八王子めじろ台バプテスト教会

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タビタ起きなさい

テーマ:いのち
聖書:使徒言行録9:23~43 
2017年7 月23 日                協力牧師 北島靖士

今読みました二つの物語りはペトロの伝道の物語りです。この中にリダ、シャロン、
ヤッファという三つの地名が出てきます。新共同訳聖書をお持ちの方は後ろの地図6
を見てください。これらはエルサレムから、地中海に向かう途中と地中海沿岸にあ
ります。少し前の8章の終わりのところに出て来るフィリポの伝道では同じ地中海沿
岸のガザやアゾトが出て来ます。すなわちこの頃、初代教会はこの地方で盛んに伝
道していたのです。
わたしもイスラエルを旅行した時にヤッフアに行ったことがあります。そして海岸
の皮なめしシモンの家があったと言われる場所に案内されました。そこには今、そ
んなに大きくはありませんが、正教会の教会堂が立っていました。わたしも教会の
前に立って、ああここでペトロはやもめたちやドルカスと出会ったのだという感慨
にふけりました。
今、わたしたちは二つの物語りを読みました。病気のアイネアが癒された話と死ん
だタビタが生き返った話です。病人が癒された話、死人が復活した話は聖書の中に
たくさん出てくることをみなさんはご存知です。癒しとか復活は何でしょうか。そ
れは神さまの力をあらわしています。ペトロはアイネアに向かって「アイネア、イ
エス・キリストがいやしてくださる」と言っています。ペトロは「わたしがあなた
を癒やす」とは言いません。ペトロが癒すのではありません。ここが大切なところ
です。イエス・キリストが癒してくださるのです。ですから、35節にあるように、
「リダとシャロンに住む人は皆アイネアを見て、主に立ち帰った。」のです。42節
では「このことはヤッファ中に知れ渡り、多くの人が主を信じた。」でした。
病気やいろいろな苦難がわたしたちの人生にはつきものです。しかし、その中で主
イエス・キリストに信頼して生きることによって希望を与えられたひとびとのあか
しをわたしたちはたくさん聞いているのです。
(これは今日のメッセージの冒頭部分です。引用聖句は裏面にあります。)


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by hachimejibap | 2017-07-26 13:00 | メッセージ

何を議論していたのか

テーマ 教会
聖書 マルコによる福音書 9章30~37節
2017年7月16日      主日礼拝              牧師 左右田 理

 人が議論をするとき、往々にして何が正しいのかということがテーマです。どういう考え
方、どういう行いが正しいのかがテーマとなります。そしてそれは自分たちのうち、その
正しさに近い“偉い人は誰か(34節)”という比較優劣へ誘惑されることもあります。並行
記事であるマタイ18:1~5 ではこのことについて弟子たちがイエス様に直接尋ねる描写に
なっていますが、本日の34節、およびルカ9:46~48 では尋ねるどころか口を閉じるしかな
かったようです。主の十字架の預言に対し、弟子でありながら怖くて何も尋ねられなかっ
た自分たちの弱さに直面させられた直後ということもあり(32節、ルカ9:45)、自己肯定に飢
え渇きながら、さぞや心苦しい沈黙だったことでしょう。
 わかっちゃいるけど やめられない…昔懐かしの流行語ではありませんが、ついつい
人は自分の“偉さ”探しをしてしまいます。それは単なる自己肯定ではなく、他者に対す
る自己優位性探しであり“見下し”です。せっかく十字架の主を信じたのに、信じていな
い人は天国へ入れない人種として論じてしまうのです。(ローマ10:6~8) 何しろイエス様と
共に歩んでいた弟子たちですら陥っていた誘惑なのですから…ここで突然イエス様は不
思議な宣言をします。当時の封建的宗教社会において子どもとは“想定外”をもたらす
半人前でした。しかしイエス様はそのような“想定外”な存在を受け入れる者こそ、救い
主イエスを遣わした神を、人知を越えた神を受け入れる者だと宣言したのです。(37節)
すなわちそれは社会的ルール、常識においては“偉い”どころか見下されている命と共
に生きるところにこそ神の国があるという宣言に他ならないでしょう。(ルカ17:20~21) イエ
ス様は弟子たちにこの世の比較優劣を越えた自己肯定を証しするのです。
 古今東西、国籍や人種、さまざまな違いが差別、排除の根拠とされてしまったのも、自
己肯定がこの世の比較優劣に基づいていたからです。社会や共同体に“想定外”をもた
らす存在が警戒されたり、敵視されたりしてきたのも、自己肯定が家内安全商売繁盛の
上に成り立ってきたからです。しかし初代教会は十字架の主を誇りとしました。(1コリント1:
18,30) それはあらゆる比較優劣、敵意から解放された自己肯定であり、他者肯定の
無限の広がりです。十字架の言葉によって肯定された存在として他者と出会い、他者と
共に死に、他者と共に生きる群れとして教会は全世界へ遣わされていくのです。


