八王子めじろ台バプテスト教会

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テーマ キリストの愛に駆り立てられて  
聖書 マルコ福音書 12章41~44節,14章3~9節
2018年2月25日                          鈴木重義

(1) レプトン二枚をささげた やめもの場合(マルコ12:41~44)
  41節
a)さいせん箱:エルサレム神殿・婦人の庭に置かれた。その受け口は雄羊の角で作られ、
ラッパを縦にした形で、13箱並んでおり、12箱は別々の目的献金のため、1箱だけが自由
献金のため用いられていた。
  42節
b)・レプトン銅貨:ローマ銅貨。1デナリオンの128分の1
・デナリオン:ローマの銀貨。ギリシャ銀貨ドラクメと同価値。
・マタイ20:2以下によると、当時の労働者一日の労賃は1デナリオン。
c)現在の日本の日給にあてはめると。1デナリオンは6,400円と推定され、従ってレプト
 ン(複数ではレプタ)2枚は100円、そしてレプトン1枚は50円に相当する。いずれにし
 ても少額である。
  43節
d)弟子たちを呼び寄せて:主イエスは、やめものひたむきな献金を見て、弟子たちを集め
 て(恐らく)小声で教え、説かれた。彼女と主イエスは外見では行き違っているが、霊
 的には、確かに出会っている。
e)誰よりも沢山入れた:この沢山は、金額・量的な沢山ではない。それは霊的な豊かさに
 裏付けられた質的・信仰的な沢山である。
  (参照)箴言30:8b~9…貧しくもせず、金持ちにもせず わたしのために定められた
 パンで わたしを養ってください。飽き足りれば、裏切り 主など何者か、と言うおそれ
 があります。貧しければ、盗みを働き わたしの神の御名を汚しかねません。
    マタイ6:31 だから、「何を食べようか」「何を飲もうか」「何を着ようか」と
 言って、思い悩むな。
f)・皆は → 大勢の金持ちを意味する。(41節を参照)
・生活費 この語は、いのちの意味をも含む。従って、「生活費を全部入れた」とは、こ
 の献金で〔神に、すべてを委ねる信仰〕を証ししていることになる。
・有り余る中から入れた=ヤコブ5:5 あなたがたは、地上でぜいたくに暮らして、快楽に
 ふけり、屠られる日に備え、自分の心を太らせ…、Ⅰヨハネ2:16 肉の欲・目の欲・生
 活のおごりは…
g)・このやもめは、イエス、特に十字架の救いの恵みを知らないにもかかわらず、ひたむ
 きにささげる信仰を表白した。<ヤハウェ信仰・エルサレム神殿>
  (マタイ6:33  何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。)
(2) ナルドの香油をささげた女性の場合(マルコ14:3~9)
  3節A)・一人の女:マルコでは匿名性を大切にしている。(ルカでは罪深い女、ヨハネ
 ではマリア)
B)・純粋で非常に高価なナルドの香油:インド産、おみなえし科〔かんしょうこう〕の根
  から採取した香油。日常的に香水として用いられる他に、死者の埋葬準備に用いられた。
 ・香油をイエスの頭に注ぎかけた。:この女性の無意識の行為であるがそれはイエスが
  油注がれた者(メシア)であることを証しした。
4節
C) なぜ、こんなに香油を無駄遣いしたのか
  この香油注ぎは、表面しか見えない者にとっては馬鹿げた無駄遣いにしか見えない。こ
  の注いだ香油を換金すれば300デナリオン以上になった筈ならば、それは概ね当時の労
  働者一年分の労賃に相当する。従って、人々が、この油注ぎを無駄遣いと思って憤慨す
  るのは当然だろう。
6節
D) なぜ、この人を困らせるのか
  この女性は、香油注ぎの意義を説明することができず、困惑して立ち往生してしまった
  のだろう。然し、主イエスは彼女のひたむきな信仰に貴重な意味づけをして、彼女を、
  かけがえのない証し人として評価してくださった。
7節
E) しかし、わたしはいつも一緒にいるわけではない
 貧しい人々、また社会的弱者の人たちに寄り添うことは、日常的奉仕の課題である。然し
 イエス・キリストの十字架のみわざは人類救済の唯一の決定的な、歴史的な時である。
8節
F) この人はできるかぎりのことをした。つまり前もってわたしの体に香油を注ぎ、埋葬の
 準備をしてくれた。
 彼女の香油注ぎは、一つにはメシア(油注がれた者)を証ししているのだが、二つには、
 より大切な、復活の主の十字架死を予見した結果となった。そこで、主イエスは彼女の
 「ひたむきな信仰」を評価し、主イエス御自身の十字架のみわざに付随する貴重な奉仕
 である旨、確言した。

