八王子めじろ台バプテスト教会

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イエスの栄光の座

テーマ :キリストに向かって成長する
聖書 マタイ福音書25章31~46節 (新共同訳聖書)
2014年7月13日

 本日の聖書箇所を読むたびに、しばらく前から私の中には、羊は“報われない愛に生き
た人々”(6:3)、山羊は“自らの正当化に生きた人々”(7:22)というイメージがあります。
なぜなら、羊と山羊との前で栄光に座するお方は、命を捨てて全うした愛を単なる自業
自得として見下され(イザヤ53:4)、罪人のひとりに数えられたお方(ルカ22:37)だからです。
 復活の主は、人の飢え渇き、痛み、傷みに、すでに生きて働いておられる十字架の主
です。(ヨハネ12:23~24) いわゆる自己実現、成功者の主ではありません。(ヨハネ8:54) そ
れは世間の目には、通りすがりの人との、偶然の出会いによって人生を翻弄される者
たちの主として映るかも知れません。(ルカ10:30~35) また身内、仲間内の平穏無事を乱
す厄介者たちの主として映ることもあるでしょう。(マタイ10:34~36) しかし世間の評価が
どうであろうと、十字架の救い主は、自活のめどの立たない者、寄留者(よそ者)、孤立
を強いられている者たちの命の中に、堅く座しておられるのです、すでに。
 ですから教会はキリストの からだとして、この世の荒野をひたすら前進します。この
世からは無益、無駄と評されるような出会いにイエスの栄光の座を見ます。人目に有益、
模範的と映る生き様に執着することなく、イエスの栄光の座に向けて前進します。その
地域、その時代に馴染んできた慣習、慣例を打ち破ってでも、ひたすらイエスの栄光の
座に向けて前進します。(ルカ9:61~62、フィリピ3:7~8,13~14)
   「…わたしたちは神よりあずかった子どもたちと共に、キリストに向かって成長し、
    救い主に出会う喜びを隣り人と共有するため、あかしの日々をはげみ、主と
    会う日まで、この契約を固く守ります。」
                -八王子めじろ台バプテスト教会の契約-
 イエスの栄光の座は、神と人から捨てられた、失意のどん底に立つ十字架に他なりま
せん。(マタイ27:36) “羊”は、このイエスと向き合って生きてきたのでしょう。最終的
には、自分が至らなかったとき、またゆき届かなかったところにこそ、すでに復活の命が
満ちあふれていたことを知らされ、永遠の命の喜びに満たされるのです。一方“山羊”は、
このイエスを飛び越すかのように生きてきたのでしょう。しかし自分が納得、満足できず
背を向けてきたところにこそ、復活の命があったことを思い知らされ、自己正当化して
きた生き様はすべて永遠に罰せられ、砕かれ、解放されることでしょう。
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by hachimejibap | 2014-07-17 10:13

力強いものに復活する

テーマ :主にある兄弟姉妹の祈り
聖書 コリントの信徒への手紙 一 15章35~44節 (新共同訳聖書)
2014年7月6日

 “復活”については、さまざまな混乱があります。(35節) 的外れな心配もあるかも知れ
ません。「戻ってきやすいよう、あらかじめ何かお膳立てをしてあげなければ」…
 聖書が教える“死”は個々人の寿命ではありません。死の支配によって命と命とが分断
されてしまっている関係性のことです。“復活”は、死の支配を乗り越え、永遠に“共に”
生きる恵みです。それは一旦時計の針が逆回転し、過去の生が再開、延長されるようなこ
と(蘇生)とは異なります。復活は、命と命とが遠く引き離されて見える今、すでに、共に前
進しているというキリストのご支配、信仰の世界のことです。(ヨハネ11:25~26)
 ですから福音的な復活信仰は、どんなに命と命が遠く隔てられているように見えても、礼
拝において一つとなる永遠の明日に向かって、あらゆる命が、すでに共に前進していると
いう、招きの主の真理(ヨハネ4:23)を信じることです。(ヘブライ11:1) もし、過去の人間関係を
拠り所にして(サムエル上28:15)何か問題解決を図ろうとしてしまうなら、それは復活信仰に背
を向けた的外れ(罪)であり、死の支配の誘惑です。
   「兄弟たち、万一だれかが不注意にも何かの罪に陥ったなら、“霊”に導かれて生
    きているあなたがたは、そういう人を柔和な心で正しい道に立ち帰らせなさい。
    あなた自身も誘惑されないように、自分に気をつけなさい。」(ガラテヤ6:1)
 私たち教会は、世を去ったあらゆる命は復活のご支配により、私たちと共に礼拝する明
日へ、すでに前進させられているという希望に立って葬儀、記念会に取り組んでいるでしょ
うか。(フィリピ2:10~11) あわせて、他行会員の方々は私たちと共に礼拝する明日へ、すで
に前進させられているという復活の希望にしっかり立って執り成しの祈りができているで
しょうか。教会員どうしがお互いに交わす執り成しの祈りとして欠かすことができないこと
は、「復活信仰にしっかりと立って いつも喜べますように(1テサロニケ5:16)、誘惑に遭って復
活信仰から迷い出てしまうことがありませんように」、ということです。
   「…わたしたちは個人的な祈りと、家庭の礼拝をつとめ、兄弟姉妹として互いに
    祈り合います。…」     -八王子めじろ台バプテスト教会の契約-
 本日、主の晩餐式において、キリストのからだを象徴するパンを共に受け、復活のご支
配としての“教会の明日”をひたすら信じ、ひたすら希望をもって祈りを合わせましょう。
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by hachimejibap | 2014-07-14 11:31 | メッセージ
テーマ バプテストの信仰⑦政教分離           協力牧師 北島靖士
聖書 使徒言行録9:10~31(新共同訳)
2014年6月29日