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by hachimejibap | 2017-07-26 12:00 | メッセージ

テーマ 神の宣教
聖書 使徒言行録 15章36~41節
2017年7月9日      主日礼拝             牧師 左右田 理

 本日の聖書箇所冒頭の“数日の後”…それは世界初の教会総会から数日後、激しい
意見の対立と論争が一定の妥結に至ってから数日後、ということでした。(15:1~35) 伝
道者パウロにとってその総会は、宗教儀式、社会的慣例において不適格と見なされて
いる者たちが適格者として明らかにされた論争の場でした。(1コリント11:19) 伝道、証しの
日々は戦いの日々でもあります。しかしそれは人の知恵や力による戦いではありませ
ん。ひたすら十字架の主の言葉を誇り、掲げ続ける戦いです。(1コリント1:18,30) 疲れも
まだあったかも知れませんがパウロたちは出発しました。従来の秩序において不適格
とされてきた者たちと囲む食卓に起こる神の養い(ヨハネ4:34)にすべてを委ねて。
 適不適を逆転させる十字架の救いは従来の秩序に対する問い直しであり、挑戦となり
ます。(ヨハネ9:39~41) 伝道、証しの前に迫害が立ち塞がる現実は避けられません。そこ
には倫理以上に忍耐、勇気が必要とされる現実があったことでしょう。(ヨハ黙21:8) 本日
の聖書箇所で、以前の伝道で挫折、離脱したマルコに再びチャンスを与えようとしたバ
ルナバに対し、パウロは忍耐、勇気が必要とされる伝道の現実を訴えて譲らなかったよ
うです。この衝突は妥結に至ることなく双方は別々に伝道することになりました。対立し
た意見の適不適もすべて益としてくださるキリストの明日に委ねて。(ローマ8:28)
 マルコがその後どうなったのか、使徒言行録には描かれていません。ただ、いわゆる
パウロ書簡にはマルコという名前が登場します。同じ名前でも別人かも知れません。た
だ激しい対立、論争の妥結点を見出してまだ日も浅かった初代教会にとって、当時の代
表的伝道者たちの分裂はかなりのショックだったはずです。そしてパウロ署名の手紙に
マルコという記述があれば誰もがその騒動を思い起こしたことでしょう。しかしその手紙
から見えてくるのは和解の福音の希望でした。(コロサイ4:10、2テモテ4:11、2コリント5:19)
 キリストの証し人である私たちのわざは、いつでも罪人のわざです。キリストの赦し、平
和、恵みの支配によって生かされていくわざです。(ガラテヤ2:19~20) 伝道活動にともなう
私たちの思惑、期待は挫折したり覆されたりすることでしょう。しかし伝道そのものは人
知を越えたご計画として必ず実を結ぶのです。「…御心が行われますように、天におけ
るように地の上にも。」(マタイ6:10)


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by hachimejibap | 2017-07-26 11:00 | メッセージ

