八王子めじろ台バプテスト教会

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あなたの立っている場所

テーマ :伝道
聖書 出エジプト記 3章1~6節
2015年12月27日 主日礼拝                牧師 左右田 理

 今年最後の宣教ご奉仕にあたる本日、年度としてはまだ通過点ですが、2015年度の
牧会宣教テーマを少し思い返したいと思います。それは、私たち“キリストの証し人”の
使命を、荒れ野の民(出エジプトの民)を意識することを通して、再確認したいという願
いでした。実際に宣教のテキストとすることは多くありませんでしたが、教会学校で、
聖書教育のテキストとして分かち合われてきた出エジプト記、エレミヤ書、ヨハネ福音
書の恵みを受けつつ宣教ご奉仕できたことは幸いでした。
 先のホームレス支援特別委員会で、「荊冠の神学」というキリスト教書に、本日の聖
書箇所について言及のあることが紹介されました。モーセが目をとめ、寄り道した先に
あった「柴」は「荊」だったということ、「荊」という、当時もっとも卑しめられてい
た命の間からこそ、燃え尽きることのない 命のみことば、永遠の命が顕れたということ
…モーセの前で燃え尽きることのなかったその炎は、まさに、イエス様が十字架で殺さ
れる直前、その頭にかぶせられた荊の冠を証ししていたのではないでしょうか。人生の
最後の最後まで、卑しめられ、屈辱にまみれた人々の真ん中にお立ちくださった十字架
の苦難の主こそが、燃え尽きることのない世の光に他ならないのですから。
 燃え尽きない炎を目の当たりにしたモーセ自身は、その時、すでに燃え尽きていたと
考えられます。かつて王族の地位に立ちつつ、奴隷として抑圧されていた同胞を救おう
として抑圧者を暗殺したけれど同胞から信用されず、見ず知らずの土地に落ち延びて、
いわば居候に身を落とし、そもそも圧制下の奴隷の家に生まれて間もなく、親から切り
離されたに過ぎなかった自分にふさわしい末路だろう、などと自虐的な日々を送ってい
たとしても不思議はなかったことでしょう。しかし、身寄りの無い者、社会的少数者、
前科者のただ中に招かれ、そこに立つ者こそが、復活の命に満ちた、救い主なる神の聖
地に生かされるのです。(使徒言行録7:35)
 私たちの教会は、日本バプテスト連盟に加盟し、協力伝道を進める群れです。どのよ
うな人々のもとに、すでにキリストが向かっておられるのか、そしてその御足跡をたど
ることこそ伝道であることを知らされている私たち教会は、どのような出会い、対話に
招かれているのか、2016年の導きを共に、主に祈り求めましょう。
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by hachimejibap | 2015-12-29 20:37 | メッセージ

神は、われらと共に

テーマ :救い
聖書 マタイ福音書 1章18~25節
2015年12月20日 クリスマス礼拝             牧師 左右田 理

 救い主イエスの父親ヨセフは、イエスと血のつながりはありません。ヨセフのあずか
り知らぬところで婚約者マリアが妊娠していたのです。日本には“甲斐性無し”という言
葉があります。妻側ではなく、夫側に当てはめられる場合がほとんどです。この言葉が
夫に突きつけられるとき、それは、家族、もしくは親族の社会的地位、名誉、財産の向
上に関する“役立たず呼ばわり”のようです。当時のユダヤ社会は男系社会であり、血筋
が重んじられていましたから、マリア妊娠の経緯が伝われば、ヨセフは親戚一同からは
まさに甲斐性無しとして蔑視、もしくは排除されても不思議はありません。
 そのようなヨセフの社会的窮地に天使のお告げが降ります。それは、ヨセフを社会的
どん底に突き落とすかも知れないその母子を、ヨセフ自身の妻、子どもとして迎え入れ
よ、ということでした。たとえその子が、やがて神の民全体の救い主へと成長したとし
ても(21節)、今現在、ヨセフ自身の社会的生命はもはや風前の灯火ではありませんか…
ヨセフが身の安全を図るために一番良い方法は、社会的慣例、法例に従ってマリアを
処罰してしまうことです。(申命記22:23~24) 悪の成敗、排除…身内にとっても、こ
れに勝る名誉回復はありません。しかしヨセフは“正しい人(19節)”だったので、身内の
名誉回復、ひいては、いわゆる男として社会復帰するチャンスを放棄します。いつか自
分は“婚約者に捨てられた甲斐性無し”として蔑まれる日を迎えることになったとしても、
マリアと相手の男は処刑されることなく生きていけるだろう…ところがクリスマスの恵
み、神の救いは、ヨセフがその程度の正しさに座り込んでしまうことをゆるさなかった
のです。
 キリスト教の救いは、神が共におられる、ということです。(23節) それはヨセフに
とって、待遇改善や、待遇の回復を意味していませんでした。それどころか、いわゆる
家内安全、商売繁盛が揺さぶられることになるかも知れない相手と共に生きる道が指し
示されたのでした。しかし、それこそが天使によって告げ知らされた、聖霊の祝福に満
ちた出会いでした。(20節) このクリスマス、私たちもヨセフと同じように、既存の人
間関係や社会的評価を手放すことになるような出会い、対話のただ中にこそ、神の家族
が創造されるという、聖霊の祝福を受けましょう。この世の地位、名誉、財産をはるか
に越えた神の平和の民を創造する、赤ん坊イエスの産声を心の隅々にまでお迎えしまし
ょう。
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by hachimejibap | 2015-12-29 20:35 | メッセージ

