八王子めじろ台バプテスト教会

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成し遂げられた

テーマ 救い
聖書 ヨハネによる福音書 19章28~37節
2017年2月12日       主日礼拝            牧師 左右田 理

 日本には、人の不幸を「バチが当たった」と総括する社会性が歴史的にあります。そ
のような総括は、その人のそれまでの歩みを、“無駄”だったと烙印を押すような言葉で
す。その人の生涯そのものが、神から認められなかった、という断罪の言葉です。イエ
ス様の十字架の苦しみは、その肉体的激痛のみならず、存在そのものが、神から無用
とされたかのような渇きだったのではないでしょうか。(28節、詩編69:22:27)
 本日の聖書箇所の並行記事として、十字架上に酸(す)いぶどう酒が差し出される描写
は、マタイ27:48~50、マルコ15:36~37にもあります。酸いぶどう酒は痛みを緩和し、元気
をつけさせるため、または、死の苦しみを長引かせるためだったとも言われます。だとし
たらマタイ、マルコからは、酸いぶどう酒を受けることなく、死の苦しみの極みに達した
イエスの十字架を聴くのに対して、本日のヨハネからは、酸いぶどう酒を受け、死の苦し
みのただ中にとどまり続けるイエスの十字架を聴くことができるでしょう。しかし、死の
苦しみにとどまり続けることによって、何が成し遂げられたというのでしょうか。(30節)
 イエス様は十字架において、創造主としての栄光を受けるということが、成し遂げられ
たのではないでしょうか。(ヨハネ17:4~5) 天地創造とは、神の側の一方的な負担として成
し遂げられた出来事です。人の側の負担として、成し遂げられたものは何一つありませ
ん。人は被造物として、一方的に成し遂げてもらった出来事、それが天地創造です。十
字架上でイエス様は、改めて創造主の栄光をお受けになり、新世界の幕開けを成し遂
げられたのです。それは、自分は渇いて死に、他者に向けて、とくに自分を殺す敵に向
けて、潤い(水)と命(血)を注ぎ出していく新しい人の創造です。(28,34節、2コリント5:17)
 十字架による新しい人として創造された教会の群れは、主の祈りを十字架の主の死
を仰ぐ祈りとして唱えていくことでしょう。十字架の主にあって共に死ぬ祈りは、自分(た
ち)が労苦するための「~させたまえ」ではなく、自分(たち)が労苦の現場を去った後、後
生の、とくに貧しい者たちの恵みとして「~なりますように」ということでしょう。(詩編
69:30~31,33~34) 天地の実り、食卓の実り、赦しの実り、すべてが後生の恵みとして
永に満たされますように…私たち教会は、この十字架の希望によって、新しく創造された者
たちの群れとして、共に喜び、祈り、感謝していこうではありませんか。(1テサロニケ5:16~18)
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by hachimejibap | 2017-02-14 13:40 | メッセージ