(3) ひとすじの信仰
     Ⅱコリント5:13~14 わたしたちが正気でないとするなら、それは神のためで
 あったし、正気であるなら、それはあなたがたのためです。なぜなら、キリストの愛が
 わたしたちを駆り立てているからです。


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by hachimejibap | 2018-02-27 17:53 | メッセージ

心を入れ替える

テーマ 捧げる(奉仕、献金)
聖書 マタイによる福音書 18章1~5節
2018年2月4日    主日礼拝            牧師 左右田 理

 2月はスチュワード月間です。捧げる、ということについて共に御言葉に聴きましょう。
礼拝、奉仕、献金…しかし高齢化社会を迎えた現代日本には、さまざまな“衰え”による
無力感が蔓延しているのも現実です。今の時代に生きる私たちが、神さまのために何
を、どのように捧げたら良いのか、不安が過ぎってもおかしくないと思います。天国では
誰が一番偉いのか(1節)…この問いを発した弟子たちも、ひょっとしたら競争心や野心
ではなく(20:20~28)、日常的に自らの弱さ、至らなさと直面していたがゆえに、何をどのよ
うに捧げれば良いのか途方に暮れていたのかも知れません。(17:14~23)
 だとしたらイエス様のお応えは、無力感に苛まれる弟子たちを励ます言葉になるでしょ
う。「…心を入れ替えて子どものようにならなければ天の国に入れない。自分を低くして、
この子どものようになる人が天の国でいちばん偉い」。(3~4節) とはいえ、もし、“してあ
げた”記憶はゼロで、“してもらった”ことばかり、という子どものような思い(心)が天の国
での豊かさならば、捧げれば捧げるほど“自分がしてあげた”感覚へと誘惑され、天の
国での豊かさから離れてしまわないでしょうか?
 かつて“衰え”を前向きに受け取る考え方の一つとして、“忘却力”という言葉が流行っ
たことがありました。イヤなことを忘れる、ということのようです。少し違いますが、本日
の聖書箇所であるマタイによる福音書にも、“忘れてしまう”人々がいます。イエス様の
ために“捧げたことを忘れた”だけでなく、自分の奉仕に先だって相手の中に生きて働い
ておられたイエス様と出会った人たちです。(マタイ25:37~40) これは“自分が”捧げたとい
う自覚(記憶)を、すべては神さま、イエス様の“おかげ”という感謝、礼拝賛美に書き換え
てえてもらった人たちだったのではないでしょうか。(ヨハネ黙示録4:10、マタイ25:20)
 “捧げる”とは捧げたことを忘れることです。捧げ尽くし、忘れ尽くすなら、“してあ
げた”という思い(記憶)から解放され、子どものように、「イエス様の“おかげ”」とい
う感謝、賛美で埋め尽くされることでしょう。そこはすでに天の国です。その人こそ天の
国で最も偉いのです。「聖霊様、どうか私たちの記憶のすべてを書き直してください」。
…『天におられるわたしたちの父よ、御名が崇められますように。御国が来ますように。
御心が行われますように、天におけるように地の上にも。』


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by hachimejibap | 2018-02-27 17:50 | メッセージ

