八王子めじろ台バプテスト教会

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嘆き悲しみに応える神

テーマ :復活
聖書 マタイ福音書2章16~18節 (新共同訳聖書)
2014年12月21日 クリスマス礼拝

 本日の宣教題は、嘆き悲しみを“解決する”神、ではありません。“応える”神です。な
ぜなら、まことの救いは、平穏無事を乗り越えていく道だからです。
 救い主とは、イスラエルの歴史においては“王(すなわちキリスト)”を意味していました。
ですから時の権力者ヘロデにとって救い主誕生の知らせは、自分の王位を脅かす政敵
の出現にしか過ぎませんでした。そして民衆もまた、余計な厄介ごとを巻き込まないで
ほしい、というのが、救い主降誕の報に対する本音だったようです。(3節)
 寝た子を起こすな、という言葉があります。言い分の良し悪しや、出来事の質を問うこ
と無しに、とにかく波風立てた者が問答無用に悪い、という考え方です。その昔、エホバ
の証人のパンフレットに、“遠く東からの礼拝者を幼子イエスのもとへ導いた星のせい
で、ヘロデによる幼子虐殺事件が起きた、あの星は悪魔の星に違いない、だからクリス
マスもお祝いなどできない”、というような趣旨が記されていたので驚いたのを思い出し
ます。また青年時代、聖書研究会で、幼子達の虐殺が起きたのは救い主が生まれた
せいではないか、という非難口調が飛び出したのを思い出します。つまり横暴な振る舞
いは問われることなく、虎の尾を踏んだことが断罪されているわけです。臭いものに蓋を
しなかったこと、さらに言えば、蓋を開けてしまったことが非難されているわけです。
 人の慰めは往々にして寝た子を起こさないようにして、臭いものに蓋をします。“嘆き
悲しみ”を忘却の彼方へ押しやろうとします。しかし神の霊による慰め、十字架の救い
は、いわば寝た子を起こし、臭いものの蓋を開きます。それは決して、嘆き悲しみの
“解決”(原因究明、犯人捜し)ではありません。むしろ“解決”からの解放です。“嘆き悲
しみ”そのものが、それまでその人にとって大切だった人々、そしてこれから大切になる
人々をより一層、鮮明にしていきます。(エレミヤ31:15~17) 自分自身の“嘆き悲しみ”に
閉じこもることをやめ、隣り人の“嘆き悲しみ”に、より広くつながっていきます。昨日まで
の平穏無事を後にして、今まで知らなかった人々の苦難を共に分かち合う明日へ導か
れていきます。(フィリピ3:10~14) ここに復活の命による新しい家族があります。
 このクリスマス、私たちは復活の命の主のご降誕を祝いましょう。やがてすべての人が
よみがえるとき、失われた愛する人たちを、復活の命による新しい家族に迎えましょう。
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by hachimejibap | 2014-12-23 16:18 | メッセージ

み名をあがめよ

テーマ 主の祈り③み名を崇める
聖書 ルカによる福音書1:46~56(新共同訳)
2014年12月14日                 協力牧師 北島靖士

今から60年も前のことです。わたしは福岡の西南学院大学の神学部(当時は文学部
神学科)に入って神学生になりました。なけなしの金をはたいて買った最初の神学書が
藤田孫太郎訳「ルター選集」Ⅰ,Ⅱ巻でした。その中にルターが1519年に書いた「主
の祈りの講解」がありました。
 そこで、宗教改革者ルターは「御名が崇められますように」という第一祈願について
「この祈りのことばは短くても、真心から祈るなら、いかばかり大いなる、溢るるばかり
豊な、深い祈りであろう。」と言っています。そして「『み名が崇められますように』と
われらが祈願するこの祈願より大いなる祈願は存在しない。」と書いています。ここを読
んで、わたしは「そうか、それでは主の祈りをもっともっと祈り込んでゆくぞ」という高
揚した気持ちになったことを覚えています。
 しかし、しかし次の句を読んだとたん頭をガーンとなぐられたような感じになりました。
そこにはこうあったのです。「わたしは聖書全体の中で、この祈りほど強く、われわれの
生を破滅させ、破壊する教えをしらない」「われわれは全て、神の名と栄誉とが絶えず冒
涜されるような生活をし、他の神々を持ち、自ら己が生の主たらんとしている」というの
です。大変なショックでしたが、自分の生活を省み、ありのままの自分をゴマカシなく見
つめた時に、このルターの言葉を受け入れざるを得ませんでした。
 今日、私自身もその一人である世界の中で、神の名がないがしろされ、神の名が冒
涜される数々の事態が起こっています。ですから、主の祈りはこの世界のただ中で祈
らなければならないのです。生活のさまざまな場面で「み名が崇められますように」と
祈られなければならないのです。
 そして、教会では心をこめて「み名が崇められますように」と主の祈りを祈って、世界
のためにとりなしの祈りをささげてゆかなければならないのです。主の祈りは、教会と世
界とわたしの「希望」です。
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by hachimejibap | 2014-12-23 16:17 | メッセージ
テーマ :人知を越えた希望
聖書 マタイ福音書2章1~12節 (新共同訳聖書)
2014年12月20日 クリスマス・イブ礼拝

