八王子めじろ台バプテスト教会

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あなたがたは幸いである

テーマ :平和の実現
聖書 マタイ福音書 5章8~12節 (新共同訳聖書)
2014年8月31日

 “幸いである”…釜ヶ先のホームレス支援に従事されている本田哲朗神父によれば、
“神の力がある”と訳せるそうです。戦後、人々があれだけ希求した平和の象徴である平
和憲法が、たった69年で、もはや骨抜きにされそうな現実があります。“平和を実現する”
には、人知を越えた力が必要なことが、明らかにされていると言えましょう。
 平和の実現(9節)の手がかりは、すでに8節「神を見る」にあると思います。私たち教会
は、あのキリストの十字架に、神の平和を見ます。まことの さばき主である お方が、さば
かれる側に置かれた者たちの真ん中に お立ちくださったという、神の平和を見ます。
                            (エフェソ2:14~16参照)
 戦後日本の経済高度成長は、あの天皇崇拝、神風特攻にも通じる、愚直なまでの まじ
めさと、アメリカとソ連の大国駆け引きとして生じた朝鮮戦争による、 軍需産業的“漁夫
の利”を無視しては語れません。それは平和の主、歴史の主の御前に、負の遺産と評さ
れても しかたないような歩みだったのかも知れません。しかし、にもかかわらず、歴史の
主の憐れみ、神の慈しみは敗戦国日本を離れなかった。その証しとして、あの経済成長
があったのではないでしょうか。少なくとも戦後日本は、戦争責任を さばかれる側に立ち
続け、平和憲法を受けとめ続けてきました。それゆえに、さばかれる側に立つ者たちの
真ん中に お立ちくださる神の力は、決して日本を離れることなく、今までの経済的潤いも
あったのではないでしょうか。(ロマ5:20)
 ところが今、日本政府は、“積極的平和主義”、“集団的自衛権”などを唱え、他国を
さばく側(自己正当化、自己義認)、断罪する側に立とうとしています。そのような、まこ
との さばき主に対する越権行為こそが、平和の危機です。まことの平和とは人知を越えた
弁護であり、みことばに招かれて さばかれる者たちにこそ、救いとなって満ちあふれるの
です。(ヨハネ14:16,26,15:26)
 ですから、もし本当に積極的平和なるものがあるとすれば、それは、さばかれる側に置
かれた人々に連なるということです。社会の慣例、常識などによって さばかれ、はじき出
された人々に連なることです。ひたすら十字架の言葉に聴きつつ連なるのです。
 「義のために迫害される人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。私の
  ために罵られ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられる時、あ
  なたがたは幸いである。喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。
  あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。」(マタイ5:10~12)
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by hachimejibap | 2014-09-05 08:48 | メッセージ
テーマ :平和の言葉
聖書 コリントの信徒への手紙 二 3章1~6節 (新共同訳聖書)
2014年8月24日