パンの出来事

テーマ 救い
聖書 マルコによる福音書 6章45~52節
2017年2月5日       主日礼拝            牧師 左右田 理

 本日の聖書箇所の並行記事は、マタイによる福音書14:22~33と、ヨハネによる福音書
6:15~21に見られます。マタイからは信仰的応答、ヨハネからは人間イエスの神性、超越
性、そして本日のマルコからは人知を越えた救いを聴くことができましょう。(52節) 私
たちは救い主と聞くと、自分たちの困難のために駆けつけてくれる姿だけを思い描いてし
まうかも知れません。(51節) しかしマルコでは、嵐の中、徹夜で舟を漕ぎあぐねている
弟子たちのそばを、イエス様は通り過ぎようとされているではありませんか。(48節) 弟
子たちの目にイエス様が幽霊に見えた原因としては、湖上を歩くという不思議な現象だ
けでなく、イエス様が救い主でなくなったかのような絶望もあったのではないでしょうか。
 自分たちが苦闘しているとき、そのそばを通り過ぎていくお方が、どうして救い主なの
か、私たちにはわからないかも知れません。(48節) そもそも、敢えて十字架の苦難に
進んでいこうとするイエス様の道が、どうして人々の救いなのか、側近の弟子たちにも
わかりませんでした。救いの渦中にあるとき、人にはそれが救いではなく、災いに向か
って突き進んでいるようにしか見えません。(マルコ9:30~32) 十字架の福音は、人の目に
は不必要なもの、絶望をもたらすものとして映るのです。
 イエス様はパンの出来事として五千世帯もの空腹を満たした(44節)後、弟子たちを遠
ざけ、群衆をも遠ざけます。(45節) それは祈りに専心するため(46節)、神の御旨に専
心するためでした。それは、人のための救いが、絶えず人の満足のための救いから解
放され、絶えず神からの救いとなるためだったに違いありません。そもそもパンの出来
事とは、イエス様からの無理難題の出来事でした。(37節) しかし、それはまた、人には
できなくとも、神にはできること(マルコ10:27)を学ぶ出来事でした。(44,51節) “命にとっ
て本当の必要とは、人としての絶望にこそ臨む神が、人知を越えてすでに把握し、一方
的に満たしてくださる救いである”ということを学ぶ出来事でした。
 十字架の福音は、神の約束です。世界が一つになるときが来ます。苦しみの連帯とし
て、世界平和が成就します。クリスチャンはそのために、神の子とされました。ここに復
活の主のご支配、永遠の命の希望があります。私たちが覚える必要を越えた、まこと
の必要が全世界にかなえられるよう、共に祈りましょう。
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by hachimejibap | 2017-02-14 13:30 | メッセージ
テーマ 救い
聖書 マタイによる福音書 17章22~23節
2017年1月29日       主日礼拝            牧師 左右田 理

 イエス様ご自身がそうであったように、イエス様の弟子たちの多くも、ガリラヤ出身で
した。本日の聖書箇所も、お里帰りの場面として見ることもできましょう。故郷というこ
とで私が思い出すのが、詩人の室生 犀星(ムロオ サイセイ)です。「ふるさとは遠きにありて思ふ
もの/そして悲しくうたふもの/よしや/うらぶれて異土(いど)の乞食(かたい)となると
ても/帰るところにあるまじや」 本日の聖書箇所でも、イエス様の死の予告は、お里帰り
の懐かしさどころか、穏やかな気分など ぶちこわしにしてしまうような、不吉な響きをも
って弟子たちを悲しませたのではないでしょうか。(23節)
 このイエス様の死の予告は、すでに2回目として記されていますが、並行記事(マルコ9:
30~32、ルカ9:43b~45)では、弟子たちがイエス様の死の予告に怯え、それを受けとめ切
れない様子が描かれています。しかしマタイでは、弟子たちは怯えではなく、悲しんでい
ます。悲しむということは、受けとめつつあると言えましょう。並行記事に比してマタイ
では、イエス様の死の予告を弟子たちが受けとめつつあります。一つ、考えられることは
マタイが、1回目の予告の際に起きた出来事(マタイ16:21~23)が、2回目の際の弟子たち
に悔い改めをもたらし始めていたと、理解していた可能性があるということです。“イエ
スは振り向いてペトロに言われた。「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする
者。神のことを思わず、人間のことを思っている。」”(マタイ16:23)
 十字架の救い、その御計画を前にして、弟子たちにできる最善は、悲しむことでした。
しかし、主の十字架と向き合うところに起こされる悲しみは、復活の希望となるのです。
(23節) 人知を越えた幸いによって慰められるのです。(マタイ5:4) 救いとは、十字架の主
を仰ぐところに起こされる悲しみを、しっかり受けとめることです。マタイにおいて、こ
こでの弟子たちの悲しみこそが、復活の希望です。
 私たち人類には人知を越えた救いとして、神の救いの約束、すなわち復活の希望が
与えられています。信仰生活の報いは、ひたすら復活の希望です。この世をひたすら愛
し、すべてを私たちに与え尽くした後に、裏切られ、殺されていった まことの救い主イ
エス・キリストを共に見上げつつ、みことばに対して全身全霊を耳にしつつ、共に前進
していきましょう。(ヘブライ11:13~16)
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by hachimejibap | 2017-02-14 13:20 | メッセージ
テーマ 救い
聖書 マルコによる福音書 10章46~52節
2017年1月22日       主日礼拝            牧師 左右田 理

