八王子めじろ台バプテスト教会

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死者の中からの復活

テーマ :復活
聖書 フィリピの信徒への手紙 3章8~16節
2015年10月25日 召天者記念礼拝            牧師 左右田 理

 死んで花実が咲くものか…キリスト教会の歴史を、死を復活の勝利として聴き取ろうと
してきた葛藤の歴史として見ることができるでしょう。(1コリント15:52,57) もし、復活が単に
肉体的蘇生を意味するなら、怪しむことはあっても葛藤することはないでしょう。この世
は、命であれ何であれ、失うことを敗北と見ます。少なくとも勝利とは見ません。そういう
世の常識と対決してきた葛藤こそが、「十字架で殺されたイエスこそ復活の主、命の勝
利者である」という信仰告白を、キリスト教会2000年の中心に据えさせ続けてきたので
はないでしょうか。
 本日の聖書箇所の前で、伝道者パウロが、キリストのゆえに、当時の社会的業績をこ
とごとく捨て去っていたことが証しされています。(5~6節) 現代社会なら、出世コースか
らの落伍者呼ばわりされることでしょう。“失った”ことを後悔しない、それどころか、喜ん
でいる、という調子でのパウロの訴え(8節)は、古今東西、“負け惜しみ”として処理され
ることでしょう。死人に口無し、汚名を返上できない人物を全世界の王様、あらゆる命
のご主人様としてひたすら礼拝し、告げ広めることを歴史的使命として選び取ってきた
キリスト教会は、対外的には“負け惜しみ”以外に語る言葉を持たないのです。実際、
福音書をご覧いただければ明らかなように、復活のキリストは、キリストが殺されたこと
で落胆していた人々以外の前には、そのお姿を表さなかったのですから。
 この世の勝利宣言は、敗者が決定づけられ、その口は塞がれ、願いが果たされる希
望も絶たれます。しかし復活の主を告白する宣言は、ひたすら「まだ終わっていない」、
「まだ負けていない」宣言であり、自分も、相手も、誰も口を塞がれることがなく、すべて
の人が、今まで信じていた“勝利”が問い直され続け、くり返し、新しい勝利、新しい目
標、新しい歩み出しの中に捕らえられ続けていきます。(12~14節)
 今まで信じていた“勝利”が失われた落胆の中に、復活の主はそのお姿を豊かに映し
出してくださることでしょう。それは、“確信”してきたことのすべてが、 くりかえし揺さぶら
れ、覆されるような対話の始まりとなることでしょう。(15~16節) そして、その対話の苦し
み、葛藤を通して私たちは、どのような人とも対話できる平和へ、どのような人との再会
にも希望を抱く平和へ達するのです。(10~11節)
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by hachimejibap | 2015-10-29 10:28 | メッセージ

両方とも育つままに

テーマ :平和
聖書 マタイ福音書 13章24~30節
2015年10月18日 主日礼拝                 牧師 左右田 理

 
 誰も傷つかない世界を平穏無事と言います。そして平穏無事と村八分(排除、孤立)
は表裏一体です。(28節) 傷つかないことが平和であるかのような錯覚を人々の間に
刷り込むことは、十字架の主の傷跡と向き合う復活の命の喜び(ヨハネ20:20)から人々を
迷い出させようとする、罪の世の支配です。
 いつの時代でも、身内、仲間内を傷つける者は悪人と見なされます。だとすれば、本
日の聖書に登場する毒麦を、身内、仲間内を傷つける者たちと見ることもできましょう。
そして最後には成敗されるということになりましょう。(30節) しかしここに天の国な
らではの不思議があります。この世の国で、悪人との共生が民に要求されるなどという
ことは考えられません。身内、仲間内が傷つく前に、悪人を隔離、または処分すること
こそが当たり前の社会的正義だからです。ところが本日の聖書箇所では、身内、仲間内
が傷つくであろう共生が保たれるというのです。(29~30節)  だとしたら、そもそも
天の国では、身内、仲間内を傷つける者を悪人と見なすこと自体が、的外れ(罪)なので
はないでしょうか。
 救いの民イスラエルは歴史的に、神の聖、神の義、命の主の栄光を傷つける民だっ
たと言えましょう。(申命記7:6,9:6) つまりご自身の聖、義、栄光からすれば圏外と
も言うべき罪深い民を、神は聖なる民として救い上げてくださったのです。ですから神
の民は、命の主の栄光を傷つける者どうし、神から罪ゆるされた者どうしとして、互い
に愛し合うよう招かれている民でもありました。(レビ19:18) ところがイエス様の時代
になると、身内、仲間内を愛することが優先し、身内、仲間内が傷つくことをゆるさな
いのが神の民だ、という的外れ(罪)が民の中に蔓延してしまっていました。(マタイ5:43)
そこでイエス様は、傷つくことをゆるし合える民として、身内、仲間内を傷つける相手
をも愛する、救いの民の真実へ立ち返るよう、招いたのです。(マタイ5:44)
 キリストの言葉の方向性は明らかです。家族愛や同胞愛の囲いを突き破って(マタイ10
:37)、敵を愛する愛に至るときこそが、隣人愛の成就です。これは、「平和に関する信
仰的宣言」においてもすでに証しされています。私たちの教会も、日本バプテスト連盟
に加盟する群れとして、隣人愛に満ちた教会形成へ共に前進しましょう。

