八王子めじろ台バプテスト教会

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テーマ :後生に開かれている祝福 (教会学校月間を覚えて)
聖書 ヨハネ福音書12章20~26節 (新共同訳聖書)
2014年9月28日

 神の救いは、その時代、その社会に於いて、いわゆる“よそ者”たちの群れに与えられ
る恵みでした。(出エジプト記23:9、申命記10:19) 神の歴史的救いは、“よそ者が顧みられ
る祝福”でした。にもかかわらず、やがて救いの民は、救われている自分たちと、救いを
知らない“よそ者”とを線引きし、区分けする礼拝をもって自己正当化していきました。
よそ者が礼拝を汚すことはゆるさない、神を汚すことはゆるせない、という義憤は、救い
主よりも自分を愛する自己義認へ堕していきました。(使徒言行録21:28) 神の家族…
兄弟姉妹…救われた者どうし…そういう身内の満足、仲間内の平穏無事志向こそが、
よそ者を排除してきた自分たちの本性を見えなくさせ、身内、仲間内の被害者性ばか
りが目につくようになってしまったのではないでしょうか。(ヨハネ9:39~41)
 本日の聖書箇所、よそ者がイエス様を訪ね求めて来た時、イエス様は、自ら救い主と
しての栄光を宣言されました。(23節) 救い主としての栄光は、救いの民からの歓迎で取
り囲まれていた絶頂時(12~19節)に宣言されたわけではありません。当時の神殿には、
“異邦人の庭”という、いわゆる礼拝堂の中心部に よそ者を近づけないための隔離場所
がありました。しかし復活の主の栄光(ヨハネ2:19~22)は、よそ者を隔離するどころか、救い
の民よりも優先したのです。イエス様の救いの宣言は、早くから救いと出会い、長く、救
いと向き合ってきた人より、今まで救いを知らなかった人を優先します。(マルコ10:31) しか
し、すでに救われた者どうし、という今までの安心が揺さぶられた群れにしてみれば、自
分たちが否定されるかのような危機感、被害者意識ばかりが増加し、事態はキリストに
対する迫害、十字架の死へと突き進んでいったのです。
  「はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。
   だが、死ねば、多くの実を結ぶ。」(24節)
 教会はキリストのからだとして、イエス様の救いの宣言をしっかり受けているでしょうか。
その時代、その社会から、よそ者扱いされ排除されてきた人々…在日、被差別部落民、
障害者、ゲイ、レズビアン、性同一障害、…そのような方々と共なる礼拝が、教会でどれ
ほど豊かに実を結んでいることでしょうか。みことばを分かち合いましょう。教会学校は、
イエス様の救いの宣言をあらゆる命と分かち合う希望の交わりです。
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by hachimejibap | 2014-10-19 18:07 | メッセージ

チャペル コンサート

皆様、
是非、お越しください。


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by hachimejibap | 2014-10-17 09:27 | 教会からのお知らせ
テーマ :後生に開かれている祝福 (教会学校月間を覚えて)
聖書 マルコ福音書15章34節、詩編22編30~32節 (新共同訳聖書)
2014年9月21日

 ある若者がつぶやいたそうです。「べつに死にたいわけじゃない、ただ、生き続けたく
ないだけだ」…戦後日本の幸福度を推し量る ものさしは“所有”でした。しかし今、働け
ば働くほど持ち出しが増える、いわゆるワーキングプア問題など、労働環境是正の目途
は立っていません。いくら「自分らしくあれば良い、個性重視」などと言われても
“所有”は今も、人々の心奥深くに他者との比較優劣を刻みつけ、多くの人々を疎外
感、孤立感、不信感、絶望、孤独死へと引きずり込んでいます。
 十字架のイエスは、すべてを失った人でした。しかし十字架の叫びは、最後の最後ま
で生きることをあきらめない力に満ちていました。(マルコ15:34) すべてを失っても最後の
最後まで生き抜く命が、あの叫びには満ちあふれていました。「神さま、なぜ!」
 歴史的キリスト教は、十字架の叫びを、詩編22編と関係づけながら解釈し、理解して
きました。それは単純に、双方が同様の単語、文面だったからというような解釈ではな
かったのだろうと思います。詩編22編には迫害に次ぐ迫害で、すべてが奪い去られてい
く生き様が鮮明に映し出されています。歴史的キリスト教は、それはもはや生き様とい
うより、死に様と言った方がふさわしい、と受けとめ、十字架の叫びとして聴いてきたの
ではないでしょうか。詩編22編後半も、十字架の叫びから生み出された喜び、賛美とし
て聴いてきたのではないでしょうか。古今東西、痛めつけられ、殺されていった無数の
命をつなげて、神に向かって一つにする叫び、すなわち復活の命として…
 死とは命と命との分断、孤立です。しかし逆に、死に様と死に様とが次から次へとつな
げられていくなら、それは永遠の命です。一度死んだものは二度と死にようがないので
すから、もはや死によっても分断できない命と命、死なない命、復活の命です。いかな
る命も必ず衰え、すべてが失われ、あらゆる“所有”も滅びます。だからこそ、「なぜ!」
という訴えをもって、あらゆる命が、命の主、十字架の主と向き合い、命の主、十字架の
主を中心に互いにして向き合うなら、永遠の命に満ちあふれています、すでに。
 教会学校、礼拝式、みことばを共に受けて賛美、永遠の喜びに導かれましょう。貧し
さ、乏しさ、悲しさ…なぜ!という神への訴えこそが、決して奪い去られることのない命
と命の連帯、復活の命を世に満たすのです。(ルカ6:20~21)
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by hachimejibap | 2014-10-17 09:25 | メッセージ
テーマ :後生に開かれている祝福 (バイブルキャンプを覚えて)
聖書 ヨハネ福音書 3章26~30節 (新共同訳聖書)
2014年9月14日

