八王子めじろ台バプテスト教会

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クリスマス 2017

メリー・クリスマス!
今年も皆様のお越しをお待ちしています。

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by hachimejibap | 2017-12-07 12:50 | 教会からのお知らせ

律法からの解放

テーマ 希望
聖書 ローマの信徒への手紙 7章5~6節
2017年12月3日    アドベント(待降節)        牧師 左右田 理

 処女降誕の物語(マタイ1:18~19)は歴史的にはファンタジック(幻想的)に語り継がれてき
ました。しかし当のマリアにとっては命がけの危険でした。イスラエルの律法文化には命
に関わる性差別があったからです。たとえば男には婚前の女の不実を訴える権利があ
りました。訴えが認められれば女は死刑です。ところが女には男の婚前の不実を訴える
権利条項は無く、たとえ男の偽証が発覚しても男は罰せられはしても殺されず、女は一
生その男との結婚を強いられたと考えられるのです。(申命記22:18~21)
 そもそもイエス様降誕の物語には系図がともない(マタイ1章、ルカ4章)、旧約における神
の救いの約束は“人知を越えた”恵みとしてイエス様の身の上に継承され、成就したこと
を証しする意図があったと考えられます。ところがキリスト教会2000年の歴史において、
いつの間にか救いの約束の継承に関する“人知を越えた”確かさが、マリアの純潔神話
にすり替えられ、律法文化を彷彿させるような性差別による抑圧を世にもたらしてきてし
まったところはないでしょうか。男には「男らしくない」と裁き、女には「女らしくない」
と裁き、男とも女とも一括りにできない人を病気扱いするような抑圧的言動に迎合、もし
くは黙認、容認しておきながら、どうして“人知を越えた”救いを証しできるでしょうか。
 キリスト教会にはバプテスマという入信儀式があります。水に沈められることによって
イエス様と共に葬られ、水からあがることによってイエス様の復活の命に与るという希望
が込められています。もしこれが単なる通過儀礼なら復活の命を受けた信者とまだ受け
ていない未信者という差別、抑圧をもたらす新たな律法文化でしかないでしょう。しかし
バプテスマはあらゆる差別を乗り越える使命を受ける出来事であり、キリストがあらゆる
差別、抑圧から解放してくださるという希望を受ける出来事です。私たちキリスト教会は
このキリストの希望に向け一致し、奉仕するよう招かれた群れです。(ガラテヤ3:27~28)
 主の食卓は徴税人や罪人として社会的に差別され、排除されていた人たちと共に囲
む食卓でした。月の第一主日の礼拝式で執り行われる主の晩餐式はそういう主の食卓
の象徴です。だとしたら処女降誕もまた後生に純潔を強いる象徴ではなく、差別され、
抑圧されている者たちこそ神の国の食卓に招かれているという希望だったのではない
でしょうか。「わたしたちに必要な糧を今日与えてください。」(マタイ6:11)


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by hachimejibap | 2017-12-07 12:40 | メッセージ

大胆に語る

テーマ:伝道
聖書: 使徒言行録4:5~20  
2017年11 月26 日                協力牧師 北島靖士

 昨年末から今年にかけて三回程、府中教会に赴任された長尾なつみ先生の「按手礼準
備会」に奉仕しました。3月19日の按手礼拝においては府中教会が1983年に採択された
「信仰宣言」を教会員のみなさんが起立して唱和されました。この信仰宣言には二つの
特徴があります。その一つは「主の晩さん」にすべての人が与ることが出来るというこ
とを日本バプテスト連盟の中ではじめて言い表した信仰告白であるということです。
もう一つはこの信仰宣言の中に
 「わたしたちは主にあるただの人・ただの群れとして霊とまことをもって恵みの召命
に応え、隣人に仕えたいと願う。」
ということばがあるということです。この「ただの人・ただの群れ」と言う言葉はめず
らしいので、今回も助言会議の席上で質問がありました。
 この言葉は今読みました使徒言行録4:13の「無学な普通の人」の口語訳です。しかし
「ただの人」という言葉がわたしは大好きです。この時にただの人と呼ばれていたのは
ペトロとヨハネでした。彼らはもともとガリラヤ湖の漁師でしたからただの人以外の何
ものでもありません。何の権力も地位、財産もないただの人です。それに引き替え、彼
らを取り囲んでいたのは5節にあるように、議員、長老、律法学者たちでありました。
当時のユダヤの権力者達であります。そしてさらに、この場を支配していたのは大祭司
アンナス、カイアファ、ヨハネでした。また大祭司の一族も居たとあります。どうして
この時に祭司が出てくるかというと当時、病気を癒す者は祭司であったからです。旧約
聖書のレビ記よるとでは病気が癒やされたどうかを判断するのは祭司の権限でありまし
た。
(以上はメッセージの冒頭部分です。引用聖句は裏面にあります。)


