八王子めじろ台バプテスト教会

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チャペルコンサート

今年もやってまいりました、
チャペルコンサート!

皆様、ぜひお越しください。

Let's swing!
十時節子 ジャズピアノ演奏

2015年10月17日(土) 開場13:00 開演13:30


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by hachimejibap | 2015-09-15 17:10 | 教会からのお知らせ

平和を実現する人々

テーマ :平和
聖書 マタイ福音書 5章9節
2015年8月30日 主日礼拝                牧師 左右田 理

 安倍政権は、“積極的平和主義”という言葉を掲げます。悪を裁き成敗する、正義の
味方、というイメージを国民に刷り込みたいのでしょう。治安を守ること、武器を強化す
ること、武器を取ることが、平和を実現する早道ででもあるかのように国民を惑わせた
いのでしょう。(マタイ26:52)
 武勲、功績…古今東西、命に優劣をつけない戦争など聞いたことがありません。です
から、たとえ戦争に勝ったところで、後に残るのは、まごう事なき差別の国です。靖國神
社などは、武勲を評価基準とした命の優劣、差別を戦時中も量産し続け、敗戦後70年
経った今、性懲りもなく、命の優劣、差別を、また新たに量産する機関として大々的に
機能し始めようとしています。平和憲法を踏みにじり、日本を戦争のできる国にしようと
している安倍政権の手によって。
 イエスの救いは、神の国づくりと言うことができます。(マタイ4:17) しかし、イエスの救い
による神の国には、いわゆる国づくりに貢献していない者が引き立てられる、という展
望があります。(マタイ20:1~16) それは、いわゆる功績や、武勲など、国や社会によって
常識とされる、あらゆる命の優劣、差別を覆す神のご支配に他ならないことでしょう。
さらに それは、社会から顧みられない存在として、心が貧しくされてしまった命に、「天
国は、あなた方のものだ」、と無条件で招く神のご支配でしょう。(マタイ5:3)
 だとしたら、私たちキリスト教会も忘れないようにしましょう。心の清い人々は、社会か
ら呪われた者、汚れた者と見なされた者たちの真ん中に、十字架につけられ、排除さ
れていった者たちの真ん中に神を見るということを。(マタイ5:8) 正しい人々は、社会から
見過ごされて、飢え渇き、裸で さまよい、病を負い、牢に囚われている命と共に生きて
おられる神と出会い、その苦難の神に連なるということを。(マタイ25:37~40)
 武器の強化、治安優先社会に平和の実現はありません。武器を取れない命、武器を
取ろうとしない命、治安に役立たない者として排除される命と連なる先にこそ、平和の
実現があるのです。そのような命と連なることを通して、私たち教会もまた、改めて神
の子と呼ばれることでしょう。為政者からは、わがままというレッテルを貼られ、罵られ、
迫害されようとも、神の子とされる幸いは永久に揺るぎないのです。(マタイ5:10~12)
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by hachimejibap | 2015-09-06 08:39 | メッセージ