五つのパンと二匹の魚

テーマ:イエスの力
聖書: ヨハネによる福音書6:1~15  
2018年1 月28 日                協力牧師 北島靖士

はじめにわたしが、ずっと以前に書きました文章を紹介したいと思います。
西洋なしの形をしたガリラヤ湖の北端、フィリポ・カイサリアに源を発したヨルダン川が
流れ込むあたりの丘の上に今日あまり大きくはないが、白い八角形をした教会堂が立って
いる。この教会堂のまわりを廻っているバルコニーに立つと、目の下に青いガリラヤ湖が
さざ波を立てていて足元から涼しい風が吹き上げてくる。ここがイエスのマタイ5~8章の
山上の説教がなされた場所だと伝えられている。そしてその背後にある草が生えているな
だらかな斜面、こここそあの五千人に対する給食の舞台なのである。イエスの恵みの豊か
さを覚える時、あまり、木や草が見あらたらず荒野が多いイスラエルの中で、特にみどり
豊かな丘が物語の舞台とされたということはうなずけることである。
これはわたしがイスラエル旅行をした直後にその印象を書き止めたものです。しかしこの
風景は今も変わっていないようです。
ガリラヤ湖の向こう岸のユリウス・ベッサイダの村へ行こうとされたイエスさまには大勢
の群衆が従って行きました。イエスさまが病人たちになさった奇跡を見て、あのような働
きが自分たちの上にも起こるようにと期待していたのでしょう。大多数の人が病気を持っ
ていたのでしょう。イエスさまは丘に登られます。弟子達もイエスさまと共に座につきま
した。見下ろすと群衆もまた主のみそば近くへとひしめきあうように丘を登ってくるのが
見えます。
この時イエスさまは病気も癒されたでしょうが、マルコによる福音書を見ると「大勢の群
衆を見て、飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ、いろいろと教え始められた。」
とあります。これが、マタイ5~8章の山上の説教です。
(以上はメッセージの冒頭部分です。)


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by hachimejibap | 2018-02-27 17:48 | メッセージ

キリストに結ばれて

テーマ キリストの交わり
聖書 使徒言行録コリントの信徒への手紙 二 2章14~17節
2018年1月21日    主日礼拝            牧師 左右田 理

 クリスチャンの道は神さまの光に照らし出されてまっすぐ歩むことができる…教会学校
に通っていた小学生時代に耳にしたことです。しかし本日の聖書箇所の事情(1章)として
あの大伝道者パウロの立てた伝道計画が変更を余儀なくされていたようです。神さまに
救われ、また守られているなら、計画の変更など起こるはずないのではないか…コリン
ト教会に渦巻き始めていたパウロへの疑問だったのではないでしょうか。ところがパウ
ロはそのような疑問を一蹴するかのように力強く宣言します。コリント教会訪問が遅れた
のは諸問題に対して性急な裁きをしない、という思いやりの決意の表れに過ぎない、と。
(1:23,2:1参照) 果たしてこれは、パウロが開き直って自己推薦を始めているのでしょう
か?(3:1) お互いの言い分がどこまでも平行線をたどっていくように見えるとき、人は途
方に暮れます。しかし教会の交わりはそのようなときにも、絶えずキリストに立ち返るこ
とができるのです。
 本日の聖書箇所でパウロは宣言します、私たちはいつもキリストの勝利の行進に連な
っていると。キリストの十字架は、律法など諸々の規定による証書によって社会的に不
利な評価を受けた人々に連なり、その評価を破棄して取り除きました。キリストの勝利
は、世の権威(比較優劣、合否)、武装の愚かさを明らかにしてくれました。(コロサイ2:14~
15) 教会は社会的に不利な評価を浴びせられている人々と出会い、交わり、連なるこ
とによってキリストの勝利の行進に連なり、命から命に至らせる香りを世に解き放って
いくのです。しかし世の権威に執着し、武装する人々にとってそれは、死から死に至ら
せる香りであるかのように誤解し、教会を裁き、また迫害するのです。
 けれども教会は裁き返すことはありません。そもそも報酬、見返りを求めていないか
らです。ただキリストに結ばれた交わりを求めていくからです。(17節) それでも教会もま
た道を踏み外すことがあります。社会的に不利な評価を浴びせられている人々を避けて
しまった負い目は、キリスト教会2000年の歩みにもあります。裁く側へと誘惑され世の権
威、武装に堕してしまったときがあります。教会は、ひたすら悔い改めの交わりです。
「わたしたちの負い目を赦してください、わたしたちも自分に負い目のある人を赦しまし
 たように。わたしたちを誘惑に遭わせず、悪い者から救ってください。」(マタイ6:12~13)


