八王子めじろ台バプテスト教会

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2017チャペルコンサート

今年もやってまいりました
チャペルコンサート!
ご知友をお誘いのうえ、
ぜひお越しください。


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by hachimejibap | 2017-09-30 20:35 | 教会からのお知らせ

喜びが満たされるため

テーマ 神の友
聖書 ヨハネによる福音書 15章11~17節
2017年9月24日(フレンズディ)    主日礼拝        牧師 左右田 理


 イエス様の友は一方的なイエス様からの選びです。(16節) イエス様の友は神の友と
されます。(9節) 本日の聖書箇所からは、神の しもべに過ぎないはずの者が、イエス
様の方から、すなわち神の方から“一方的に喜んで”友にしてもらえるという特権的恵
みを聴くことができます。そして友から見捨てられ、十字架で殺されていくイエス様の友
となるとき、自らも友から見捨てられる定めと向き合うことになるけれども(19~21節)、
そのときこそ“他の誰でもないイエス様によって選ばれている”という喜びが豊かに実り、
神の栄光として捧げられていくのです。(5、8、25節)
 しもべであれば主人の願いを知らなくとも“言いなり”で生きていくこともできましょう。
しかし友は相手の願い、目標等を弁え知るのです。(15節) もし私たちが神の友なら、イ
エス様の目標、行き着く先へ共に前進することは自然です。(ヨハネ19:28,30) ただここに
興味深いことがあります。ヨハネによる福音書では、イエス様がその傍らで十字架に掛
けられている者たちと声掛けなどして関わる描写がありません。ただ排除、孤立、そして
殺されゆく者たちの真ん中に立つだけです。(19:18) イエスの友、神の友として生きると
いうことは、裁く側としての立場を誰かに奪い返してあげるというような活躍ではありませ
ん。裁かれる側、排除される側、殺される側に踏みとどまる忍耐です。(13節)
 私たちが神の友として選ばれるということは神が必要としてくださっているということで
す。神の必要に応えて生きるということです。そして神から派遣された先々で出会う人々
の友となるのです。しかしイエス様の十字架を仰ぐとき、神から必要とされているというこ
とと貢献する(何かの役に立つ)ということとはまったく異なるということが明らかです。十
字架の群れの真ん中に立ったイエス様を主と仰ぎつつその十字架の群れに連なるよう
神はあらゆる命を招いておられるに違いありません。
 裁かれるより裁く側へ、排除されるより排除する側へ、殺されるより殺す側へという誘
惑に負け続けてきた人類の歴史…それはイエス様を中心にした十字架の群れに対する
無限の負い目です。しかし神は今も変わらず十字架“群”へ私たちを招き続けます。こ
こに神の愛、神の赦しがあります。私たちも互いに十字架“群”へ招き合いましょう。そ
こにこそ愛の掟(12節)、イエス様の喜び(11節)が豊かに実り、神の栄光が成るのです。


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by hachimejibap | 2017-09-30 20:30 | メッセージ

しばらくすると

テーマ 祈り
聖書 ヨハネによる福音書 16章16~24節
2017年9月17日(教会学校月間)    主日礼拝        牧師 左右田 理

 初代教会においてイエスの名前によって祈るということは(23~24節)、開運祈願のよう
なものではありませんでした。社会貢献(評価)などの道が開かれる保障でもありません
でした。初代教会においてイエスの名による祈りとは厄介者として世から排除され すべ
てを奪い去られたお方(20節)を主と告白する生き方でした。社会的評価どころか自分も
排除され すべてを奪い去られかねない社会的危機でした。つまり、すべてが奪い去ら
れ排除されていった十字架のイエスを主と仰ぎ見ながら捧げていく祈りでした。ところが
十字架の道を歩み通したイエスの名によって祈るなら、どんな願いもかなえられるという
のです。そして喜びに満たされるというのです。これこそが本日の聖書箇所において約
束されている神の不思議、人知を越えた恵みです。
 “しばらくすると”…これは祈りの成就とも関係している言葉でしょう。祈りの成就が先
延ばしになってしまうことはないというイエスの励ましの言葉はヨハネによる福音書だけ
ではありません。(マタイ7:7~8、マルコ11:24、ルカ18:7~8) “しばらくすると”…神さまは必ず祈
りに応えてくださるのです。ただそのためには救い主が見えなくなるとき、救いの言葉が
わからなくなる“しばらく”のときを過ごさなければなりません。(19節) それは自分の悲し
みが周りから置き去りにされ、救いの希望、祈りが抹殺されるときです。しかし“しばらく
すると”それまでの信仰、救い理解が砕かれるごとに復活の主との出会いが無限に起こ
されることに気づかされ、永遠の喜びを受けるのです。(20~21節、21:25)
 先主日の礼拝メッセージ、および教会形成研修会で松藤一作先生(日本バプテスト連
盟宣教部長)は「発想の転換(パラダイム・シフト)」の必要を語ってくださいました。たとえば伝
道とは、伝道者(クリスチャン)がノンクリスチャンをクリスチャンへ変えるよりも、ノンクリ
スチャンと出会って伝道者(クリスチャン)の方が変えられる出来事だという視点でした。
だとしたらノンクリスチャンと出会い、信仰、救いの理解が砕かれて刷新、再創造されて
いるときこそが復活の主を証し(伝道)しているときなのではないでしょうか。(2コリント4:16)
 信仰が砕かれるなら祈りも砕かれ、信仰が再創造されるなら祈りも再創造されます。
イエスの名によって祈れば祈るほどすべての祈りが砕かれ、神の御心にかなう新しい
祈りで満たされていきます。だから共に祈りましょう。すべての祈りがかなえられるまで。