 本日の聖書箇所…口語訳聖書ではわかりませんが、新共同訳聖書でわかることが一
つあります。それは、幼子イエスを礼拝するため訪れたのは、星占い師だったということ
です。(申命記18:10~12) 門前払いされて終わる可能性のあった彼ら…現代の交通
事情では想像できないほどの困難な旅路が、すべて無駄になってしまう危険性もあった
彼ら…しかし、すべてを失ってでも礼拝をささげた彼らこそが、世界で最初のクリスマス
に導かれたのです。
 現代のクリスマス・シーズン、繁華街を照らし出す光を人々はどのように受けとめるの
でしょうか。光そのものに魅入る、照らし出されるものに目を懲らす、など、受け取り方は
さまざまでしょう。しかし、この世の繁栄を照らし出す光は、“失う”ことに対する不安、恐
怖を色濃くさせていきます。“失う”不安、恐怖そのものが、遠く天からの来訪者、救い主
キリストを遠ざけ、ついには十字架につけてしまう深い闇だったのではないでしょうか。
 東日本大震災から、いまだ3年です。被災された方々が立ち直るためには、すべてを
ささげてでも、といったような、あの頃の気運はどこへやら…国政の争点は いつの世も、
儲かるか儲からないか、に絡め取られていきます。そこには大衆の日常が景気経済に
縛られている現実が改めて浮き彫りになっています。そして“安定こそ希望”となった社
会は、救いの光を警戒し、近づこうとはしないのです。(3節、マタイ6:24) 今年、ノーベル
平和賞を受けたマララ・ユスフザイさんは、目の前には二つの選択肢しかなかったこと
を明言しました。声を上げず殺されるか、声を上げて殺されるか…まことの平和、まこと
の幸いは、“見ざる・言わざる・聞かざる”で おとなしくしていれば、そのうちやってくる、
というようなものでは、決してないのです。未知なる明日へ、自らの足で踏み出していく、
今ある平穏無事に腰を落ち着けてしまいたい誘惑を越えていく…クリスマスの平和は、
未知なる明日へ、すべてをささげて前進する人々を導き、祝福する光です。
 救いの光は、闇の中にすでに輝いています。(ヨハネ1:5) 闇の向こう側へと招いてくれ
ています。自分と異なるものへの不信感、自分に損失をもたらしかねないものへの疑心
暗鬼を乗り越えていく道、すなわち、まことの平和を指し示してくれます。(エフェソ2:14~
16) この世の闇に輝く希望の星、十字架の福音の始まりを共に祝いましょう。
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by hachimejibap | 2014-12-23 16:17 | メッセージ

天使が夢に現れて

テーマ :神の幻、救い主の夢
聖書 マタイ福音書1章18~25節 (新共同訳聖書)
2014年12月7日

 同じ釜の飯を食う、という言葉があります。苦楽を分かち合う親しい間柄を意味してい
るそうです。食卓を囲む、食事を分かち合う…それはすでに、命を共有している間柄の
証しです。ですからイスラエルの指導者は、滅びに値すると見なされていた人たちとは食
卓を囲みませんでした。そして彼らと食卓を囲むイエス様を非難しました。(マタイ9:11) 
しかし、滅びのレッテルを貼られた命の解放こそが、キリスト降誕の定めでした。(21節)
 滅びに向かう、“的外れ”な方向性は“罪”です。人が生き生きとすることを神が喜んで
おられることを知って、正しく生きようとする人は“罪”を警戒します。しかし社会は往々に
して、その社会の行く末に滅びを予感させるような振る舞いをした命そのものまで警戒
し、排除しようとしてしまいます。婚約者に不明の懐妊、いわゆる不貞は、当時の宗教
的常識としては、神の怒りを社会にもたらす危険因子と見なされていたと考えられます。
(ヨハネ8:4~5) 誰もが滅びないで、誰もが生き生きとしていけるために、どうしたら良い
のか…そこで、“正しい”人ヨセフは、いわば“水に流す”ことを選択したのではないでしょ
うか。つまり、過去の出会い、いきさつを一切無かったことにして咎めない…(19節)
 たしかに本日の聖書箇所では、神は誰をも咎めていません。けれども人と人との出会
い、その関係性は大切にするよう命じました、天使を通して…。(20節) 聖書の天使
は、イスラエルが神の国としての体制を保っている頃には登場しません。天使との出会
いは、神の国の崩壊、滅びに支配されている証しとも言えましょう。けれども同時に、神
は、滅びに支配された命との関係性を引き受け続けてくださるという証しでもありましょ
う。この世の思い描く夢は、不都合なものを無視し、排除する方向に進もうとします。し
かし神の幻、救い主の夢は、滅びの不安、苦しみ、悲しみとも向き合い、分かち合って
いく方向へ進むのであり、ヨセフは神の幻、救い主の夢へと招き入れられたのです。
(1テモテ1:15)
 この世は、我が世の春を謳歌する夢を追いかけます。そのための経済的安定、治安、
監視の強化…しかし、その陰で排除されていく絶望のあらゆる うめき、叫びを受けとめ
ることこそが、神の幻、救い主の夢です。そして神の幻、救い主の夢はすでに成就した
のです、あの十字架で、あの叫びで。(マタイ27:46) 今や、十字架で割かれた主のから
だと血を共に受ける教会の群れには、すでに復活の救いが満ちあふれています。
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by hachimejibap | 2014-12-23 16:16 | メッセージ

みんなで歌おう!共に話そう!そして一緒に祈ろう! 〒193-0833 東京都八王子市めじろ台2-15-2 ℡.042-663-7036


by hachimejibap