八王子めじろ台バプテスト教会

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2016年
八王子めじろ台バプテスト教会の
イブ礼拝、クリスマス礼拝へ ようこそ!
皆様のお越しをお待ちしています。



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by hachimejibap | 2016-12-06 14:20 | 教会からのお知らせ

いと小さき者

テーマ 救いの契約
聖書 ミカ書 5章1~3節
2016年12月4日                   牧師 左右田 理

 本日の聖書箇所は福音書のクリスマス物語に引用されています。(マタイ2:6) 今は小さ
くとも、やがて大きくなる、小さいけれども小さくないのだ…この“逆説的真理”は、
人知を越えた救いの契約として、世界で最初のクリスマスに成就しました。全世界の救
い主との出会いが約束されたその先に待っていたのは、その将来が海のものとも山のも
のともつかぬ幼子、そしてまた、御殿の寝室には ほど遠い、家畜小屋のエサ箱に寝か
されていた赤ん坊でした。そこに、あり得ないことがある、起こりえないことが起こさ
れる、すなわち創造のみわざが証しされたのです。救いの契約は、人知を越えた救いの
到来を信じるよう、私たちを招く創造主の言葉です。(ローマ4:17)
 創造は人知を越えています。弟子たちのそれまでの労力など、すべてが葬り去られる
ことになった主の十字架、あの絶望的出来事こそが、弟子たちに復活の力をもたらす
原点となり、この世にキリスト教会が創造されました。救いの契約は、徒労に終わった
過去に来訪する救い主を証しします。(1節) 落胆に終わった、その時、その場に創造
主を証しする言葉であり、それまで馴染んできた慣例としての知恵や、慣習としての生
活が葬り去さられていく言葉でした。(ルカ5:5~6,11) 救いの契約は、世界的な生みの苦
しみを証しする、世界的な希望です。(2節、ローマ8:22)
 世界で最初のクリスマスもまた、救いの契約を証ししました。既存の社会的パワーバ
ランスに身を委ねてきた神の民は不安に囚われました。(マタイ2:3) しかし、国境、人種
を乗り越えていくことを通して平和に仕えていく礼拝者が創造されたのです。それまで
馴染んできた生活環境を後にし、すべてを捧げていく民として。(マタイ2:2,11)
 大国が“世界の警察”放棄を宣言し始めている今、治安・平穏無事志向は、“大の虫
を助けるために小の虫を殺す”施策に過ぎなかったことが、歴史の主によって明らかに
されつつあるのではないでしょうか。歴史の主が十字架にお立ちくださったこと(3節)に
よって、死の苦難に連なる命こそが、全地に満ちあふれる豊かさとなる時が来るという、
人知を越えた歴史的“逆説的真理”が明らかにされたのではないでしょうか。十字架に
よる救いの契約は、安定志向に閉じこもろうとする者には愚かですが、世の苦しみ、悲
しみに連なる群れにとっては、永遠の命に満ちた力です。.(1コリント1:18)
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by hachimejibap | 2016-12-06 14:15 | メッセージ

神が熱心!

テーマ イエス・キリストの来臨
聖書 イザヤ8:23~9:6
2016年11月27 日                協力牧師 北島靖士

アッシリアのティグラトピレセル2世は紀元前734年と732年にパレスナに攻め入ってイ
スラエルの王国の一部を占領してしまいました。8章23節の地名はこの歴史的出来事を
指しています。アッシリアの専制君主のもとでイスラエルの民は塗炭の苦しみをなめ
なければなりませんでした。この苦しみのためにうめいていた人々に自由と救いを語
り伝えたのがイザヤという預言者でした。預言者とは何でしょうか。預言者はヘブラ
イ語でローエーと言われます。ローエーとは見る者と言う意味です。わたしたちも見
ます。しかしわたしたちの見るところは表面なのです。本当の姿が見えていない。今
日しか見ず、明日が見えていない。神さまが見られるように物事を見るものが預言者
です。
苦しみは永遠に続くように見えます。人には夜明けが見えない。その時にイザヤ言い
ます。嬰児の姿をしたメシア救い主がお出でになる…と。
しかし、人々は反論します。そんな赤ん坊なんて権力者にとってひとひねりだ。事実
700年後にイエスさまがお生まれになった時、ヘロデ王による嬰児虐殺がおこりました。
どんな良心的な行動でも兵士の靴によって踏みにじられてしまうのが現実ではないか。
作物は戦車で瞬く間に踏み倒されてしまうのだ。権力に逆らうことなどできないのだ。
軍靴や軍服が枯草のように焼き捨てられるなどとはありっこない。お前のいう光、
希望、平和など夢にすぎないではないか。
たしかにそれがイザヤが作った政治的プログラム、救済計画であったらそうでしょう。
しかし、彼は9節の終わりに「万軍の主の熱意がこれを成し遂げる。」と言っています。
どのようにして。より強力な政府をつくることによってではない。より多くの近代化
した軍事力を持つことによってでもない。
全くわたしたちの思いも及ばないことですが、神さまがひとりの嬰児をわたしたちの
世界に誕生させると言う方法です。この嬰児は「驚くべき指導者」です。口語訳聖書
では「霊妙なる議士」というよくわからない訳になっていましたね。これは「驚くべ
き計画をする人」と言う意味です。神さまは人間の計画では予想もできない方法でま
ことの平和を実現されるのです。その方法とはあのゴルゴタの上に立った十字架です。
このようにイエスさまによって生きる時に闇や行きづまりに光が差し込んでくるのです。
神さまが解放されます。人を解放されます。自由にされます。生き生きと喜びにあふ
れて生かされます。
万軍の主の熱心がこれをなしとげられます。人間はすぐにあきらめます。もうだめだ
と言います。しかし、万軍の主の熱心がこれをなしとげられます。
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by hachimejibap | 2016-12-06 14:10 | メッセージ

