八王子めじろ台バプテスト教会

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クリスマスは教会へ!

いよいよクリスマス・シーズン!
今年も教会へ、ようこそ!
子どもクリスマスもあります。

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by hachimejibap | 2013-11-30 20:03 | 教会からのお知らせ
テーマ バプテストの信仰③「信仰者バプテスマ」
聖書 ローマの信徒への手紙3:21~26
2013年11月17日               協力牧師 北島靖士

「イエスに信頼してあゆみを起こす人」とは何と奇妙な日本語かとお感じになっていないでしょうか。これは本田哲郎神父が訳された「小さくされた人びとのための聖書」から取ったものです。この聖書のローマ3:2は「神による解放は、イエス・キリストに信頼してあゆみを起こすことによって得られるもので、信頼してあゆみを起こすなら、だれにでも与えられます。そこに区別はありません。」と訳されています。本田神父はローマの教皇庁立聖書学研究所でも学んだカトリックの聖書学者ですが「大阪の釜ヶ崎に住んで、(カトリックでは『司牧』といいますが、いわゆる伝道牧会をしながら)日雇い労働者から学びつつ聖書を見直している」という人です。
有名なルカによる福音書の15章にある「放蕩息子」の譬え話で、息子は親子の関係を踏み外して、父のもとを去ってゆきます。しかし、父の息子に対する愛は決して変わりませんでした。息子が尾羽打ち枯らして帰って来た時、「まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首をだき、接吻した。」のでした。息子がこの父の愛を体験するためには、放蕩三昧の生き方を終わらせて、父の元へと帰る歩みを起こすほかありませんでした。
神さまはイエス・キリストの十字架と復活において、一方的な和解の福音を示してくださいました。わたしたちはこのイエスさまに信頼して、福音を受け入れ、父なる神さまの元に帰る歩みを起こすことが求められています。これが信仰です。
信仰によってのみ、わたしたちは救われるのです。自覚的に信じることによって、神さまの愛が、神さまとの交わりがわたし達にとって現実となるのです。バプテストは1609年発生の時から、自覚的信仰者だけが、その告白としての「バプテスマ」を受けるのだと信じてきました。そして自覚的信仰に基づかない「嬰児洗礼」を拒否しましたので、激しい迫害を受けました。しかし決して屈することなく、今日世界中に広がっているのです。
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by hachimejibap | 2013-11-30 18:28 | メッセージ

主の食卓で示されること

テーマ:神 の まぼろし
聖書 使徒行伝 10:28~42
2013年11月3日

 イスラエルの長い歴史において、今までずっと、受けてはならないとされてきた食べ物、そ
してさらには、一緒に食卓を囲んではならないとされてきた人々、それらすべてを、今、受け
なさい、という神の幻がペテロに指し示されました。(使徒行伝10:17~20,28,34~35)
そうすることによって、離れ離れになった者たちが永遠の命としての和解に与っていく、
新創造、再創造の食卓です。それこそがキリストの平和です。そういう幻が指し示されて
いくのが、主イエス・キリストの食卓です。
 ところが、後に、ペテロをキリストの食卓から引き離した何かがあったのです。(ガラテヤ2:11
~14) その原因は、割礼など今までの宗教的慣例、長いこと蓄積されてきた習慣でした。
今までこれで幸せだった、今までこれで仲良く、平和にやってきた、そういう慣例、習慣とし
ての平和が、ペテロを一旦、キリストの食卓から引き離したのです。
 今までの宗教的慣例、長いこと蓄積されてきた習慣、それらは目に見える世界を土台とし
ています。けれども、神の幻は違います。和解の福音、十字架の平和(エペソ2:14~16)と同
じように、目に見える世界を土台としていません。神からの幻は幻です。とらえどころがあり
ません。人が把握できるようなものではありません。ただ謙虚に受けるのみです。キリスト
の食卓も同じです。ひたすら受けるのです。
 救いの外に置かれていた人々、汚れていると見なされてきた人々は、霊的に死人とされ
てきました。(エペソ2:1参照) しかしペテロにとって、生者と死者との審判者イエス(使徒行10
:42)とは本来、生者と死者との隔ての中垣を取り払ってくださるイエス様のさばき、もはや、
あらゆる人が永遠の命をいただくことになるという、希望の幻だったのではないでしょうか。
新約聖書に、天国行きの人々、地獄行きの人々、という描写が残っているのも、厳しい迫
害、激しい苦難、それら目に見える世界に引っ張られてしまっていたのではないでしょうか。
ペテロが一旦、キリストの食卓から引き離されてしまったように…
 私たちの福音理解は、絶えず発展途上です。ペテロであれ、パウロであれ、発展途上で
す。(ピリピ3:13~16参照) だからこそ、私たちは、絶えず神の言葉を受け続けなければなりま
せん。そして目に見える御言葉として、キリストの食卓、この後行われる、主の晩餐式があ
ります。ご一緒にパンと杯を受け、心新たに神の幻が指し示されるよう祈り求めましょう。
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by hachimejibap | 2013-11-04 08:24 | メッセージ
テーマ:福音の理解
聖書 マタイ福音書 12:9~21
2013年10月13日

