八王子めじろ台バプテスト教会

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クリスマスのご案内

2015年、クリスマスのご案内です!
皆様、お越しください。

子どもクリスマス
    12月12日(土) 10時30分~13時
クリスマス・イブ礼拝
    12月19日(土) 19時~20時30分
クリスマス礼拝
    12月20日(日) 10時50分~12時

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by hachimejibap | 2015-11-30 18:35 | 教会からのお知らせ

耳にしたとき、実現した

テーマ :神の国
聖書 ルカ福音書 4章16~30節
2015年11月29日                     師 左右田 理

 待ち望んだ救い主が来た!…この喜びこそ世界伝道の原点です。アドベント(待降節)
の始まりである本日は、まさに世界祈祷週間にふさわしいと言えましょう。
 まことの救い主による、まことの救い、その特徴は、「耳にしたとき実現する」とい
うことです。(21節) 何を耳にするのでしょうか。異教支配のもとで、長きにわたって
苦しんできたことに対する ねぎらいの言葉でしょうか?“自分たちの”救い主だから、
“自分たちに”都合の良い将来、居心地の良い環境を約束してくれるお話でしょうか?
(22~23節)
しかしイエス様の言葉は、彼らの期待をまったく裏切ったのです。(25~27節)
 聖書において、救い主が来るということは、神の国の成就であり、まことの神礼拝の
回復です。“自分たちが”いかに恵みを受けやすくなるか、“自分たちが”いかに礼拝
しやすくなるか、という飢え渇きは、その人々が礼拝熱心、信仰熱心であったことの証
しとも言えましょう。しかし、ただ熱心であるということでもって、神から義とされる
わけではない、ということもまた真実でしょう。(ロマ10:2~3) そもそも神礼拝の回復、
神の国の成就とは、“自分たちが”神の国に入る、ということなのでしょうか。特定の
聖域、安全地帯に“自分たちが”迎え入れられるということなのでしょうか。
 アドベントに際し、いわゆるクリスマス物語から、“霊”に導かれた人について思い
起こしましょう。(ルカ2:25~32) 「私は今、死んでも悔いはない、もう満足だ」という
彼の叫びは、身内、仲間内などの“自分たちのため”の光を見たからではありませんでし
た。異邦人、すなわち、よそ者のための光を見たからでした。しかも当時、神の民イス
ラエルにとって、異邦人とは敵対者に他なりませんでした。「敵のための救いの光を見
た、だから私は今、死んでも悔いはない、もう満足だ」…これこそ、救いの成就、神の
国成就の言葉です。神礼拝の回復、神の国の成就は、身内、仲間内など“自分たちが”
迎え入れられるところではありません。キリストと一つになって、身内、仲間と共に、
“敵を”迎え入れる神を喜ぶところにこそ、まことの神礼拝の回復、神の国の成就があ
るのです。
 「神は、自分たちの敵を愛する」という神の国への招きの言葉は、身内や仲間を、す
みやかに十字架と復活の主に引き合わせてくれることでしょう。(28~30節) 全世界的な
平和に向けて、主の降誕を大いに伝道しましょう。クリスマス、おめでとうございます。
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by hachimejibap | 2015-11-30 18:34 | メッセージ