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 …主イエスへの服従はそのほか一切のものに対する服従の拒否である。不服従を
 伴わない服従はあり得な い。主に服従する私たちは自分自身にとって最も大切なも
 のさえも断念する。… 国家、民族、イデオロギー、経済、富、宗教的政治的権威、
 自由と正義、道徳、良心、感情、感覚、生命、自分自身、そし て愛する者たち。これ
 ら一切は、服従の対象ではない。…
     「平和に関する信仰的宣言」
         (2002.11.15 第49回日本バプテスト連盟総会にて採択)より抜粋
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by hachimejibap | 2015-10-22 22:36 | メッセージ
テーマ :礼拝
聖書 申命記 6章4~9,20~25節
2015年10月11日 主日礼拝                 牧師 左右田 理

 4~5節は、一番大切な戒めとしてイエス様が紹介された みことばです。(マルコ12:28~31)
心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして神を愛する、これこそ礼拝の神髄でしょう。
 ところで、心を尽くすとは、どういうことでしょうか。集中力、熱心さといったような、
礼拝者の心の中が問われているのでしょうか?それこそ“一億総活躍”ばりの、高揚感が
煽られているのでしょうか?しかし本日の聖書箇所を素直に読むとき、個人の内面ではな
く、みことばを出発点とする対話こそがテーマだということは明らかでしょう。そして、
そこには対話の肯定的側面と否定的側面が指し示されてきます。
 まず、みことばを出発点とする対話の肯定的側面ですが、それは、一時代の枠を越え、
みことばをめぐって「先代と次世代」とが対話する礼拝が指し示されているということ
です。さらにそれは、「あらゆる先人と はるか後生」にまで対話が広がっていく礼拝で
す。だとしたら私たち教会も、天地創造から世の終わりに至るまでが証しされている聖
書の言葉を通して、歴史的対話が豊かに起こされていくような礼拝形成に向けて、心
を、魂を、そして力を尽くして試行錯誤していくよう、招かれていることでしょう。
 しかし一方で、その対話の否定的側面があります。本日の聖書箇所でもある申命記
は、ヨシヤ王の宗教改革時に発見された書であるという説がありますが(列王紀下21:8,
11)、その宗教改革が、当時、豊饒の神バアルの宗教、経済的な安定成長を救いとす
る宗教に染まっていた民を、自分たちの先人を荒れ野に導き出した神の言葉へと、再
び向き合わせようとする礼拝改革でもあったことが描き出されています。私たち教会に
とってそれは、いかなる都合不都合についても、荒れ野に導く神の言葉を通さずしては、
どのような対話も、罪(的外れ)に陥っていくことが確認、共有されていく礼拝であり、
十字架の苦難の言葉を通さずに成り立つかのような人間関係についても、ひたすら共
に、心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして問い直していくよう招かれる礼拝でしょう。
 後生が教会に集まってくるという明日が見えづらい現代、十字架の苦難の主を仰ぎ見
つつなされる対話が、あらためて礼拝形成、教会形成の原点となっていくところにこそ、
新たな出会いの創造が、また、あらゆる別れが新たな出会いへと復活せしめられる世の
終わりが、豊かに起こされるのではないでしょうか。
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by hachimejibap | 2015-10-22 22:33 | メッセージ