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by hachimejibap | 2018-02-27 17:47 | メッセージ

主の名によって

テーマ 教会の成長
聖書 使徒言行録 9章26~31節
2018年1月14日    主日礼拝            牧師 左右田 理

 新約聖書には初代教会が受けてきた迫害の厳しさも物語られています。まさに命がけ
の教会活動でした。しかし彼らは内に こもることなく伝道に邁進しました。「一人でも多く
の人たちがまことの救い主イエス様と出会えますように」…人々がイエス様と出会うため
に、教会は人々との出会いを喜びました。しかし本日の聖書箇所を見ますと、そのよう
な彼らでも誰に対しても笑顔で出会えたわけではないことがわかります。サウロは教会
に対する迫害者でした。つい最近までクリスチャンの命を奪う急先鋒でした。ところが い
きなり「君たちの仲間だ」と迫ってくるのです。こんな場面で誰が前向きな態度で迎えるこ
とができましょう。
 ところが ここにバルナバという人物が登場します。バルナバという名には「慰めの子」
という意味がありました。(使徒4:36) バルナバは教会活動の中核を担っていた使徒た
ちのもとにまでサウロを案内し、引き合わせます。サウロがスパイでも暗殺者でもないと
いう根拠は イエスの言葉を聴いたサウロの証し、そしてそのイエスの言葉を告げ広め
たサウロの生き様でした。(27節) イエス・キリストの言葉を共有するなら、それまでの敵
対関係、損害を度外視して希望をもって迎える、そこに教会の成長がありました。さらに
は、これからの損害も度外視して支える、そこに教会の成長がありました。サウロを迫
害者から匿い、逃がした後、迫害の矛先は教会に向いたことでしょう。(30節) 教会は自
分たちの命を奪った者の命を支えることによって、後の大伝道者パウロを迎えていたの
です。
 教会に保たれる平和は、和解の福音です。天と地ほどもある開き、隔たりを取り壊し
てあらゆる命を一つにつなげる十字架の力です。そこでは あらゆる合否判定基準、比
較優劣の規定が廃棄され、差別した者、排除した者が、差別された者、排除された者と
共に、主の十字架のもとで一つにされるのです。(エフェソ2:14~16) 教会は律法のゆえに
失格者の群れとしてサウロたちから迫害されましたが、その迫害者サウロをキリストの
言葉のゆえに受け入れたことを通して、大伝道者パウロを世に派遣することとなりまし
た。出会う命を主の名によって受け入れることによって、教会は人知を越えて発展し、
成長していくのです。(31節)


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by hachimejibap | 2018-02-27 17:46 | メッセージ

