八王子めじろ台バプテスト教会

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イエスの母と兄弟たち

テーマ :八王子めじろ台バプテスト教会の契約 「主にある兄弟姉妹」
聖書 マルコ福音書 3章31~35節
2015年5月31日 主日礼拝                   牧師 左右田 理

 「女、子ども」と言うと、“とるにたりない”とか、“足手 まといになる”などの意味で引き
合いにされることが少なくありません。聖書ではイエス様の成人後、父ヨセフの存在が
言及されていないことから、本日の聖書箇所も、社会的に虐げられた母子家庭状態が
読み取られて良いのではないでしょうか。現代日本に広がりつつある、生活困窮家庭
の苦しみが聞き取られて良いのではないでしょうか。「イエスよ、長男として、少しは家
族のことも顧みておくれ…」
 しかしイエス様の身内は、なぜ集会中に、その集会の外へと、イエス様を呼び出そう
としたのでしょうか。福音書のあちこちに記されているように、イエス様が、生活に困窮
している人々に救いの手をさしのべ、その招きに応えて多くの人々が集まっていたこと
は、家族だって見聞きしていたはずです。彼らと一緒に、その集会に加わることはでき
なかったのでしょうか。一つ考えられることは、よそ者、新参者よりも、身内、仲間内が
優遇されるのは当たり前という価値観です。それはこの世の常識と言えましょう。つま
り、既存の社会秩序に貢献、もしくは安定をもたらすような人間関係が優先されるとい
うことでしょう。返す刀で、既存の慣例、慣習を揺るがすような者たちは後回しにされ、
排除されていく…これもまたこの世の常識なのでしょう。(マルコ2:16)
 けれどもキリストの言葉は、そういう既存の慣例や慣習、身内や仲間内優先の人間
関係を揺さぶります。この世で常識とされる、あらゆる優先順位を問い直し、覆していき
ます。(33~35節) それは、周りから優遇されることが幸いででもあるかのように思い込
んでしまう勘違い(的外れ、罪)が、十字架の言葉で砕かれ(罪からの解放!)、この世の
常識、価値観によって見下してきてしまった命との和解の再会、すなわち復活の主のご
支配による人間関係へと、全世界が立ち返るためです。(2コリント5:16~18)
 やがてイエスの母と兄弟たちにも、その復活の主のご支配、和解の福音の勝利が及
びました。(使徒言行録1:14) しかし それはまだ始まりです。いまだ途上です。イエス様
には姉妹も いました。(マルコ6:3) 初代教会時代、困窮・孤立状態にある人がまだまだ
他にも いたのではないでしょうか?私たちの教会はどうでしょうか?神の家族、主にあ
る兄弟姉妹の愛を 分かち合っているでしょうか?今もキリストの言葉は問うています。
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by hachimejibap | 2015-06-20 14:45 | メッセージ
テーマ 主の祈り⑥食べもの
聖書 マルコ6:30~44(新共同訳)
2015年5月24日                 協力牧師 北島靖士


今日は教会の暦―教会暦では聖霊降臨祭です。聖霊降臨祭は五旬祭(ペンテコステ)とも
いわれます。キリスト教会では降誕祭(クリスマス)、復活祭(イースター)に並ぶ三大
祝祭とされています。使徒言行録2章にあるように、イエスさまが十字架につけられて殺さ
れてから50日目に、かつてイエスさまの弟子であったものたちが集まっていると、聖霊が
炎のように別れてひとりひとりの上に降りました。その時にペトロが力強い説教をした結
果、多くの人々が罪を悔い改めて、バプテスマを受け仲間に加わり、ここに最初のキリス
ト教会であるエルサレム教会が誕生しました。ここから、聖霊降臨祭は教会の誕生日とも
言われます。その後、教会は「エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土、また
地の果てにいたるまで、イエスさまの証人と」(使徒言行録1:8)なってゆきました。す
なわち教会は聖霊に導かれて伝道することがその使命なのです。
一方、今日の聖書の箇所で、イエスさまは五千人もの人々が人里離れた所で飢えた時に、
弟子達に「あなたたちの方で、彼らに食べ物を与えるのだ。」(マルコ6:37岩波訳)と
言われました。人々の具体的な必要に応答えることが弟子達の務めだったのです。弟子達
がこのイエスさまの求めを、不可能だと言って拒否した時に、イエスさま自ら五つのパン
と二匹の魚を人々に分けて与え、人々に食べさせられました。
聖霊に導かれて伝道することと、今の具体的なひとびとの必要に答えることはどちらも、
イエスさまの弟子としての使命なのです。どちらか一方をやっておればよいというもの
ではありません。イエスさまは主の祈りでは「わたしたちに必要な糧を今日与えてくだ
さい。」(マタイ6:11)と祈るように言われ、同時に「人はパンだけで生きるものでは
ない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる。」(マタイ4:4)言われました。二つ
のことはイエスさまにおいて一つのことなのです。
日本バプテスト連盟は1947年に16教会から始まりましたが、「全日本にキリストの福音を」
との標語のもとに伝道を進め、今日326教会、伝道所になっています。同時に「七特」=
障害」者と教会、靖国神社問題、公害問題、日韓・在日連帯、部落問題、ホームレス支援、
性差別問題…各特別委員会や東日本大震災地支援委員会などの臨時委員会を設けて現代の
問題に対応しようとしています。これはそのことに興味ある個人の働きではなく、教会の
使命なのです。
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by hachimejibap | 2015-06-20 14:44 | メッセージ