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by hachimejibap | 2017-09-30 20:25 | メッセージ

イエスに招かれた人々

テーマ 主の食卓
聖書 マルコによる福音書 2章13~17節
2017年9月3日(教会学校月間)    主日礼拝        牧師 左右田 理

 初代教会は「主の日」を「パンを裂くための日」と受けとめていました。(使徒20:7) 歴
史的教会において「主の晩餐式」というかたちとしても受け継がれている「主の食卓」は
今も主イエスの御心を証ししてくれています。本日の聖書箇所もそうです。そして私たち
は心に留めたいのです。「主の食卓」に招かれていた人々は、その時代、その社会にお
いては神の国に ふさわしくないと見なされていた人々だったということを。
 その昔、教会学校で皆勤賞、精勤賞が授与されたり、また暗唱聖句ができると賞がも
らえたりすることなども珍しくありませんでした。しかし「主の食卓」には賞を授与されるど
ころか、その時代、その社会においては非国民、国賊扱いされていた人々が大勢いた
のです。(15節) 教会学校月間に際し私たちは思い巡らしましょう。「主の食卓」を通して
現代の教会は誰を歓迎するのでしょうか。教会学校分級は主の招きの言葉に耳を傾け
合い、その御心に応えていく者どうしとして支え合う交わりです。
 9月1日は日本バプテスト連盟諸教会にとって教会学校月間の始まりですが、もう一つ
1923年の関東大震災を思い起こすことができます。東日本大震災など多くの被災地の
方々の苦しみに思いを馳せることもできます。しかしそこで“被害者としての自分たち”と
いうような自覚で終わろうとするなら、歴史の主は教会を問うことでしょう。「関東大震災
で群衆が朝鮮の方々を勝手に国賊扱いして虐殺していたとき、教会はどこにいたのか。
今、非国民、国賊呼ばわりが起こったら、誰と食卓を囲む用意をするつもりか」。教会学
校はキリストの言葉を歴史の主の言葉として受ける交わりです。
 上空をミサイルが飛び、敵国と目される方向が鮮明になるにつれ、その敵国と目され
る人々に対する緊張の高まり、警戒体制の強化は容易に想像できます。そして もし現
代日本に「主の食卓」の顔ぶれ、その社会的特徴を有する交わりが出現したら、“共謀
罪”の監視対象となることも容易に想像できます。しかし同色、同族限定の住み分け、
暮らし分け、食卓分けが加速しかねない今の世においてこそ、教会はキリストのからだ
として、主の食卓の広がりにその身を捧げていこうではありませんか。(ガラテヤ2:11~14)
「御国が来ますように。御心が行われますように、天におけるように地の上にも。わたし
 たちに必要な糧を今日与えてください。」(マタイ6:10~11) 


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by hachimejibap | 2017-09-30 20:20 | メッセージ

人と平和に寄り添う

テーマ:平和
聖書:マタイによる福音書10:34~39 
2017年8 月20 日                     井堀 哲

本日の聖書箇所で、イエスは「自分は平和ではなく剣をもたらし、家族を敵対させるために来たのだ」と言います(34節から36節)。幼子を抱き、柔和な、日頃慣れ親しんだイエスの姿との違いにやや戸惑ってしまいます。

私たちは「平和」という言葉から、戦争がないこと、日常生活が守られることをイメージします。イエスが生きた時代も、パクス・ロマーナ(ローマの平和)と呼ばれ、ローマ市民は、異民族からの侵略も受けずに「平和」を謳歌していたと言われています。しかしこれは強大な軍事力を背景に異民族を押さえつけて属州化した上で秩序を維持するものでした。多くの人びとの犠牲の上に成り立っていた、一部の者のみが享受していた「平和」です。
これこそが、イエスが激しく否定している「平和」、つまり「隣人が虐げられている状況を見て見ぬふりをし、自分たちのことだけを考えて安穏と過ごすことによって保たれている平安」ではないでしょうか。そして、イエス自身も当時のユダヤ人社会の中で虐げられ、飢え乾いた存在だったと指摘する神学者もいます。イエスは、今、まさに弱く小さな者として呻き、飢え、渇いている自分の声に、私たちがどう対応するのか迫っているのかもしれません(マタイ25章36,36節)。