主の方に向き直れば

テーマ :自由
聖書 コリントの信徒への手紙 二 3章4~18節
2015年8月9日 主日礼拝                牧師 左右田 理

 戦後70年、平和憲法の精神に立って、日本が二度と同じ過ちを繰り返さないよう取り
組まれてきた歴史的反省に対して、それは自虐史観に過ぎないと否定し、教科書を書
き換えようとする動きが激しくなってきています。「命を守るために戦争のできる国を目
指す」という思想が刷り込まれていくところでは、「(敵など)救われない命もある」という、
命に対する あきらめが自ずと刷り込まれていくことになります。(6節)
 昨年7月、長崎市の被爆者、末永 浩さんが中学校で被爆体験を語っていた際、東京
電力・福島第一原子力発電所の事故について触れたところ、校長に中止させられたと
いうことです。校長曰く、「止めたくなかったが、政治的中立を求められる教育現場とし
て適切ではないと考えて遮った」。しかし、本当に中立なら、遮った後にでも、異なる見
解を出し合い、議論するような場を改めて設けたら良いのです。実際は、遮ったまま終
わってしまっている以上、対話、試行錯誤の機会、選び取りの自由が子どもたちから奪
われてしまっただけのことです。その校長が推奨する中立のもとでは、子どもたちが、
教科書などの字面を無批判に、ただ刷り込まれていき、社会の歯車の一つになってい
ってしまうだけことでしょう。(6節) 平和憲法の精神に立つ歴史観を、自虐史観として排
斥しようとする人々は、結局のところ、「中国や韓国の政治的主張を子どもに刷り込む
な」と訴え、日本の国益に不利益となるような見解は排除しようとするのです。教育勅
語を見直そうなどと言い出すなどして、過去の栄光に囚われているのです。(14節)
 しかし平和の主キリストによって、私たちは霊に仕える者とされました。(6節) それは、
“新しい”契約に仕えるということであり、絶えず新しい出会いに招かれていくという契約
です。身内、仲間内、自分の内側へと閉じこもってしまうことで平和、平安が得られるか
のような的外れ(罪)な考えから、私たちを解放する契約です。(3~4節、マタイ5:43~48)
 復活の主は新しい契約として、これからも私たち教会に、十字架の愛を霊的に映し出
してくださることでしょう。(16~17節、ローマ5:5~10) 十字架の平和が盛られた神の器として
私たち教会の生き様が、世に向かって豊かに証しされていくよう、これからも復活の主
は生きて働いてくださることでしょう。日本が国威高揚のような身内志向的な未来志向か
ら解放され、敵をも愛する十字架の未来志向へと開かれていくために。
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by hachimejibap | 2015-09-06 08:38 | メッセージ

将来に現される栄光

テーマ :希望
聖書 ローマの信徒への手紙 8章18~23節
2015年8月16日 主日礼拝                   牧師 左右田 理

 クリスチャンになるということは、神の子とされるということです。本日の聖書箇所によ
れば、神に造られた世界が苦しみ、うめきながら、クリスチャンの誕生を願っているとい
うことになります。それはいったい、どういうことでしょうか。
 1994年、新卒牧師として日本バプテスト連盟全国総会に初参加した際、クリスチャン
なのに、なんでこんなにケンカ腰のだろう、もっと穏やかに、賛美と祈りで一致できない
のだろうか、と反発したのを覚えています。(ヤコブ1:19~20) しかし今、私は思います。あ
の頃、理想としていた穏やかな賛美と祈り、そこには、何かが生み出されるための労苦
を新たに共有しようとする意志が無かったのではないか。共に うめき、共に苦しむ輪を
世界に広げることによって、十字架の救いが、復活の命が成就していく展望が無かった
のではないか。(22節) そのようにして世界から待ち望まれている(19節)ことを忘れて、
既存のクリスチャン同士で、いわば身内、仲間内の穏やかさに逃げ込もうとする、悪魔
的な一致へと誘惑されていたに過ぎなかったのではないだろうか…(2コリント11:14)
 怒りの禁止、それは、裁くことができるのは神だけだからです。(ローマ12:19) 今や人類
には、十字架の主によって、裁かれる側に立つことのみが、許されているのです。です
から、もしクリスチャンだけが、人々の うめきや苦しみに連なり満足してしまうなら、そ
れは独善に過ぎないでしょう。クリスチャンだけでなく、あらゆる命に、世のあらゆる悲
鳴、絶叫に連なるよう、招いていくことこそ、教会の使命でしょう。それは、絶えずこの世
の裁きを問い直し、あらゆる命を裁く側から解放する使命となっていくことでしょう。安倍
政権の安保関連法案(戦争法案)に対する、日本バプテスト連盟諸団体による抗議文の
究極的使命もまた、単なる政権打倒ではなく、為政者の解放、救いです。
 誰も裁く側に立とうとしていないなら奪い合いは起こりません。戦争も起こりません。
そして教会が戦争反対を叫ぶことは、いわゆる政治活動ではなく、福音伝道として自然
なことです。なぜなら私たちが十字架の主の御名を証ししていくとき、人々を、裁かれる
側に立つよう招いているのですから。もし十字架の言葉によって、誰もが裁かれる側に
立つなら、日本は戦争していない国ではなく、戦争ができない国になります。うめきと苦
しみのただ中にある、世界中の、あらゆる命にとって、希望の国になるのです。
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by hachimejibap | 2015-09-06 08:38 | メッセージ

