八王子めじろ台バプテスト教会

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さあ、行くがよい

テーマ :教会
聖書 出エジプト記 4章1~17節
2016年1月31日 主日礼拝              牧師 左右田 理

 罪とは的外れのことです。神の民は罪人の群れです。そのリーダーもまた、罪人の中
から選ばれました。「神さまはあなたの味方だ」と、何回しるしを与えられても、信じられ
ません。(10節) 誰かほかの人を、と責任逃れするのです。(13節) しかし、それでも神
さまの御旨は変わりません。「さあ、行くがよい」(12節)
 神の救いの招きは、言うことをきかない民に対して(1節)、言うことをきかないリーダー
を遣わして(10節)、語りかけ続ける言葉です。民が言うことをきかないことを承知の上
で、選んだリーダーも言うことをきかない者たちの1人に過ぎないことを承知の上で、な
お、ひたすら救いへと招き続けるということにおいて変わらない神…まことの神は、救い
の招きにおいて変わらないお方であることを知らされていく民こそ、神の民です。(イザヤ
65:1) この神の真理を知らされていくために、みことばを軸とした対話に招かれ続けて
いく民こそ、神の民です。「さあ、行くがよい」(12節)
 神の救いの招きは、“一度ならずも二度までも”というような、過去の経験によって生じ
た消極的姿勢を問い直す言葉です。モーセがリーダーを別の人に譲りたがるのも(13
節)、ただの臆病というより、実際、過去に苦い経験があったからでしょう。(2:13~15,22)
しかし、神の救いの招きは、かつて失敗したことを思い起こさせる出会いへとモーセを
導くのです。なぜなら、まことの救い主は、みことばに立って前進するならば、たとえ そ
れが、かつての失敗とどれほど同じような状況、歩みだったとしても、その結果がどれ
ほど大きな豊かさとなるか、ということを証しされる神だからです。(ルカ5:4~9)
 神の救いの招きは、ありえないこと、信じられないことへの招きです。ありえないことを
目の当たりにさせることを通して、神の全能と出会わせてくれる恵みであり、信じなかっ
た罪深さと向き合わせることを通して、人知を越えた愛へ迎え入れてくれる恵みです。
 「律法が入り込んで来たのは、罪が増し加わるためでありました。しかし、罪が増した
  ところには、恵みはなおいっそう満ちあふれました。」
                 ローマの信徒への手紙5章20節
 教会は、復活の主と出会った群れです。そして復活の主は、ご自分を裏切った罪人た
ちとの再会を喜び、語りかけてくださる救い主です。限りない神の赦しのうちに、共に十
字架の言葉を誇りとし、共に前進していきましょう。
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by hachimejibap | 2016-02-04 10:48 | メッセージ

強い手

テーマ :救い
聖書 出エジプト記 3章15~22節
2016年1月24日 主日礼拝                牧師 左右田 理

 出エジプトの民にとって救いとは何だったのでしょうか。それは礼拝を捧げることでし
た。(18節) 礼拝は、何か他のものを手に入れる手段や道具ではありません。だとした
ら、約束の地もまた、乳と蜜が流れているから救いの契約の地だったわけではない、と
いうことになりましょう。(17節) 注目したいのは、出エジプト記における乳と蜜の流れる
地に入るという預言の多くが、先住民との遭遇とワンセットになっているということです。
カナン人、ヘト人、アモリ人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人…旧約の救いは、共存共栄の
物語へと進んでいくことはありません。流れ出る乳と蜜は誰のものか…約束の地は、時
代、地域を越えた普遍的難問を浮き彫りにします。それは、他者を悪とし、自分を正義
の側に位置づけようとする、いわば争いの種です。(創世記15:16)
 キリストによって旧約の救いの物語は、新約の救いの物語へと前進します。救いの民
の理解も旧約から新約へと前進します。既存の民が他者を排除、もしくは同化(吸収)し
ていくような救いの理解から、既存の民が他者に仕えるため広がっていくという救いの
理解へ前進します。(1コリント9:19~23) この救いにこそ、他者を悪とし、自分を正義の側
に位置づけようとする争いの種からの、まったき解放があるのではないでしょうか。
 出エジプトの民には、分捕り物が約束されていました。(22節) しかしその約束は、も
との持ち主であるエジプト人たちと、奪い合いの果てに手に入れるという展望ではありま
せんでした。エジプト人たちからの好意(21節)として、受け取るということであり、分捕り
物というよりは、もらい物という方が正しいでしょう。ですから、分捕ったのは救いの民で
はありません。分捕ったのは神さまの強い手です。神の強い手によって強者から分捕ら
れた物は、神の強い手によって弱者がもらい受けることになるのです。
 出エジプトの民は、見渡す限り荒れ野を進んでいく民でした。分捕り物がいったい何の
役に立つのでしょうか。分捕り物はすべて、神の強い手によってもらい受けたものです。
ですから、神に感謝し、お返しすれば良いのです。(出エジプト36:3~5) こうして民は、荒
れ野の旅路において、より豊かな礼拝が形成されていくことこそ救いの実体であること
を学び、そのためにすべてを捧げていく民として成長するよう、招かれていくのです。私
たちの教会も、神の強い手に応えて、より豊かな礼拝形成へ前進していきましょう。
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by hachimejibap | 2016-02-04 10:47 | メッセージ

