八王子めじろ台バプテスト教会

hachimejib.exblog.jp
ブログトップ

<   2011年 08月 ( 3 )   > この月の画像一覧

         「見えないものをよく見ると」

使徒言行録11:1~18
                       協力牧師  北 島 靖 士
 
 ペトロはヤッファの「皮なめし」シモンの家に滞在していました。皮なめしは当時賤
しい職業とされ、一般社会から離れて生活するように強いられていました。ペトロはイ
エスさまに従うことによって、職業や身分の差別からは自由になることができました。
しかし、ユダヤ人と異邦人の差別というもっとも大きな差別についてはレビ記11章に
ある食物規定のように神さまによって定められたものであるとさえ思い込んでいたのです。
神さまはペトロを差別から解放するために、天から下ってくる大きな布のような入れ物
を用意されました。彼はその中を「よく見る」(口語訳では「注意して見つめる」)必要
がありました。そこにはユダヤ人が食べてはならないとされている動物が入っていました。
これが異邦人を指していることは明らかです。神さまはペトロに「ペトロよ、身を起こし、
屠って食べなさい」と言われました。異邦人と交わることを避けてはいけない。異邦人に
イエス・キリストの救いという神さまの大きな恵みを語りなさいということです。

「その時」(口語訳では「ちょうどその時」)異邦人であるコルネリウスの使いが門口に
到着しました。この言葉の原語は「見よ」です。わたしたちが抜きがたく持っている自分
の差別体質から解放されるためには「神さまの時」を見ることが必要です。神さまはペト
ロの内に新しいことを起こそうとされているのです。ペトロが今や「身を起こすべき」時
が来たのです。神さまは歴史の中で「異邦人の救い=全人間の救い」という新しい出来事
を起こそうとされているのです。マルコ13:28「いちじくの木から教を学びなさい。
枝が柔らかくなり、葉が伸びると、夏の近づいたことが分かる」(マルコ13:28)とあり
ます。わたしたちは「時」そのものを肉眼でみることはできません。しかし時の「徴」は
見えるのです。それがペトロの場合は大きな布の入れ物であり、コルネリユウスの使いで
あったのです。
伝道も同じです。わたしたちは「見えないものに目を注」(Ⅱコリント4:17~18)が
なければなりません。先週の主の晩餐式の研修会で、残ったパンやブドウ酒が大切だとお
話ししました。それは今日ここに来てない兄弟姉妹たちのために用意されたものだからです。
わたしは伝道に行き詰まった時に「この町にはわたしの民が大勢いる」(使徒言行録18:10)
という言葉に励まされたことが何度もあります。
わたしより先に神さまがこの町をゆきめぐり、ご自分の民を用意しておられます。
神さまご自身が宣教されるのです。わたしたちの伝道とは今は見えていない神さまの民を、
一人一人見つけ出し、出会ってゆくということなのです。わたしの前任教会では教会学校
の「出席簿」ではなく、「出欠簿」と名付けていました。
今日、ここにいない人、見えない人を覚える時、教会の体質も変わってくる筈です。

 今、わたしたちは未曽有の苦難の中にあります。しかし、涙がぬぐい去られ、死もなく、
悲しみも嘆きも労苦もない時に目を注がなければなりません。それこそがわたしたちの希
望であります。(参考:「キリスト者も異邦人も」ボンヘッファー)

   
   キリスト者も異教徒も
                       ディートリッヒ・ボンヘッファー
   困窮の中にある人間は、神のもとに行き、
   助けを求め、幸福とパンを乞い、
   病と罪責と死からの救いを求める。
   キリスト者も異教徒も、みなそうする。

   人間は、困窮の中にある神のもとに行き、
   貧しく、ののしられ、枕するところもパンもない神を見いだし、
   罪と、弱さと、死に飲み込まれている神を見る。
   キリスト者は苦しむ神のもとに立つ。

   神は、困窮の中にあるすべての人間のもとに行き、
   神のパンを持って肉体と魂を飽かせ、
   キリスト者と異教徒のために十字架の死に赴く。
   神は、すべての人間を許す。


                        2011年8月21日の宣教より
[PR]
by hachimejibap | 2011-08-29 23:27 | メッセージ

日帰りバイブルキャンプ

 去る7月30日(土)八王子市上恩方の 夕やけ小やけふれあいの里にて、
バイブルキャンプが行われ、30名が参加しました。

 今回は「共に」というテーマのもと、礼拝研修会として主の晩餐式について
学びの時を持ちました。
 主の晩餐式とは、礼拝中に出席者同士で出されたパンを葡萄酒(私たちの教会
ではブドウジュース)を分け合うキリスト教の儀式です。
その起源はマルコ福音書の「パン裂き」です。十字架の上で犠牲となったイエス・
キリストの体にあずかるしるしとしてのパンは一つであり、陪餐式に参加した者
は裂かれたパン片を食べることで、キリストとの霊的な交わりにあずかると同時に、
教会の兄弟姉妹たち(私達の教会では教会員をこのように呼び合います)と一つの
交わりに生きる思いを新たにするという意味があるということを学びました。
 