●トーマス・ヘルウイズの国王ジェームズ一世に対する献辞
 聴きたまえ、わが王よ。貧しき者の訴えを軽んじることなく、その嘆きをみ前に至
らしめてください。王は死ぬべき人間であって、神ではありません。ゆえに、王は臣
民の不滅の魂に対して法令を作って魂を服従させたり、彼らの霊的主となる力はない
のです。もし王が霊的主となる法律をつくる権威をもつならば、王は不死の神となり、
もはや死ぬべき人間ではなくなります。…王は神に従うべきであり、王の貧しき臣民
につらく当たることがありませんように。…
             ロンドン近郊のトマス・ヘルウイス(1612年)


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by hachimejibap | 2017-12-07 12:30 | メッセージ

寄留者と共に

テーマ 命の主
聖書 申命記 26章1~15節
2017年11月19日    主日礼拝              牧師 左右田 理

 先々主日(11/5)から、荒れ野の旅路を描いた申命記が じつは南ユダ王国の宗教改
革時期の執筆であるという現代の聖書学的視点でメッセージに取り組んできています。
(列王紀下22:13) 本日は宗教改革後に結局 王国が滅びてしまった理由をも意識したい
と思います。本日の聖書箇所にも荒れ野の旅路のゴールである約束の地侵入時の心
得、神の国の心得が記されています。神の国の心得…それはまず、捧げもののとき(神
礼拝のとき)、寄留者(よそ者)として苦しんだときの自覚を忘れないということです。
約束の地に“入った”(3節)ときに至るまでの痛み、うめき、叫び…それらをくり返し思
い起こし告白しつつ感謝の神礼拝を捧げるのです。(6~9節) 
 南ユダ王国が滅びの危機に瀕していたとき、神の名を冠する礼拝(堂)に依り頼んで自
らを励ましていた人々に対して預言者エレミヤは、社会的生産性において取り残された
人々を忘れたままの礼拝にこそ、神の怒りの矛先が向いていることを訴えました。(エレミ
ヤ7:4~8) 国益に対する貢献度をそのまま人としての存在価値にあてはめるような国家、
そのような行政を是認してしまうような社会、そしてそのような行政に無関心な礼拝(堂)
が滅ぼされていく明日が、エレミヤの心に、そして申命記の制作者の心にも焼き付けら
れ、突きつけられていたのでしょう。
 ですから預言者エレミヤと同じように申命記の制作者は、南ユダ王国が悔い改めるこ
とを願い、荒れ野の旅路に宗教改革の手本を見出そうとしたのではないでしょうか。そし
て申命記は神の救いに満ちた礼拝をこのように描写します。「あなたがたが収穫物など
社会的収入を捧げていくところにその礼拝は起こされる。しかも寄留者(よそ者)などそ
の社会、その共同体に貢献するあてのない者と共に神の救いを喜び祝う食卓づくりの
ために捧げていくところ
にこそ起こされる」と。(11~13節) ここにこそ神の国の秩序があ
るのです。(「八王子めじろ台バプテスト教会の契約」参照)
 主の十字架は証しします。儲かるあての見えない、貧しさ、乏しさの中に約束された豊
かさこそが永遠の命の豊かさ、神の国の豊かさです。それは一見、災いにしか見えない
ものの中から現れ出る復活の命の幸いです。第63回定期総会で承認された日本バプテ
スト連盟の2018年度活動方針を導く聖句エレミヤ書29:11を私たちも信じましょう。


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by hachimejibap | 2017-12-07 12:20 | メッセージ

