八王子めじろ台バプテスト教会

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テーマ :罪の赦し
聖書 マタイによる福音書 6章11~12節
2016年7月31日                      牧師 左右田 理

 ある人が言いました。「主の祈りの中で唱えることがつらい部分がある。“自分たちが
赦したように、赦してください”(1880年訳)などと唱えたら、結局、自分たちはまったく赦
されることなく、滅ぼされてしまうのではないか」…主の祈りは、救い主の祈りです。断罪
のための祈りではありません。1880年訳では“罪”と訳されている言葉は、原語に照ら
し合わせるなら“負い目”です。(「主の祈り」新共同訳聖書(マタイ6:9~13)+日本キリスト教
協議会(NCC)統一訳頌栄 参照) “負い目”とは、“犯罪”(断罪)という意味ではなく、隣
人関係を問い、“共に生きる”を問う言葉です。ですから主の祈りを通して、私たちは、
今日の食卓が隣人と共に生きるために必要な食卓になるよう、祈り求めているのです。
(11節、7/3「今日のメッセージ」参照) 共に生き切れなかった今日を、くり返し命の主に
赦してもらいながら、“共に生きる”が完成する復活の明日を見詰めながら、十字架の
道へ踏み出していけよう、祈り求めているのです。(12節、マタイ6:33~34)
もし、共に生き切れていない自分を正当化し始めるなら…すなわち、他者の過ちを赦
さないなら、自分も赦されないのです。(マタイ6:13~14) もし誰かに対して「自業自得」呼
ばわりするなら、その裁きが自分自身に“返ってくる”のです。(マタイ7:2、(7/24「今日のメ
ッセージ」参照) 戦後日本社会は経済成長期、バブル崩壊時、そのつど、時代の価値
観から はみ出た人々に対しては、自己責任論、親の責任論を突きつけ、彼らを切り捨
てながら、家内安全、商売繁盛の社会的体裁を保ってきました。そのような日本社会
が、やがて“返ってくる”裁きを前にして、どのような立つことができるのでしょうか。
 だからこそ、私たちは主の祈り、救い主の祈りを共に唱えましょう。いまだ主を知らな
い人々にも、共に祈るよう、呼びかけ、招きましょう。「自分たちが赦した“過去(実績)”
によって赦してください」(1880年訳参照)ではなく、キリストの赦しの“宣言”(マタイ9:2)と共
に生きていく希望をもって、「…赦しましたように」と唱えましょう。(新共同訳聖書+NCC
統一訳頌栄 参照) “主の”宣言は必ず成るのですから。(ヨハネ黙示録21:5)
 明日から平和月間です。日本バプテスト連盟諸教会と共に、世界中で平和の主を待
ち望んでいる人々と共に、主の祈りを唱えましょう。“共に生きる”ことができなかった
日々を赦され、あらゆる命と共に主の食卓を囲むことになる明日に向かって。
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by hachimejibap | 2016-08-03 11:00 | メッセージ