 イスラエルの民、ユダヤ人は救い主を待ち望む民でした。しかし、なぜ救い主を十字架に
に掛けたのでしょうか。なぜイエスの御名に望みを置くことができなかったのでしょうか。
 古今東西、言い伝えは、身内が結束し続けるため、仲間がバラバラになってしまわないた
め、いわば社会的死活問題として大事にされてきました。当時のユダヤ人指導者たちも言
い伝え厳守を人々に説いていたわけですが、イエス様は、言い伝え厳守によって神の言葉
は ないがしろにされている、と真っ向から批判したのです。(マタイ15:1~3)
 キリストの言葉、十字架の言葉は、身内結束や分裂阻止を至上目的とする言い伝えに異
を唱え、散り散りバラバラとなった者たちが、絶えず新しい人に造り替えられ、新しい共同
体として呼び集められる復活の希望を宣言したのでした。
 異邦人とは、簡単に言ってしまえば、よそ者のことです。身内、仲間内とは異なる存在で
す。キリストの福音は、絶えず、よそ者を照らし出す救いの光です。(マタイ12:18,21) 福音は
目に見える世界を土台としていません。外にいる人たちはすでに仲間、よそ者はすでに仲
間、そのような世界の逆転(Ⅰコリント7:29~31参照)、すなわち新創造、再創造の言葉です。
 「すでに自分は神の民だ、と思っている人は、『まだまだ自分は未信者、求道者である』と
して、もっとキリストの言葉に飢え渇き、ひたすらキリストの言葉を求め、探し、叩いていきな
さい。逆に、『自分は救われていない、神の民の外にいる』と思っている人は、異邦人を照ら
す救いの光によって、すでに神に迎え入れられているという平安をもって感謝を捧げなさ
い」。こうして神の民も異邦人も、キリストの御名に望みを置くことで、すでに共に生かされて
いることを知るのです。これがキリストの福音です。
 だからこそ当教会は、かつてはクリスチャンどうしの儀式、いわば身内の儀式だった主の
晩餐式を新しくしたのではないでしょうか。その日の礼拝に列席されている方は、クリスチャ
ンに限らず、誰もがこの儀式にも招かれている、そう信じてきているのではないでしょうか。
 私たちはこの福音に照らし合わせながら、礼拝生活のあり方、信仰生活のあり方、教会
生活のあり方を絶えず見直し、また共に、立て直していきましょう。また日常の家庭生活、
社会生活においても、イエスの御名に、望みを、どれほど豊かに置いていくことができるか、
絶えず悔い改めていきましょう。
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by hachimejibap | 2013-11-04 08:17 | メッセージ

みんなで歌おう!共に話そう!そして一緒に祈ろう! 〒193-0833 東京都八王子市めじろ台2-15-2 ℡.042-663-7036


by hachimejibap