八王子めじろ台バプテスト教会

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テーマ 復活の主の食卓
聖書 使徒言行録 9章1~19節
2016年11月6日                     牧師 左右田 理


 復活の主のみわざの多くが食卓を囲むことでした。(ルカ24:30、ヨハネ21:12) 本日の聖書
箇所も、直接的ではありませんが、復活の主の食卓だと思います。本来なら食卓を囲め
るはずの無かった者どうしが(1、14節)、復活の主との出会いによって、互いに食卓を囲
むようになったという、人知を越えた食卓だったからです。私たちは本日礼拝で、主の晩
餐式に臨むに際し、復活の主の食卓をめぐって起こされる恵みを数えましょう。
 一つ目は、敵に食卓を提供することになる恵みです。(19節) アナニアはクリスチャン
として、自分がサウロの殺意の対象であることは十分わかっていました。(13節) つい
数日前まで殺意に燃えていた者が(1節)、たとえ一時的に意気消沈していたとしても(9
節)、視力が回復した途端に、恩を仇で返すような振る舞いに及んでも不思議はありま
せん。しかし復活の主は、敵が元気を取り戻すための食卓に奉仕するよう、アナニアを
招いたのです。(19節) だとしたら復活の主の食卓は、いわば被害者が迫害者をもてな
す食卓です。アナニアは、どうして、そんな理不尽な食卓に向き合うことができたのでし
ょうか。それは、復活の主の食卓においては自分もまた、主を殺す(見殺しにした)側とし
て招かれているという点で、迫害者サウロと一つであるという十字架の真理を自覚して
いたからではないでしょうか。(マタイ26:34~35,74)
 復活の主の食卓をめぐる恵みの二つ目、それは、復活の主の食卓が、派遣の食卓に
成る、ということです。その食卓によって元気を与えられた者は(19節)、復活の主によっ
て派遣されるのです。既存の社会や共同体の安定を揺るがす存在として、排除されて
いく者たちの苦しみと連なるために。(16~17節、ルカ22:37) 私たちは復活の主の食卓を
囲み、共に十字架の道へ派遣されます。これもまた主の晩餐式の恵みです。
 アナニアがこの後、サウロを伝道者パウロへと心変わりさせた元凶として、迫害者た
ちから、さらに激しい追求を受けることになっても不思議ではありません。復活の主の食
卓は、今の自分たちの礼拝生活を満喫するための食卓ではなかったのです。自分の後
から来る者たち(後生)が、礼拝生活に固く結び合わされていくため、その必要に奉仕す
ることを喜ぶ食卓に他なりませんでした。私たちも後生の礼拝に仕えるため、主の祈り
(新共同訳聖書(マタイ6:9~13)+日本キリスト教協議会統一訳頌栄)を共に捧げましょう。
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by hachimejibap | 2016-11-07 20:00 | メッセージ
テーマ 新生
聖書 使徒言行録 9章14~17節
2016年10月30日                    牧師 左右田 理


 断食は、旧約聖書には悲しみや悔い改めなどを表明する宗教的振る舞いとして描か
れていますが、新約聖書の初代教会では、派遣、職務任命などの際に執り行われてい
たようです。(使徒言行録13:2~3) イエス様の時代には、神の国イスラエルはローマ帝
国の支配下にあり、多くの苦難がありました。国難を、神に背いた罪に対する裁きとし
て理解していたイスラエルの民にとって(申命記28:15)、断食を日常化させていないイエ
ス様たちが、悔い改めを軽んじているように見えたのではないでしょうか。(14節)
 しかし、福音書は悔い改めを、天の国(神の国)到来に備えるようにと、主が招く出来事
として証ししています。(マタイ3:2、4:17、マルコ1:15) 福音(良き訪れ)は、困難、神の裁き
を、滅びや警告として見て終わることなく、神の国到来の希望の宴として見るよう招きま
す。(詩編23:5) この招きに応えることこそ、福音による悔い改めです。初代教会は悔い
改めを、個人的内面的修正としてではなく、キリストの言葉による他者との“出会い”と
して受けとめていくことによって、やがて異邦人伝道に踏み出していったのでしょう。
 本日の聖書箇所でイエス様は、“出会い”を婚礼をめぐる喜び、悲しみにたとえていま
す。(15節) それは結婚する二人の出来事としてではなく、列席者の出来事として語られ
ています。“出会い”は、他人事の喜び悲しみが、自分の喜び悲しみと成る出来事です。
(ローマ12:15) キリストの福音は、同胞(身内、旧知)が馴染んでいる作法、生き方を要請
してくるような問い(14節)に対して、相手の異質性との“出会い”に献身する「キリスト
の自由」へ悔い改めるよう、招き返すことをもって応えるのです。(1コリント9:19~22)
 使徒言行録には、初代教会が当初、いわゆるユダヤ教の礼拝堂で礼拝し、既存のユ
ダヤ教の慣例、枠組みの中で生きようとしていた様子がうかがえます。しかし歴史的教
会は、キリストの福音を、まだ見ぬ新たな“出会い”、人知を越えた“出会い”として
受けるため、馴染んでいた慣例を手放す自由に生きてきたのです。(15~16節) この自由
がなければ異邦人伝道もなく、また、その自由のおかげで、今の日本の教会があります。
歴史的教会は、それまで馴染んできた宗教的、民族的な慣例が滅ぼされるような、新
たな出会いを選び取りつつ、世界的福音に仕えてきました。(2コリント4:16) 私たちの教会
も、落胆することなく、絶えず新たに生まれ変わりましょう。
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by hachimejibap | 2016-11-07 19:00 | メッセージ

