八王子めじろ台バプテスト教会

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テーマ :神の赦し
聖書 出エジプト記 33章1~3,12~17節
2016年7月10日                     牧師 左右田 理
 昔から、「旧約聖書の神は、怒ってばかりいる」というようなことを耳にします。しかし、
ある人は言いました、「神さまが怒ったという記述は、いったい幾つあるのか。1000年
以上もの、旧約聖書の歴史において、数えるほどの回数しか無かったとすれば、よっ
ぽど神の忍耐、神の赦しの方が際だつのではないか。」…私たちは、本日の聖書箇所
からも神の赦しを聴くことができるのではないでしょうか。(ローマ11:33)
 出エジプト記32章で、すでに神の民は、救いの神に背いていました。神は裁きます。た
だし、「あなたがたは約束の地に入れない」、ではありません。「約束の地に入れるよう
にはするが、もはやわたしは同行しない」、という裁きです。(1~3節) 神の裁きは、いわ
ゆる天罰ではありません。神の裁きは問いです。すなわち、「民よ、あなたが求めるの
は、家内安全、商売繁盛なのか、それとも、あなたがたを世界的繁栄国家エジプトでの
奴隷の苦役から、荒れ野へと救い出した、この わたし自身なのか」…(マタイ6:24)
 モーセは神に訴えます、「もし、あなたが“共に”いてくださらないなら、私たちが今、こ
こに たどり着いたことに、何の意味があるでしょう。これから行く先で、あなたからの愛
が明らかにならないなら、私たちはそこに入るする意味を失います」。(12~13節) 神が
引き続き同行し、安息をくださるという約束(14節)に対しても、モーセは、さらにたたみ
掛けます。「神ご自身が私たちと共にいてくださるということ、神ご自身が私たちを愛し
ていてくださるということが、明らかになることを私は求めます。もし、それが明らかにな
らないなら、約束の地、安息の地へ出発させないでください」。(16節、マルコ12:28~30)
 神の赦しは、神の裁きとしての“問い”に向き合い続けていくよう、人々を招き、迫り、
また導く神の労苦なのです。神の赦しは、ただの無罪放免(追放、排除)ではありませ
ん。神に背を向けている者には悔い改めを呼びかけ、隠された罪(自己正当化)は指摘
し、みことばの勝利に向けて粘り強く対話を進めていく神の忍耐です。神はキリストを復
活させました。それは、あらゆる命との対話を進め、みことばの勝利をあらゆる命に満
たし、あらゆる命を義とするためでした。(ローマ4:25) この神の赦しを全世界に告げ広め
ていく器として、私たち八王子めじろ台バプテスト教会も、熱く好意を寄せられていること
を感謝しましょう。神の名指しに共に応えましょう。(17節)
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by hachimejibap | 2016-07-10 22:21 | メッセージ

御心が行われますように

テーマ :主の祈り
聖書 マタイによる福音書 6章10b~11節
2016年7月3日                       牧師 左右田 理
 この地上において“天”を知っているのは、“天”から降りてきた人だけです。すなわち
イエスのみが、まことに“天”に立ち帰ることのできる道を知るお方として、十字架の道
を証ししたのです。(ヨハネ3:13~14) 主の十字架の道は、世の多くの人々が近づこうとしな
い道であることを歴史的教会は、よくわかっていました。(マタイ7:13~14) しかし、だからと
いって、もし十字架の道から逸れてしまうなら、祈りも、賛美も、奉仕も、奉献もすべて
が“天”から遠ざかってしまうこともまた、歴史的教会にはわかっていたのです。(マタイ7:
21~23) こうして歴史的教会は、主の十字架にこそ、“天”の御心が完全に証しされてい
ることを信じ、十字架のみを誇り、掲げ続ける道を選び取ってきたのです。
 従来の主の祈り(1880年訳)にあるような、「御心を“なさせたまえ”」という語調は、新
約聖書の原典と異なる(6/12「今日のメッセージ」参照)というだけでなく、主が十字架に向
かう祈りの葛藤(ルカ22:42)とも異なります。内に葛藤を秘めつつも、天命として「御心が
“行われますように”」という語調にこそ、十字架の道が見えてくるのではないでしょうか。
実際、主の祈り〔新共同訳聖書(マタイ6:9~13)+日本キリスト教協議会(NCC)統一訳頌栄〕
では、新約聖書の原典であるギリシア語に対応して、「御心が“行われますように”」とな
っています。
 主の祈りにおいて御心は、食事に進みます。天の御心が満たされるための食事です。
決して、ただ食欲が満たされるための食事ではありません。実際、主の祈りの直後に、
断食について言及されていますから。(マタイ6:16~18) それは神の目線に気づくための
断食です。天の御心がどこへ向かっているのかに気づくための断食です。ですから主
の祈りは、天の御心、十字架の主、十字架の道に立ち帰る食事として、唱えられるべき
でしょう。主の十字架の道は、その時代、その社会において呪われた者として忌み嫌わ
れ、排除された命の傍らに立つための道であり、それらの命と一つになるための道でし
た。主の祈りもまた、霊的な断食として、食事を分かち合う道でしょう。(イザヤ58:6~7) 無
事を願って“日用の糧を今日も”(1880年訳)ではなく、分かち合いのために“必要な糧を
今日”(新共同訳+NCC統一訳頌栄)、与えてください、と唱えましょう。そして主の晩餐
式で、十字架で裂かれたキリストのからだを記念するパンを、共に分かち合いましょう。
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by hachimejibap | 2016-07-07 13:00 | メッセージ