主が、あなたと共に

テーマ :救い
聖書 ルカ福音書 1章26~38節
2015年12月19日 クリスマス・イブ礼拝          牧師 左右田 理

 本日の聖書箇所、イエスの母マリアが、“救い主を宿す”という素晴らしいお告げを受
ける恵みの場面です。しかし当時のユダヤ社会において、婚約者を裏切るかたちで関
係をもった者は死刑でした。(申命記22:23~24) いくら聖霊による受胎(35節)だと訴え
たところで、誰が信じるでしょうか。つまりマリアにとって、これは命が危機に瀕するお
告げでした。だとしたら天使のお告げ、クリスマスの恵み(28節)は、いわゆる待遇改善を
約束するようなお告げではなかったことになります。
 本日の聖書箇所とは別に、マリアに先駆けて親類エリサベト(36節)が、人知を越えた
かたちで、いわゆる子宝に恵まれる描写がありますが、それは後に、親類縁者との間
に少なからず摩擦が生じる展開になりました。(59~63節) クリスマス物語は、“子宝の
恵み”などという言い回しを簡単に口にできない苦難の物語であり、既存の社会的慣
例、法例などによる倫理的縛りによって異端視され、排除される命に、祝福の御手を伸
べた神の物語です。
 もし夫側が既存の社会的秩序に迎合していたら、マリアもエリサベトも孤立し、いわゆ
るシングルマザーになっていても不思議はありません。本来なら伴侶として、新しい命の
ために、社会的慣例、法例などによる偏見、差別に対しても共に立ち向かうべき男性
側が、その責任を放棄した結果、置き去りにされた女性側がシングルマザーとなる事
例は、現代日本でも少なくありません。先に戦争法案に反対したSEALDsの参加者の中
には、現在の社会的慣例、法例によって、シングルマザーとして生きていくことの難しさ
を突きつけられ、堕胎せざるを得なかった無念を抱えた女性もいたそうです。
 “救い主がお生まれになる”というお告げによって、マリアとエリサベトとは出会いま
した。賛美による対話、賛美による連帯が始まりました。(41~42,46~47節) それは、
社会倫理的断罪から解放されるに十分なシェルター(避難所)でした。(56節) そこは社
会的待遇面では、肩身の狭い身の上、その苦しみを分かち合う場所だったとしても、賛美
による対話と連帯とを、豊かに分かち合える場所だったことでしょう。キリスト教会もま
た、いつでも、あの天使のお告げをもって、現代のマリア、エリサベトたちをお迎えでき
る場所でありたいものです。「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」
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by hachimejibap | 2015-12-29 20:32 | メッセージ