勧めを聞き入れた民

テーマ 神の民
聖書 出エジプト記 18章24~27節
2018年1月7日    新年礼拝           牧師 左右田 理

 新年に際し教会形成のルーツをたどりたいと思い、本日の聖書箇所と出会いました。
旧約時代の神の民イスラエルがどのように共同体を組織化していったのか…ところが
私に届いたメッセージは組織化の手引きといったものではなく、共同体形成を導いたの
は誰か、という問いでした。並行記事である申命記1:9~15では、民の形成を導いたのは
民のリーダーであるモーセ、という至極当たり前の描写になっているのですが、本日の
聖書箇所によればリーダーであるモーセが、ミディアン人である舅(18:1)の指示に従った
結果として、神の民イスラエルがその共同体を形成できたことになります。
 昨年の礼拝メッセージで、申命記がモーセの時代よりはるか後代、イスラエル王国が
滅びの危機を脱するためにもがいていた時代の作品だった可能性を指摘しましたが、
もう一つ王国時代の一つの常識として、ミディアン人はイスラエルの歴史的仇役だったと
いう事実があげられます。(イザヤ9:3、士師7:15) 国家の建て直しが図られるとき、生粋
の血筋の人物に誉れを帰するような、いわゆる愛国運動的物語が量産され、仇役に花
を持たせるような物語など焚書にされそうなものです。しかし そうはならず、本日の聖書
箇所が神の言葉として今の私たちの手元にまで届いているのは不思議です。じつは、
ここにこそ神の国の神の国たるゆえん、この世の国と異なる神の国の本質がありはし
ないでしょうか。神の国としての共同体が形成されるためには、身内、仲間内の、自画
自賛的な物語に終始することなく、他者の見解、自分と異なる見解に耳を開くときにこそ
恵みと出会ったという物語もまた必要不可欠だったのではないでしょうか。
 並行記事である申命記は、各部隊の隊長がリーダーのモーセを支えることによって神
の国の共同体が形成されたという点に集中しています。しかし本日の聖書箇所は、各隊
長が異邦人(よそ者)にも広く耳を開くという潜在的使命を負っていくところに神の国の共
同体が形成されたことをも証ししてくれているのではないでしょうか。ややもすれば この
世の国は外界との接触を制限し“変わらない”ことで自らを保とうとします。しかし異見を
喜び“変わる”ところにこそ、神の国は訪れるのです。
「わたしたちは、キリストの体として世の力から独立し、キリストの平和を祈り求め、(八王
子めじろ台バプテスト教会の契約)」…「御国が来ますように。(主の祈り)」


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by hachimejibap | 2018-02-27 17:45 | メッセージ

神の民の誉れ

テーマ 新生
聖書 ルカによる福音書 2章25~32節
2017年12月24日    クリスマス礼拝           牧師 左右田 理

 一生のお願い…子どもの頃、一時期流行した決めぜりふ…いや、慣用句でした。相手
を拝み倒すようにして願いをかなえようとする仕草。しかし翌日には願ったこと自体忘れ
てしまったり…それにしても“一生のお願い”というからには、それを最後に願い事は終
わったはずです。あの頃の自分たちは、いったい何人分の人生を生きたのだろうか、な
どと皮肉な思いも過ぎります。しかし本日の聖書箇所に登場する老人シメオンは、そう
いう ふざけた願いに生きた人ではありませんでした。(26~27節) 何より、自分個人の都
合不都合について願う人ではなく、イスラエル全体の慰めを願う人でした。そして民全体
の慰めのために現れる救い主と出会うまで死なない、という聖霊によるお告げに生きた
人でした。そして晩年までかなえられなかった願いにひたすら生きた人でした。
 シメオンにとって、まさに一生のお願いです。どのようなかたちで願いがかなったので
しょうか。まず、出会った救い主は赤ん坊でした。新生児、海のものとも山のものとも…
ローマ帝国による世界大的な支配、抑圧に対する民の慰めは、いつの日か。民が慰め
を受けているその場に自分は立ち会えないだろう…しかしシメオンは言います、「主よ、
今こそあなたは、お言葉どおり この僕を安らかに去らせてくださいます。わたしはこの
目であなたの救いを見たからです。」(29~30節) 救い主との出会い、それは信仰の出来
事です。(ヘブライ11:1) 社会的な証拠や保障に生きる人生から、信仰と希望に生きる人
生へと生まれ変わる瞬間です。この生まれ変わり(新生)こそが、神の民の誉れです。
 シメオンは神の民の誉れを見ました。神の民の誉れは永遠の恵み(1コリント13:13)と出
会う出来事でした。信仰、希望だけでなく、愛に生きる人生でした。「異邦人を照らす啓
示の光、あなたの民イスラエルの誉れです。」(32節) 新約聖書の時代、異邦人はイス
ラエルの歴史において根深いところで天敵でした。天敵にも救いの啓示の光が及ぶと
きときこそ、神の民の誉れの成就でした。(マタイ5:43~44、ルカ6:27~29) このクリスマス、シ
メオンのように神の民の誉れを見ましょう。全身で受けましょう。新年の歩みが神の民
の誉れで満たされますように。
「御国が来ますように。御心が行われますように、天におけるように地の上にも。わたし
たちに必要な糧を今日与えてください。」(マタイ6:10~11)


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by hachimejibap | 2018-02-27 17:44 | メッセージ