生きている者の神

テーマ 神の力
聖書 マルコ12:18~27
2016年1月17日                 協力牧師 北島靖士

ユダヤ教のサドカイ派はパリサイ派といつも激しく論争していました。サドカイ派は貴族であり、金持ちでした。そして祭司長たちはサドカイ派でした。彼らはヘロデ党と同じように支配者であるローマ帝国と妥協して自分たちの地位を保とうとしました。信仰的には旧約聖書の中で、最も古いものと言われるモーセ五書しか認めませんでした。モーセ五書とは旧約のはじめの創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記のことです。復活のことはモーセ五書には、はっきりとは記されてはいません。これに対してパリサイ派は、イスラエル民族、歴史の中で様々な苦難に会いながらも、神さまの御旨をたずね求めて示された預言書や、他の文書―今日の旧約聖書全体を聖書としていたのでした。
申命記25章5節以下に「レビラート婚」と言われる規程あります。兄が死んで、子どもがない時には弟が兄嫁をめとり、もし子どもが生まれたら、その子は兄の子となる規程です。
イエスさまはどちらかに肩入れされたのではありません。両派に対して「あなたたちは大変な思い違いをしている」(27節)と言われました。わたしたちは大変な思い違いをしています。「大変な思い違い」―それはわたしたちの罪です。罪がわたしの中にあることに気づかねばならないのです。神を信じない罪、神は生きておられないと思っている罪、神は自分の現実に対しては何の力もないと思っている罪、古代の神話かおとぎ話と思っている罪、神は死んだと絶望している罪がわたしたちの中にある、自分が大変な思い違いをしていることに気付かなければならないのです。復活とは、生きておられる神と対面するということです。復活とは、生きておられる神によって、わたしたちの罪が赦され、罪から解き放たれて、新しい生き方が始まるということです。「心を尽し、精神を尽し、思いを尽して、あなたの神である主を愛」(30節)し、「自分のように敵を愛し、自分を迫害するも者のために祈る」(マタイ5:44)ことです。
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by hachimejibap | 2016-02-04 10:46 | メッセージ
テーマ :教会
聖書 出エジプト記 3章711~14節
2016年1月10日 主日礼拝               牧師 左右田 理