彼らに耳を傾けるが良い

テーマ :罪の赦し
聖書 ルカによる福音書 16章19~31節
2016年7月24日                  牧師 左右田 理

 本日の聖書箇所は、イエス様による例え話の一つです。「金持ちとラザロ」とも呼ばれ
ています。本日は、この例え話が、当時、神の掟(律法)の専門家だったファリサイ派の
人々を批判する文脈の中で語られている点に注目したいと思います。つまり死後の世
界の描写でありながら、じつは現世を問いただすための例え話だと考えられます。
 金持ちは地獄の業火で苦しみながら、舌を冷やさせて欲しい(24節)、と訴えます。地
獄の業火とは舌そのものだったのではないでしょうか。(ヤコブ3:5~6) 大言壮語、自己主
張は、自己正当化合戦となって周囲に燃え広がり、その競争についていけない命があ
れば、「あれは怠け者だ、“自己責任”だ」、「親の顔が見てみたい」(ヨハネ9:2)という断罪
の言葉で世が焼き尽くされるのです。自己責任、親の責任…それは、苦しむ命を遠ざけ
ることを正当化させる食卓に人を閉じこめていく呪いの言葉です。(19~21節)
 金持ちは地獄の業火で苦しみながらも、しかし、希望の言葉、救いの言葉が指し示さ
れています。(29節) ところが金持ちは、せっかくアブラハムが証ししてくれたその希望、
モーセと預言者を通して与えられる救いの言葉が、まるで無駄であるかのような受け応
えをするのです。(30節) ユダヤ民族は歴史的に、5才までにモーセによる神の戒めなど
を暗唱させてしまうくらい宗教教育が徹底されていると言われます。しかし金持ちは、本
当に、モーセと預言者たちに耳を傾けていたのでしょうか。(ヘブライ11:13) 
 私たちはここで、この例え話をお語りくださったのはイエス様であることを忘れてはなり
ません。歴史的キリスト教には、十字架が1本の印だけでなく、3本立っている印もありま
す。それは、この世で断罪されていく者たちの苦しみのど真ん中をゴールとして、ひたす
ら前進してくださった十字架の主イエスを証ししています。(マルコ15:27) それは罪人たち
に、すでに訪れている罪の赦しです。そして、いわゆる模範的市民も、受刑者と“共に”、
「自己責任」「親の責任」などという断罪用語、自己正当化用語に負けてしまう弱い罪人
たちとして、十字架の赦しを受けることができる恵みです。
 地獄の業火に苦しむ金持ちは、傍らに、すでに、十字架の苦難の赦し主が共にいるこ
とに、果たして気づくだろうか…これは、上昇志向(23節)に囚われていたファリサイ派の
人々に対する、イエス様の愛による問いかけだったのではないでしょうか。
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by hachimejibap | 2016-08-03 10:00 | メッセージ
テーマ 牧師
聖書 使徒言行録8:26~40
2016年7 月17 日              協力牧師 北島靖士

何故、教会に牧師が必要でしょうか。聖書解釈者としての牧師が必要です。「聖書解
釈者としての牧師」というのはあるアメリカの神学者の言葉ですが、聖書から神の言
葉を語る者と言う意味です。数千年も前に書かれた言葉を、現代の世界とそこに生き
る人々に向かって語るには専門的な訓練を受けることが必要になります。しかし、
これは神学校を出なければ牧師の資格がない、と言っているのではありません。
神の言葉とは何でしょうか。ヨハネ1:14にあるようにイエス・キリストを語ることが
神の言葉です。神の言葉を語るとは現代の世界と人間に、あの十字架にかけられたナ
ザレのイエスによってこそ救われるのだと語ることです。ですから、生けるイエス・
キリストに出会った人はすべての人はその証をすることが出来るのです。
フィリポは聖書(イザヤ書)から説きおこしてイエスについての福音を告げしらせた
のですから(使徒言行録8:35)、聖書解釈者としての牧師でした。牧師は信徒一人
一人に対する牧会の責任もあります。牧会とは何でしょうか。一人一人に、その時の
その人にもっとも必要なみ言葉を取り次ぐということなのです。このような牧師が教
会には必要なのです。
そして聖書はどれだけ深く研究しようとも、そのままで神のことばであるわけではあ
りません。それは古代の文献に過ぎないのです。しかし、そこに聖霊が働く時にのみ、
神の言葉になるのです。聖書朗読とメッセ―ジの前に祈祷があります。これは「聖霊
の照らしを求める祈り」(イルミネーション)と言われる祈りです。 礼拝において
わたしたちは神の言葉を聴き、祝福を受け、礼拝から派遣されて、日常へと帰ってゆ
き、「喜びにあふれて人生の旅をつづけて行く」(使徒言行録8:39)のです。
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by hachimejibap | 2016-08-03 09:00 | メッセージ

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by hachimejibap