美に身を委ねきることのできた力の主でした。
 主の食卓で割かれたパンは十字架で裂かれた主のからだを象徴します。また分かち
合われる杯は十字架で流された主の血を象徴します。一つのパンから分かち受けた者
どうしは、キリストのからだにおいて一致して生きる者と定められているのです、すでに。
(22節) また杯を共に受けるとき、多くの命に約束された永遠の再会に向かって生きる
ことがゆるされているのです、すでに。(24節) いつくしみ深い主のからだと血を共に受
け、永遠の賛美、永遠の一致、永遠の平和へと共に進みましょう。


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by hachimejibap | 2018-05-19 17:00 | メッセージ

テーマ 新生
聖書 ヨハネによる福音書 3章1~15節
2018年4月29日    主日礼拝              牧師 左右田 理

 キリスト教の救いとは神の国に入ること、また新たに生まれること(新生)です。本日の
聖書箇所でまさに主イエスがおっしゃっています。しかし当時の宗教指導者ニコデモの
疑問も もっともです。「年をとった者が、どうして生まれることができましょう。…」(4節)
寿命が来れば世を去って終わりでしょう。また新生が精神面を指すと考えても、人生経
験が増えるほど過去に囚われて新たな発見、出会いが難しくなるというのも人の常で
す。社会的地位があれば手放せないもの、囚われるものは無数にあることでしょう。し
かし主はおっしゃるのです、水と霊によって新生し、神の国に入ることができる。(5節)
 “水と霊”は当時のイスラエルの教師にもわかることだったのでしょう。(10節) ユダヤ
人(選民)として自然に生まれることについて“水から生まれる”という表現があったそうで
す。けれども主の他の教えから見ても、ここで主が伝えたいのは民族的選民主義では
なく、自然な生き方(自然体)だったことでしょう。(マタイ6:26,28) 風が吹くままに…自然体
に、さらに自然界全体に、すでに霊が働いていることをニコデモに気づいてもらいたかっ
たのではないでしょうか。“すでに”の恵みに目が開かれることは新生であり、そのときす
でに人は神の国に入っているのです。とはいえ主の教えは、自然体(自然界)に、ただ居
心地の良さだけを見出せるかのような教えでなかったことは確かです。(マタイ6:30)
 主は今日の聖書箇所で、誰もがわかることを教えている、と訴えているようです。たと
えば、雲から降りてきたものしか、また雲にまで上がることはできない…だとしたら、人
の子イエスが“天にいた”ことが天に上がる資格(権威)なのではなく、天から“降ってき
た”ことこそが天に上がる定め(権威)を証ししているのではないでしょうか。(13節) 
 人の子は、呪われた蛇と同じように十字架に上げられました。(14節) この世で忌まわ
しい、呪われた、地獄へ堕ちてしまった、と見なされるあらゆるものを神の国へ、すなわ
ち永遠の命へ贖うために。それゆえに、主の十字架を仰ぎつつ、「呪われしものにこそ
すでに救いの希望がある」ことを信じる者もまた、すでに永遠の命へ新生しているので
す。(15節) “罪の増したところにこそ、恵みがなおいっそう満ちあふれた”(ローマ5:20)とい
う言葉に、神の国の自然体を見ることができるでしょう。肩の力を抜いて“ただ神の御旨
が成りますように”と祈り委ねつつ、共に明日へと歩み出しましょう。


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by hachimejibap | 2018-05-19 16:30 | メッセージ

説教要旨    吉村知子(2018.4.15)

導入:教会墓地の墓標に刻まれた「永遠の命」の四文字は、証しの言葉。 

I. 死の狭間で行われた「ラザロの復活」:
ラザロの復活はイエスの7つ目の奇跡であり、最後の奇跡である。そして
死の脅威のもとで行われた奇跡である。イエスは目の見えない人を癒した
ことで、危うくユダヤ人たちに石打ちされそうになった。ラザロの復活が
きっかけになり、ユダヤ人たちはイエスを殺害することを決断して、イエ
スは十字架へと向かうことになる。死を賭して行ったラザロの復活の出来
事を通して、イエスは私たちに何を伝えようとしたのだろうか。