 本日の聖書箇所を読んで、一つの日本昔話を思い出してしまいました。“雉も鳴かず
ば撃たれまいに”…石川県発祥の日本民話と言われています。死にかかっていた娘が
赤飯を食べたがっていることを知った父は、盗みを働いてその娘の望みをかなえます。
やがて元気になった娘はその喜びを歌ったがゆえに、父の盗みが露見し、父は処刑さ
れます。何も言わなければ、そもそも何も望まなければ…しかし本日の聖書箇所では、
イエス様が通りかかったことを聴いた途端、堰を切ったように、その望み、願いがあふ
れ出る盲人バルティマイの姿が描き出されています。黙っていた方が身のためだ、と言
わんばかりに、抑えつけてくる、それまでと変わらぬ社会的圧力の中で。(48節)
 イエス様は、バルティマイの訴えに応えてくださいました。見えるようになりたい(51
節)、というその願いに応えてくださったのです。私は長らく、この物語のテーマを「治
療」として見てきました。見たいものが、好き勝手に見ることができるようになった物語
として。しかし、バルティマイはこの後、何を見たのでしょうか。(52節) 彼は、イエス
様の進む先に何を見たのでしょうか。彼の見たものは、自分の目を開けてくださったお方
が十字架に掛かって殺される姿でした。見えない人の目を開き 聞こえない人の耳を開き、
歩けなかった人を鹿のように躍り上がらせ、口を開くことのできなかった人を喜び歌わせ
てくださったお方が(イザヤ35:5~6)、まったく報われることなく、その生涯を閉じる姿でし
た。
 イエス様の十字架を目の当たりにして、多くの人たちが失望したことでしょう。見える
ようになる(52節)、ということは、自分の身の回りで、好き勝手に見たいものが見えるよ
うになっていくということではありません。この世においては、どんなにバラ色に見えて
いたものでも色あせ、神の約束だけが残る(イザヤ40:8)、という永遠の希望が見えるように
なる、ということです。
 イエスの進む道は、十字架の救い主の道、無償の愛の道でした。報いの見えないとこ
ろにこそ起こされる、人知を越えた希望の道でした。(ヘブライ11:13~16) 人知を越えた希
望と出会う道であり、絶えず新しい言葉と出会う道でした。私たちもバルティマイと共に、
イエスの御足跡をたどって前進しましょう。絶えず新しい言葉と出会って祈りつつ、十字
架のイエスこそ、復活の主であることを見せていただきましょう。
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by hachimejibap | 2017-02-14 13:10 | メッセージ