 子どもたちは、聖書の話の後、「世界の友達と共に」ということで各国の
「ありがとう」の言葉のクイズ大会をしました。
中学生たちが、「カムサハムニダはどこの国のありがとう?…」
とクイズを出し、小学生以下の子どもたちが、「その国の名前の最初の文字は?」等と
ヒントを求めたりして答えを探していきました。
 その後は川遊びのはずだったのですが、天候が不安定のため、残念ながら中止に。
園内の散策をした後、男の子たちは、「ここで遊んでる~」とクーラーの効いている
ホールに残り、女の子たちは、ふれあい動物広場にうさぎやモルモットを見に行った
りして、それぞれが思いのままに楽しく過ごしたようです。

大人も子供も久しぶりに緑いっぱいの森の中で過ごし、リフレッシュできたひととき
でした。下の写真は研修会の様子です。
d0160830_11193757.jpg
                                                    
[PR]
by hachimejibap | 2011-08-22 11:21 | 活動報告

救いと向き合うために

創世記22:1~19  (引用聖句は、日本聖書協会 口語訳聖書より)
今年3月の東日本大震災で、多くの人々が味わっている苦しみ。何でこんな目に
遭わなければならないんだ、いったい、どうしてなのか…なんで、こんなひどいことが
起こるのか、こんな、本当に血も涙もないようなことが、どうして起こされるのか…
神さま、私たちは、いったいどうなってしまったんでしょうか。まったく答が見えない。
筋の通らない話、解決の方向の見えない事件、世の中にはあまりにも不条理なことが
多い。いったい救いの光はどちらにあるのでしょうか。
創世記22:2 神は命じられた。「あなたの息子、あなたの愛する独り子イサクを連れて、
         モリヤの地に行きなさい。わたしが命じる山の一つに登り、
         彼を焼き尽くす献げ物としてささげなさい。」

アブラハムにとっては、25年間待ち望んでようやく与えられた宝物、それが息子イサクでした。
ところが神さまはおっしゃる、明日の朝、山へ登って息子イサクを生け贄にしなさい。アブラハムは、
妻のサラには内緒にして山を登り始めたのではないかと思います。もちろん、山の上にたどりつく
までは、息子のイサクにも打ち明けていません。神さまのご命令を一人で背負い、山を登り続ける。
創世記22:7やがてイサクは父アブラハムに言った、「父よ」。彼は答えた、
        「子よ、わたしはここにいます」。イサクは言った、
        「火とたきぎとはありますが、燔祭の小羊はどこにありますか」。
創世記22:8アブラハムは言った、「子よ、神みずから燔祭の小羊を備えて
        くださるであろう」。こうしてふたりは一緒に行った。

ある聖書講解書には、アブラハムは信仰が厚かったので、最初からイサクの替わりに小羊が
与えられることを信じていた、だから神さまからのご命令にも、素直にハイ、と応えて従うことが
出来たのだ…もしこういう聖書理解が正しいとしたら、アブラハムって、いったいどういう人なん
でしょうか。極端な話、山を登りながらも、痛くもかゆくもなかった、ということになるのでしょうか。
今の私にはこう思えるのです。イサクの方から「生け贄にする小羊はどこですか」と尋ねられた際、
アブラハムは救われたんじゃなかろうか、と。沈黙を守って山を登っていた際には、神さまのご命令に
対して、なんでもハイ、と素直に聴き従う自分だけが表に出ていた。しかし、イサクが生け贄について
尋ねてくれたお陰で、ようやくアブラハムは自分の中には、もう一人の自分がいた、ということに
気付かされたのではないでしょうか。
創世記22:8アブラハムは言った、「子よ、神みずから燔祭の小羊を備えてくださるであろう」。
        こうしてふたりは一緒に行った。

アブラハムはイサクに応えているようでありながら、じつは神さまに向かって挑戦しているように、
私には読めるのです。「神さま、息子イサクを山の上で焼き尽くせ、というご命令は承知しています。
でも、しかし、この息子イサクを通してたくさんの子ども、たくさんの孫、さらにはその後の人々が
たくさん生まれる、そういう祝福の約束したのは神さま、他ならぬあなたなんですよ」。
やがて山の上で息子イサクに刃物を振り下ろそうとするアブラハムに、神さまは待ったをかけます。
そして神さまはイサクの替わりとなる小羊を用意していてくださいました。しかし、イサクの命が助かった、
というだけなら、これは救いの半分でしかないと思うのです。やはりアブラハム自身としても解放された。
封印されていた自分、神に対して疑問を抱きうる自分、神さまを批判しうる自分、そういう自分もまた
解放され、救われたのではないでしょうか。
世の中には、まったく答が見えないような、筋の通らない話、解決の方向の見えない事件、
わけのわからない苦しみ、あまりにも不条理なことが多い。私は思うのです、そういう不条理のことを、
聖書では、この世は罪の世である、と言い表しているのではないか。もし、そうだとしたら、やはり救いの
光はここにあるのではないでしょうか。あらゆる人々がアブラハムのように解放されるということは、
その疑問の渦、悲しみの渦、怒りの渦、さらには憎しみの渦をすべて、あらゆる人に替わって、
背負ってくださる神さまがいらっしゃるということでしょう。そして、あらゆる疑問、悲しみ、怒り、
それらをすべて、一手に引き受けてくださった十字架の神イエス・キリストなのです。
[PR]
by hachimejibap | 2011-08-21 23:01 | メッセージ

みんなで歌おう!共に話そう!そして一緒に祈ろう! 〒193-0833 東京都八王子市めじろ台2-15-2 ℡.042-663-7036


by hachimejibap