八王子めじろ台バプテスト教会

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テーマ :復活
聖書 コリントの信徒への手紙 一 15章1~10節
2016年3月27日 イースター礼拝                牧師 左右田 理

 初代教会は、ユダヤ教の選民主義的全体主義から解放される途上で、当時のギリ
シャ・ローマ文化的個人主義から多くの影響を受けたようです。キリストの再臨前に寿
命を迎えた人は救いから漏れてしまったのか(18節)、復活は霊的な出来事として済んで
しまったのではないか(2テモテ2:18)など、復活の希望に関わる初代教会の議論の背景に
も、個人主義的な考え方が色濃く見えます。そして本日の聖書箇所でも、伝道者パウロ
は個人の信心を問い直しています。(2節) しかし、キリストの復活の出来事そのものは、
意志や能力など個人的資質によらず、キリストの復活を信じられずにいた者から、積極
的に反抗していた者に至るまで、広く豊かに証しされたのでした。(5~9節)
 復活の主は、人の罪のために死なれたお方として(3節)、キリストを裏切り、殺してしま
ったという自責の念に囚われた者たちのもとへ真っ先に駆け寄ります。(5節) 十字架
により、犯罪者の1人として葬られたお方として(4節)、社会的に追われ、散らされ、葬ら
れていく者たちを、新たに一つにつなげて救いの民とするために駆け寄ります。(6節)
聖書の成就として(4節)、十字架に至るイエスの歩みこそ復活の命に至る歩みであった
ということの証し人を起こすために駆け寄ります。(7節) そして、もっとも罪深い者こそ、
もっとも大きな働き人とするために駆け寄ります。(8~10節) 
 自分の願望が満たされることを自らの喜びとする生き様は罪の世の常です。しかし復
活の主に満たされていた十字架の命は、他者の命に仕えることを自らの喜びとして、あ
らゆる命に向かって絶えず広がろうとしました。ですから復活は、単なる肉体のよみがえ
り(蘇生)ではありません。蘇生は、よみがえった際、他者の存在を忘れていたとしても、
その人自身としての蘇生は完了します。しかし復活は、他者が見失われているかぎり成
立しないのです。自分の願望や満足よりも、他者の命に仕えることを自らの幸いとする
ところにこそ(使徒言行録20:35)、復活は成就しているのです、すでに。
 復活は、“共に”の広がりを信じ(2節)、“共に”理解そのものが成長する命です。新生
讃美歌679「ベネディクション(祝福)」の歌詞で、「…わたしたちと共に…」が標準とされ、原文
通りの「…あなたがたと共に…」が括弧に入れられてしまったのはなぜでしょうか。復活
の主の道は、無償の愛の道でした。教会の“共に”にも、くり返し悔い改めが必要です。
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by hachimejibap | 2016-03-29 19:00 | メッセージ