真の平和を実現するためにイエスが求めるのは、自分の十字架を担い、主イエスのために命を失う生き方です(38節、39節)。十字架とは死刑の道具、自分を殺す、自分のわがままを死なせる道具です。そして十字架を背負うとは、事柄の軽重を問わず、弱い立場の人のために、自分の欲望を殺すことを意味します(本田哲郎『聖書を発見する』201頁参照)。

人間は武力によって相手を打ち負かす「力による平和」を求めます。しかし主イエスが選び取ったのは、自分を殺すことによって実現する「十字架による平和」です。平和とは、他人に犠牲を強いて成り立たせるものではなく、自分を犠牲にすることによって実現するもの。私たちキリスト者がこのような平和を求めて「小さな者の一人に、冷たい水一杯」を差し出すときに(マタイ10章42節)、戦争や貧困や社会の不正を無くす一助となり、真の平和を実現する者とされるのではないでしょうか。


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by hachimejibap | 2017-09-30 20:15 | メッセージ

平和は保たれた

テーマ 復活の道
聖書 使徒言行録 9章26~31節
2017年8月13日(平和月間)    主日礼拝       牧師 左右田 理


 サウロ(後の大伝道者パウロ)は絶望の中にありました。(9節) 神(の国)のためを思っ
て力いっぱいやっていたことが、じつは神(の国)への敵対行為に過ぎなかったなんて…
ほとんど彼は生ける屍状態だったのでしょう。しかし復活の主イエスとの出会いによっ
て、そしてそのお導きによってサウロは立ち上がりました。(18~19節)
 もともとサウロはキリスト教会を迫害する急先鋒でした。ところがサウロは迫害者たち
を裏切りました。キリスト教会側へと寝返ったのです。しかし一度裏切った者はまた再び
裏切る…キリスト教会は簡単にサウロを信用しませんでした。いつ再び寝返らないとも
限らない、いや、そもそも迫害者を裏切ったフリをしたスパイかも知れません。またたと
えサウロの回心が本当だったとしても、サウロのせいで奪い去られた日常、愛する人た
ちの命など、今さら何も取り戻せはしないのです。不安、警戒心、喪失感…しかし教会
はあらゆる否定的思いへの誘惑を乗り越えてサウロを受けとめました。ただサウロに
による“主は今も生きて働いておられる”という証し、宣教のゆえに。(27~28節)
 神の国を自負するイスラエル社会において、「イエス=公的に処断された者」を主と告
白するなら謀反人、非国民、国賊扱いされることは免れません。(ヨハネ9:22参照) 初代
教会が少しでも事態を穏便に収めたければ口を閉ざすしかありません。(5:28) しかし
初代教会は恭順の意を示すどころかサウロの伝道活動を支援し始めます。(28節) 国
家レベルでの公的裁き、その信憑性を根幹から覆してしまう生き証人を匿い、その逃亡
を手助けしました。(30節) 初代教会はたとえ為政者の権威を傷つけることになっても、
“犯罪者の一人に数えられたイエスこそ復活の主だった”、“この世で裁かれていく者た
ちのただ中に復活の主を見た”
、という証しを撤回しなかったのです。(マルコ15:28参照)
 復活の主は平和を世に残してくださると約束してくださいましたが、その平和はこの世
の社会的地位、名誉、財産等が守られることとは異なりました。(ヨハネ14:27) パウロたち
初代教会にとって、「この世の秩序によって排除されていく人々の間にこそ復活の主が
生きて働いておられる」と証しするため立ち上がれたことがすでに平和でした。なぜなら
イエス・キリストのゆえに迫害されることは教会の基礎、いや天の国の基礎に他ならな
かったからです。(31節、マタイ5:9~12)


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by hachimejibap | 2017-09-30 20:10 | メッセージ