 本日の聖書箇所に指し示されている山は通称「神の山ホレブ」、かつてイスラエル旅
行の際、寄ったのですが、足場の悪い荒れ地の登り道、頂上も荒れ地の中に廃墟のよ
うな建物が数軒あるだけでした。当時、礼拝への歴史的招きの出来事(12節)を抜きにし
て環境面だけに限って評すれば、「骨折り損のくたびれもうけ山」という呼称が頭をよぎ
ったことは間違いありません。しかし、その神の山ホレブでの礼拝こそが、モーセたち
が“救いの民と成る”第一歩でした。
 先主日礼拝メッセージでも申しましたように、モーセ率いる荒れ野の民に指し示された
救いには、和解の福音がテーマとして織り込まれていたと考えられます。では、モーセた
ちが荒れ野に招かれることによって、どのような和解が指し示されているのでしょうか。
たとえば、もし“和解”が、いわゆる“共存共栄”だったなら、神さまの救いのみわざによ
って奴隷の苦役から解放してもらった後、わざわざ荒れ野に飛び出さなくとも良かった
はずです。古巣のエジプト帝国内部、その世界的繁栄にとどまり続けながら、支配者に
対して、待遇改善、待遇回復に向けて交渉を進めれば、それで済んだはずです。しか
し、いくら周囲を見渡しても、共存共栄の展望など、まったく見当たらない、神の山ホレ
ブでの礼拝こそが、彼らが“救いの民と成る”ための第一歩だったのです。(12節)
 「せっかく奴隷の苦役から解放されたというのに、なぜ、荒れ野なんかを旅しなければ
ならないんだ?こんな荒れ野に、どんな“おもてなし”があるんだ?」…そのような不平
不満を繰り返す民の姿が旧約聖書には描かれています。それに対して神は応えます。
ひたすら十字架の言葉をもって応えます。(ヨブ19:25,フィリピ1:29) 旧約の救いの物語は
神との対話によって、ひたすら十字架の命の物語に向かって前進していきます。ですか
ら和解の福音は、待遇改善、回復を模索するような身内、仲間内志向の“共存共栄”
の物語から人々を解放し、未知なる人々(よそ者、敵対者など)が抱える痛み、苦しみと
の出会い、対話、連帯に導く“共苦共生”の物語です。(出エジプト23:9,ローマ8:22)
 救いの民の使命は、問題解決(解消)ではありません。問題共有の輪を広めることで
す。問題解決の主を広く指し示していくことです。十字架の言葉を軸とした対話の広が
り(1コリント1:18)、すなわち聖霊の交わりにこそ、絶対的に神がおられるのです。(14節)
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by hachimejibap | 2016-02-04 10:44 | メッセージ
テーマ :新年
聖書 出エジプト記 3章7~10節
2016年1月3日 新年礼拝                 牧師 左右田 理

 恩を仇で返された傷心の歳月、不本意な境遇にあったモーセに、神さまは、新たな人
生の創造を宣言します。それは、自分に傷心の歳月をもたらした民との再会への招き
であり、しかもその民を、祝福に満ちた地へ導こうとされている神を証しする使命でし
た。私たちは、救いの民イスラエルの歴史的原点には、すでに和解の福音が織り込ま
れていたということを、読み取ることができるのではないでしょうか。(エフェソ2:14~16)
 私たち教会が新年礼拝に集うのは、ただ目新しい出来事が起こるのを待ち望むという
ようなことのためではありません。分断、差別、孤立が蔓延する罪の世が、じつは、すで
に十字架の命のもとに贖われ、永遠に支配されていることを共に喜び、そのような贖い
の主、和解の主を共に祝うためです。(ヨハネ3:16) 「人知を越えた和解は“成る”、平和は
“成る”」、そのような新世界の創造を宣言するお方を信じ、礼拝する群れは、すでに滅
びから解放されている救いの民です。
 しかし、神さまがイスラエルを導き上る先には、多くの先住民がいました。衝突を避け
られない先住民たちが、すでにたくさん住んでいる土地を、“広々とした、すばらしい”(8
節)ものとして受けることによって、奴隷から解放された民イスラエルが、今度は侵略者、
抑圧者側にまわってしまうだけのことだったとしたら、果たしてそれで、新世界の創造が
成った、と言えるのでしょうか。それでは結局、古今東西にありふれている、憎しみ、復
讐の連鎖に過ぎないのではないでしょうか。そうであればこそ、そのような旧約聖書時
代の限界に対して、イエス・キリストは、敵の祝福を祈り求める群れ(マタイ5:44)、という新
世界の創造を改めて宣言されたのではないでしょうか。この主イエスの宣言に押し出さ
れつつ、敵と向き合うなら、その行く先々すべてが、すでに、“広々とした、すばらしい”
地と成っています。そしてそれこそ、自分を傷つけた民に祝福の地を指し示すよう招か
れた、モーセのあの使命が成就した世界とも言えましょう。
 新年、和解の福音の主、平和の主を共に、ひたすら告げ広めていきましょう。恩を仇
で返されて傷つき、痛んでいる人々がたくさんいる現代世界です。剣に手を伸ばす誘惑
に負けそうな人々の、その痛みに寄り添いつつも、剣を鞘におさめるよう招いておられ
る主イエス・キリストを、共に礼拝するよう、招いていきましょう。(マタイ26:52)
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by hachimejibap | 2016-02-04 10:43 | メッセージ

みんなで歌おう!共に話そう!そして一緒に祈ろう! 〒193-0833 東京都八王子市めじろ台2-15-2 ℡.042-663-7036


by hachimejibap