あなたも見ていたのか

テーマ イエスの死
聖書 ルカ23:32~43
2016年3月20日                 協力牧師 北島靖士

週報の宣教題を「あなたも見ていたのか」に変更させてください。今日は歌いませんが、
これは有名な黒人霊歌・ニグロスピリチュアルです。最近は黒人・ニグロという言葉が差
別的にとられることがあるので、アフロ・アメリカン・スピリチュアルといわれるように
なりました。しかし日本で黒人という場合にはただ白人と区別する意味でだけ使われるこ
とが多いので、今は黒人という言葉を使わせていただきたいと思います。この黒人とはい
うまでもなく、アフリカから奴隷としてアメリカに連れてこられた黒人とその子孫であり
ます。その黒人達が19世紀の初め頃から続々とクリスチャンになってゆきました。彼らは
クリスチャンになった時、白人から教えられた讃美歌も歌いましたが、同時に自分たちの
讃美歌を造り出してゆきました。その言葉は彼らの奴隷としての境遇を表わしていました。
曲は先祖の地であるアフリカのリズムやテンポを取り入れていました。これが黒人霊歌で
す。「あなたも見ていたのか」はその黒人霊歌の中でも特に優れているものの一つです。
黒人達は鞭打たれ、嘲られ十字架につけられて血をながして苦しみのうちに死んでゆくイ
エスさまの姿に、奴隷として白人から鞭打たれ、苦しみもがく自分たちの姿を見たのです。
 使徒パウロはかつて「この道の者」すなわち犯罪者として十字架にかけられたイエスに
従うものたちの迫害者でした。その彼がコリント一2:2「 なぜなら、わたしはあなたがた
の間で、イエス・キリスト、それも十字架につけられたキリスト以外、何も知るまいと心
に決めていたからです」と言います。
 わたしたちが自分のありのままの姿をごまかしなく見つめること、それは恐ろしいこと
です。ですからわたしたちは自分自身から逃げようとします。しかしイエスの十字架のも
とに立ち、十字架を見つめる時、わたしの本当の姿,罪の自分とその自分を神さまが徹底的
にゆるし、受け入れてくださっていることを信ずること出来るのです。イエスさまに従っ
て生きることができるのです。
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by hachimejibap | 2016-03-29 18:00 | メッセージ
テーマ :再臨
聖書 ヨハネ福音書 14章1~14節
2016年3月13日 主日礼拝                牧師 左右田 理

 本日は、受難週を来週に控え、十字架の道の先にあるキリストの再臨について共に、
みことばに聴きたいと思います。キリストは私たちのために十字架の道を切り開いてくだ
さった勝利をもって天に昇り、その十字架の真理をもって、再びこの世に臨んでくだるの
です、その後ろに永遠の命の住まいを従えながら。(3,6節) こうして私たちは神の国の
住まい、すなわち神の“みわざ”の中に、永遠に迎え入れられることでしょう。(10節)
 キリストの中からあふれ出た父の“みわざ”とは十字架です。そして、その“みわざ”
を信じるよう、今もキリストは語りかけ続けてくださっています。それは裏切るとわか
っている相手と愛し合い続ける交わりへと招く言葉です。(ヨハネ13:34,38,マタイ5:44) 裏切
り者を愛する交わり、敵を愛する交わりに私たちを招くことこそが“みわざ”であり、
そこにこそ、すでに神の国の住まいが始まっていることを信じて欲しい、とイエス様は
訴えておられます。(10~11節) そして、そのような神の国の住まいが成就した世界へと
私たちを迎え入れるために、やがて主は再び降りてきてくださることでしょう。
 キリストの“みわざ”とは十字架です。キリストの“みわざ”よりも大きいわざとはな
んでしょうか。(12節) 信仰者と言えども罪人であることに変わりはありません。私たち
にどのようなことができるというのでしょうか。キリストの“みわざ”は「他者に仕える
こと」、すなわち奴隷の仕事を引き受け、他者を高めるということでした。(ヨハネ13:5,12,
14~15) 献金が神さまへの返金であるように、私たちは“みわざ”に向けて、すべてをお
返しする自由があるのではないでしょうか。この地上の営み(マタイ25:35~36,40)はもちろん
のこと、天国に用意されている私たちの住まいすらも。(ヨハネ黙示録4:10~11)
 「わたしはこの地上でイエス様と出会えて幸せです。すでに永遠の幸せの中にありま
 す。だからイエス様、あなたが私の為に用意して下さった天国の私の家に、クリスチャ
 ンでない人を、とりわけイエス様を迫害し、福音に敵対し、私たちを傷つけてきた人た
 ちを住まわせてあげて下さい。」
 ひたすら“みわざ”を祈り求めていく道の先にこそ、再び主は降りてきてくださること
でしょう。その時、そのところにこそ、十字架の主、天の父と一つとなる私たちの姿が豊
かに現され(12~14節)、神の国が成就することでしょう。ハレルヤ!主を待ち望め!
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by hachimejibap | 2016-03-29 17:00 | メッセージ
テーマ 十字架
聖書 ローマ6:1~11
2016年3月6日                 協力牧師 北島靖士