テーマ 神の家族
聖書 使徒言行録 16章25~34節
2017年7月2日      主日礼拝               牧師 左右田 理

 幼少の頃から、ときどき教会で耳にしてきた掛け声があります。「家族皆がクリスチャ
ンになりクリスチャンホームになることで神の家族としての祝福を受けよう」。あわせて本
日の聖書箇所(31節)なども引用されていました。しかしイエス様ご自身が、いわゆるクリ
スチャンホームが神の家族の祝福であると弟子たちに教えていたとは思えないのです。
(ルカ21:16,18:29~30) では身内、友だちに伝道していくところにどのような祝福をイエス様
は備えてくださるのでしょうか。本日の聖書箇所から あらためて神の家族の祝福につい
て共に聴きましょう。
 初代教会時代、囚人が昼夜問わず鎖でつながれっぱなしということは珍しいことでは
ありませんでした。(26節) “疑わしきは罰せず”など通用しない世界です。(使徒22:24)
そういう社会においては裁かれる側に立つこと自体が人として信用できないという人間
観になることでしょう。本日の聖書箇所に登場する看守も、囚人が裁かれていく段取り
をいかに滞りなく進めるかという社会的責任を負っていたことでしょう。枷が外れても脱
走しない囚人など考えられないこと、裁き罰する段取りに支障を来した看守には厳罰が
跳ね返ってくる(使徒12:19)ことも仕事柄よくわかっていたことでしょう。(27節)
 伝道者パウロは自害寸前の看守に呼びかけます、「わたしたちは皆、裁かれる側にと
どまっている」。(28節) 皆の裁きを背負い込むはずだった看守にしてみれば、「皆、罰
せられる側にいる、君と共に」という励ましの言葉として響いたことでしょう。十字架の主
を仰ぐ賛美と祈り(25節)は皆に、共に裁かれる側、罰せられる側に踏みとどまる主の力
を満たしました。これこそ罪の赦しに満ちた神の国の平和であり、神の家族の祝福でし
た。(エフェソ2:14~21)
 世から裁かれる者を通して救いが来るという信仰告白は(30節)、すでに十字架の主と
向き合う信仰告白です。バプテスマは世から裁かれる者たちと共に生きる主の使命の
共有です。(33節) そして世から罰せられる者たちと共に囲む食卓を通して神の家族の
喜びに満たされます。(34節) 神の家族とはクリスチャンという肩書きが勢揃いした状態
ではありません。赦され生かされている罪人どうしの自覚的交わりです。「私たちの負い
目を赦してください、私たちも自分に負い目のある人を赦しましたように。」(マタイ6:12)


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by hachimejibap | 2017-07-26 10:00 | メッセージ

