八王子めじろ台バプテスト教会

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2016チャペルコンサート

今年も、
いよいよ近づきました

チャペルコンサート
皆様のお越しをお待ちしています。



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by hachimejibap | 2016-10-09 22:33 | 教会からのお知らせ
テーマ :赦しの食卓
聖書 ヨハネによる福音書 21章15~19節
2016年10月2日                    牧師 左右田 理

 わたしの小羊を飼いなさい(15節)…これは、いわゆる教会員の面倒を見なさい、とい
う意味だと思ってきました。しかし、行きたくないところへ連れて行かれてしまうのであれ
ば(18節)、既存の仲間たちの面倒など見られるはずもありません。では、ペトロが世話
をすべき“羊”とは誰なのか…まず第一に考えられることは、ペトロを捕縛し、行きたくな
いところへ連れていく“敵”なのではないかということです。(ルカ6:27~28) そして二番目と
しては、ペトロ同様、行きたくないところへ追いやられたり、閉じ込められたりしている人
たちではないかということです。(マタイ25:37~40) そして三番目としては、ペトロの死に方
(19節)と向き合う“後生”ではないかということです。(ヨハネ12:23~26)
 羊とは誰のことか、愛するとはどういう事か、栄光を現すとはどういう事か…聖書を読
むときにも私たち罪人は、ついつい“自分の都合”に関係しそうなポイントに意識が囚わ
れてしまいやすいのです。しかし、聖書から聴き取るべきポイントは、罪人を羊として見
なしてくださる“イエス様のまなざし(視点)”であり、十字架を栄光と見なす“神のまなざし
(視点)”なのではないでしょうか。
 復活のイエス様からの問いに対してペトロは、「愛しています」と単純な応え方ができま
せん。本日の聖書箇所が、ペトロを始めとする弟子たちがイエス様を十字架上に置き去
りにし、見殺しにして、まだ日が浅かったこととも関係しているのでしょう。主イエスに対し
て自分の思いがどうなっているのか、胸を張って応えられないような、自信の無い者に、
大切な“羊”を任せたりして良いのでしょうか?…良かったのだと思います。「いかなる自
分の思いも、イエス様の まなざし、その みことばによって判断してもらおう」、この“へり
くだり”こそが、“羊”と正しく向き合える、まことの希望に他なりません。
 わたしを愛しているか…イエス様からの問いのあるところは、赦しの食卓になります。
“羊”の世話をするという“業”を任せてもらえるからです。その“業”こそが、主の十字架
によって証しされる永遠の命の糧だからです。(ヨハネ4:34) その“業”に献身するとき、既
存の教会員も“羊”となっているのです、すでに。永遠の命の糧によって養われているの
です、すでに。ここに赦しの食卓の力があります。希望をもって“主の祈り”を唱えましょ
う。「わたしたちに必要な糧を今日与えてください。」(マタイ6:11)
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by hachimejibap | 2016-10-05 23:00 | メッセージ
テーマ :フレンズ・デイ
聖書 マタイによる福音書 28章20b節、フィリピの信徒への手紙 2章25~29節
2016年9月25日                      牧師 左右田 理

 9月は、教会学校月間です。そして本日はフレンズ・デイ、みことばによる友との出会
いを喜びましょう。その昔、私が所属していた小学科クラスに、1学年下の子が入ってき
ました。とても気立てが良く、また賢く、良い仲間ができたと喜んでいました。しかし高学
年になると、彼は教会に来なくなり、道で会っても通り一遍な返事しか返ってきませんで
した。その後、耳に入ってきたこととして、親御さんによる英才教育の一環として、彼は
一学年上に入っていたそうです。教会の交友関係って、向上心の道具なのかな?…寂
しさと相まって、少し ひがんでしまったのを覚えています。
 イエス様は神に等しいお方であり(ヨハネ5:18)、弟子たちは人間であり、しもべです。にも
かかわらず、イエス様は、弟子たちのことを友と呼ぶ、とおっしゃいました。(ヨハネ15:15)
しかし、友と呼んでもらってすぐに、弟子たちは、イエス様を十字架上に置き去りにし、
見殺しにしたのです。弟子たちは、よみがえったイエス様から、二度と友と呼んでもらえ
なかったのでしょうか?決して、そのような絶望的結末のはずがありませんでした。なぜ
なら、キリストの言葉が語りかけられ、知らされたからです。キリストの言葉に対する私
たち側の出来不出来ではなく、知らされたこと自体が、“一方的に”友と呼ばれる証しだ
からです。イエス様の戒めは、いくつもあれど、本日の聖書箇所マタイ28:20後半にありま
すように、みことばの軸は、「イエス様は永遠の友」ということに他なりません。
 本日の聖書箇所フィリピ2:25には、エパフロディトという人について記されています。当
時、獄中にあった伝道者パウロから、協力者、戦友などと紹介されているのですが、パ
ウロのもとに到着してから病に倒れ、かなり自信喪失していたようです。(2:26) しかしパ
ウロは言うのです、「エパフロディトのような人々を敬いなさい」と。それは、無駄骨、徒
労といった社会的評価を背負わされている人々こそが、すでに、十字架の苦難の主に
結び合わされた命であり、イエス様の友として歓迎されるべき人々だからです。(2:29)
 ひたすら愛し、友とまで呼んだ弟子たちにまで裏切られて終わったご生涯、無駄骨、
徒労のご生涯…しかし、それこそが復活の命となったのです。何か都合の良さを得るた
めに友を得るのではありません。友を得るために友を得る、それが、みことばの友です。
フレンズ・デイから心新たに、友を得る明日へと、共に歩み出しましょう。(1コリント15:58)
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by hachimejibap | 2016-10-05 22:00 | メッセージ