 復活祭(イースター…今年は3月27日)の前日から数えて、さかのぼること40日間を受
難節(レント)と呼んでいます。今日は受難節第四主日にあたります。この期間はイエ
スさまの十字架の死に思いを集中し、つつしみ深く過ごす時とされています。八王子め
じろ台教会で提唱されている「十字架の言葉を受けつつ生きる」生活について深く考え
る時であるということもできるでしょう。
 今年は受難節第6主日(20日)もわたしの宣教担当なので、「受難週消火礼拝」をさせ
ていただきたいと願っています。
 また、この期間は古代においてはバプテスマの準備期間とされていました。バプテスマ
志願者はこの期間を白い衣を着て過ごしたということです。そして信仰生活を学び、準備
しました。それはバプテスマが「キリストの死にあずかるバプテスマ」(ローマ6:3)だ
からです。わたしたちがキリストと共に葬られたものであり、キリストの復活という新し
い命に生きている者であることを表すものがバプテスマだからです。(4節)3節の「キリ
スト・イエスに結ばれるバプテスマ」は直訳すると「キリスト・イエスの中へとバプテス
マされる」となります。
 イエス・キリストの中へとバプテスマされ、その死と復活に結びついて生きるーこの事
実を多くのキリスト者たち証しして参りました。その一人に矢内原忠雄がいます。矢内原
は東京帝国大学経済学部教授で、内村鑑三門下の無教会キリスト者でした。彼の専問は植
民地経済でしたが、研究すればするほど日本が植民地からどんなに酷い搾取をしているか
という事実を突き付けられました。そこで論文に「日本よ、死ね、一度死んで復活せよ」
と書きます。また講演で「理想を失った国は亡びる。主よ、この国を葬ってください。」
と叫んだため、ごうごうたる非難が巻き上がり、遂に辞任させられてしまいました。1937
(昭和12)年のことです。世に「矢内原事件」と言います。日本の敗戦後、矢内原は復職
し、東京大学総長も勤めました。役職がどうのこうのではありません。イエスの中へとバ
プテスマされ、死んで、生きることが最も重要なことです。
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by hachimejibap | 2016-03-29 16:00 | メッセージ

果たすべき責任

テーマ :奉仕
聖書 ローマの信徒への手紙 1章8~15節
2016年2月28日 主日礼拝               牧師 左右田 理

 本日の聖書箇所から気づかされることは、伝道者パウロが証しする奉仕は、自分が属
する教会共同体の存続、拡張が目的ではなかったということです。奉仕の目的は、福音
をまだ知らない人々のために、協力伝道の輪を広げていくことでした。(9,11節)
 ところで、福音を知らない人々の中に、ローマを拠点とするキリスト教会の信徒たちが
含まれているかのようにも読めるのは、単なる誤解なのでしょうか?(15節) その点、当
時の社会的背景も少し確認しましょう。新約聖書の時代、世界を席巻するローマ帝国
は、ローマ・ギリシャ文明によって世界トップクラスの英知を誇っていました。そしてロー
マ教会の信徒たちも、そのような社会的風潮に抵抗することなく、比較優劣、競争意識
に陥っていたようです。(ローマ3:9) “未開の人(15節)”というパウロの言い回しも、当時の
社会的常識、その感覚を問い直す意図があったではないでしょうか。
 パウロの奉仕は、感謝に裏付けられています。(8~9節) その感謝は、自分の伝道奉
仕が報われたからということでも、ローマにクリスチャンが生まれ、また増えたからとい
うことでもありません。自分たちが知らされている信仰が全世界に広がっているからで
す。ローマの信徒たちにとって、それは“未開の人”たちにも自分たちと等しく信仰が届
けられているということです。すなわち、ローマの人たちと“未開の人”たちとに、等しく信
仰が起こされていることに対する感謝です。信仰による感謝には、比較優劣、競争など
入り込む余地はないのです。(ルカ18:9~14)
 福音的な信仰とは、自分の不信心を自覚しているということでもあります。信じ続けよ
うとしながらも、いざとなればキリストを十字架に置き去りにして裏切るという罪を自覚し
つつ、その不信心な自分を義とする救い主の訪れ、すなわち福音を信じるということで
す。(ローマ4:5) だとしたら信仰による奉仕とは、感謝がわきあふれた結果です。自分の
報いや評価に囚われることも、他者の働き具合を裁くこともありえません。奉仕につい
てイエス様は、「身を低くして仕えなさい」と招いておられます。(マルコ10:37,41~45)
 主と共に、身を低くして…信仰による奉仕とは、他人の労苦が、さらに裏切り者の労苦や、
敵の労苦が、キリストによって報われ祝されるものとなることをこそ、自分の喜びとしてい
く道でもあるのでしょう。
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by hachimejibap | 2016-03-12 18:25 | メッセージ