イエスは家に入られた

テーマ 主の晩餐式
聖書 ルカ24:28~35
2016年6月26日                 協力牧師 北島靖士

イエスは共にに泊まるために家に入られました。そしてその家の中の食卓で、
パンをさかれたその時に、イエスさまはご自身を復活の主として現されます。
イエスさまはわたしたちの世界に入ってこられました。わたしたちの貧しさと、
卑しさとの中に入ってこられました。わたしたちの血肉の中に入ってこられま
した。イエスはわたしたちの悩み、苦しみ、呻き、罪の中にこられるのです。
そして、わたしたちと共に悩み、苦しみ、呻いてくださるのです。そのしるし
がイエス・キリストの十字架です。フィリピ2:6~8
先月みなさんにお見せしたWCC(世界教会協議会)のシンボルマークを
思いだしてください。海はこの世界です。その上を進む舟は教会です。そして
そこに大きな十字架で表されるイエスがおられるのです。イエスはわたしたち
の中に来てくださいます。わたしたちの世界に来てくださいます。イエスは
わたしたちの教会に来てくださいます。
時々「説教によってわたしは傷つけられた」という人がいます。勿論、その
説教がどんな説教であったかは厳密に検討されなければなりません。しかし、
何かがわたしたちの中に入る時にはわたしたちはかならずしも快感だけではな
いことも事実です。例えば注射針が腕に入る時、わたしたちは痛みを覚えます。
そのように、イエスがわたしたちの中に入ってこられる時、わたしたちは痛み
や不快感を覚えることもあるのです。しかし、この痛みはわたしたちが本当に
生かされるためには、癒されるためには必要な痛みなのです。
ヨハネの黙示録3:20にあるようにイエスは今、外に立って戸を叩いておられま
す。わたしたちの中に入って食卓を共にされようとしています。主の食卓とは
主の晩餐式のことです。来週の主の晩餐式にみなさんは招かれています。あな
たがたの手の中にはイエスさまの招待状があるではありませんか。
八王子めじろ台教会の現在会員はもとより他行会員も、そして教会の周辺に住む
人々も招かれています。みなさん、一人、一人がイエスの招きに応えて、イエス
と食卓を共にするか、どうかが問われているのです。
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by hachimejibap | 2016-07-07 10:58 | メッセージ