はるかにそれを見て喜び

テーマ :八王子めじろ台バプテスト教会の契約 「聖霊」
聖書 ヘブライ人への手紙 11章13~16節
2015年5月17日 主日礼拝                   牧師 左右田 理

 イエスが復活してからも、弟子たちはユダヤ教から独立しようとしていたわけではあり
ません。ユダヤ教の救いの完成形として福音を告げ広めようとしていたのです。旧知の
同胞からどれほど拒否されようとも、くり返し対話を試みたのです。たとえ決裂すること
ことがあろうとも、くり返し対話へと導かれたのです。(使徒18:6,9~11) キリストの群れ
は、対話へ導かれ続け、拒否され続けて、ついに一つの歴史的展望へと導かれます。
それは「救いの祝福は、旧知の同胞に満たされてから、よそ者、新参者へと広がるわ
けではない。まず新参者、よそ者に満たされてから、やがて旧知の救いの完成となって
返ってくる」という歴史的展望です。(ローマ11:25~26、マタイ20:8~12)
 初代教会時代、弟子たちは多くの難問と向き合い続けました。とくにユダヤ教との位
置関係に苦しみました。イエスと弟子たちの群れは当初、ユダヤ教の一派と目されて
いたという説があり、実際、イエスご自身も旧知の同胞との対話を優先させていた節が
あります。(マタイ10:5~6) ところが旧知の同胞との関係は悪化する一方で、ついにイエ
スは十字架で殺され、弟子たちも迫害にさらされ続けていくのです。そのような中で、
旧知の同胞との関係を改善するための模索があったとしても不思議はないことでしょ
う。本日の聖書箇所、ヘブライ人への手紙の執筆背景にも、じつは、「決してユダヤ教
を否定しているわけではない」、というアピールがあるように思えます。ユダヤ教の宗教
作法、救いの理解がキリストの十字架によって成就したことを証しし、迫害され、排除さ
れ、よそ者扱いされればされるほど、逆に、すでに、救いの歴史の前進に奉仕している
という、人知を越えたお導き、聖霊の導きを喜びます。(13,15節)
 割礼という宗教作法と無縁の異邦人が救われるなどというキリストの福音は、ユダヤ
人にとって知的問題だけでなく、生理的にも耐え難いものがあり、殺意すら抱かずにお
れなくなるような考え方でした。にもかかわらず、キリストは伝道者パウロを派遣したの
です、「旧知の同胞が憎む、私の新世界へ向かえ」。(使徒22:21~22) 最終的には、人
知を越えて、旧知の同胞にも救いの祝福が満たされるという歴史展望、その先取りとし
ての喜びがパウロにはありました。聖霊がその喜びをもってパウロたちを導き続けてく
ださったからこそ、この日本の地にも、そして当教会にも福音が届いたのです。
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by hachimejibap | 2015-06-20 14:43 | メッセージ
テーマ :祈り
聖書 出エジプト記 2章11~25節
2015年5月10日 主日礼拝                   牧師 左右田 理