世界中どこでも

テーマ 神の宣教
聖書 マルコによる福音書 14章1~9節
2017年1月15日       主日礼拝             牧師 左右田 理

 本日の聖書箇所には「なぜ」という問いかけが二カ所あります。高価な香油をめぐっ
て、異なる「なぜ」が出てきています。イエス様は、「なぜ、この人を困らせるのか」と
問いました。(6節) 弟子たちは、「なぜ、こんな無駄遣いをするのか」と問いました。
(4節) 弟子たちにしてみれば、「イエス様は、無駄遣いを容認しているのだろうか」と
疑問に思
ったことでしょう。昨年3月計画総会にて、「広く共に生きる」教会形成にチャレンジし
ていくことを確認した当教会にとっても、決してこれは他人事ではないでしょう。もし、
無駄遣いが容認されてしまうとしたら、貧しい人たちと共に生きるための広がりに、支障
はないのでしょうか。イエス様の問いは、貧しい人たちと共に生きようとする教会にとっ
て(7節)、どのように、恵みとなるのでしょうか。
 イエス様は、その女性の“無駄遣い”を、世界的福音宣教における記念として宣言しま
した。(9節) 世界伝道の先駆者であるパウロによれば、イエス様の福音は、十字架の
福音に他なりません。この世の ありとあらゆる合否、比較優劣を問い直し、あらゆる社
会的分断を乗り越える対話へと、あらゆる人々を招く神の力に他なりません。(1コリント1:
12~13,17~18) 十字架の福音が前進するところでは、「なぜ」という問いもまた、ただ正
解を追求するような使われ方から解放されます。ひたすら共生の模索を促し、その試行
錯誤を励ますための使われ方が創造されていくのです。
 弟子たちの「なぜ」は、社会的生産性を問いただしています。「そんな使い方をして、
いったい誰の得になるのか」、という問いです。これは何も弟子たちに限りません。古今
東西、この世は“共存共栄”を追い求め、誰もが得する世界を追い求めてきました。「人
のためになること=その相手が“得”すること」という図式もまた常識でした。しかし十
字架の死へ進むキリストは、「“共苦共生”のもとに現れる天の富、永遠の命を、一緒に
振り返ってみないか」と、世の常識を問い直しているのではないでしょうか。(9節、マルコ
10:21)
 十字架の主の招きによる“出会い”には、絶えず生みの苦しみが伴うことでしょう。
「絶えず新しい言葉に生きる」には、それまで向き合ってこなかった不安、苦悩を新たに
引き受けていくチャレンジがあることでしょう。弱い私たちは今、それを祈りから始めて
いこうではありませんか。救いのため万物を新たにされる「“主”の祈り」として。
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by hachimejibap | 2017-02-14 13:00 | メッセージ
テーマ 神の宣教
聖書 マタイによる福音書 11章1~6節
2017年1月8日       主日礼拝             牧師 左右田 理

 福音書においてバプテスマのヨハネは、イエス様による救いの みわざの事前準備係
であり、露払い役です。(マタイ3:11) そういう点でヨハネには、誰よりもイエス様を理解
しているという自負があったとしても不思議はありません。ところが本日の聖書箇所で
彼は、イエス様の存在そのものに疑問を呈するのです。(3節) この聖書箇所の出来事は
ルカによる福音書7章にも並行記事がありますが、本日のマタイでは、ヨハネは獄中に
あったという描写です。(2節) だとしたら囚われの身にあった彼にとって、イエス様が
何者かがわからなくなっていたという事態の背後には、自分が何者かがわからなくなっ
ていたという苦しみがあったのではないでしょうか。
 ヨハネに対するイエス様の応えは(4節)、ヨハネが抱えている苦しみを解決しません。
イエス様の救い、その みわざ、その みことばが、獄中にあるヨハネの疑問を解決した
り、解消したりした痕跡はありません。ただ、癒しを必要としている人々が、次から次へ
とイエス様のもとへ押し寄せてきているという現実が、ヨハネに報告されるだけです。う
がった見方をすれば、あなた以外にも苦しみを負っている人たちはたくさんいるのだ、と
いうメッセージが返されるだけです。「わたしに、つまずかない人は幸いである。」(6節)
 しかし、治療された人々(5節)が社会復帰してからも、ヨハネを獄に捕らえた暴君と向
き合わなければならない社会的困難が待ち受けていたことは間違いありません。もし疑
問を抱くことが、つまずくことだとすれば、治療してもらった人々もまた、“イエス様の
みわざは、どのように自分たちを救ったと言えるのか”、疑問を抱く日も、そう遠くなか
ったことでしょう。そして何より、十字架上でのイエス様の叫び、神へのあの訴え(マタイ27
:46)も、イエス様ご自身が、神に対して、つまずいたということなのでしょうか。
 もしヨハネが つまずいたのだとしたら、また治療された人々が つまずいていくのだと
したら、イエス様も つまずいてくださったのです、共に。それは、十字架の言葉により、
永遠の命の“対話”が始まるためです。あらゆる疑問、苦悩から、絶えず新しい言葉が分
かち合われていく希望が創造され、まだ見ぬ人々、今まで背を向けていた人々とも、広
く共に生きる力が創造されるためです。(1コリント1:18) ひたすら十字架の言葉に聴き、い
かなる疑問、苦悩もごまかすことなく、「“対話”に、つまずかない人は幸いである。」 
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by hachimejibap | 2017-02-14 12:50 | メッセージ