富は、天に積みなさい

テーマ :命(ぬち)どぅ宝の日
聖書 マタイによる福音書 6章19~24節
2016年6月19日                       牧師 左右田 理
 幼少の頃、本日の聖書箇所(19~20節)は、「地上の物事は価値がない、天的な物事に
こそ価値がある」というメッセージだと思っていました。しかし、すぐにイエス様はお
っしゃるのです、「空の鳥を見よ、野の花を見よ」(マタイ6:26,28)…だとしたら本日の
聖書箇所も、何かが積み上げられていく“天上の出来事”に注目せよ、ではなくて、
“すでに地上にある天”に注目せよ、という招きです。 (吉野 弘 「虹の足」 参照)
 日本での“目は心の窓”という言葉は、“目は心の鏡(目は、心の中を映し出す)”という
意味ですが、21~23節は、“目は、人の内側に明るさをもたらす明かり取りの窓”という
意味です。だとしたら、“いつも何を見ているか”ということが、その人の人格形成に大き
な影響を及ぼすということです。光に目線が向けばその人の内側は明るくもなり、光か
ら目線が逸れてしまえば暗くもなるのです。そして救い主なる神は、闇が深ければ深い
ほど輝く、闇の中の光、十字架の光を世に与えてくださったのです。(ヨハネ1:5)
 当時、世界を支配していたローマ帝国に抑圧されていた人々は、権力者の横暴と、そ
れに対する復讐心とが交錯する世相を、そして、その争いに巻き込まれて愛する人々
の命が失われていく悲惨を、くり返し見せつけられていました。イエス様が宣言された
天国(マタイ4:17)に驚喜した人々も、結局、イエス様を十字架に見殺しにして逃げてしま
ったその現実は、人は罪の世を見続け、闇に心覆われ、天の希望の光が理解できなくなっ
ているということを証ししているのでしょう。
 しかし、闇の中に復活した光は、誰からも理解されないそのただ中で、今も輝いてい
ます。「神も仏もあるものか」という絶望と怒りに覆われた闇の奥底から、天の希望を指
し示す みことばの光として。「天を見よ!鳥、風、花の種、雲、星、月、太陽…そこに境
界線を引くことなど誰にもできない、まったき自由をもって、さまざまなものが行き交う
世界はすでにある。だから、あらゆる命が“生かし合い仕え合う世界”、すなわち“天”へと
共に歩み出そう!あらゆる富を“天”に捧げていこう!(19~20、24節)」
 命どぅ宝の日は、先の大戦で引き裂かれ、散らされた命が、あらゆる違いを超えて、
その生死の境をも超えて共に生きる“天”を共に祈り求めるよう、沖縄から呼びかけら
れています。神の平和の七色に彩られた“天”の豊かさを共に祈り求めましょう。
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by hachimejibap | 2016-07-06 22:00 | メッセージ

御国が来ますように

テーマ :主の祈り
聖書 マタイによる福音書 6章10a節
2016年6月12日                      牧師 左右田 理

 神の民は、神の国を待ち望んでいました。旧約以来、メシア(新約聖書のキリスト)は、
神の国をもたらす存在として、祈り求められてきました。イエス様のまわりに集まった群
衆も、すぐにも神の国が来る、という熱い期待を寄せていました。(ルカ19:11) 弟子たち
も、“さぁ、イエス様、神の国を来させてください!”という熱い期待でもって、死の覚悟ま
でも口にできたのでしょう。(マタイ26:35) けれどもキリストの十字架は、人の熱心による
祈りが御国とは相容れなかったという霊的な真実を証ししたのです。(ローマ10:2~3)
 まことに御国に向かうことのできる祈りを生み出せるのは、「主のみ」です。「主の祈
り」の前半部(御名…、御国…、みこころ…)は、新約聖書の原語ギリシア語に照らし合
わせるなら、「~ますように」という訳が適切です。実際、「新共同訳聖書(マタイ6:9~13)+
日本キリスト教協議会(NCC)統一訳頌栄」は、そのように訳しています。ところが、5/29
「今日のメッセージ」でも申しましたように、“従来の”主の祈り(1880年訳)は、誰が、な
ぜ、「~させたまえ、~らせたまえ」と訳したのか、その歴史的経緯は不明です。そして
“従来の”主の祈りを唱えるとき、「人の熱い期待としての祈り」という印象がぬぐえませ
ん。そして、そのような疑問を検討、解明しようにも、誰を(どの資料を)軸にして対話を
進めていけば良いのか、歴史的手がかりが不明なのです。
 5/29「今日のメッセージ」で分かち合ったこととしてもう一つ、「主の祈り」とは、
「キリストの言葉に聴く対話の場による祈り」だということがありました。そして福音書
においてキリストの言葉は、徴税人など罪人として見下され、肩身の狭い思いをしている
人々を招き、対話する言葉でした。だとしたら「主の祈り」は、熱心に祈るどころか、神
さまに顔向けできず、まともに祈れない人たちに託された祈りです。(ルカ18:13~14)
うめくことしかできない人に期待し続ける、“神の”熱心の祈りです。(ローマ8:26)
 主の祈りは、神の熱心に委ねる祈りです。もはや何も願い得ない悲惨のただ中に立
つ十字架の主の祈りです。御国を待ち望む思いを、“絶望に沈んでいる人々と共に”し
ていく復活の主の祈りです。祈れている私たちよりも、祈れない人々が先に御国を迎え
るよう、求めずにはいられない祈りです。この6月、命どぅ宝の日…沖縄の うめきを覚
える私たちの祈りが、主の祈りにふさわしいものとなりますように。
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by hachimejibap | 2016-07-06 21:00 | メッセージ

みんなで歌おう!共に話そう!そして一緒に祈ろう! 〒193-0833 東京都八王子市めじろ台2-15-2 ℡.042-663-7036


by hachimejibap