すべてを吟味して

テーマ :祈り
聖書 テサロニケの信徒への手紙 一 5章16~22節
2015年11月22日                       牧師 左右田 理

 いつも喜び、絶えず祈り、どんなことにも感謝せよ、キリスト・イエスにおいて…し
かし、だとしたら、あの十字架の苦難において、あのキリストの絶望的な叫び(マルコ15:34)
を、私たちは、どのように受けとめたら良いのでしょう。
 テサロニケ教会には、聖霊が働いていました。それはひどい迫害を受けているただ中
で、迫害の矛先そのものであるキリストの言葉を、教会が喜び受け入れたという出来事
でした。(1テサロニケ1:6) それは、十字架にかけられ、苦難のうちに殺されたお方を自分
たちのご主人様として喜び迎える(16節)という出来事です。十字架の苦難の傷跡を引き
ずったまま復活しておられる主(ヨハネ20:20)にのみ聴き続け、また訴え続ける出来事で
す。(17節、ロマ8:26) この世のあらゆる苦しみと一つになった十字架の命と出会う希望
に押し出され、永遠の神の愛へと招かれていく出来事です。(18節、マタイ25:34~36,40)
教会は、そのような“霊”の力による出来事を、求め、探し、たたき続けていくことを
あきらめないよう、招かれている群れです。(19節、マタイ7:7)
 聖書で証しされている、キリスト教会に対する迫害者は、“神の民”でした。救いを
待ち望んでいたはずの民が、教会が救い主キリストから預かった言葉、すなわち「預言」
に迫害の矛先を向けたのです。伝道者パウロは、それについて同じ手紙で、次のよう
に語っています。「ユダヤ人たちは、主イエスと預言者たちを殺したばかりでなく、わた
したちをも激しく迫害し、神に喜ばれることをせず、あらゆる人々に敵対し、異邦人が
救われるようにわたしたちが語るのを妨げています。…(2:15~16)」 当時のユダヤ人に
とって、異邦人とは敵対者以外の何ものでもありませんでした。それに対してキリスト
教会は、“自分たちの救いは、敵対者の救いと連動する”という展望を、霊的な預言と
して受けとめ、歴史的に取り組み続けてきたのではないでしょうか。(20~21節)
 私たち教会が唱える祈りが、勧善懲悪、信賞必罰、自業自得のたぐいから、もし解放
されていないなら、本当に悪から遠ざかっているのか、主の十字架から問われているこ
とでしょう。(22節、5:15) 死に瀕する苦難の中にあってなお、迫害者に対する反撃に
心奪われることなく、神に対する訴え、叫びに立脚し続けた十字架の主に、全身全霊を
もって応える祈りを、私たちは共に捧げていきましょう。
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by hachimejibap | 2015-11-30 18:31 | メッセージ

隣人になる

テーマ 隣人
聖書 ルカ10:25~35
2015年11月15日                 協力牧師 北島靖士

大分前のことですが、わたしもエルサレムからエリコにゆく街道を降ったことがありま
す。距離はめじろ台から荻窪あたり、27キロほどです。歩いて5時間一日がかりです。
しかし高低差は実に1100メートルあります。降りは楽ですが、上りは相当こたえます。
エリコは祭司の町と言われて、祭司が多く住んでいました。当番の時になるとエルサレ
ムに上り、神殿に仕えたのです。わたしが行った時も、風景はイエスさまの時代そのま
までした。見渡す限りの荒野で、丘がポツンポツンと見えるだけです。「ここがその場
所だ」言われるところにはGood Samaritan Innという宿屋が一軒あるだけです。そして
最近も追いはぎが出たと言っていました。ですから、この話はイエスさまの創作ではな
く、そのころの実話だと考えられています。
話はわかりやすい。特に説明する必要もないほどです。しかし、聖書を理解する一番よ
い方法は聖書の中で「あなた」という言葉が出て来た時にそこに自分の名前を入れて読
むことです。26節に「あなたはそれをどう読んでいるか」とあります。ですから「あな
た=北島はどう読んでいるか」ということです。もう一つ。そこに登場する人物は自分
自身のことであると思って読むことです。あなたは祭司、追いはぎに襲われた人、レビ
人、サマリヤ人、宿屋の主人そのだれでしょうか。自分が聖書の外側に居て、冷静に批
評しているのではなくて、聖書の中に入り込んで、自分のこととして読むことが大切で
す。
この物語の最後にイエスさまは「行って、あなたも同じようにしなさい。」と言われま
した。ここに、こんな物語ある、ここにこんな教えがあるということを知っているだけ
でなく、あなた自身がどうするか、あなた自身がどう生きるか、が問題なのです。信仰
というのはイエス・キリストを信じて歩き出すという、あなたの主体的な決断です。
誰がわたしの隣人であるかの問題ではありません。わたしが(たとい敵であったとして
も)その人の隣人になるかどうかをイエスさまは問うておられます。
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by hachimejibap | 2015-11-30 18:30 | メッセージ