主の死を告げ知らせる

テーマ :平和
聖書 コリントの信徒への手紙 第一 11章23~34節
2016年2月7日 主日礼拝                  牧師 左右田 理

 コリントの信徒への手紙 第一 11章には、主の晩餐式についての記述があります。そ
こから見えてくることは、コリント教会には、食事会があり、貧富の格差という社会的背
景があり、暇のある金持ちが先に来て飲食に打ち興じる一方で、働いても働いても生
活がラクにならない貧者が駆けつけた頃には残り物はわずか、腹を空かせたまま帰る
という分裂があったということです。(21~22節) 伝道者パウロはそのような分裂に対し
て、主イエス・キリストの食卓を説きます。それは、弟子たちにまで裏切られた死、見捨
てられた死、そのような自らの犠牲を予見しながらなお、弟子たちと食卓を囲むことを
欲してくださった主の死を記念する食卓でした。(23~26節)
 イエス様は、感謝をもってパンを裂き、それをご自分の からだであるとおっしゃいまし
た。(24節) しかし実際には、イエス様の からだは十字架上で刺し貫かれたのでした。
それは、聖なる神から背を向けられ見捨てられるべき罪人である私たちが見捨てられ
ないためであり、過ち(咎)に沈んで滅び行くべき私たちのただ中に命の主、復活の主と
してとどまり続けてくださるためであり、この世に於いて排除されたあらゆる命と連帯し
世に平和を取り戻してくださるためであり、どんなに深い傷にも復活の命に満ちた主の
御手が届くためだったのではないでしょうか。(イザヤ53:5) また十字架で流された血潮
を象徴する杯は、新しい契約として(25節)、あらゆる命が共に、主の赦しのご支配に全
身全霊を捧げる平和の成就を証してくれているのではないでしょうか。(エレミヤ31:1~34)
 私には長いこと、弱い人、病人、すでに死んだ人(30節)が、神から裁かれてしまった
人たちであるかのように読めてしかたありませんでした。実際、パウロはそう言ってい
たのだ、とする聖書注解書もありました。しかし今は逆だと思っています。弱い人、
病人、すでに死んだ人たちこそが、十字架の主の証しに生き続けている人たちであり、
彼らを排除し、自己中心的欲求に囚われている人たちこそが、彼らとの出会い、すなわち
十字架の主とのかけがえのない出会いを遠ざけ、自らに裁きを招いてしまっているのでは
ないでしょうか。
 2月はスチュワードシップ月間として、奉仕、すなわち主に仕え捧げることを、心新た
に共に意識しましょう。現行の主の晩餐式のテーマ 「イエス・キリストにあって共に死に、
共に生きるために。」
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by hachimejibap | 2016-03-12 18:24 | メッセージ

みんなで歌おう!共に話そう!そして一緒に祈ろう! 〒193-0833 東京都八王子市めじろ台2-15-2 ℡.042-663-7036


by hachimejibap