テーマ:悔い改め
聖書: 使徒言行録17:22~31 
2017年6 月25 日                協力牧師 北島靖士

 今読みました使徒言行録の17章22節にアレオパゴスという言葉が出てきます。わたし
もここに行ったことがありますが、アテネの象徴でありますアクロポリスの神殿の斜め
下にある何の変哲もない小さい岩山です。ここには紀元前にはアテネの裁判所があった
と言われます。裁判所と言っても使徒パウロがアテネに行った頃には単なる犯罪を裁く
裁判所ではなくなっていました。アテネはプラトン以来の哲学が盛んな所でした。この
ころにも、エピクロス派やストア派の哲学者達がいたとあります。色々な人が演説し、
討論する場所がアレオパゴスだったのです。そして、議員と呼ばれる裁判人がその考え
方はアテネという都市国家にとって、有益であるか、不要なものかを決めていたと考え
られます。パウロの第一声「アテネの皆さん、あらゆる点においてあなたがたが信仰の
あつい方であることを、わたしは認めます。」これも修辞学といいますが、討論の一つ
の方法です。最初に相手との共通点を語り、次第に自分の陣営に引き込んで行くという
方法です。
パウロは何とかして、アテネの人々に自分が語ることを聞いてもらいたいと努力しまし
た。しかし、彼のアテネ伝道は結局失敗に終わったと言わざるを得ないのです。32節に
「死者の復活ということを聞くと、ある者はあざ笑い、ある者は、『それについては、
いずれまた聞かせてもらうことにしよう』と言った。」とあります。
パウロは哲学ではなく、福音を語らざるをえなかったからです。パウロは哲学者ではなく、
福音伝道者でした。「復活」すなわち「イエス・キリストの十字架と復活」これこそ福音
です。のちにパウロはⅠコリント1:22~23で「ユダヤ人はしるしを求め、ギリシア人は
知恵を探しますが、 わたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えています。」
と言っていますが、これはアテネ伝道の失敗が背景にあるとも言う人もいるのです。
しかし、アテネ伝道は全く失敗であったかというとそうではありません。数人の信仰に入
った人々もいたとあります。ほんとに少数ですが、のちのアテネ教会の小さな種がまかれ
たのです。議員ディオニシオはのちにアテネの司教になったという伝説もあるのです。
(これは今日のメッセージの冒頭部分です。引用聖句は裏面にあります。)


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by hachimejibap | 2017-07-26 09:00 | メッセージ

テーマ 教会
聖書 ヨハネによる福音書 12章27~36節
2017年6月18日      主日礼拝              牧師 左右田 理

 イエス様はそのご生涯において心騒ぐときがありました。苦しまれました。しかしそのと
きに天から声があったのです。「わたしは既に栄光を現した。再び栄光を現そう。」(28
節) しかしこの後イエス様の行く手に待っていたのは十字架でした。イエス様はおっしゃ
いました。“今、わたしは心騒ぐ。何と言おうか。「父よ、わたしをこの時から救ってくだ
さい」と言おうか。しかし、わたしはまさにこの時のために来たのだ。(27節)” …「自分
を救ってください」という願いから解放されることこそが天からの栄光の現れだったのであ
り、十字架を天の御旨として受ける決意に再び栄光が、すなわち復活が現れたのです。
 イエス様はどうして十字架の道を進む事になったのでしょうか。.本日の聖書箇所で心
騒ぐとはどういうことだったのでしょうか。イエス様はエルサレム入場をされた際に神の
民であるユダヤ人たち大群衆から歓迎されましたが栄光を宣言されませんでした。しか
し数人のギリシア人(異邦人)からの訪問を受けたときに栄光を宣言されたのです。(12:
23) よそ者と向き合うときこそが栄光のとき…それは神の国の中心部に天の栄光はな
い、神の国の周辺部、さらには外側にこそ天の栄光が満ちあふれていくのだという証し
でした。(ヨハネ4:20~21) 皆に天の栄光を受けてもらいたい…そのためには、それまで皆
が心の拠り所にしていたものから皆を引き離さなければならない…こうしてイエス様が
イスラエルの同胞から見放され、十字架に見捨てられる事態は必至でありました。
 人は救いを「自分にとっての」安心として受けとめます。(34節) それは物心両面にわ
たる「聖域」となっていきます。そしてそこから「身内や仲間の優先、優遇」、よそ者を「差
別、排除」、もしくは、よそ者を自分たちと同じ色に染めようとする「同化政策」などさまざ
まな罪の社会構造が生じてきます。それらは霊的な闇です。天の栄光を覆い隠そうとす
る闇です。十字架の道、よそ者との出会い“そのもの”に天の栄光を見る道、敵を愛す
る道を見えなくさせようとする闇です。「暗闇に追いつかれないように、光のあるうちに歩
きなさい。」(35節) 「闇の中の光(ヨハネ1:5)」として復活の主は招き続けています。
 教会は光の子らの群れです。排除、差別、同化政策、また身内、仲間優先などの支配
を裁く十字架の光がすでに世に満ちていることを信じ礼拝する群れです。そしてそれら
の支配を追放する光のもとへあらゆる命を招く群れなのです。(31,32,36節)