恐れるな

テーマ 信仰告白
聖書 ローマの信徒への手紙 10章26~31節
2016年11月20日                       牧師 左右田 理

 初代教会において、信仰告白と迫害には関係がありました。(17,26~27節) 何か悪さ
をしたわけではないのに、なぜ迫害を受けねばならなかったのか…ここに、歴史的教会
が信仰告白を重んじるべき理由があったのではないでしょうか。
 迫害の大きな原因の一つが、主の食卓でした。(マタイ9:9~13) 「みんなから嫌われてい
る奴、警戒されている奴と、なんで、わざわざ仲良く食事なんかしているんだ?よし、ア
イツを先に懲らしめてやろうぜ」…その食卓を囲む人が増えれば増えるほど、とばっち
りとしての迫害もたくさん招き寄せることになる食卓、それが主の食卓でした。初代教会
時代、主の食卓に連なることは、自分も“共に”嫌われ者となる定めでした。私たちが月
一回、主の食卓を継承する主の晩餐式を共にするとき、いったい誰と共に生きようとし
ているのでしょうか。(32~33節)
 初代教会時代、主の食卓を囲んだ人は、自分の身内や仲間も同類と見なされ、迫害
に捲き込まれていく現実と向き合わされたことでしょう。共に主の食卓を囲むのか、拒む
のか…身内や仲間も、主の食卓をめぐる分裂、対立を避けて通れない現実と向き合わ
され、その多くが迫害者側になったのでしょう。(34~39節) しかし、それでもなお、主の
食卓を囲むよう招く主の言葉を継承し、その“苦しい対話”にこそ永遠の命がある、とい
う生き様、死に様こそが、教会の信仰告白の起源だったに違いありません。(28節)
 復活の主と出会って間もない初代教会ですら、主の食卓を囲み続けることに多くの戦
いがあった様子が使徒言行録には描かれています。しかも、敗北のときもあったようで
す。(ガラテヤ2:11~12) ましてや主が復活されてから長い時を経て、歴史的教会が何度も
敗北を喫したとしても不思議はありません。バプテスマ、主の晩餐式、さらに教会の信
仰告白までもが、一致のためとしながら外部に対する優位性、自己正当化など閉鎖性
に堕してしまうときもあったことでしょう。しかし、だからこそ今、教会の信仰告白の
復興もまた、より「広く共に生きる」チャレンジとして、「絶えず新しい言葉に生きる」
チャレンジとして、十字架の平和の主から世界的規模で要請されているのではないでし
ょうか。私たちの教会も、その平和の主の要請に応えて、絶えず新しい言葉に生きるこ
とに秀でた群れへと成長できるよう(29~31節)、共に祈ろうではありませんか。
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by hachimejibap | 2016-12-06 14:05 | メッセージ

言い表して救われる

テーマ 信仰告白
聖書 ローマの信徒への手紙 10章5~13節
2016年11月13日                      牧師 左右田 理

 本日と来主日は、2016年度に向けた計画総会(2016.3.20)で、新しい「教会の信仰告
白」作成に向けた取り組みについて言及したことを覚えつつ、礼拝メッセージに取り組
みたいと思います。「なぜ心で信じているだけではダメなのか。人前で告白しなければ
救われないのか」(10節)。今までノンクリスチャンの方々から何度も耳にした問いです。
ひょっとすると、聖書や教会を通してキリスト教に触れた際、そのような疑問を抱く方
は少なくないのかも知れません。そのような疑問に応えるために、まず意識したいこと
は、心に信じるとは、「十字架の主こそ復活の主」を信じることだということです。(9節)
 十字架の主とは、神の掟(5節)によって生きることのできなかった者たち、その社会、
共同体からは不合格とされ、排除された者たちの主です。ですから主イエスを告白する
信仰告白は、神の掟に合否判定を見る人々に対しては、十字架の栄光を貶めていない
かという問い直しとなり(6節)、神の掟に断罪を見る人々に対しては、陰府にくだった十
字架の愛を否定する上昇志向に囚われていないかという問い直しとなることでしょう。
(7節) こうして主イエスを告白する信仰告白は、歴史的教会において、心貧しく、悲し
み、義に飢え渇く者たちの中から起こされる預言者活動(マタイ5:12 本日の招詞)に連なる
決意表明となってきたのです。
 バプテスト教会は歴史的に、信仰告白によるバプテスマを大切にしてきました。そこで
表されてきた、十字架の命の主と一つになる(ローマ6:3,5,9,11)という救いの理解は、十字
架の主を仰ぐところであらゆる命が一つになるという希望です。(9~13節、ガラテヤ3:27~28)
当教会も、主の晩餐式のテーマとして「主イエス・キリストにあって共に死に、共に生きる
ために」を掲げています。「十字架の主こそ復活の主」という信仰は、信仰共有の輪の
広がりに向けた、歴史の主の招きだったのです。
 十字架の主の言葉は、隣人の うめきのただ中から、すでに現れています。(8節) 復
活の主が、今も隣人の苦しみの中に生きて働いてくださっているからです。だとしたら、
絶えず、これから出会う隣人の苦しみと、広く連なっていくところで、「十字架の主は復活
して、今も生きて働いておられる」という私たちの信仰告白が、豊かに成就していくにな
るのです。(2コリント6:8~10)
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by hachimejibap | 2016-12-06 14:00 | メッセージ

みんなで歌おう!共に話そう!そして一緒に祈ろう! 〒193-0833 東京都八王子市めじろ台2-15-2 ℡.042-663-7036


by hachimejibap