ほかの町にも

テーマ :神の国の福音
聖書 ルカによる福音書 4章42~44節
2016年9月18日                   牧師 左右田 理

 9月は教会学校月間です。教会学校は、神の国の福音を分かち合います。福音とは
良き訪れ、イエス様の みことばが私たちのもとへ訪れてくださることに他なりません。し
かし福音は、私たちのもとにとどめておくことはできません。福音は訪れたその時から、
“ほかの町”へ前進していくからです。
 旧約聖書において神の国とは、荒れ野を旅する神の民イスラエルに、約束の地として
指し示されていたカナンの地でした。(出エジプト6:4) それは やがて、聖地エルサレムの
“内側こそ”が神の国だという意識となっていきました。(エレミヤ14:13) それは やがて、内
側に居さえすれば大丈夫という怠惰と堕落を招き、イスラエル王国は裁かれ、滅ぼされ
ていきます。また、それは 新約聖書の時代には、外側に居る、いわゆる よそ者(異邦
人)は滅びの民、落伍者、といった見下し、差別につながっていったと考えられます。しか
し、新約聖書において初代教会は、イエス・キリストの十字架を通して、イスラエルの聖
地から出て行く先に神の国を見ました。(ヘブライ13:13) 神の国は、特定の場所、不動の
場所ではなく、あらゆる命を救うため、あらゆる所へ訪れる神のご支配として受け取って
いきました。(ヨハネ4:21)
 “一致のため”という掛け声が、慣例など既存の枠組みを傷つけないこと、はみ出ない
こととして受け取られてしまうことがあります。しかし、それはキリストの言葉による一致
でないことは明らかです。(ルカ12:51~52) ですから私たちは、キリストの一致に向かって、
すなわち復活の命の一致に向かって進みましょう。たとえそれが既存の枠組みを傷つ
けることになろうとも、共に、現状から踏み出し、復活の命の祝宴において一致する明
日へ出かけましょう。(ルカ14:12~14) キリストが証しする神の国の福音は、ただ外へ向か
うことではなく、みことばのもとで新しい出会いを受けるために、外へ向かうのです。
 私たちの教会学校も、ただ帰ってくる場所ではありません。教会学校分級は、派遣さ
れていく場所です。.分級に集まるのも、絶えず、みことばのもとで新しい出会いを受け
るためです。集まったその場から、絶えず、みことばによる新しい出会いを分かち合う明
日に向かって、派遣されていくためです。私たちにとってまだ見ぬ人々のもとへ、すでに
キリストは前進しておられます。そのみ足跡をたどって、派遣されていきましょう。
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by hachimejibap | 2016-10-05 21:00 | メッセージ
テーマ 明日の十字架
聖書 ヘブライ13:7~16
2016年 9 月11 日                協力牧師 北島靖士