大きな喜び

テーマ 新生
聖書 ルカによる福音書 2章8~10節
2017年12月23日    クリスマス・イブ礼拝        牧師 左右田 理

 世界で最初のクリスマス、それは植民地に科せられた人口調査の時期でした。侵略
者、支配者から役に立つ人間と見なされるかどうかは、その後の社会生活を大きく左右
します。身重のマリアが危険な旅路を経なければならなかったのも、マリア自身、そして
胎児イエスの将来、その命が掛かっていたからでしょう。ところが侵略者のその命令に
従うことなく野宿していた人たちがいました。羊飼いたちです。呑気で良いご身分だった
のでしょうか?そうは思えません。ものの数にも入っていないということは、侵略者のご
機嫌を損じた際、交渉の余地も無ければ、恩赦の対象にもまったくならなかったというこ
とです。だとすれば羊飼いたちのもとに権威者が出向くということは排除、抹殺される危
険性も高かったと言えましょう。羊飼いたちが天使と出会ったときの恐怖は(9節)、彼ら
の社会的無力さとも関係していたのではないでしょうか。
 しかし天使は喜びを宣言します。社会的に無力な者たち、底辺に位置する者たちこそ
が、民全体に及ぶ大きな喜びをもたらす神の器であると。(10節) これは無力な者たち
が有力になる、ということとは限りません。実際、天使のお告げに従った羊飼いたちは
天から降りてこられた神の御子、赤ん坊イエスと出会いますが、その後、何か社会的な
地位や名誉が向上したという歴史的痕跡はまったくありません。では なぜ、民全体に及
ぶほどの大きな喜びが、まず羊飼いたちに届けられたのでしょうか。それは社会の本当
の喜びは、社会の真ん中から広がらない、というメッセージではないでしょうか。社会の
片隅、社会の周辺から真ん中に届いてくる喜びこそが“本物の”喜びだというメッセージ
だったのではないでしょうか。これこそクリスマスの真理、神の真理に違いありません。
そしてこの真理に生きる群れこそがキリスト教会なのです。(1コリント12:21~27)
 クリスマスの喜びは、当時、世界の中央に居座る権力者、ローマ皇帝に向かうことな
く、まず社会の周辺、片隅を放浪していた羊飼いたちに訪れました。そして社会的高み
へ昇っていく先で陣取っている皇帝に満ちることなく、家畜小屋のエサ箱へ産み落とされ
た赤ん坊に満たされたのです。私たちは今、クリスマスの喜びの方向へ共に目を向けま
しょう。その方向へ共に歩み出しましょう。やがて目の前に、そして全身、全生活に新た
な喜びの光が満ちあふれてくるに違いありません。(ルカ11:34)


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by hachimejibap | 2018-02-27 17:42 | メッセージ

心の底から新たにされて

テーマ 新生
聖書 エフェソの信徒への手紙 4章20~25節
2017年12月17日    アドベント(待降節)          牧師 左右田 理

 あなたがたはキリストをこのように学んだのではありません(20節)…では、どのように
学んだのでしょうか。それは、キリストは降りてこられた方だったということです。(10節)
そして降りてきたことによってすべてが満たされたということです。そして、そのすべての
満たしとは、天に昇ることではなく、天よりもさらに高く昇ることでした。降りる方が昇るよ
りも高かった…まるで なぞなぞのようです。しかし歴史的教会は、家畜小屋のエサ箱に
生まれた赤ん坊イエスこそ、天から降りてこられた神の御子だったというクリスマス・メッ
セージを世に告げ広めてきたのです。私たち教会も このクリスマスに、天から降りてき
たからこそ、天よりも高くなったという神の不思議と向き合い、またそのような神の不思
議を多くの人々と分かち合うよう、招かれているのではないでしょうか。
 本日の聖書箇所はその直前で、異邦人を倫理的に愚か者として断罪しているように
見えます。(17~19節) エフェソの信徒への手紙1:1にはこの手紙がパウロの作であると
記されてはいますが、現代の聖書学的見解としては、異邦人伝道に専心してきたパウロ
が異邦人を悪し様に書くだろうか、と問われています。いずれにせよ倫理的優劣を盾に
取った批判は上昇志向への“誘惑”でしかありません。私たちが聴くべきは、真理がイエ
ス様の内にある、ということです。(21節) 当時の社会で低い評価を浴びせられていた徴
税人や遊女と呼ばれる人々と共に生きようとしたイエス様の内にこそ真理がある、という
ことです。社会の低みに降りることによって天よりも高くなったお方の内にこそ、真理が
あるということです。だとしたら放縦、ふしだら(19節)、情欲、滅びに向かう古い人(22節)、
それらは社会的経済的安定に あぐらをかこうとするような生き様、社会の底辺で苦しむ
人々に無関心な生き様を指摘しているのではないでしょうか。
 このアドベント(待降節)、私たちは神にかたどって造られた新しい人を身に着けるその
時を待ち望もうではありませんか。(24節、フィリピ2:6~11) 赤ん坊イエスが私たちの魂の
底にその霊的産声をあげるとき、私たちは新しい人を着ることになるでしょう。来主日ク
リスマス礼拝に続く祝会において、新しい人として多くの人々と食卓を囲もうではありま
せんか。(ルカ14:12~14) 「…御心が行われますように、天におけるように地の上にも。わ
たしたちに必要な糧を今日与えてください。」(マタイ6:10~11)


