八王子めじろ台バプテスト教会

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神を畏れていたので

テーマ :命の主
聖書 出エジプト記 1章15~21節
2015年4月19日 主日礼拝            牧師 左右田 理

 安定は希望です…某政党のキャッチコピーです。多くの人たちが共感し、惹きつけら
れているのではないでしょうか。実際、古今東西、多くの民衆が、安定を約束する権力
者に希望を託してきました。ですから、安定を心がける権力者にしてみれば、自分に逆
らう者など、とうてい理解できないのではないでしょうか。(18節)
 エジプトの王も、安定のために策を巡らしていました。(8~10節) つまり自分たちの安
定を脅かすことが予想される命は排除し、そうでない命だけはその存在を許可しようと
したのです。(16節) 自分(たち)の安定が期待できているうちは優しかった人でも、それ
までの安定が脅かされ始めると、命に対する態度が変わってしまうことがあります。初
代教会時代にも、同様の誘惑があったようです。(ヤコブ2:1~5)
 助産婦のシフラとプアは、命に対する態度を変えませんでした。それは、失業の危機
であり、文字通り、自分の命の危機だったのではないでしょうか。(19節) かろうじて保
たれてきた自分たちの安定を揺さぶる命の問題…そういう命の問題をもたらすような命
を肯定し続けることを選び取った彼女たちは、まぎれもなくヘブライ人の中のヘブライ人
であり、神の民に 命の主の祝福をもたらす神の器でした。(20節)
 キリスト教会は、キリストの からだであり、救いの恵みが盛り込まれている神の器で
す。既存の安定を揺さぶりかねない命をも選び取り、自分たちの群れに歓迎する器です。
(1コリント12:21~22) 教会は、キリストの器として、繰り返し十字架の言葉によって砕か
れ、復活の命の証しとして再創造され、世に広がっていくのです。
 ですから、救いとしてこの世に現れたキリストの命は、絶えず新しい命であり、既存の
社会に変動をもたらす命です。絶えず“変えるお方”として、復活の主は変わらないので
す。(ヘブライ13:8) 既存の秩序、安定に吹き込まれる新風、すなわちキリストの息吹で
す。私たち教会は、キリストの息吹に満たされた礼拝を捧げます。
 新しい命、変動する命と向き合わされるとき、私たちは問われています。あなたがたは、
これから、主の みわざとして、倒されたり立ち上がらせたりすることになる。そういう
みわざを通して、繰り返しあなたがたは問われる。本当に、あなたは命を選び取ろうとし
ているのか、それとも何か、命以外のものを選び取ろうとしてしまっているのか…
十字架の光によって照らし出される思いを、共にしっかりと分かち合っていきましょう。
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by hachimejibap | 2015-04-27 06:09 | メッセージ
テーマ :救いの力
聖書 出エジプト記 1章1~14節
2015年4月12日 主日礼拝               牧師 左右田 理