イエス・キリストは今、さまざまな課題を抱えて生きているこのわたしと共に生きておら
れます。毎週、毎週礼拝を捧げてイエス・キリストに出会い、そこから派遣されるこの
「教会」すなわちわたし達と共に生きておられます。また多くの問題が山積し、出口が見
えないように思えるこの世界とともにイエス・キリストは生きておられます。そのような
イエスさまを今日読みましたヘブライ人への手紙13章8節では「イエス・キリストは、きの
うも今日も、また永遠に変わることのない方です。」と言っています。
わたしたちの神さまは観念的な神さまではありません。聖書は「神はこのように語られた」
「神はこのようになされた」と告げる書物です。神は何をされたのでしょうか。ヨハネに
よる福音書3章16節にあるように神はイエス・キリストをこの世界に贈られたのです。それ
はわたしの救いのためです。それはわたし達の救いのためです。そしてあなたの救いのた
めです。ではイエス・キリストはわたしの、わたしたちの、あなたの救いのために何をさ
れたのでしょうか。それが十字架です。紀元30年のユダヤ暦ニサン月の十四日のことです。
これが昨日の十字架です。この十字架が2000年たった2016年の現代に生きているこのわたし
たちの救いであると言う、これが今日の十字架です。そして十字架は明日のあなたの救いで
す。それをあらわすのが12節のイエスは「門の外で苦難に逢われた」という言葉です。13節
の「イエスが受けられた辱めを担い、宿営の外に出て、そのみもとに赴こうではありません
か。」です。わたしたちひとりひとりも、イエスさまに従い、門の外に出ることが求められ
ているのではないでしょうか。門の中は居ごごちよいように見えます。安全、安心のように
思えます。これまで通りやっていればなんの問題もないようです。しかし、明日のために、
明日のための十字架に従って、門の外に向かって一歩を踏み出すことが求められているので
はないでしょうか。困難があるかもしれない。しかし十字架の主がともにいて必ず助けてく
ださいます。そこは主のみもとです。
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by hachimejibap | 2016-10-05 20:00 | メッセージ

彼らはわたしの民となる

テーマ :神の民
聖書 エレミヤ書 31章33~34節、  マタイによる福音書 6章 14~15節
2016年9月4日                    牧師 左右田 理

 以前、旧約は儀式的外面的契約、新約は心の内面的契約、という区別を耳にしまし
た。大雑把な区別だとは思いますが、本日の聖書箇所であるエレミヤ書31章33節を見
ますと、新約は旧約に比べて、人の心に注目する傾向があることは確かでしょう。しか
し、そのような新約理解は、人を閉鎖的断罪的な葛藤に陥らせてしまうことがあります。
たとえば、当教会礼拝式にもある「主の祈り」を、「自分は人を心“から”赦せていない」
と苦しみながら唱えている方も少なくないと思います。しかし、自分(の心)“から”では
なく、(新約の)主の言葉“から”唱えることこそが、「主の祈り」です。(エレミヤ31:34)
 初代教会にとって新約の主の言葉の原点は、十字架の叫びでした。(マタイ27:46) 迫
り来る断罪、迫害の嵐に向かっていた初代教会は、十字架の叫びを、裁き主なる永遠
の神と、イエスのまわりで裁かれていく命とを向き合わせる救いの力として受けたに違
いありません。(1コリント1:18) そして旧約の恵みにおいては、今に生きる私たちより精通
していた初代教会は、罪の赦しは個々人の内面“から”ではなく、キリストの言葉を中心
にした対話“から”起こされるということを信じ(イザヤ1:18参照)、礼拝で共に「主の祈
り」を唱える伝統をも、後生に残してくれました。
 聖書は、あらゆる人が罪人であることを証ししています。心“から”赦せない私たちの
弱さは、聖書書記者たちも同じです。世の終わりについて、赦せない心の反映として断
罪の描写があっても不思議はありません。(マタイ6:15など) しかし、だからこそ、自分の
心“から”単純に読み進めてしまうことのないよう、絶えず十字架の言葉“から”聴き直
し、読み直していくのです。「主の祈り」も、“主の”祈りとして、十字架の叫び、キリ
ストの言葉“から”唱えましょう。復活の主は昇天の主です。十字架の叫びは天に届き、
それに応えることこそが天の御心と成った今、私たちは、永遠の赦しのご支配が地上に成
るという確信的希望“から”、共に、大胆に、主の祈りを唱えましょう。(マタイ6:10,12)
 主の祈りは、私たちに、昇天の主、再臨の主“から”祈るよう、要請しています。キリス
トの明日“から”、今の祈りの生活、礼拝生活、教会生活を絶えず見直しましょう。まだ
見ぬ人々と互いに仕え合い、赦し合う「世の終わり」に向けて、ひたすら広がっていく福
音の食卓に連なる民として、私たちは何でもしましょう。(1コリント9:19~23)
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by hachimejibap | 2016-10-05 19:00 | メッセージ

みんなで歌おう!共に話そう!そして一緒に祈ろう! 〒193-0833 東京都八王子市めじろ台2-15-2 ℡.042-663-7036


by hachimejibap