いつもわたしと一緒に

テーマ :神の愛
聖書 ルカ福音書 15章11~32節
2015年11月8日                       牧師 左右田 理

 本日の聖書箇所は、神の愛が証しされていると考えられます。じつは「仏教聖典(財団
法人 仏教伝道協会)」にも同様の物語があります。そちらでは仏の慈悲が証しされてい
るようです。親元から離れた子を探し回り、あの手この手で連れ戻そうとするという展開
です。ところが本日の聖書箇所、イエス様のたとえ話では、子の帰りを待ちわびていた
とは思われるのですが(20節)、探し回るなど連れ戻すための手立てを講じているような
描写がありません。双方の物語を対比させることで、もし、仏の慈悲のテーマを“待遇の
回復”と評するなら、神の愛のテーマは“自由の回復”と言えましょう。
 本日の聖書箇所に登場する、いわゆる“放蕩息子”は、まだ父親が生きているのに、
面と向かって遺産を要求したようです。(12~13節) この息子のことを単に所有欲の虜に
なっている人として理解することもできましょう。しかし、彼は自由になりたかっただけ
なのかも知れません。ただ、自由を“個”の確立ではなく、“私”を守ることだと勘違い
してしまっていたのではないでしょうか。たしかに“干渉(30節)を遠ざけること”も一時
的に必要な場合もあるでしょう。(マルコ6:31) しかし結局は、“他者と出会う自由”、
“近親者にも他者として向き合うことのできる自由”、そのような“対話の自由”に立ち
帰っていくことこそ、まことの自由であることに気づかされたのでしょう。(17~19節)
 “対話の自由”は、異見、批判(30節)と向き合う戦いをもたらします。さらに言えば、
本日の聖書箇所について、キリスト教雑誌「Ministry Vol.4」では、主イエス・キリスト
が十字架の死に向かっていくメッセージとして聴くことの大切さが指摘されていました。
もし、自分のことを無償の愛でゆるし、迎え入れ、抱きしめてくれたせいで、父が殺され
てしまったとしたら、それでもなお、その殺した張本人を自分の兄弟として向き合えるの
か…“放蕩息子”の“自由の回復”に向けた戦いは、まだ始まったばかりです。
 神の愛が、この世に回復しようとする自由は、敵を愛する自由です。(マタイ5:44) 自分
の愛する者を優先的に愛そうとする、内向きな枠組み、その柵を突き抜けていく自由で
す。(マタイ10:37) 突き抜けようと苦闘する私たちと、復活の主はいつも一緒です。日本
バプテスト連盟「平和に関する信仰的宣言」が指摘している、いわゆる内なる偶像問題
と向き合いつつ、神の愛に向かう教会形成に、共に取り組んでいきましょう。
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by hachimejibap | 2015-11-30 18:29 | メッセージ
テーマ :みことばの権威
聖書 ヨハネ福音書 5章19~30節
2015年11月1日                 牧師 左右田 理


 天の父なる神さまのなさること(19節)…それはあらゆる命に対する歴史的な裁きの出
来事であり(27~29節)、それは神の御子、復活の主キリストによる主権的選びとして、
この世に証しされるのです。(21節)
 伝道者パウロはコリント教会に宛てて、キリストの主権的選びについて訴えています。
(1コリント1:27~29) 当時、貿易都市コリントは経済的にも安定成長を遂げ、人々は知恵、
権力、地位の安泰のため競争に駆り立てられ、コリント教会にも同様の争いがありまし
た。社会的競争は人々の生活を勝者と敗者に分断していきます。そして古今東西、家
内安全、商売繁盛こそが救いに選ばれし者、生活困窮者は滅び、というような分類が
常識です。ところがパウロは「キリストは無学、無力な者を選ぶ」と訴えるのです。キ
リストの言葉は、不勉強や怠惰を乗り越えるよう招く言葉であり(マタイ7:7~8)、その社会、
その共同体において期待されるような人物像とは、正反対に位置する人々と出会い、対
話し、共に生きる方向へ招く言葉です。それは、身内、仲間内主義的な情緒的歩み寄
りへの誘惑に抵抗し(エレミヤ15:19)、耳を、聞きたくない内容の方へ、聞きたくない人の方
へと傾けるよう招く、預言者エレミヤの出来事です。(聖書教育2015.10~11 参照)
 全能者の裁きは、キリストの言葉としてすべて成就します。パウロ書簡の中には、迫
り来る殉教の予感と孤立に苦しみながらも(2テモテ4:10,16)、自分たちの、現時点での罪
深い弱さ(本性、本音)を越えてキリストの言葉が成ることを信じていこうとする、信仰者
の生き様、死に様が描き出されています。(2テモテ2:16,26) ですから信仰者の群れは、
現時点での本音、本性をことさらに要求し、現時点での本音、本性に縛ろうとしてくる悪
魔の誘惑に、調子を合わせてはなりません。ひたすら明日、くり返し明日、キリストの言
葉によって、あらゆる人々に創造される、驚くばかりの本音、本性を信じる私たち教会
は、すでに死の支配から永遠の命へ移されています。(20~25節)
 現行の“主の晩餐式”のテーマ、「イエス・キリストにあって共に死に、共に生きるた
めに」…人知を越えた天の神の みわざを信じて、身内、仲間内の欲求、願望、理想像に
決して応えない生き様、すなわち、「耳に痛い言葉にこそ共に応えよう」と、身内や仲間
をひたすら招く生き様へと、共に遣わされていきましょう。(19,30節、1コリント1:18)
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by hachimejibap | 2015-11-30 18:28 | メッセージ

みんなで歌おう!共に話そう!そして一緒に祈ろう! 〒193-0833 東京都八王子市めじろ台2-15-2 ℡.042-663-7036


by hachimejibap