全地に散らされたので

テーマ :神の国
聖書 創世記 11章1~9節
2015年10月4日 主日礼拝                   牧師 左右田 理

 津波、土石流など、いわゆる自然災害に対して、「高いところへ登れ!」…まったくそ
の通りだと思います。ところが、命と命との関係、社会形成までもが「安全、安定のため
に高いところへ登れ!」となってしまったのが、バベルの塔なのではないでしょうか。
 東日本大震災から1年後、東八幡バプテスト教会牧師の奥田知志先生が平和を問う
講演をなさった際、近代社会学の論説を引用され、人間関係が、「私と“あなた”」から
「私と“それ”」へと置き換えられてしまう社会的現実を指摘されました。それは隣人が
モノ(道具)と化していく社会的現実です。隣人が、“自分の”安全、安定の度合いを高め
ていくための道具と化してしまっている社会的現実があるということでしょう。
 平和の主は命の主です。命がモノ化していくことをおゆるしにはなりません。(6節)
ですから救い主なる神は、かつて世界的大帝国エジプトで奴隷として苦しめられていた
神の民イスラエルを荒れ野へと導き出しました。もし安全、安定ということが平和である
なら、神の民の地位、名誉を、エジプト帝国の中で天に届くほどに高めれば済んだはず
です。(4節) しかし平和の主は、命のモノ化から、神の民を解放する神です。もし神の
民が、命のモノ化の虜となってしまうなら、くり返し解放される神です。くり返し世に散
らし(8節)、くり返し荒れ野へと導き(ホセア2:16~17,22~25)、富の安全、安定志向から解放
し続ける神です。
 自分たちの安定、安全が脅かされるかも知れないという不安をもたらす相手と向き合
い続けることは苦しいことです。しかし、そのような苦しみをもたらす命を、ただ排除
しようとするなら、命の主ご自身が苦しみそのものとなって私たちに迫り、苦難のただ
中にこそ命の主が降りてくださっていることを指し示し続けることでしょう。(ホセア5:14
~15) こうして救いの民は、命をモノ化する世の流れから解放されていく貧しい人たち
として、十字架の命に満ちた、神の国の民とされているのです、すでに。(ルカ6:20b)
 神の国は、命の主キリストの食卓です。この後、命の主の食卓をである主の晩餐式
を共にしましょう。テーマは、「イエス・キリストにあって共に死に、共に生きるため
に」です。あらゆるものを手放せる自由を通して、あらゆるものが満たされていく十字
架と復活の主の命を、あらゆる命と共に受けましょう。
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by hachimejibap | 2015-10-22 22:30 | メッセージ
テーマ :いやしの民
聖書 マタイ福音書 10章1~4節
2015年9月27日 主日礼拝 バイブルキャンプ        牧師 左右田 理

 病を負っている人に「頑張れ」などの励ましは、相手を絶望へと追い詰めるだけだと
いうことが、一般的に認められるようになったのは、つい最近のことかも知れません。
中曽根元首相の「病は気から」発言などは、悪しき典型だったと言えるでしょう。ホーム
レス支援の現場から知らされることは、命の問題が、決して気の持ちようなどという個
人的問題ではないということです。孤立こそ、死に至る病だということです。
 イエス様は、多くの人々を癒すために側近の弟子を選びました。(1節) しかし、もし悩
悩み苦しみが無くなることを癒しだと考えるなら、イエス様の弟子選びは、まことに理解
しがたいものがあることでしょう。地方の漁師もいれば、市街地出身者もいたという説
があります。また武闘派国粋主義者もいる一方で、占領国の手先もいたことになりま
す。だとしたら、イエス様によって呼び集められた顔ぶれは、相性の良さとは関係ない
顔ぶれであり、最悪な事態として、一触即発、いつ血が流されてもおかしくない群れだっ
たということになります。
 本日バイブルキャンプのテーマ聖句である、主の言葉も不思議です。(使徒18:9~10)
恐れるな、危害を加える者はいない、大勢の味方がいる…頼もしい言葉に力づけられ
たパウロは、1年6ヶ月にわたって神の言葉を告げ広めました。(使徒18:11) ところが結
局、パウロは危険な目に遭うのです。(使徒18:12~13) 先の頼もしいお言葉にも、期限
切れがあったのでしょうか?
 神の癒しは十字架の平和です。それはちょうど、主イエスが側近の弟子たちを招いた
ときにそうであったように、既存の秩序正しさ、安全、安定をもはるかに越えていく出会
い、その顔ぶれのただ中に起こされる出来事です。共に苦しみ、共に悩み、共に うめ
き、共に叫ぶために、日々新たな出会いに向かっていく先々に、人知を越えて起こされ
る出来事こそが、神の癒しであり、十字架の平和です。さらに敵対者との出会いこそ
が、人知を越えて、大勢の味方と出会うことになる原点なのです。この癒し、この平和に
おいて、私たち教会は永遠の神の国なのです、すでに。(2コリント4:16~18)
 苦しいからこそ、私たち教会は絶えず新たな出会いに向かいましょう。孤立から、死
に至る病から、世のあらゆる人々と共に、解放されていきましょう。
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by hachimejibap | 2015-10-22 22:29 | メッセージ