神の国で食事をする人

テーマ 神の宣教
聖書 ルカによる福音書 14章15~24節
2017年1月1日     新年礼拝              牧師 左右田 理

 本日の聖書箇所、せっかく神の国の宴会に招かれていたのに、断ってしまうというの
は、どういうことなのでしょうか。きっとすると宴会を断った人たちだって当初は、た
だ、その招き以外には何の希望も持たないような乏しさを抱え、返礼するゆとりなどま
ったくあり得ない人たちだったのでしょう。(13~14節) ところが今、その宴会以外にも
豊富な選択肢がありました。(18~20節) 救いに飢え渇いていたときには、輝いて見えて
いた神の国の宴会、その招き…けれども救われ、さまざまな恵みに満たされていくうち
に、宴会への招きは、幾つもある輝きのうちの一つとして埋もれていったのではないで
しょうか。この たとえ話には、主の招きよりも大切なものができてしまった人々に対す
る、神の悔しさ、断腸の思い、救い主の うめきがあるのかも知れません。(24節)
 しかし、神の うめきは、神の あきらめではありません。神の国の宴会、その招きは、
何者にも、何事によっても決して妨げられることはないのです。教会はキリストのからだ
であり、神の僕です。招きが断られるたびに、さらに次なる招きに奉仕するよう、招きの
使命そのものが刷新されていきます。(21節) 招かれる人々の条件、資格は一切問わ
れることなく、ただ神が招くがゆえに、その招きはあらゆる人々へ広がっていきます。
(22~23節) これは当教会の主の晩餐式の際にも分かち合われている招きです。こうし
て神の国の宴会は、その招きを後回しにできるような ゆとりのある人々のもとから、返
礼のできない乏しさを抱えた人々のもとへと、より広く、ひたすら前進していくのです。
 この世の招きは、往々にして“共存共栄”志向です。相互に見返りを期待できる関係
になるかどうか、計算したくなる誘惑が潜みます。しかし十字架の命が支配する神の国
は、“共苦共生”への招きに他なりません。(ルカ3:11) 歴史的教会は、生きる悲しみ、つ
らさを分かち合うところにこそ、十字架の命の勝利を見てきたのです。当教会も、「教会
の信仰告白」が、神の国の宴会への招きになっているか、天から問われています。
 2017年の幕開け、私たちは神の国の宴会への招きに応えましょう。主イエスの祈りを
もって応えましょう。ただ、つつがなく持続される食卓ではなく、本当に今日、神の国の
宴会に必要な食卓を祈り求めましょう。主の祈り(新共同訳聖書(マタイ6:9~13)+日本キリ
スト教協議会統一訳頌栄)をもって、共に祈りましょう。
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by hachimejibap | 2017-02-14 12:40 | メッセージ
テーマ 救いの契約
聖書 ルカによる福音書 1章67~75節
2016年12月25日    クリスマス礼拝            牧師 左右田 理