II. 奇跡の遅延とマルタ・マリアとの会話:
 ラザロが重篤と聞いてもいまだ腰を上げないイエス。4日後にベタニア
に到着するが、すぐにラザロの墓に行かず、出迎えたマルタとの時間を
大切にするイエス。悲しみに打ちひしがれるマルタとの「復活」問答。
終わりの日には復活することを信じるマルタに「私こそが復活である」と
宣言するイエス。涙されるイエス。復活の奇跡はこの時から始まっている。


III. 「ラザロ、出てきなさい」:
 死後4日たつラザロに「出てきなさい」と命じるイエス。当時流行してい
た“奇跡を行う見世物”と一線を画するため、父なる神に祈るイエス。この出
来事は「神の栄光を現すもの」である。マルタに「信じれば神の栄光を見る
ことができると言ったではないか」と再度呼びかけるイエス。それに対して
沈黙のマルタ。マルタの悲しみの深さ。それでもイエスは「信じ続けなさい」
と呼びかける。主は、私たちにも呼びかける。


IV. 結び:
イエスは死も命もすべてつかさどるお方である。命を包み込むイエスのもと
で私たちは憩う。悲しい時慰めてくださり、嘆きを希望に変えてくださる。
私たちの悲しみ、痛み、弱さすべてを背負い、十字架にかかられた。私たち
を罪から解放し、赦しを与えるために。イエスは今も私たちに呼びかけてお
られる。「私は復活であり、命である。」あなたは私を信じ続けるのかと。
復活したイエスは、私たちのそばにおられる。すでに天に召された者たちは、
「キリストの永遠の命の中に憩う」ことを証しする。そして、今生きている
者は、悲しみの中から立ち上がり、希望の中へと歩み出す。


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by hachimejibap | 2018-05-19 16:00 | メッセージ

テーマ 罪の赦し
聖書 マルコによる福音書 14章66~72節
2018年4月8日    主日礼拝              牧師 左右田 理

 連盟諸教会が共有している、ここ最近の聖書日課であるルツ記、サムエル記などを見
ると、神の民は、“赦された罪人”の群れだなぁ、と思います。だとしたら本日の聖書箇所
で描かれているペトロの裏切りもやはり赦されているのでしょうか。しかし並行記事であ
るルカ22:54~62やヨハネ18:15~27にはない描写がマタイ26:74、そして本日のマルコ14:71
にはあります。“(ペトロは主イエスについて)呪いの言葉さえ口にしながら”…つまり、た
だ主を知らないと言っただけでなく、呪いの言葉さえ口にしたというのです。はたしてこの
ようなペトロにも罪の赦しが及ぶのでしょうか。(1コリント12:3 口語訳)
 興味深いことは、ここで真実を語っているのは主の弟子であるペトロではなく、迫害者
側だということです。“あなたも、あのイエスと一緒にいた”(67節) 神の民は敵対者側か
ら神の真実を聴くことがあります。旧約聖書のヨナタンもそうでした。(サム上14:9~10) し
かしヨナタンが信仰に満ち満ちていたのに対して、ペトロの内側は臆病風が吹き荒れて
いたのではないでしょうか。“あなたも、あのイエスと一緒にいた”…すなわちこの真実は
このときのペトロにとって、「あなたは神の国イスラエルの謀反人の仲間、国賊の仲間
だ」(69節)という有罪宣告に等しかったことでしょう。愛する主と一緒にいたこと自体が忌
まわしく、呪われた事態になってしまっていたと言えましょう。
 ですからペトロはくり返し主を否認します。ところが主イエスの敵は執拗に問いただし
てきます。“あなたも、あのイエスと一緒にいた”…これは真実でした。敵の口を通して表
れた神の言葉でした。ペトロが弟子としての使命にどれほど挫折し堕落しても、神はペト
ロの罪をすでに赦し、真実のうちにペトロを守り支えてくださっていたのです、敵の口を
通して。マタイによる福音書を分かち合う人々はこのメッセージを受け、力強く賛美する
ことでしょう。“私たちがどんなに罪深くとも、神、われらと共に居ます!”(マタイ1:23)
 本日のマルコによる福音書には、他の福音書にない例え話があります。(4:26~29) 人
には神のご加護、神の恵みがわからない、いや、呪いにさえ見えてしまうことがあるので
しょう。しかしそのような罪人の現実を越えて恵みは働き続け、発展し続け、その人を主
の証し人として立たせてくださるのです。そしてその人の周りではすでに、人知を越えて
神の国建設が始まっているのです。