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by hachimejibap | 2017-07-26 08:00 | メッセージ

共に永遠の住まいへ

テーマ 神の国
聖書 ルカによる福音書 16章1~13節
2017年6月18日      主日礼拝              牧師 左右田 理

 本日の聖書箇所は徴税人をめぐる物語(ルカ15章)に続く例え話です。徴税人は いわ
ゆる税金取りですが、神の国イスラエルの国庫を潤すための役人ではありません。逆
にイスラエルの富を、イスラエルを侵略し支配しているローマ帝国へ運び去る仕事でし
た。抑圧者の権力を後ろ盾に同胞から金を巻き上げる非国民、国賊でした。つまり徴
税人とは、被支配者であるイスラエルにとって“利敵行為”に生きる裏切り者以外の何も
のでもありませんでした。しかしイエス様はそのような徴税人を排除せず、共に生きよう
としました。多くの痛み、傷みの中にある人を慰め、病人を立ち直らせ、死人をよみがえ
らせたイエス様はイスラエル社会において癒しの主でした。しかし同時に、徴税人を受
け入れたイエス様は利敵行為の先導者として十字架の死へ向かうことになるのでした。
 本日の聖書箇所に登場する管理人の最初の不正について詳細は不明ですが主人の
財産を目減りさせたと考えられます。管理人は失格者として主人のもとを追放されるわ
けですが反省するどころか、もっと主人の財産が目減りする方向で活動し始めます。不
正に不正を重ねたと言えましょう。ところが主人は第一の不正など無かったかのように
第二の不正を褒めるのです。主人の財産をますます目減りさせてでも主人に負債のあ
る人々のその負い目を軽くする者は永遠の住まいを得るのだと褒めたのです。
 本日の聖書箇所の管理人は徴税人を、主人は神さまを、そして主人の財産は神の国
の“聖さ(きよさ)”を指しているのではないでしょうか。(レビ20:7) そしてその“聖さ”
こそが徴税人など罪深いとされていた者たちにとって“近寄りがたさ”となっていたので
はないでしょうか。(ルカ18:9~14) 自らを清く保つどころか神の面汚しというような負い
目が増し加わる日々…しかしイエス様がお話しくださった不正な管理人は良心の呵責で押
し潰されたりしないのです。“生きる”ことに集中するのです。しかも“負い目を抱えた
人々と共に生きる”ことに。するとイエス様が証しする神さまはその生き様を褒めたので
す。神の国の“聖さ”を侵害した多くの人々をその負い目から解放する生き様として。
(16節) 聖なる神は神の国を惜しみなく与えてくださろうとしています。そして世のあら
ゆる負い目が赦されていくことこそ聖霊の使命です。ですから私たちは“共に”神の国に
向かうとき、すでに赦し合いの中に生かされているのです。(ルカ12:31,12:32,11:13,11:4)


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by hachimejibap | 2017-07-26 07:00 | メッセージ