もっと大きな業

テーマ :召天
聖書 ヨハネによる福音書 14章1~14節
2016年10月23日   召天者記念礼拝           牧師 左右田 理

 「天(父、神のもと)へ私が先に昇っている。後からあなたがたを召してあげよう」。
(1~3節) これが昇天の主キリストの“道”です。(6節) だとしたら、本日の召天者記念
礼拝は、天への“道”に、すでに召し入れられた方々を記念する礼拝だと言えるでしょう。
そして“道”は“真理”でした。(6節) “真理”とは、弟子たちが十字架の“道”へ召
し入れられることでした。(ヨハネ17:19) 召天者は、十字架の“命”の道に、すでに召し入
れられている方々です。(6節)
 日本にも「天国へ行く」というような言い回しがあります。人はそれに対して、ある特定
の場所へ移り住む、という印象だけに縛られてしまうかも知れません。本日の聖書箇所
でもイエス様が、「父(神)のもとへ行く」とおっしゃることに対して、弟子たちは、その行
き方、行き先(で出会う相手)の確証を求めています。(5,8節) しかし「父(神)のもとへ行
く」とは、人の中から父(神)の“業”が現れるという、救いの出来事そのものを指していた
のではないでしょうか。(10~12節) 人が天(神のもと)へ たどり着く道ではなく、天(神)の
方から人の中へと訪れ、迎え入れてくださる“道”、すなわち良き訪れ、福音です。
 では、本日記念されている召天者の方々、そのただ中から、神の“業”がどのように現
れているのでしょうか…私たちはそれをよく知っています。私たちが今日、十字架の主
のもとへ呼び集められていること自体が、その“業”だからです。父(神)のもとへ、あらゆ
る命を招き寄せる“業”こそが、ご自分の食事だとキリストは証しされました。(ヨハネ4:34,
38) だとしたら、皆がこの礼拝に呼び集められている今日の“業”もまた、召天者の皆さ
んが、すでにキリストの食卓を囲んでいることを証ししているとも言えましょう。キリスト
と共に死ぬ者は、キリストと共に永遠に生きるのです。(ヨハネ11:25)
 キリストと共に死に、キリストと共に生きる…それは先に申しました、十字架の“命”の
“道”へ召し入れられるという救いの“真理”です。(ヨハネ17:19) 真理は、命が、後生のた
めに捧げられ、費やされていくとき、すでに永遠の命になっているというキリストのご支
配を証ししてくれています。私たちもまた、後生のためにすべてを捧げていくときに、召
天者の方々と共に、永遠の命へと新たに生まれ変わっているのです、すでに。そして召
天者の方々と共に、キリストの食卓を囲んでいるのです、すでに。
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by hachimejibap | 2016-11-07 18:00 | メッセージ
テーマ :新生
聖書 マタイによる福音書 16章21~28節
2016年10月16日                     牧師 左右田 理