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by hachimejibap | 2018-05-19 15:30 | メッセージ

命のパン

テーマ 復活
聖書 ヨハネによる福音書 6章48~54節
2018年4月1日    イースター礼拝              牧師 左右田 理

 復活の主と出会うためには、十字架の死を受け入れなければなりません。十字架無き
復活は無いからです。そして実際、復活の主と最初に出会った女性たちは主が葬られ
たところを見つめていました。(マタイ27:61,28:1,9) 主が葬られたところを見つめるとい
うのは、どういう心境でしょうか。さまざまな思いが去来したことでしょう。しかし一つだけ
確かなことがあります。それは愛する者の死を目の当たりにして、自分の無力と向き合
わされる苦しみです。“私のせいで”という思いが後から後から押し寄せてくる苦しみで
す。しかし本日の聖書箇所で主イエスが自らを命のパンとして証ししたのは、こういうこ
とだったのではないでしょうか。「わたしはあなたの“せいで”死ぬわけではない。あなた
の“ために”死ぬのだ」。
 主イエスの言葉は当時の人々の感覚だけでなく、現代の私たちの感覚にも受け入れ
がたいものがあるでしょう。(52節) ただこの聖書箇所を見ると今の私には、ある日本映
画が思い出されるのです。「ブタがいた教室」というタイトルでした。担任の先生が子ども
たちにブタを飼わせ、卒業時に皆で食べよう、と提案します。子どもたちはブタをPちゃん
と呼び、かわいがり育てます。が、やがて決断の時が来ます。クラスの意見は食べる派
と食べない派で真っ二つになるというストーリーです。食べるとは生きることです。そして
生きるとは残酷なことでもあるのです。しかし復活はその生きる残酷さの中に希望を見
出していく力です。それは「私のせいで死んでしまった」という絶望が、「私のために死ん
でくれた」という希望に生まれ変わる瞬間です。「あの人のせいで死んでしまうのか」とい
う絶望も、「あの人のために死んでいくのだ」という希望へと生まれ変わる瞬間です。復
活の主は、自分のために死んで終わるはずだった罪人の命を、他者を生かす十字架の
主の器へと生まれ変わらせてくださる希望の主です。(ヨハネ12:24~26) 
 だとしたら終わりの日の復活(54節)として忘れてはならない出来事は、終わりの日の
再会でしょう。その再会は自分のために死んでくださった主との再会であり、十字架の
主の器として奉仕した相手が生き生きしている姿との再会に他ならないでしょう。私たち
教会はキリストのからだです。終わりの日の復活に向けて共に前進しましょう。命のパ
ンであるキリストを分かち合い、命のパンであるキリストのもとでつながっていきましょう。


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by hachimejibap | 2018-05-19 15:00 | メッセージ