罪人を招くため

テーマ :平和
聖書 マタイ福音書 9章9~13節
2015年8月2日 主日礼拝                牧師 左右田 理

 もし、平和を“治安”として理解するなら、不安定な要素は「排除」しなければな
りません。身内、仲間内の安定を脅かす存在は「排除」の対象となります。では、イ
エス様なら、平和をどのようなものとして言い表されるのでしょうか。私は思います。
イエス様なら、「平和とは、“出会い”である」、と宣言されるのではないか、と。
(9節)
 イエス様の出会いは、食卓への招きとなっていきます。しかも社会規範や道徳を揺
さぶるような顔ぶれが招かれる食卓となっていきます。(10節)
 平和を治安として理解するなら、出会いそのものがすでに、警戒、監視対象となるで
しょう。既存の公益、国益理解を揺さぶるような人物、既存の風紀(大衆統制)を揺さぶ
るような人物などとの出会いであれば警告、排除命令となっていきます。(11節) 戦後
日本社会も、平和憲法により、平和の精神が培われてきました。しかし古今東西、世の
権力者は敵味方など差別をすることで、社会的安定を確保しようとします。日本国家も
同じです。安保法制により平和憲法が根無し草にされ破壊されようとしている今、国家
批判など、支配体制を揺さぶること事態、すでに犯罪者扱い(懲罰対象)となっていくこと
でしょう。
 しかし平和を出会いとして理解するなら、既存の安定が揺さぶられることは恵みとなっ
ていくことでしょう。なぜなら、今まで当たり前のように食卓を囲んでいた相手との関係
が一から問い直され、身内、仲間内が優遇されるような社会的安定を越えたところに
起こされる出会いにこそ、救い主のご支配が満ちているからです。(マタイ12:46~50) 
 救いをもたらす出会いは絶えず想定外です。既存の安定や常識が覆されていきます。
この出会いは果たして本当に平和の交わりになるのか…一寸先は闇です。しかし、そ
のような闇のただ中にこそ、平和に向けて人知を越えた可能性が照らし出されていき
ます。(2コリント4:6~7) それは分け隔て無く誰とでも出会うことのできる交わりとして無限
に広がっていきます。一人一人は土の器に過ぎないのに、キリストの言葉に従って あら
ゆる命と出会っていくなら、その群れは平和の器、神の器なのです、すでに。
 私たち教会は、社会規範や道徳を問い直す顔ぶれとして、共に、主の食卓を囲みま
しょう。そこにこそ人知を越えた永遠の平和、永遠の癒しがあるのですから。
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by hachimejibap | 2015-09-06 08:37 | メッセージ

誘惑にあわせないで

テーマ 主の祈り⑧誘惑
聖書 マタイによる福音書4:1~11
2015年7月26日                 協力牧師 北島靖士

わたしたちがいつも祈っている文語の主の祈りでは「我らをこころみあわせず、悪より
救い出(いだ)したまえ。」となっています。しかし、今使っている新共同訳マタイ6:
13では「わたしたちを誘惑に逢わせず、悪い者から救ってください。」です。「こころ
み(試練)」と「誘惑」は大分違うように思いますが、これはどうしたことでしょうか。
わたしは新共同訳聖書について説明する時に「文語訳、口語訳、新共同訳と新しい聖書
が出るのは、古い写本などが発見されて、原語(ギリシャ語)がより原本に近づいてゆ
くからだ」と説明しました。また「日本語も30年から50年もたつと大幅に変ってしまう
から新しい翻訳が必要になる。」とも言いました。
実はマタイ6:13の違いは上の説明とはまた一寸違った理由によるものです。ここの言
語(ペイラスモス)は「試練」と「誘惑」のどちらにも訳すことのできる言葉なので
す。二つの言葉に訳し替えたヤコブ1:12~15を見てみましょう。
「12 試練を耐え忍ぶ人は幸いです。その人は適格者と認められ、神を愛する人々に約
 束された命の冠をいただくからです。13 誘惑に遭うとき、だれも、「神に誘惑され
 ている」と言ってはなりません。神は、悪の誘惑を受けるような方ではなく、また、
 御自分でも人を誘惑したりなさらないからです。14 むしろ、人はそれぞれ、自分自
 身の欲望に引かれ、唆されて、誘惑に陥るのです。15 そして、欲望ははらんで罪を
 生み、罪が熟して死を生みます。」
 この試練であり、誘惑であるペイラスモスをわたしたちに先立って悪魔(サタン)か
ら、受けられたのがイエスさまです。
 マタイによる福音書4:1~11のいわゆる「荒野の誘惑」で、イエスさまは食物をむさ
ぼるという誘惑、権力を持つという誘惑、「物」を神として生きる誘惑(マモニズム)
を受けられました。そしてこの激しい誘惑に神さまの言葉をもって勝利されました。
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by hachimejibap | 2015-09-06 08:35 | メッセージ
テーマ :八王子めじろ台バプテスト教会の契約 「福音」
聖書 マタイ福音書 26章6~13節
2015年7月19日 主日礼拝              牧師 左右田 理