 福音書にはバプテスマのヨハネという人物が登場しますが、彼は救い主イエス・キリ
ストの道備え役、露払い的な存在です。本日の聖書箇所では、そのヨハネの父親である
ザカリアが、キリストの降誕を預言する、クリスマスの賛美を捧げています。ザカリア
は宗教社会の祭司職にあり、民衆と神との執り成し役でした。彼の賛美から見えてくる
のは、神の平和が、この世の敵対関係によって霞んでしまっていた現実です。(申命記
28:20,29) 執り成しの祈りがなかなか成就しない現実、民衆が傷つけられ、その命が
奪われていく現実と向き合い続けてきたザカリアの うめきが背後にあって、このクリス
マスの預言、その賛美があふれ出たのです。(67節、ローマ8:26)
 イスラエルの歴史において、救いの契約は聖なる契約として覚えられてきました。(72
節) 民は、救い主の到来を、かつて周辺諸国を支配下に置いた軍人ダビデの末裔とし
て待ち望んでいました。(69節) すなわち、敵対関係の克服、神の平和を、敵が駆逐さ
れ、滅ぼされていく展望として民は期待していたのです。しかし救い主イエスは、敵対
関係の克服について、民の期待を裏切る生き方を指し示しました。イエスの証しする聖
なる契約、その成就としての神の平和は、敵を愛する神を まことの神として信じ、受け
入れるところにあったのです。(ルカ6:27~28,35~36)
 なぜ、愛に満ちたお方が十字架に掛けられ殺されなければならなかったのか…人は、
自分を救う者は味方と見ますが、敵を救う者は敵と見ます。自分を救った者が、敵を救
おうとするなら、裏切り者と見ます。こうして、あらゆる命を愛するイエスは、あらゆ
る人にとって裏切り者となっていく定めでした。聖なる契約は、神は、たとえ天の栄光
を傷つけられても なお、世をまったく愛しているということを証しするために、愛に満
ちていればこそ排除され、見殺しにされていった十字架の道を、この罪の世に創造したの
です。
 聖なる救いの契約は、天の みこころが降りてきて、自分たちが傷つかないよう、地上
を囲い込んでくれる明日を証ししているわけではありません。敵対関係に十字架の愛と
平和をもって臨む神の みこころが、まるで天に行き渡っているかのように、この地にも
広く行き渡る明日を証ししてくれているのです。聖なる救いの契約に聴き、主の祈り(新
共同訳聖書(マタイ6:9~13)+日本キリスト教協議会統一訳頌栄)を共に捧げましょう。
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by hachimejibap | 2017-02-14 12:30 | メッセージ
テーマ 聖霊の交わり
聖書 ルカによる福音書 1章46~55節
2016年12月24日    クリスマス・イブ礼拝        牧師 左右田 理

 いろいろな考え方、多様な価値観をお互いに認め合える世の中は素敵です。しかし、
価値観の多様化にともない、お互いの一致点を見つけることが難しくなり、多くの人々
が孤立と疎外感によって傷つき、人格を破壊されている現実があるのではないでしょう
か。聖書のクリスマス物語にも孤立、そして疎外感に苛まれていたと考えられる人たち
が登場します。一人は、救い主イエスを胎に宿したマリアです。マリアは嫁ぎ先予定で
あるヨセフのあずかり知らないかたちで子を宿していたのです。.ヨセフの家系がダビ
デ王朝の末裔にあたる名家だったことを思うとき、いわゆる玉の輿直前の悲劇、天国か
ら地獄へ…さらに当時の社会的常識からすれば、排除、抹殺の危機でした。(申命記22:
23~24) しかし聖書はこれを、聖霊によって宿ったと力強く証しするのです。(ルカ1:35)
 本日の聖書箇所でマリアと言葉を交わしているのは、親戚筋のエリサベトです。エリ
サベトは高齢出産をあと数ヶ月後に控えていました。イスラエルは歴史的に子孫繁栄
を尊ぶ宗教社会であり、宗教指導者の妻でありながら長く子宝に恵まれなかったエリ
サベトは、社会的孤立、疎外感を抱え続けることにおいて筋金入りだったと考えられま
す。孤立、疎外感は人から言葉を奪い、他者との出会いを奪います。しかしルカ1:41~45、
および本日の聖書箇所には、その二人が、言葉が奪われ、出会いをあきらめて当然の境
遇にありながら、互いに喜びの言葉を交わす姿が描き出されています。この姿こそ、ク
リスマス物語が証しする聖霊の交わりではないでしょうか。
 まことの神、救い主なる神は、疎外感に痛めつけられている人々の間に宿ります。そ
の救いの究極的姿が、世から後ろ指をさされながら排除され、殺されていく者たちの真
ん中にお立ちくださった十字架のイエスです。本日の聖書箇所でマリアは、わが子の行
く末に成就する神の救いを、聖霊によって先取りし、賛美していたに違いありません。
 歴史の主による救いの契約(55節)は、絶えず世の常識、社会的評価を乗り越えて、
人と人との出会いを創造します。富や地位に囚われている人々を解放し、生きる悲し
み、つらさが分かち合われる出会いにこそ、喜びの言葉が創造されるのです。(51~53
節) このクリスマスにも、十字架の言葉によって、全世界で分かち合われていく永遠
の喜びこそ、救い主なる神の憐れみ、神の力です。(47~50節、1コリント1:18)
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by hachimejibap | 2017-02-14 12:20 | メッセージ