主を畏れること

テーマ 命の主
聖書 申命記 8章11~20節
2017年11月12日    主日礼拝          牧師 左右田 理

 本日の聖書箇所は、旧約における礼拝、捧げ物の場面です。とくに申命記は荒れ野
の民が約束の地へ侵入する直前のような描写設定になっていますから、本日の聖書箇
所も約束の地、神の国の心得として聴くことが大切でしょう。なお先主日礼拝メッセージ
でも申しましたように、今の聖書学的見解として申命記の執筆背景には、神の国イスラ
エル分裂後、北イスラエル王国の滅びを目の当たりにした南ユダ王国が、バビロン捕
囚前に宗教改革にチャレンジした姿があったと考えられます。(列王紀下22:13、歴代誌
下34:21) 誰と共に礼拝を捧げ、誰と共に生かされていくのか…命の主の招きに心新た
に応えましょう。
 キリスト教会の歴史には“十分の一”献金という概念がありますが、本日の聖書箇所
にも収穫物の“十分の一”を捧げることが規定として掲げられています。しかし、ここで
の“十分の一”は民数記18:21の規定とは異なっています。民数記の“十分の一”は、宗
教活動に従事する職人「レビ人」への報酬のためであるのに対して、本日の聖書箇所
では、食卓を囲む顔ぶれの広がりのためであることがわかります。ですから私たちキリ
スト教会も十分の一献金を心するごとに、献金自体はもちろんのこと、礼拝全体につい
ても、誰と共に生きるために捧げているのかが問われているのです。
 民数記18章においては いわゆる聖職者に匹敵する存在として描かれていたレビ人
が、本日の聖書箇所では社会的弱者の仲間入りです。申命記は南ユダ王国が滅びる
原因に宗教的堕落を見ていたのでしょう。家内安全、商売繁盛、国体護持のために命
の比較優劣、社会的差別排除が横行することは古今東西珍しくありません。同様に宗
教界でも見返りを期待できる否か、信者が優遇されるか否かによって宗教、奉仕者の
値踏みが横行してしまうことも珍しくありません。しかし永遠の命の宗教、復活の宗教は
この世の報いから解放されなければならないのです。(ルカ14:12~14) 
 自分の捧げ物が自分のためになるのかどうか、礼拝を捧げることが自分のためにな
るのかどうか…報いに執着させようとする誘惑の尽きない世で、私たちは十字架の主
に贖われた命として全身全霊を礼拝に捧げましょう。
「わたしたちを誘惑にあわせず 悪い者から救ってください。」(マタイ6:13)


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by hachimejibap | 2017-12-07 12:10 | メッセージ

ついには幸福にするため

テーマ 命の主
聖書 申命記 8章11~20節
2017年11月5日    主日礼拝             牧師 左右田 理


 聖書が証しする神と異なる“他の神々”(19節)とはなんでしょうか。本日の聖書箇所か
らは“獲得、所有の神々”が見えてくるのではないでしょうか。(17節) 今の聖書学的見
解として申命記の執筆背景には、神の国イスラエル分裂後、北イスラエル王国の滅び
を目の当たりにした南ユダ王国が、バビロン捕囚前に宗教改革にチャレンジした姿が
あったと考えられます。(列王紀下22:13、歴代誌下34:21) そして今月の日本バプテスト
連盟第63回定期総会では、「2018年度に向けた連盟活動方針」(案)がバビロン捕囚か
らの解放を意識しつつ練られます。私たちの教会も本日、戦後日本の資本主義社会を
支配してきた“獲得、所有”中心の発想からの方向転換(パラダイム・シフト)を聴きましょう。
 イスラエルの歴史において警戒されてきた土着の神々の中で、その代名詞とも言うべ
き“バアル”は嵐と慈雨の神、そして豊作や子宝を司る神としても崇められていたようで
す。つまりバアル神は、社会的資産の“獲得、所有”を象徴する存在でもあったのでしょ
う。ただここで注意しなければならないことは、申命記の執筆背景にバビロニア帝国の
侵略、支配があったとすれば、ただ個々人が“獲得、所有”を放棄すれば済むというよう
な消極的な話ではないはずです。“獲得、所有”中心の発想が転換されていくためには
神の救いを皆が忘れないようにしなくてはならないということです。(14節)
 救い主は人知を越えた幸いの食卓へ招く神です。人知を越えたその旅路は、平穏無
事な日常が脅かされる苦しい旅路でした。(15~16節) 私たちは忘れないようにしましょ
う。もし“獲得、所有”を放棄したところで、“獲得、所有”への執着心(飢え渇き)が残
っているなら、あいかわらず“バアル”の支配下です。大切なことは、苦しみのただ中に
あったときこそ、“獲得、所有”などで おごる心(14,17節)からまったく解放されてい
たことに気づくことです。十字架の苦難と向き合う場に踏みとどまるときこそ復活の命を
受けるということに気づくことです。本当に忘れないということは ただの記憶ではありま
せん。気づくことです。私たちは本日も主の食卓である主の晩餐式を共にします。苦しみ
と出会う明日へと遣わされていくときこそ、幸いの食卓へ向かっていることに気づくため
に。(詩編23:5) 「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたし
たち救われる者には神の力です。」(コリントの信徒への手紙 一 1章18節)



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by hachimejibap | 2017-12-07 12:00 | メッセージ

みんなで歌おう!共に話そう!そして一緒に祈ろう! 〒193-0833 東京都八王子市めじろ台2-15-2 ℡.042-663-7036


by hachimejibap