 「バプテスト」は17世紀のイギリスで、聖書から聴き取った「自分たちの信仰」
を貫こうとした人びとから始まりました。ところが、この人びとの前に強大な力が
立ちはだかりました。それはイングランドの王権です。イングランド王は自分の
支配権を確立するために「イギリス国教会」を創設し、自分がその「首長」になり
ました。最初期のバプテストの指導者トーマス・ヘルウィスは時の国王ジェーム
ズ一世に対して書き送りました。「聴きたまえ、わが王よ。…王は死ぬべき人間
であって、神ではありません。ゆえに、王は臣民の不滅の魂に対して、法令を作
って魂を服従させたり、彼らの霊的主となる力はないのです。…」と。彼が直ち
に逮捕され、殉教したことはいうまでもありません。
 日本においても、古くから自然信仰に基づいた宗教がありました。明治政府は
1871年欧米使節団を派遣しました。その一人であった伊藤博文(後の初代内
閣総理大臣)は「イギリス国教会」やドイツの「領邦教会」(勿論カトリック国家も)
が人民の支配に大きな力を発揮していることを目の当りにしたと言われます。
帰国した彼は「明治憲法」を作りますが、その根底には天皇を頂点とする「国家
神道」の思想を置いたのです。天皇は今日まで、天皇家の祖先神である伊勢神
宮や宮中三殿と言われる神社の「司祭」であり続けています。
 1947年「信教の自由」「政教分離」を含んだ新しい憲法が施行されましたが、
これはアメリカの押し付けだから自主憲法をつくろうという動きが力を増してい
ます。9条だけではありません。20条にも89条にも根底から改変が加えられよ
うとしているのです。
 総理大臣は就任した時には、所属政党を問わず「必ず」と言っていいほど伊勢
神宮に行きます。在任中に何とかして靖国神社に参拝しようとします。これを怠
れば週刊誌やネットで激しく「売国奴」と叩かれることを覚悟しなければならない
時代になって来ました。
 教育では「日本の伝統」という言葉で神道や神社に対する理解を深めようとし
ています。人びとも「宗教ブーム」「神社めぐりツアー」「パワー・スポット」「お札、
お守り」などの氾濫の中で「信教の自由」や「政教分離」などはシチメンドくさい
な…、という意識になってきてはいないでしょうか。
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by hachimejibap | 2014-07-12 08:50 | メッセージ

兄弟姉妹の愛をもって

テーマ :主の食卓からあふれ出る愛
聖書 ルカによる福音書24章30~31節
2014年5月4日

 家庭の食卓と、食堂(レストラン)との違いは何でしょうか。一つには、食堂で食べる人はお
客さんであり、家庭の食卓で食べる人は奉仕者という区別ができるかも知れません。その
昔、絵本の挿絵に円卓(丸テーブル)を囲む家族の姿が描かれていました。テーブルに食事を
運ぶお母さん、お父さん、テーブルにお箸や茶碗を並べる子どもたち、おじいさん、おばあさ
ん…全員の連係プレーで食卓ができあがっていく姿が描かれていました。それは、神の家
族である教会、キリストの兄弟姉妹としての交わりにふさわしい絵姿かも知れません。
 本日の聖書箇所を見ると、復活のキリストと愛の食卓を囲むと、キリストの姿はスッと消
えてしまいました。どこに行ってしまったのでしょうか。キリストは復活をまだ知らない人々
のもとで、また、その御姿を現してくださいました。それは、復活を信じられない人々と愛の
食卓を囲むためだったのではないでしょうか。(41節)
 神の愛、永遠の命の糧を自分の手元に引き留めておきたいと願っても、そういうことは
誰にもできません。たとえ自分のもとから離れていかないよう取りすがってみても、それは
消え去って、見えなくなってしまうだけでしょう。しかし、復活を知らない人々、信じられない
人々のもとへ、もし、その永遠の命を告げ知らせに出かけていくなら、その先でこそ、復活
の主と再会できるのではないでしょうか。私たちは、そういう先々で、永遠の命の糧、神の
愛の食卓を、くり返し共にしていくことがゆるされているのではないでしょうか。
 「わたしたちは、主にある兄弟姉妹の愛をもって愛し合い、互いの喜びと悲しみを共に
  分け合います。」         -八王子めじろ台バプテスト教会の契約 より-
 主の食卓にあるのは、いわゆるこの世の幸いではありません。神の家族も同様です。
すなわち、主にある兄弟姉妹の愛は、「受けるよりは与える方が、さいわいである(使徒行
伝20:35)」という みことばを受ける食卓を囲むことであり、そこから新しい出会いに向けて
派遣されていく交わりです。主の食卓への招き、神の家族への招きは、いわゆるお客さ
んとして、お座敷に腰を据えるようなことではありません。キリストの同労者として引き上げ
られ、すべてを捧げていく歩みです。この世の幸いではなく、永遠の命です。
 私たちは、主の食卓を囲みましょう。神の愛を受けましょう。受けるがゆえに、すべてを
分かち合うために出かけていきましょう。明日出会う人は、すべて私たちの兄弟姉妹です。
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by hachimejibap | 2014-07-11 18:14 | メッセージ

みんなで歌おう!共に話そう!そして一緒に祈ろう! 〒193-0833 東京都八王子市めじろ台2-15-2 ℡.042-663-7036


by hachimejibap