 その女性の油注ぎは、どうして福音宣教の場において、代々にわたる記念として定め
られたのでしょうか。(13節) 生活困窮者支援よりも、礼拝行為(捧げ物)の方が尊いとい
うような“比較優劣”が、十字架の福音を証ししているとは思えません。
 イエス様に油注ぎをした女性を、弟子たちは厳しく裁きます、「その香油を有効利用
すれば、多くの貧困問題が解決、解消できたかも知れないのに…」。しかもその油注ぎ
が当時の宗教国家の指導者の耳に入ったら、「悪人に神の祝福の選びを象徴する油
注ぎをするとは、背教者だ!」と追求の手が伸びてくるかも知れません。(3~4節) そうな
れば、まさに神と人から裁かれるの図です。問題解決、解消どころか、問題を起こして
しまったように見えます。しかしイエス様のまなざしは、そういうところにこそ出現する愛
の真実、神の真実を見たのでないでしょうか。神が世人の罪を赦してくださる しるしを
見たのではないでしょうか。(ルカ7:47参照)
 生活困窮を深刻化させるのは、借金返済に追われる悪夢です。この世の裁きは、“金
の切れ目が縁の切れ目”、裁かれる側に追いやられた先に待っているのは、孤立(死
の支配)です。ですから、そのような独房状態から、自分だけは救われたい、他の人が
孤立することになっても、自分だけは“ひとりぼっち”にされたくない…だから人は誰しも、
“欠け”に対して舌打ちする側、裁く側に立ちたい。“金の切れ目が縁の切れ目”で孤立
していく命に対しても、憐れみのまなざしでもって、見送る側に立ちたい。しかし、それ
は もはやキリスト教ではなく、“自分教”なのではないでしょうか。
 ひょっとしたら、“問題解決(解消)”というものは、その時代、その社会において、裁く
側の勝利宣言に過ぎないのかも知れません。なぜなら裁かれる側からすれば何も解決
していないのですから。“共存共栄”も同様です。しかし復活の主の勝利は、十字架の命
であり、裁かれる側の希望です。(1コリント15:54~58) それは“共苦共生”です。十字架の
福音は、問題解決(解消)の安定ではなく、問題共有の広がり、波風を立てる前進です。
 私たち教会は、“困窮する人々”の側に立っているでしょうか。“いつも貧しい人々が
一緒にいる(11節)”群れとなっているでしょうか。本当に、いつも、一緒にいるなら…私
たちは、キリストの葬り、復活の主の勝利にすべてを献げ尽くす教会です、すでに。
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by hachimejibap | 2015-09-06 08:34 | メッセージ

正しい人の記念碑

テーマ :八王子めじろ台バプテスト教会の契約 「平和」
聖書 マタイ福音書 23章29~31節
2015年7月12日 主日礼拝                牧師 左右田 理