 皇帝崇拝の都市フィリポ・カイサリアで、弟子ペトロによる「イエスこそメシア(キ
リスト、王)」という信仰告白は、イエス様によって、キリスト教会の土台だと宣言さ
れました。(マタイ16:16~17) しかし、その告白は常に、その時代、その社会の権力者か
ら警戒、敵視される告白であり、いわば死と直面する信仰告白でした。本日の聖書箇所
でペトロにしてみれば、イエス様には、いかなる妨げをも突破するヒーロー然としたキ
リスト像、死のの危険を跳ね返すような救い主像を自覚してもらいたかったのでしょう。
しかしイエス様は、十字架の死から目を逸らそうとするペトロの姿勢を「サタンよ、
引き下がれ」と一喝されたのです。
 十字架の主の死と向き合う日々を背負っていく者こそが、キリストが証しする命を得
ます。(24節) 歴史的教会は、キリストが証しする命を永遠の命として受けてきましたが、
それは失うことで得られるのです。(25節) だとしたら、その命は、その人自身の“中に
とどまる”ことができないもの、その人自身の“外に向かっていく”ものでしょう。十字
架の命は、当時の社会的権威によって排除されていた病人や罪人たちと一つになってい
きました。その排除、迫害による十字架の主の死こそが、復活の栄光でした。そして、
その復活の栄光こそが、世の苦しみ、悲しみにあえぐ後生を、キリストの子孫として新
たに生まれさせる道しるべとなったのです。(イザヤ53:3,4,10,12) だから永遠の命を受け
ている人は、自分の全生涯が十字架の主によって贖われ、後生の苦しみ、悲しみに対
する慰めと希望の器として役立ててもらっていたことを(詩編22:2,25~26)、再臨の主によ
って証しされるのです。(27節)
 復活は十字架の死の向こう側に起こりました。神の国の栄光(28節)もまた、十字架の
死の向こう側、十字架の言葉に従っていくその先に起こることを、歴史的教会は学ばさ
れてきたのでしょう。(マタイ17:5,8) この世の国は、対外関係(他者との関係)において優
位が保たれることを国益(利益)として教えます。しかし神の国は、他者との比較優劣、
分断が取り払われていく“キリストの明日”こそが国益(利益)であると教えます。(ガラテ
ヤ3:27~28) 私たちは共に、“キリストの明日”に向かう国益、利益を世に向かって訴え、
証ししていきましょう。神の民として、より多くの方々と共に、十字架の命に生きるた
めに。
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by hachimejibap | 2016-11-07 17:00 | メッセージ

これは何だ

テーマ 主の祈り
聖書 ルカ11:1~13
2016年 10 月9 日                協力牧師 北島靖士

主の祈りはよく用いられるマタイ6章に基づいたものと、もう一つはルカ11章にあり
ます。ルカの主の祈りにはただちに「夜中にパンを求める人」と「求めよ」の話が
つづきます。マタイには離れて7章に「求めよ」の話があります。このことから、ル
カでは「パンを求める」ことが大事なことと考えられ、それは主の祈りの「わたした
ちに必要な糧を毎日与えてください」と結びついていることがわかります。これは
伝統的には主の祈りが「主の晩餐式」の中(即ち礼拝の後半部分)で祈られること
につながって来ます。
エジプトで奴隷になっていたイスラエルは故郷のカナンに着くまで40年間シナイの荒
野をさすらいました。途中何度も食べるものが尽きて飢える経験もしました。その度
ごとにイスラエルは神に対してつぶやき、叫び求めました。しかし、神は荒野に食物
を備えておられました。イスラエルはそれを見て「これは一体何だろう」(出エジプ
ト記16:12~15)と言いました。ヘブライ語で「マナ・ホワ」と言います。このパン
を見てイスラエルは「これは何だ、マナ・ホワ」と言ったのです。以来、このパンを
マナと呼ぶようになりました。
主の晩餐式の式文を思い起こしてください。「イエスさまの人々との共同の食事にも
主の晩餐式の由来があります。これらの食事は何よりも先ず、主イエスの招きの食卓
です。招かれたその一人一人を、パンを食べ,杯を飲むという具体的で日常的な行為を
通して、主イエスを中心にした交わりの中に招き入れ、迎え入れてくださいます。」
わたしたちはパンを熱心に求めることがゆるされているのです。熱心に求めてよいの
です。主は必ずわたしたちの祈りに応えてくださいます。ただその応えには次の四つ
があるというのです。第一は直接の答え、第二は遅れる答え、第三は拒絶される答え、
第四は訂正される答えです。
主は必ずわたしたちの祈りに応えてくださいます。信じて祈りつづけましょう。
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by hachimejibap | 2016-11-07 16:00 | メッセージ

みんなで歌おう!共に話そう!そして一緒に祈ろう! 〒193-0833 東京都八王子市めじろ台2-15-2 ℡.042-663-7036


by hachimejibap