 大義名分、それは争いの火種です。自己正当化を抱え込んだままで、まことの平和と
出会うことはできません。キリスト教は、すべての人は罪人であると教えます。それは
あらゆる争いの火種から人々を解放する福音です。罪人として神から さばかれる時、
あらゆる自己正当化から解放されます。みことばを素直に受けるなら、すなわち、神の
さばきを受けるなら、人は まことの平和へと招き入れられているのです、すでに。
 ところが、コリント教会には、神の さばきではなく、人の さばきが横行していまし
た。伝道者パウロは、そのことについて次のように記しています。
  「…だれも、一人を持ち上げてほかの一人をないがしろにし、“高ぶる”ことがな
   いようにするためです。」 (1コリント4:6)
 コリント教会には、「あの人よりもこの人の方が立派だ」、「いや、この人よりもあ
の人の方が立派だ」、と推薦合戦が繰り広げられていたようです。(1コリント1:12)
 そしてパウロは、推薦合戦の本性が、推薦している人自身の“高ぶり”に過ぎないこと、
人を敬っているようでありながら、じつは自己主張、自己正当化へと堕落しているに過ぎ
ないことを鋭く指摘しているのでしょう。
 「あなたがたは、キリストがわたしたちを用いてお書きになった手紙として公にされ
  ています。墨ではなく生ける神の霊によって、石の板ではなく人の心の板に、書き
  つけられた手紙です。」(3:3)
 推薦とは人物評価です。さばきです。しかし教会は、人々からの さばきを受ける群れ
です。自分たちの礼拝、交わりを通してキリストが評価される群れです。さらに、神に
ついて、世のあらゆる人々に読み取ってもらうため、いわば歩く“キリストの手紙”と
して、礼拝から新しい一週間へと派遣されていく一人一人です。
 「もちろん、独りで何かできるなどと思う資格が、自分にあるということではありま
  せん。わたしたちの資格は神から与えられたものです。」(3:5)
 教会に与えられている資格とは、この世の不当な さばきを受け、あらゆる権利、資格
を剥奪されようとも、みことばに聴き従い通したキリストの道を選び取る自由です。
キリストの自由を選び取りましょう。キリストの平和を、身をもって証ししていきまし
ょう。絶えず、キリストを仰ぐ礼拝から、新しい一週間へと派遣されていきましょう。
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by hachimejibap | 2014-09-03 08:40 | メッセージ

神を呼ぼう

テーマ 主の祈り①祈り
聖書 エレミヤ書38章17~20節 (新共同訳聖書)  協力牧師 北島靖士
2014年8月17日


 新共同訳聖書ルカ11:1には弟子たちはイエスさまに「祈りを教えてください」と
願ったとあります。口語訳では「祈ることを教えてください」です。「祈りの手
ほどきを
してください」と訳した人もあります。
この願いに応えてイエスさまは「主の祈り」を教えられました。そうすると「主の祈り」
は数多くある祈りの中の一つというわけではないと言わねばなりません。主の祈りは
「祈りとはそもそも何か」という問いに対する答えであります。わたしたちに祈るという
ことが身につくための祈りです。「手ほどき」ですから、祈りは主の祈りから出発し、
主の祈りこそ究極的な祈りであるということが出来るのです。あるいは「根源的な」祈り
ということが出来るかも知れません。
根源的な祈りであるならば、世界は主の祈りの上に成り立っているということになりま
す。あるいは「主の祈りの中に世界の全てがある」ということが出来るでしょう。ある
人は主の祈りは「世界をつつむ祈り」であると言いました。
8月、わたしたちは「平和」のことを考えています。平和は「わたしたちの」(「わたし
の」ではない)「父である神」に向かって呼びかけることです。
わたしたちは相手を批判したり、非難する時、相手を指さして「お前は」と怒鳴ることが
あります。「指弾する」という言葉があります。はじめは「曲げた指ではじいて物を打つ」
という意味でしたが、日本語では「目標を決めて非難する」時に使われるようになりまし
た。指弾する時には、世界は「向こう」と「こっち」の真っ二つに分裂してしまっている
のです。今、世界では国々やさまざまなグループがお互いに他の国やグループを指弾し合
い、キナ臭くなって来ています。
「戦略を練るがよい、だが、挫折する。決定するがよい、だが、実現することはない。神
が我らと共におられる(インマヌエル)のだから。」(イザヤ8:10)練りに練った日本の
「戦略」は特定秘密保護法の対象になっています。集団的自衛権の閣議「決定」がなされ
ました。
今こそ「わたしたちと共に」おられるインマヌエルの神に向かって、「主の祈り」を祈る
時です。繰り返し祈る時です。
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by hachimejibap | 2014-09-02 09:35 | メッセージ

みんなで歌おう!共に話そう!そして一緒に祈ろう! 〒193-0833 東京都八王子市めじろ台2-15-2 ℡.042-663-7036


by hachimejibap