 十字架(と復活)の宗教が世に表される前、イエス様は数あるユダヤ教指導者たちの
中の一人であり、バプテスマのヨハネの後輩格と見なされていたと考えられます。ユダヤ
教社会に於いて、先輩格のヨハネ集団に対して、後輩格のイエス集団、といった図式で
す。現代社会の出世競争ではありませんが、ヨハネの弟子たちの目には、後輩格のイエ
ス集団が いわゆる“羊泥棒”にさえ見えてしまっていたのかも知れません。(26節)
 しかしヨハネは弟子たちに言います、“あのイエスこそが栄え、自分は衰えていく、私の
喜びは満ちあふれている。(29~30節)” イエス様の栄光は十字架です。イエス様の栄光
は、後輩が得して先輩が損をする、といったような、この世の競争原理(合否、損得)の言
葉とは異なります。このヨハネの言葉は、“十字架の栄光の物語”を指し示す神の言葉と
なります。それは、ヨハネの弟子たちに対する、さらには私たち後生に対する永遠の命の
招きです。「人生模様のすべてが、“キリストの物語に組み込まれていく”恵みを共に
喜ぼう」、という救いへの招きです。
 本日のバイブルキャンプ、テーマは「信仰のバトンを受けとっていく」です。私たちキリス
ト教会は、神のために捧げ尽くし、人のために与え尽くした十字架の栄光を受けとってい
くのです。もし信仰生活、教会生活の途上で、捧げてきた奉仕や、与えたという“手応え”
に、いつまでも固執したり、抱え込み続けようとしたがるなら、その人は不自由へと迷い
込んでいます。(ガラテヤ3:3) 後から来る人々のために、ことごとく明け渡し尽くし、譲り渡し
尽くしていく生き様(死に様)を、信仰のバトンとして受けとっていくなら、そこにこそ十字架
の栄光、復活の命、永遠の命の自由があります、すでに。
 もはや死は怖くありません。過去に世を去った人々は現代に生きる私たちにすべてを
明け渡し尽くすことで十字架の栄光の物語に組み込まれ、今に生きる私たちも やがて
後から来る人々にすべてを明け渡し尽くすことで十字架の栄光の物語に組み込まれ、後
の人々もやがては…こうして復活の主のご支配として、あらゆる命が十字架の栄光の物
語に組み込まれ(贖われ)ていく明日を信じ、私たち教会は前進しましょう。(フィリピ3:9~11)
 不自由に迷い込み苦しんでいる人々に、みことばを!教会学校月間、バイブルキャン
プに十字架の栄光あれ!共に喜びをもって、信仰のバトンを受けとっていきましょう。
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by hachimejibap | 2014-10-16 08:58 | メッセージ
テーマ :後生に開かれている祝福 (教会学校月間を覚えて)
聖書 ヨハネ福音書 4章31~38節 (新共同訳聖書)
2014年9月7日

 君のために祈ってくれた人の事を忘れないように…その昔、ある牧師から受けた忠告
です。誰のことだろう?家族、友人、教会の方々…いろいろ思いめぐらしていると、さら
に言われました。100年前、君のために祈ってくれていた、海の向こうの人たちのことを。
 人類の歴史の流れにおいて、今の自分に至るまで、たった一つの命でも途絶えていた
ら、今の自分は存在しません。今の自分に至るまでの一本線に、どれほど豊かな恵みが
あったことでしょうか。日本古来、祖先崇拝などが行われてきた背景にも、そういう歴史
の一本線に対する感謝があるのかも知れません。
 しかし、過去の人々を敬う態度が、じつは偽善の隠れ蓑となっている危険性をイエス様
は指摘なさいます。(マタイ23:29~31) それは、過去の美化であり、過去の人々を敬ってい
る今の自分を正当化しているということです。(自己正当化、自己義認) ちょうど戦時中
の日本の名誉を回復させたがっている人たちが今、戦争のできる国日本、強い国日本を
訴え、外交面などで日本の正当性を押し出しているのと同様でしょう。
 本日の聖書箇所(38節)を見ます時、今、私たちが手にしている恵みが、どれほど長き
にわたって、多くの人々によってかたちづくられ、届けられてきた恵みであったかというこ
とに、改めて気づかされます。しかしだからといって、過去(の人々)を礼賛しなさい、とい
うようなことは、決してイエス様の言葉ではないのです。そうではなく、今、すでに、過去
の人々と共に歩むこと、共に労すること、共に生きることができる、という恵みを証ししてく
ださっているのです。(36~37節) それはまさに復活の主のご支配だと思います。生きてい
る者と死んでいる者とが、連係プレーをしているのです、今、すでに。100年…地球の裏
側…大きな時空の隔たりを越えて、あらゆる命が一つとなるのです、今、すでに。
 過去の人と今の人との 命の連係プレーが向かうゴールはどこでしょうか。それは100
年後、200年後、まだ見ぬ後生のために蓄えられる収穫です。遠い将来、後生が恵みを
収穫していく姿を、霊的な目をもって、間近に見て感謝に満たされる、それこそが、命の
連係プレーのゴールです。(35~36節、フィリピ3:13~14) 9月、教会学校月間、私たち教会
は、心新たに 共に みことばに耳を傾けましょう。あらゆる命と一つとなる霊的連係プレー
こそ、キリストと一つとされる、永遠の命の恵みです。(イザヤ53:8~12)
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by hachimejibap | 2014-10-15 16:22 | メッセージ

みんなで歌おう!共に話そう!そして一緒に祈ろう! 〒193-0833 東京都八王子市めじろ台2-15-2 ℡.042-663-7036


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