飼い葉桶

テーマ 降誕
聖書 ルカ2:1~20
2015年12月13日                 協力牧師 北島靖士

新約聖書にある四つの福音書はイエスという人の、いわゆる「伝記」ではありません。
イエスという人はおそらく紀元30年のユダヤ暦ニサンの月(現在の3~4月)の過ぎ越し
祭の日かその前日に、十字架刑に処せられて殺されました。これは四つの福音書に共通
に書かれていますからほぼ確実なことです。それから20年ぐらいたってから、パウロと
いう人がこのイエスこそキリスト(救い主)であると信ずる人(キリスト者)びとの群
れ(教会)に手紙を書き送りました。これがイエスについて記された最古の文書です。
その他には、この時代「『キリスト者』と呼ばれる人々がいた」という断片的な記録が
残っているのみです。
それからまた20年ぐらいたってから、マルコが「福音書」という全く新しい文学形式を
生み出してナザレ出身のイエスのことを書き記しました。福音(ユウアンゲリオン=マ
ルコ1:1、ガラテヤ1:6など)というのは「良い知らせ」という意味で、イエスのメッ
セージの本質を言い表す言葉です。この言葉の背景にはローマ皇帝アウグストゥス(在
位BC27-AD14)や同ウェスパシアヌス(在位AD69-79)の即位がユウアンゲリア(複数
形)と呼ばれていることがあると言われます。両者とも激しい権力闘争に勝ち残って実
権を握った人物です。そのことによって世界に平和をもたらしたことが褒め称えられて
います。マルコを始めとする福音書記者達はこれに対抗して、権力によって民衆を支配
する皇帝ではなく、ナザレのイエスの言葉と活動こそ世界に真の平和(シャーローム)
をもたらす(ルカ2:14)のだと理解し、宣教するために福音書を書いたのです。
ですから、福音書のほとんどはイエスさまの活動(公生涯)の3年間がほとんどの部分を
占めています。しかも、最後の一週間についてマタイは4分の1、マルコ、ルカは3分の1、
ヨハネに至っては2分の1のページ数を割いています。
のちになって付け加えられたと考えられるクリスマス物語もマタイとルカでは全く違い
ます。マルコとヨハネにはありません。ルカの重点が「旅」「羊飼い」「飼い葉桶」
「マリヤ」などに表わされているように、「貧しいもの」に置かれていることは明らか
です。
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by hachimejibap | 2015-12-29 20:30 | メッセージ

大勢の群衆を見て

テーマ :神の国
聖書 マルコ福音書 6章30~44節
2015年12月6日                   牧師 左右田 理

 当初、本日の宣教題の候補として「すべての人が食べて満腹した」も考えていました。
しかし、そもそも“満たされる”とはどういうことなのでしょうか。本日の聖書箇所に
描かれている、いわゆる“五千人の食事”の出来事は、四福音書すべてに登場します。
初代教会にとって、それだけ重要な出来事だったわけでしょう。しかし初代教会が、
ただ食物を胃袋に詰め込んだことを記念していたとは思えません。(フィリピ3:19,4:11~
12)
 けれども本日の聖書箇所を見て、人は言うかも知れません。「たしかに弟子たちは、
イエス様が約束してくださっていたはずの休息も食事も放棄せざるを得なくなったわけ
だから、踏んだり蹴ったりかも知れない。しかし、それは側近の弟子たちの場合であっ
て、イエス様も群衆に対しては優遇していらしたのではないだろうか。みんな、ただ座
って食べ物の配給を待っていただけなのだから…」。しかし、少なくともマルコ福音書
では、そういう救い主の理解は通用しないはずです。(マルコ8:34)
 群衆はただ座って配給を待っていただけなのか…そのことについて、W.バークレーの聖
書注解書では、キリストに霊的に感化された群衆が、隠し持っていた食物を互いに分か
ち合い始めていくという解釈が描かれています。それはキリストの言葉の力として、十
分にあり得ることでしょう。(34節) そこには、“待遇の回復”はありません。誰の待
遇改善もありません。待遇面で言えば、逆に、持ち出しが増えた一方であり、誰もが待
遇が悪化してしまったと見ることすらできます。にもかかわらず、たしかに群衆には、
キリストの恵みが満たされたのです。(42節) それはキリストの まなざしに満たされた
ということです。(34節) 他の飢え渇きに広く目を向けていくあまり、自分たちの飢え
渇きを忘れてしまう まなざしであり、他の待遇の回復に広く目を向けていくあまり、
自分たちの待遇の回復を忘れてしまう まなざしです。キリストの言葉を受けることに
よって、キリストの まなざしに満たされていく幸いです。(使徒言行録20:33~35)
 主を待ち望むアドベントに、私たちは何を待ち望むのでしょうか。どのような“満た
し”を祈り求めるのでしょうか。キリストの言葉が、キリストの まなざしが、どうか
私たちに満たされますように、全世界に満たされますように。マラナタ、主よ、来たり
ませ。
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by hachimejibap | 2015-12-29 20:29 | メッセージ

みんなで歌おう!共に話そう!そして一緒に祈ろう! 〒193-0833 東京都八王子市めじろ台2-15-2 ℡.042-663-7036


by hachimejibap