にわとりが鳴く時

テーマ:受難  
聖書:ヨハネ18:15~18、25~27 
2018年3月25日                協力牧師 北島靖士

エルサレムに行きますと鶏鳴教会というところがあります。これは古代
の大祭司の屋敷あとに建てられていると言われています。教会の屋根に
は普通は十字架がついていますが、ここには鶏がついています。言うま
でもなく今日の聖書の箇所にちなんだものです。ほかにもたくさん遺跡
を見てまわりましたが、わたしにはここが一番印象的でした。なぜなら、
先ほどの連梼にもあったように、わたしもペトロと同じようにイエスさ
まを裏切るものだ、ということを思い知らされる場所だからです。わた
しが最初に牧師になった神戸バプテスト教会近くの北野町にはいわゆる
異人館が沢山あって、その何軒かの屋根にも風見鶏がついていました。
その屋根を仰ぐたびに自分がイエスさまに従っているものであるか、
どうかを問われたものでした。
ところで、わたしたちはこの聖書の話を読んで、どうしてこんな話が聖
書の中に載せられているのだろうかと、不思議になります。ペトロはイ
エスさまの弟子の中では頭といわれた人です。カトリック教会ではペト
ロを初代ロ-マ司教、ロ-マ教皇としています。こんなエライ人がイエ
スさまを裏切ったという話です。世の中の権力者と言われる人たちは自
分の過去の暗いところは、恥ずかしいところはできるだけ隠そうとしま
す。小さい時からりっぱな人間だったということになっています。
しかしペトロについてはこんな話が伝わっていたということは、ペトロ
自身が自分のことを告白したからだと考えるほかありません。ではどう
してペトロは告白したのか。それはペトロがわたしたちの信仰にとって、
このことは大変重要だと考えたからだと思うのです。人間はみんな信仰
するという時に、ペトロのような過程を通らざるを得ないのです。終始
一貫、迷いのない信仰生活を続けて、躓かなかった人間は一人もいない
のです。わたしも迷いました。今も迷うことがあります。そのような迷
いの中から悔い改めてもう一度イエスさまの愛に気づくのが信仰です。
躓き倒れる、挫折する。そこからもう一度イエスさまに手をかしてもら
って立ち上がる、それが信仰生活です。
(以上はメッセージの冒頭の部分です。引用聖句は裏面にあります。)

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by hachimejibap | 2018-05-19 14:30 | メッセージ

主の葬りを見つめて

テーマ 復活の希望
聖書 マルコによる福音書 15章42~47節
2018年3月18日    主日礼拝              牧師 左右田 理


 キリストの救いとは何か…そう問われて思い浮かぶのは何でしょうか。病の人を癒した
り、神の国の教えを広めたり、貧しい人と共に歩んだり…思い浮かぶことは人それぞれ
でしょう。しかし救いについて、イエス様ご自身が予想外のお応えをなさった場面のあっ
たことを私たちは忘れてはならないでしょう。高価な香油をイエス様お一人のために使
い切ってしまった女性に対して、なぜ多くの貧しい人々のために有効活用しないのかと
責める人々を尻目に、イエス様は言い放つのです、「この女性は私の埋葬の準備をして
くれた、これこそ世界的に記念すべき福音の出来事だ」、と。(マルコ14:3~9)
 主イエスの十字架と向き合う受難週の始まりを来主日に控えています。本日は主の苦
難と向き合うところに起こされる復活の希望を共に聴きたいと思います。主の苦難は十
字架の金曜日で頂点に達しますが、その苦難の死は弟子たちの中に生き続けたと考え
られます。捕縛されるイエス様を置き去りにして散っていった側近の弟子たちがいまし
た。(聖書教育の本日該当箇所) また主の遺体の引き取りを名乗り出た者や、主が葬
られたところをただ見つめる女性たちもいました。(本日の聖書箇所) 遺体を引き取り
葬った者に関しては国家的謀反人の肩を持ったと見なされ、自らも社会的に葬られてい
った可能性がありました。
 女性たちについて福音書のルカ23:55~56では、葬りの準備に協力し始める姿が描か
れていますが、マタイ27:61、および本日のマルコ15:47に描かれているのは葬られる遺
体をただ見送っている姿です。それは愛する者に今まで注いできた愛もすべて葬り去ら
れた瞬間です。自分の愛の無力を突きつけられ、それと向き合い続けていかなければ
ならない時間でもあります。けれども、この世人の絶望のときこそが福音の世界的記念
であると宣言されたのは、他ならぬイエス様ご自身です。マルコによる福音書において
主の葬りは、人知を越えてすべてが復活に向かう希望のしるしでした。(マルコ4:26~29)
 世においてもっとも良き理解者であったヨハネが捕縛されたときに、主は宣言されま
した、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」。(マルコ1:15) 決し
て難行苦行に身をやつすことが復活の道なのではありません。主の葬りを見つめ、主
の死を思うところに、復活の命に満ちた神の国が人知を越えて来るのです。


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by hachimejibap | 2018-05-19 14:00 | メッセージ

みんなで歌おう!共に話そう!そして一緒に祈ろう! 〒193-0833 東京都八王子市めじろ台2-15-2 ℡.042-663-7036


by hachimejibap