 「…彼らの叫び声は神に届いた(23節)」…“彼ら”とは誰のことでしょうか。1章でモーセ
は九死に一生を得たわけですが、そのかたわらで、多くの命が犠牲となっていったので
す。滅びに瀕する人々を横目で見ながら、抑圧者側の王子として生き延びている罪深さ
にモーセは耐えられなくなり、少しでも“彼ら”の叫びに応えたかったのかも知れません。
しかしモーセのその行動、人としてのその善意は、一つの問いにぶち当たるの
です。「人を救う側に立つ資格を、いったい誰があなたに与えたのか」(14節)
 日本バプテスト連盟ホームレス支援特別委員会に委員として参加してきた中で、幾
度となく、「助けてあげる」、「~してあげる」など、人の善意に潜む問題と向き合ってき
ました。今年3月、NHK番組で奥田知志牧師は「罪人の運動」とおっしゃっていました。
自らの力が及ばなかったホームレスの方々からゆるされて、応援されて、続けさせても
らっている運動、それこそがホームレス支援活動なのではないでしょうか。
 人に、救う側に立つ資格を与えてくださるのは神です。歴史の主です。モーセは神か
ら、すなわち歴史の主から、そのためのお導きを受けました。それは寄留者(よそ者)に
なるということでした。(22節) それは自分が誰かから救ってもらう側、助けてもらう側の
存在でしかない、ということを学ぶための長い年月でした。(23節) 自分は救う側に見
合う存在ではなく、救われる側、助けてもらう側こそがふさわしい、ということが全身全
霊、隅々にまで染み渡り、骨の髄にまで刻まれていくことを通して、やがて救う側として
立つ日へと導かれていくのでした。
 歴史の主は、契約の主です。ですから、人に、救う側に立つ資格を与えてくださるの
は契約の主です。人が救われるのは、その人の抱える問題、悲惨さが救われるに値
するからではありません。神の民は、自分たちの叫びそのものが救いに値するかのよ
うに信じている民ではなく、救いの契約のおかげで、自分たちの叫びが神の救いへと
受け入れられるということを信じる民です。(24節、申命記9:26~27) 救いの契約のおか
げで、人の叫びに応える側、救い主の側に導かれることを信じる民です。(25節、出エジ
プト23:9) 主の晩餐式を通して(マタイ26:28)、「八王子めじろ台バプテスト教会の契約」を
通して、私たちも共に、祈りを救い主のご支配へ届けましょう。
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by hachimejibap | 2015-06-20 14:42 | メッセージ

水の中から

テーマ :復活
聖書 出エジプト記 1章22節~2章10節
2015年5月3日 主日礼拝                   牧師 左右田 理

 聖書の救済史にとって原点とも言うべき人物モーセ。彼の名前の由来は、“水の中か
らわたしが引き上げたのですから(2:10)”でした。救いと水、という不思議な取り合わせ
は、イエス様の言葉にも残されています。(ヨハネ3:5) 救いと水…私の中では今、東日本
大震災で津波の被害に遭った方が、海を脅威として敵視することなく、これからも海に
将来を託し続けていこうとする生き様が、思い浮かぶのです。
 モーセをめぐる救いの出来事は、人の無力から始まります。(2:3) 子を守り通せない
親の無念は、人類史上最悪の無念、無力と言えましょう。防水加工を施しても、いつか
は水に沈んでいく わが子…身内、仲間内、同胞の結束力などでは越えられない命の
無念、人の無力こそが、聖書の救いの原点として証しされているのではないでしょうか。
 そしてモーセをめぐる救いの出来事は、敵対的な位置関係にある者どうしが、死にゆ
く命を救うための協力関係へと、人知を越えて結びあわされていきます。(2:7~8) そして
また、死をもたらす側の者たちが、命の無念、無力に沈んでいる者たちと“共に”、復活
の命を受ける 神の器とされるのです。(1:22,2:10)
 …わたしたちは、バプテスマと主の晩餐の二つの礼典、また聖書の教えを守ります。…
                  「八王子めじろ台バプテスト教会の契約」より
 水のバプテスマもまた、救い主を排除し、殺してしまう私(たち)こそが、自分(たち)を
排除しようとしてくる相手(敵)が抱えている無念や無力をぬぐい去るキリストの器とされ、
十字架の愛と一つにされるという救いを証ししているのではないでしょうか。それはまた、
自分(たち)を排除しようとしてくる相手こそが、“共に”、滅び行く多くの命を救うための
神の器として新しく生きるという、復活の希望ではないでしょうか。(ローマ6:3~4)
 主の晩餐式において私たちは、私たちが排除したお方が、今も私たちの中に生きて
働いてくださっているという恵みを覚えます。それは復活の出来事として、身内、仲間内
による安定志向の幕切れとして訪れる命の無念、人の無力が証しされる瞬間であると
同時に、あらゆる敵対関係、「加害者-被害者」の関係こそが、あらゆる命を無念、無
力から解放することになるという希望が証しされる瞬間なのではないでしょうか。救いと
水の関係に象徴される救いの希望に向かって、共に前進しましょう。
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by hachimejibap | 2015-06-20 14:41 | メッセージ

みんなで歌おう!共に話そう!そして一緒に祈ろう! 〒193-0833 東京都八王子市めじろ台2-15-2 ℡.042-663-7036


by hachimejibap