地の塩 世の光

テーマ 教会の使命
聖書 マタイ5:13~16
2015年9月20日                 協力牧師 北島靖士

この聖書の箇所は非常に有名なところです。世の中のいわゆる「格言集」などにも載って
いるような聖句です。先ずこの聖句がマタイ5章から7章までのイエスさまがされた「山上
の説教」の中にあることに注意してください。山上の説教は3節以下の「幸い」の教えから
はじまります。人間は「幸い」すなわち神の祝福のもとにすでに置かれているのです。わ
たしたちは「自分はどうしてこんなに不幸なのだろう」「どうしてこんな苦しい思いをし
なければならないのだろう」と嘆きます。しかし、ヨハネ黙示録(21:4)にあるように
「自分の目の涙が神さまによってことごとく拭い取られている者」であることに気がつく
ことが必要です。これが慰めということです。これが癒しということです。
ここで聖書は「あなたがたは地の塩になりなさい」とか「あなた方は世の光であるべきだ」
とは言っていません。単純に「あなた方は地の塩である。あなた方は世の光である。」と言
っています。原語の文法でも命令形ではなく「直接法」で書かれています。これから地の塩、
世の光にならなければならないというのではなく、わたしたちはすでに地の塩 世の光なの
です。イエスさまにその膝元近く招かれ、イエスさまの口から出るみ言葉を聴いているもの
はみな地の塩、世の光なのです。
それでは、「あなたがた」(わたしたち一人一人と共同体である教会)が地の塩、世の光で
あるとはどういうことなのでしょうか。塩の役割はものの腐敗を防ぐことです。世の中に深
く浸透し、世の腐敗を防ぐことです。しかし、それは世に従う教会になったり、国家権力の
お先棒を担ぐ教会になることではありません。戦時中の教会はそのような教会になってしま
っていました。一昨日、安保法案が参議院で可決しました。「これで日本は準戦時体制に入
った」と新聞に書いた歴史家がいました。このような「地」に対して教会はあくまで「主イ
エス・キリストの平和」を宣べ伝える務めがあるのです。
「世の光」もわたしたち自身が光を持っているというのではありません。私たちは罪人です。
何度も過ちを繰り返すものです。しかしそのようなわたしたちが、月が太陽の光を反射して
輝くように、「主イエス・キリストの光」を反射して輝かせることを許されているのです。
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by hachimejibap | 2015-10-22 22:27 | メッセージ
テーマ :神の みことば
聖書 イザヤ書 6章9~13節
2015年9月13日 主日礼拝                   牧師 左右田 理