マリアの賛歌―平和の歌

聖書 ルカ1:39~56
テーマ クリスマス
2016年12月18 日                協力牧師 北島靖士

クリスマスの祝いにはローソクがつきものです。わたしもクリスマスのお祝いに
はLED電球ではなくて、ローソクの光がふさわしいと思っています。なぜなら、最近
の照明では周りの闇が見えないからです。全体が光だらけ、闇など存在しないような
錯覚に陥ってしまいます。しかし、ローソクの光は闇の中に輝く光であることがはっ
きりとわかるのです。闇とはダニエル書9:17~19によるならば世界と人間の荒廃です。
このような荒廃したわたしたちのところに、光として、絶対的な平和シャロームとし
て、ちいさい嬰児として、イエス・キリストは来てくださいます。
マリアの賛歌はいつごろ作られたものでしょうか。聖書学者の間にもいろいろな説が
あります。ある人によればこれはキリスト教が迫害を受けていた時代につくられたも
のだというのです。AD64年からローマ皇帝ネロの大迫害がはじまります。ローマの大
火の原因をネロはキリスト教徒のせいにして多くの人が処刑されました。パウロもペ
トロもこの時に殉教したと言われます。この迫害の脅威が地方にも広がって行く中で、
キリスト教徒たちは不安と恐怖のただ中になげこまれました。一体自分たちはどうな
ってゆくのだろうか。教会は消えてなくなってしまうのではないか。どうしてローマ
の絶対的な権力に抵抗できるだろうか、と考えると夜も眠れない日々が続くのです。
そのような中で彼らは旧約でアブラハムに主が語られた「主に不可能なことがあろう
か。」を思い起こします。マリアに受胎告知した天使も「神にはできないことは何一
つない」(37節)といいます。人間の考えからは絶望しかないところでも神さまは希
望を起こされます。
教会でここの聖書の箇所について話合っていた時にある人が44節の「あなたの挨拶の
お声をわたしが耳にしたとき、体内の子は喜んでおどりました。」は妊娠6ヶ月にな
って、お腹の中で胎児が動くのを経験した女性の実感でしょうと言った人がありまし
た。もっともここで喜び踊ったのはバプテスマのヨハネですが、イエスさまもすでに
マリアの胎内におられました。胎内にいる子どもはまだ見ることはできません。しか
し、すでに、確かにそこにいるのです。わたしたちの中にもイエスさまを今肉眼で見
えないから信じることが出来ないという人がいます。しかし、この肉眼で見えないか
もしれませんがイエスさまはたしかに今わたしたちと共に生きておられるのです。そ
して信じる者はお腹の中でドスンドスンと胎児が動くのを感じる女性のようにはっき
りとイエスさまを実感できるのです。どうか、このイエスさまを信じ、イエスさまを
喜び、この世界に平和を作り出す働きをする者として生きようではありませんか。
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by hachimejibap | 2017-02-14 12:10 | メッセージ

みんなで歌おう!共に話そう!そして一緒に祈ろう! 〒193-0833 東京都八王子市めじろ台2-15-2 ℡.042-663-7036


by hachimejibap