 聖書の救いの歴史的原点は、奴隷(としての苦役)からの解放でした。しかし救いの
民は荒れ野に導かれた民です。救いは苦難の除去ではありませんでした。神の救い
は、誤解や不信感、敵意の渦巻く罪の世のただ中に輝く光でした。(ヨハネ1:4~5,10~11)
 古代エジプトでは内部で二つの種族がせめぎ合っていて、双方が支配権を奪い合っ
ていたという説を耳にしたことがあります。その説によれば、創世記末尾に描かれてい
るエジプトで支配階級にあった種族は、イスラエル人に近い種族で、本日の出エジプト
記ではイスラエル人から遠い種族が支配権を奪ったというのです。(8節) ことの真相
は定かではありませんが、現代企業の派閥争いを引き合いに出すまでもなく、古今東
西、そういう権力、利権の争いに巻き込まれていく人々の悲劇的な出来事は、枚挙に
いとまがありません。まさに神の救いの物語は、この世の利権、権力闘争に巻き込ま
れ、傷つけられ、失われていく命に対する解放の物語だったのではないでしょうか。
 一難去ってまた一難、それもまた罪の世の現実です。救いは罪の現実に背を向ける
ことではなく、罪の現実のただ中に光を見ることです。古今東西、自らの生まれを呪っ
てきた人(ヨブ3:1~7)は数え切れないことでしょう。しかし、世に織りなす人生模様を美化
することもゆるされず、自らに課せられた 忌まわしい社会的縛りなどから目を背けるこ
ともゆるされなかった彼らこそが、救いの光、義なる神によって、すでに とらえられてい
たのではないでしょうか。妬まれたり、脅威と見なされたり、または排除されたりしてき
た命こそが、世に増え広がるよう、歴史の主、十字架の贖い主によって定められている
のではないでしょうか。(12節)
 社会的に弱い立場に立たされている人々、迫害されている人々と連なることは、神の
民としての歴史的使命です。(出エジプト23:9) 彼らと連帯しつつ、迫害者に対しては、歴
史の主、十字架の主の愛に踏みとどまりながら応え続けます。(マタイ24:9~13) 日本バ
プテスト連盟には、そのような主の働きに取り組むため、特別委員会などがすでに設け
られています。当教会も、日本バプテスト連盟に加盟する群れとして、歴史の主から託
されている福音的使命を改めて思い巡らしつつ、共に、主の招きの言葉を祈り求めてい
きましょう。
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by hachimejibap | 2015-04-27 06:04 | メッセージ
テーマ :復活の主
聖書 マルコ福音書 9章2~10節
2015年4月5日 イースター礼拝           牧師 左右田 理

 人が家を建てるなら、そこに誰かが入るためです。ペトロは誰を迎えるつもりだったの
でしょうか。もし、イエス様が純白に輝かなかったとしても、ペトロは同じように歓迎する
つもりだったのでしょうか。もし、誰もが目を背けたくなるような姿へとイエス様が変わっ
てしまっても、家を建てようとしたのでしょうか。(イザヤ52:13~14)
 輝くイエス様と共にいたモーセとエリヤ。神の民にとって、モーセは律法の授与者であ
り、エリヤは預言者の第一人者でした。ですから、ペトロが三人のために家を建てようと
申し出たとき、その念頭には、約束の地、すなわち神の国に入り損なったモーセの姿は
なかったことでしょう。失意のうちに敵前逃亡したエリヤの姿も、そしてこれから十字架
に磔にされていくイエス様の姿も…
 歴史的に、イエス様の復活を描いた聖画のほとんどが、白い衣を着て、輝いているお
姿を描写しているのではないでしょうか。その理由の一つが、本日の聖書箇所ではない
かと思っています。しかし私たちは実際、そのようにして白く輝いているイエス様と出会
っているでしょうか。神の家は礼拝の群れです。主の日の礼拝で仰ぎ見ているお方は
復活の主です。イースター(復活祭)の中心にお迎えしているのは復活の主です。しかし
私たちは、教会生活、礼拝生活のどこかで、この世のものとは思えない白さで輝いたお
方をお迎えしているのでしょうか。興味深いことに、伝道者パウロの証しする、教会に迎
え入れられた人々は、いわゆる純白な輝きとは異なっています。(1コリント1:26~27)
 主の復活とは、人が正気も言葉も失うような出来事でした。(マルコ16:8) 人の願望、思
惑(6節)のすべてが消え去り、ただ神の御旨(7~8節)だけが残る出来事でした。人の思
い描く白さ、輝きはぬぐい去られ、神の認める白さ(黙示録7:14)、輝きのみが残る出来
事です。赤い血に染まっている主の十字架が、そのまま、すでに純白の輝きに様変わり
して見えるところ、すなわち神の教会、復活の主の家です。
 復活の主をお迎えする家、そこから派遣されていく生活、歩みは、この世では白さ、輝
きとしては認められないような白さで輝いています、すでに。(2コリント6:8~10) たとえ人か
らは認められなくとも、神から認められる命が始まっています、すでに。私たちは共に、
十字架の言葉に聴きましょう。復活の輝きが待つ明日を信じて、共に前進しましょう。
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by hachimejibap | 2015-04-27 05:59 | メッセージ

みんなで歌おう!共に話そう!そして一緒に祈ろう! 〒193-0833 東京都八王子市めじろ台2-15-2 ℡.042-663-7036


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