 本日の聖書箇所を読むとき、ちょうど正反対の意味合いでの言葉が思い浮かびま
す。それは、宗教改革者マルティン・ルターが残したと言われる言葉です。「キリスト者
よ、大胆に罪を犯せ。大胆に悔い改めて大胆に祈れ。」…今の私には、この言葉が、
「罪人たちよ、あの十字架の主のもとで、裁かれるべき者として“共に”立て!」という響
きをもって迫ってきます。(ヤコブ2:12)
 マタイ福音書23章は、当時の宗教指導者たちの偽善を暴きます。偽善は、自己正当
化の応酬、裁き合いを社会に招きます。自己正当化の競争に破れた者が、自暴自棄
へと追い詰められると、自他を問わず、命を傷つけ、また奪うような悪行、暴行へと誘
惑されます。裁き合いに破れると、ますます攻撃的なかたちで、裁く側へと のめり込ん
でいくのです。あらゆる命が“裁く側”に引きずり込まれていく、それこそ罪の世です。
 「部キ連ニュースレター(部落問題に取り組むキリスト教連帯会議の会報)45号」では、
ヘイト スピーチについて取り上げられています。彼らが在日の方々に対して暴言を吐き、
罵倒する背景にあるのは、被害者意識だということです。「自分たちの既得権益を侵害
したのは在日だ」、と言いがかりをつけて、在日の方々を標的にしているわけです。こ
れからも彼らは裁く側に閉じこもろうとすることでしょう。なぜなら、いくら裁いたと
ころで、何も取り戻せないという現実が繰り返されるだけで、それでもなお、自己正当
化し続けるためには、次から次へと標的を増やしていく以外に方法がないからです。
(マタイ12:43~45)
 「あなたは(わたしは)、どうして」というように、単数形が意識された問いは、分断(断
罪、律法主義)を容易に招きます。しかし、「一緒に、共に、やりませんか」という複数形
が意識された問いは、命への招きであり、孤立(死の支配)からの解放です。神の義
は、「クリスチャンが」というように単数形が意識されるところではなく、「教会が」「後か
ら来る人々が(創世記15:5~6)」というように、複数形が意識されるところにあるのです。
 裁かれる側に“立つ”群れこそ、復活の主のご支配を証しする神の器であり、命の主
のゆるし(救い)を豊かに証しているのです。主の十字架のみを正しい人の記念、さらに
目標と信じ、今 裁かれる側に置かれている命の苦しみを“共に”受けるところに立つ、
それこそがあらゆる断罪を滅ぼし、全世界に平和を実現する力です。(マタイ5:9)
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by hachimejibap | 2015-09-06 08:33 | メッセージ

聖なる者たち

テーマ :八王子めじろ台バプテスト教会の契約 「自由」
聖書 コリントの信徒への手紙 一 6章1~11節
2015年7月5日 主日礼拝                牧師 左右田 理

 “コリントの信徒への手紙”のテーマの一つに、自由があります。そしてその自由は、
十字架の言葉が土台となっていると考えられます。(1コリント1:18) ですから聖なる者たち
とは十字架の言葉に基づく自由へ贖われた者たちであり、その自由こそが、まことの裁
きを世に起こすことができるのです。(2~3節)
 哲学者フランシス・ベーコンの随筆集に、「世には悪のために悪をなす者はいない。み
んな悪によって利益・快楽・名誉を得ようと思って悪をなす。」という格言があります。こ
の格言を、コリント教会の状況にさらに当てはめるなら、「言い訳を掲げ(自己正当化)、
自らの優位性を誇示し(1コリント4:6)、“裁く側に立つ”ことにより(9~10節)、悪はますます深
刻になっていく」ということではないでしょうか。(ローマ2:1,4、1コリント5:12)
 イエス様は この世の裁き(理想、常識、法的正義)に無関心、無縁だ、とする聖書解
釈もあるようですが、私には、そうは思えません。イエス様は、この世の裁きを直視し、
自らを裁かれる側に見いだす自由、十字架の自由、すなわち“裁く側からの解放”を指
し示そうとされているように思えます。(ルカ12:13~21) たしかに この世の裁きは、命の排
除、隔離を社会にもたらします。排除、隔離されないよう、自らを“裁く側”にとどめたい
という誘惑も尽きないことでしょう。けれども十字架の言葉は、この世の裁きのただ中
で、裁かれ、排除、隔離されている命と連なるよう教会を招き、そして教会はキリストの
からだとして、この世の裁きのただ中で、裁かれ、排除、隔離されている命に共に連な
るよう、世の人々を招くのです。(7節) この招きの先にこそ十字架の平和があります。
 十字架の平和、まことの平和は、裁く側に身を置こうとしている限り、霞んで見えなく
なっていくだけです。しかし聖なる教会は十字架の自由を盛る神の器です。この世で裁
かれている命と一つ運命とされていく生き様を世に広くさらし、見せ物とされることで、十
字架の命を証しする群れです。(1コリント4:9,14) それによって、この世の裁きそのものが
問いただされ、この世の裁きそのものが力強く裁かれているのです、まことの平和に向
かって、すでに。(2~3節) わたしたちは、「八王子めじろ台バプテスト教会の契約」と向
き合い、“この世の力から独立し、主の教会にふさわしい秩序を守り”ましょう。ひたすら
十字架の自由に向かって、共に生きていきましょう。
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by hachimejibap | 2015-09-06 08:32 | メッセージ

みんなで歌おう!共に話そう!そして一緒に祈ろう! 〒193-0833 東京都八王子市めじろ台2-15-2 ℡.042-663-7036


by hachimejibap