神の偉大な業

テーマ 聖霊降臨
聖書 使徒言行録 2章1~13節
2017年6月4日  ペンテコステ(聖霊降臨記念)礼拝      牧師 左右田 理

 本日の聖書箇所はキリスト教会誕生の物語と言えましょう。かつてこの聖書箇所を通
して、「さぁ、バベルの塔(創世記11章)で全地に散らされた人々が、教会のもとへ再結集
するのだ!」という復興主義調のメッセージを耳にしたことがあります。しかし本日の聖
書箇所での霊的現象は、はたして“教会への再結集”、さらに“人類再統合”というメッ
セージなのでしょうか。だとしたら当のイエス様が、随行を願い出る人を弟子集団に迎
え入れることなく出身地にとどめた指示と矛盾してしまいます。(ルカ8:38~39)
 エルサレム神殿には生粋のユダヤ人だけでなく、諸国出身の改宗者も詣でていたよう
です。彼らは、ユダヤの言語であるヘブライ語のみをまことの神の言葉として受け入れ
ました。そして異教文化に染まった故郷の言葉、故郷の日常などは滅びのしるしにしか
過ぎなかったのです。(エフェソ2:11~12) ところが突然、聖霊の働きによって滅びのしるし
だったはずの日常、滅びのしるしだったはずの母国語の中から、偉大な救いが証しされ
たのですから、まったく理解不能だったことでしょう。(11節) 当時、聖地エルサレムの
内側にこそ、神の国イスラエルの内側にこそ救いがある、ということは救い理解としての
常識でした。ですから酔っぱらいの非常識として一蹴する声もあったのです。(13節) 
 “霊”という単語は旧約聖書の原語ヘブライ語においても、新約聖書の原語ギリシャ語
においても、共に“風”と訳すことの出来る言葉です。そして聖なる神の霊は、救い理解
としての常識の内側に渦巻く風ではありませんでした。逆に、救いの常識の外側とされ
ていた苦しみの中に吹き込む風でした。(ローマ8:22~28) それは聖霊がキリストの十字架
から吹き出されていることを証ししています。“神も仏もあるものか”というような絶望、
うめき、叫びのただ中にこそ救いの民が起こされる…それこそが聖霊降臨であり、キリス
ト教会の誕生でした。
 世の価値観は、優劣合否を意識して悩み苦しみます。敵対し争います。しかし聖霊は
救いから遠く外側にいる人であればあるほど救い(主)を届けるのです。すなわち救い主
なる神の敵対者であればあるほど、より豊かな神の愛で満たすのです。(ローマ5:5,8,10) 
ここに神さまからキリスト教会に託されている使命があるのではないでしょうか。「御国
が来ますように。御心が行われますように、天におけるように地の上にも。」(マタイ6:10)


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by hachimejibap | 2017-07-26 06:00 | メッセージ

テーマ:祈り  
聖書:マタイ6:5~13 
2017年5 月28 日                      協力牧師 北島靖士

三鷹教会の旧会堂時代のことです。その頃の三鷹教会は牧師館の玄関を出ると前の道から
入ってくる通路があって、その向こう側に会堂が立っていました。会堂の前には道に面し
て掲示版があり、道は幅が3.5メートルしかありませんが、高校生達の通学路になっていま
した。ある日のことわたしが玄関をあけると、いきなり大きな声で「ギャハー、こりゃ何
だ」という大きな声が聞こえました。驚いて見ますと、男の子2人、女の子一人の学校帰
りの高校生たちが掲示板の前にいまして、そこに張り出していた来週のメッセージ題を指
さしているではありませんか。そして「ギャハー、これは何だ、自分の部屋の戸を閉めよ
だって、アッタリマエジャネーカ」とわめいているのです。実はその次の週に、今日と同
じメッセージ題で話すつもりで「自分の部屋の戸を閉めよ」と掲示しておいたのです。
わたしは、前を通る高校生達に何とか伝道したいと思いまして、その頃からメッセージ題
に工夫をこらすようになっていました。「シメタ、ヒッカカッター」と思いまして、彼ら
に話しかけるために急いで道に出てゆきました。ところが、彼らは何か、しかられると思
ったのか、急に逃げて行ってしまいました。残念なことをしました。しかし、高校生達の
驚いたような表情を見ますと、このメッセージ題はキット彼らの心に残ったに違いありま
せん。そして、いつの日か聖書を読んだときに「ああ~ここの言葉だったのか」と発見し
てくれるに違いない期待をかけたのです。
ところで、高校生たちはなぜ「アッタリマエジャネーカ」と言ったのでしょうか。考えて
見ますと最近の若い人達は子どもの時から自分の個室を持っています。そして自分のプラ
イヴァシーに非常に敏感です。黙って部屋に入ろうものなら、こっぴどく叱られます。ま
して、スマホや日記を見るなどということは「子どもの権利条約」で保護されているので
すから、絶対にあってはならぬことです。わたしが高校生の時には、家族が一番よく通る
廊下の突き当たりのところに、机を置くしかありませんでしたから、プライヴァシーもへ
ったくれもありませんでした。ところが、6節の「隠れたところを見ておられるあなたの神」
のところを英語の聖書で見てみましょう。“your father who sees what you do in private”
と訳しているのです。現在使われているプライヴァシーとは、さっきも言いましたように
「個人としての権利」と言う意味ですね。しかし、この5~6節でわたしたちにイエスさま
が命じておられるのは、個人として神さまの前に出るということです。言い換えるならば、
神さまと一対一でお会するということです。 このような場合「個人」という言葉は適切で
ないから「単独者」といわなければならないと主張する人もいます。わたしたちは人がどう
であるかではなく、単独者として神さまのまえに立たなければならないのです。終わりの時
にはいやでも応でもそのような時がくるのです。
(これはメッセ―ジの要約ではなく、冒頭部分です。引用聖句は裏面にあります。)