テーマ 十字架の愛
聖書 コリントの信徒への手紙 一 11章17~29節
2017年8月6日(平和月間)    主日礼拝       牧師 左右田 理


 8月は平和月間です。1945年8月6日は広島原爆投下、8月9日に長崎原爆投下、8月
15日が敗戦…あれから今年で72年、二度戦争をしないという決意の証しでもある平和
憲法9条が骨抜きにされそうな日本行政の現状があります。主の死(26節)を告げ広める
キリスト教会は とくにこの8月、先の大戦で奪われた命の無念、焼き払われた大地、被
造世界の うめきに祈りをもって連なりましょう。(ローマ8:22)
 「…主が来られるときまで、主の“死”を告げ知らせるのです。…」(26節) 食卓を囲む
とき、“生きる”ことを思い浮かべるのが普通ではないでしょうか。ところが伝道者パウロ
は、主が再び来臨されるときまで教会が取り組むべき主の食卓において主の“命”、“復
活”が分かち合われるというような言い方をしません。主の食卓を通して主の“死”が告
げ知らされると言うのです。パウロは主の“死”にキリストの“一致”の源泉を見ていたの
でしょう。(24節、10:17) 殺されていく者たちの主が皆の心に刻まれたときに成就する救
いの契約を聴き取っていたのでしょう。(25節、エレミヤ31:31,33、ゼカリヤ12:10) 主の食卓は
世から奪い去られていく命を贖う十字架の主の愛で全身全霊が満たされる食卓です。
地位、名誉、財産など世のあらゆる比較優劣から解放された十字架の主の喜びを共に
する食卓です。また家内安全、商売繁盛などあらゆる平穏無事志向から解放された十
字架の主の喜びを共にする食卓なのです。
 主の死はクリスチャンどうしの一致、安定のための恵みではありません。なぜなら主
の死は告げ知らされていくものだからです、すなわち教会の外にまで。しかも主の死は
漠然とした世界平和像としてではなく、貧富、学歴、人種格差などで命を傷つけられ、奪
われていく者たちと食卓を囲むことを切望する全人類的一致の源泉として、告げ知らさ
れていくのです。
「御国が来ますように。御心が行われますように、天におけるように地の上にも。わたし
 たちに必要な糧を今日与えてください。」(マタイ6:10~11) 
「…わたしたちは、この教会をささえ、全世界に主の福音をのべ伝えます。また困窮す
 る人々を覚え、キリストの福音の前進のために、喜んで献金をいたします。…」
                         (八王子めじろ台バプテスト教会の契約)


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by hachimejibap | 2017-09-30 20:05 | メッセージ

テーマ 十字架の平和
聖書 マタイによる福音書 5章9~16節
2017年7月30日      主日礼拝            牧師 左右田 理

 今、日本で、いや世界中で、武力による平和が主張され、差別、排除にまみれた暴力
的な叫びが飛び交っています。8月平和月間に向けて、私たちは平和を実現する鍵を平
和の主に聴きたいと思います。それにしても本日の聖書箇所では平和を実現する者が
神の子と呼ばれ、立派な行いを見せなさいと招かれ…はたして自分は救われるのだろ
うかと困惑するのは私だけでしょうか。しかし救いは人のわざではなく神のわざとして実
現することをイエス様は宣言してくださいました。(マタイ19:25~26) 私たちは本日も人知を
越えた希望をみことばから聴きましょう。
 平和を実現することの難しさを現代日本は味わっています。二度と戦争をしないという
歴史的反省、その誓いが込められた憲法9条…それが今、“戦争ができる国”を目指す
政治的機運によって骨抜きにされそうな政治的局面を迎えています。平和の実現を軍
備増強に委ねようとする機運には、十字架の主が招く平和と折り合いのつく余地など微
塵もないことでしょう。主は今、世界に、そして日本に目を覚ますよう呼びかけておられ
ることでしょう。「天の国の子たちとなる幸いを得よ、義のために迫害されることを喜ぶと
ころに実現する平和を得よ」。(9~12節) ここに人知を越えたキリストの希望があります。
 他の聖書箇所と異なりマタイによる福音書では、“塩”の描写に積極的メッセージが込
められていません。塩気を失った地の塩は人々に踏みつけにされて終わるだけ…これ
は喜ぶことをあきらめたクリスチャンの虚しさを描写しているのではないでしょうか。だか
らこそ伝道者パウロも“喜び”を訴えるのです、死の危険迫る獄中から。(フィリピ2:17~18)
 信仰による喜びは主の十字架を仰ぐ賛美となります。賛美の輪こそ平和の実現です。
「あなたがたは世の光である(14節)」。ただ逃げ隠れするところに平和は実現しません。
喜びを隠し持つところに平和は実現しません。賛美は山の上から全地に行き渡るべき
世の光、平和の希望です。戦意高揚のための敵意に水を差すその歌声を燭台の上か
ら決して取り下げることなく、また非国民、国賊の誹り、迫害を招く十字架信仰としての
喜びを決して山の上から引っ込めない…そういう立派な行いを通して、やがて人々が天
の父を崇める時が来るのです。(16節) 「…御名が崇められますように。御国が来ます
ように。御心が行われますように、天におけるように地の上にも。(マタイ6:9~10)」


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by hachimejibap | 2017-09-30 20:00 | メッセージ

みんなで歌おう!共に話そう!そして一緒に祈ろう! 〒193-0833 東京都八王子市めじろ台2-15-2 ℡.042-663-7036


by hachimejibap