 イエス様のお言葉はわかりやすい…しかし当時、実際はどうだったのでしょうか。側
近の弟子たちですら、イエス様のお話の意図、その真意をはかりかねていたのではな
いでしょうか。(マタイ13:10) 福音書でイエス様が救いの教えを広める際に多用された
“たとえ話”は、当時の人たちにはわかりやすかった、というような聖書解釈も耳にし
たことがあります。けれども“たとえ話”の目的について、イエス様ご自身、本日の聖
書箇所を引用されているのです。だとしたらイエス様の教えは、まさに“わかりやすい”
の正反対だったということになります。
 先主日、当教会は市川八幡教会の高市和久先生から聖書の説き明かしをいただき、
旧約時代の神の民イスラエルには、周辺諸国から富の宗教、いわゆる御利益宗教が
攻め寄せてきていたことがわかりました。他の人よりも、もしくは、昨日までの自分よ
りも、“これからは得をする”…これは、とても“わかりやすい”救いの理解です。多
くの人が素直に悔い改めたとしても不思議はありません。けれども、そのようにして素
直に悔い改める民に対して、神の預言は厳しい裁きとして現れたのです。(ホセア6:1~6) 
永遠の命の主にはおわかりになっていたのではないでしょうか。そのような“わかりや
すい”救い理解は、苦しみ悩みから、ただ逃れようとするだけの安易な平和理解(エレミヤ
6:14)であり、まるで十字架の苦難の主を置き去りにし、見殺しにしてしまうような振
る舞いが、絶えず繰り返されてしまうだけだということが。(マタイ13:20~21)
 キリスト教は耳の宗教です。(マタイ13:9) しかしそれは、ただ“聞きっぱなし”という
姿勢への招きではありません。それは本日の聖書箇所で言えば、たとえ“わからなくて
も”問い続け、たとえ、もう無駄ではないかという“苦しみ”と向き合うことになって
も、最後まで対話をあきらめない生き様、死に様への招きということでしょう。(マタイ27
:46)
 耳に心地よい言葉、現状を肯定してくれる言葉は、引きこもりや、孤立(死の支配)へ
の誘惑に対して、結局は無力です。教会はキリストのからだとして、永遠の命の言葉が
充満し、外へと満ちあふれていかなければなりません。十字架の苦難の主を共に仰ぐ
礼拝の輪を全世界に広げるべく、多くの人々との出会っていくところに、復活の主の力
が豊かに満ちあふれていくのですから。(1コリント1:18)
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by hachimejibap | 2015-10-22 22:24 | メッセージ

神の民の平和

テーマ 経済的正義
聖書 エレミヤ6:9~15
2015年9月6日          市川八幡キリスト教会 牧師 高市和久

紀元前601年、エジプト軍がバビロニア軍を破ると、ユダの王はこの機会にバビロニア
のくびきを振り払おうと考えます。預言者エレミヤは無謀な戦争で国を滅ぼすなと警告
した預言の巻物を届けましたが、王は側近がそれを読み上げる端から暖炉にくべてしま
いました。そこでエレミヤはもう一度巻物を作り、先のものと同じ預言に、一段と厳し
いことばを加えました(36章)。きょうのことばもその一部で、722年にアッシリアに
滅ぼされた北王国イスラエルに続き、南王国をも摘み取ってバビロニアに引き渡せとい
う審判と理解できます。
 なぜでしょうか。「身分の低い者から高い者に至るまで皆、利をむさぼる」。ユダの
金持ちは貧しい者を虐げ、指導者はわいろを取ってそれを見逃します。「預言者から祭
司に至るまで皆、欺く」。神に仕える者が弱者を代弁せず、安易に平和だ、大丈夫だと
楽観的な預言ばかりしています。その結果民は破滅し、戦乱を逃れて来た寄留者と借金
のために身売りした人々があふれているのです。
 ヘブライ語聖書に言う平和(シャローム)は、戦争がないのはもちろん、体の健康、
心の安らぎ、虐げや差別の根絶をも含む概念です。しかしユダの国では強者が弱者を虐
げ(5:26~28, 7:5~6, 21:12, 34:8~11など)、異教の神々が崇拝されています
(2:7~9, 20~25, 7:17~18, 31, 10:1~9など)。
 搾取や収奪やむさぼりのあるところに平和はありません。戦争法案と並行して労働者
派遣法の審議が進んでいます。同じ業務で3年以上人が必要なら直接雇用にする、法令
違反があったら派遣先が直接雇用を申し込んだものとみなすなどの歯止めを外し、低賃
金と首切りの不安の中で生涯働かせる法案です。なぜ? 戦争法案が通ると自衛隊員は
戦場で死ぬ危険が高まり、自衛隊の求人難が予想されます。一生派遣から抜けられない
のなら、一かばちか自衛隊に入ろうと考える人でその穴を埋めようとしているのではな
いでしょうか。
 聖書のいう平和は、ひとりひとりが幸せであり安心であることです。貧困をなくせば、
あるいはわたしたちの身の回りで小さくても何か一つみんなの安心につながるようなこ
とをすれば、その分だけ戦争はやりにくくなります。それが命の神に仕えることになる
のです。
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by hachimejibap | 2015-10-22 22:23 | メッセージ

みんなで歌おう!共に話そう!そして一緒に祈ろう! 〒193-0833 東京都八王子市めじろ台2-15-2 ℡.042-663-7036


by hachimejibap