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by hachimejibap | 2018-02-27 17:39 | メッセージ

霊的な命

テーマ 新生
聖書 コリントの信徒への手紙 二 3章1~6節
2017年12月10日    アドベント(待降節)        牧師 左右田 理
 
 待降節…私たちは待ち望みます。主のご降誕を祝うクリスマスに向かって。しかし待ち
望むということは単なる待ちぼうけ、果報は寝て待てではありません。逆です。絶えず目
を覚ましているということです。それは神さまが今、何を私たちに期待してくださっている
のか、注意し続けるということでもあります。(マルコ13:34~37) 言い方を変えれば、神さま
を待ち望むということは、神さまが私たちの身の上について待ち望んでくださっている
“何か”があるということを信じ、そしてその“何か”を求め、探し、たたき続ける日々で
す。(マタイ6:31、7:7)
 世界で最初のクリスマス、その喜びの知らせは、まず羊飼いたちに届きました。(ルカ2:
8~10,14) それは旧約聖書に証しされ、長きにわたって待ち望まれてきた救いでした。そ
して天使のお告げどおりに羊飼いたちは赤ん坊イエスと出会います。しかしそれだから
といって、羊飼いたちの社会的待遇に何か向上があったかのような聖書記述はありま
せん。赤ん坊イエスの誕生が原因で、その晩に、誰かが何かを手に入れたという歴史
的痕跡もありません。しかし羊飼いたちは神の期待に応えたのです。そして神の期待に
応えた生き様として、多くの人たちの心に救いの言葉が刻み始められたのです。(ルカ2:
17~19) ですから主を待ち望む先に何か社会的御利益が保障されているわけではあり
ません。主を待ち望む先にあるのは、神さまが私たちの身の上に待ち望んでくださって
いる“何か”が起こされるという恵みです。そして恵みであるその“何か”をひたすら待ち
望むその生き様こそが、人々の心に救いの言葉を広く刻んでいくのです。
 本日の聖書箇所で伝道者パウロは宣言します、「文字は人を殺す」と。パウロがここで
批判している“文字”とは、いわゆる社会的推薦状、社会的評価です。推薦される人、評
価される人の背後には推薦されない人、評価されない人が無数に生み出されてしまいま
す。しかしキリストの救いの契約は、人々に不思議な思いを抱かせ、キリストによる“何
か”へ広く招くのです。そうです、人知を越えた“何か”を待ち望んでいる教会の生き様を
通して、クリスマスを待ち望む礼拝を捧げている今の私たちの生き様を通して、すでにキ
リストの不思議が、救いへの招きが豊かに出現しているのです。
「…御心が行われますように、天におけるように地の上にも。」(マタイ6:10)
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by hachimejibap | 2018-02-27 17:37 | メッセージ

みんなで歌おう!共に話そう!そして一緒に祈ろう! 〒193-0833 東京都八王子市めじろ台2-15-2 ℡.042-663-7036


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