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by hachimejibap | 2017-07-26 05:00 | メッセージ

手を伸ばしなさい

テーマ 教会の信仰告白
聖書 マタイによる福音書 12章9~21節
2017年5月21日      主日礼拝              牧師 左右田 理

 福音書にはイエス様を試す人々が登場します。試す判定基準は当時神の言葉として
共有されていた律法です。(10節) そして彼らが律法によってイエス様を試そうとした目
的は神の民として認められる人種か認められない人種かを判別するためでした。それ
は二度と神の国イスラエルに神の怒りがくだされることのないようにするため、すなわち
神の民、神の国の安息を守る“善”だと考えられていました。(エレミヤ17:27)
 本日の聖書箇所はマルコ、およびルカによる福音書にも並行記事があります。しかし
宗教指導者たちに対するイエス様の応答に違いがあります。マルコとルカでは“安息日
は命を生かす日か、殺す日か”という反問形式になっています。宗教指導者たちに何が
“善”であるかを反省させるチャンスを提供しているとも考えられます。しかし本日のマ
タイでは“安息日の善は命の手助けをすることである”と問答無用に結論づけられていま
す。しかしマタイなりの反問があるように思えます。それは何が“善”かという反問では
なく…「あなたがたは手の萎えた人をわたしの前に連れてきたつもりだろうが、わたしの
前で手が萎えているのは、じつは あなたがたではないのか?」
 手の萎えた人がイエス様の前に連れられた来た出来事のあとに、預言者イザヤの言
葉が引用されるのはマタイだけで、並行記事としてのマルコ、ルカにはありません。そし
て引用元 イザヤ42:1~4 が離散した同胞ユダヤ人に対する救いとして読むことも可能であ
るのに対して、本日の マタイ12:18~21 では、同胞(身内、仲間)は度外視され、“異邦人(よ
そ者、神の民ではない人々)のための救い”の預言として宣言されるのです。これこそ、
いわゆるマタイ教会における「教会の信仰告白」だったのでしょう。「手を伸ばしなさい」
(13節)…マタイ教会は 「教会の信仰告白」を通して霊的な反問を互いに分かち合いつつ
お互いに目を覚まさせ合っていたのではないでしょうか。「異邦人の命の手助けができ
ていない神の民、異邦人の手をとることもできていない神の民こそ、その手が萎えてし
まっていないか」。
 私たち教会は、命の主のもとへ人々を招くことによって、命の手助けをしていきましょ
う。本日週報の報告欄にありますように、新しく来られる方々のために「礼拝ガイド」を
有効活用し、伝道牧会のための「証し集シリーズ」冊子化に期待しましょう。


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by hachimejibap | 2017-07-26 04:00 | メッセージ

みんなで歌おう!共に話そう!そして一緒に祈ろう! 〒193-0833 東京都八王子市めじろ台2-15-2 ℡.042-663-7036


by hachimejibap