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八王子めじろ台バプテスト教会 hachimejib.exblog.jp

〒193-0833 東京都八王子市めじろ台2-15-2 ℡.042-663-7036  礼拝(日)AM10:00~12:10              祈り会( 水曜日 午前10時~11時20分


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カテゴリ:メッセージ( 262 )

シャローム シャローム

2019421                

聖書: ヨハネによる福音書201929

テーマ:復活  メッセージ 「シャーロム シャーロム 」                 協力牧師 北島靖士 

このところ何回か、教会暦=教会の暦についてお話ししたり、書いたり致しました。今日は復活祭=イースターです。日本ではクリスマスがよく知られていて、冬の風物詩として定着していると思いますが、イースターはそれほど知られているとは言えません。しかし、教会の中ではクリスマスは比較的おそく、4世紀以後になってようやく定着いたしました。それに対して十字架につけられて殺されたイエスさまの復活の日として日曜日の礼拝が1世紀の後半には始まりました。またユダヤ教の過越祭(パスカ)と結びついたイースターは2世紀にはもう行われていたといわれます。

さて、聖書の復活の主イエスとの出会いであります。今お読みしましたヨハネによる福音書20章の19節にも26節にも弟子達は「自分たちの居る家の戸に鍵をかけていた」と書かれています。彼らは何をそのようにおそれていたのでしょうか。一つは19節にあるように「ユダヤ人」を恐れていたのです。勿論これはイエスさまを十字架にかけて殺したユダヤ人の指導者たちのことです。自分たちも先生であるイエスさまと同じ目には会うのではないかと恐れていたのです。またこのヨハネによる福音書が書かれたのは紀元90年ごろのことであると言われます。その頃のキリスト教会はユダヤ教の激しい迫害に逢っていました。ですから、そのころのキリスト者たちは内に内に閉じこもって、心にも、住まいにも鍵をかけたような状態になっていたに違いありません。

さらに、もし今のパレスチナの民衆がこの箇所を読むならば、これは文字通り自分たちのことを書いているのだと思うに違いありません。アメリカのトランプ大統領がエルサレムはイスラエルの首都だと宣言して、テル・アビブにあったアメリカ大使館を移転したり、北のゴラン高原の領有権をイスラエルに認めたりしたために、今また緊迫した状況になっていることを御存じのことと思います。パレスチナの民衆は何時イスラエルの軍隊が押し入ってくるかとおびえながら、しっかりと戸口に鍵をかけているに違いありません。

(これはメッセージの冒頭部分です。アウトラインではありません)


by hachimejibap | 2019-04-22 00:47 | メッセージ

ゲッセマネの祈り

ゲッセマネの祈り

     マルコによる福音書 14章32~42節


 マルコによる福音書は16章から構成され、他の福音書に比べて一番短く、

かつ一番早い時期に書かれたと言われています。イエスの誕生や幼少期、家庭環境などには一切触れられておらず、イエスの宣教活動

特に最後の一週に展開する「受難」の事柄が福音書全体の中心になっています。今日は「受難」の中でもとりわけ重要な「ゲッセマネの

祈り」を中心に、そこに映し出される「イエスの苦しみと弟子たちの弱さ、そしてそれらを超える神の救いのご計画」についてご一緒に

考えてまいりましょう。

ユダヤ教三大祭の一つである過ぎ越し祭のためにエルサレムに入城したイエスは、群衆から熱狂的に歓迎されました。しかし宗教指導者との軋轢により、彼らはイエスを殺害しようと計画します。そのような中、イエスは弟子たちと共にゲッセマネの園で父なる神に祈ります。「わたしは死ぬばかりに悲しい(苦しい)」と弟子たちに語り、共に祈るように懇願します。そして「この杯を私から取りのけてください」と神に祈るのです。それほどまでに苦しい杯とは一体何でしょうか。それは神の裁きを意味します。神に背いた私たちの罪を神の子イエスが背負ってくださるのです。しかし弟子たちにはイエスの真意が分からず、日頃の疲れが出て、眠ってしまうのです。ここに私たちの姿が映し出されています。神様のために何かしようと熱い思いがあっても、いざとなると自分のことで精いっぱい、神様や隣人のことが見えなくなる私たちがいるのです。その私たちに、イエスは「誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。」と諭すのです。私たちは弱いからこそ、祈り続けなければならないのです。神につながっていなければならないのです。十字架にかかる直前、ご自身も苦しみの中にあったイエスは、弱く疲れている弟子たちをも心に留めて、自分亡きあと、弟子たちがしっかりと信仰に立ち、福音を宣べ伝える”器“となるようにと教えられたのです。

イエスは苦しい杯(十字架での死)を取り除いて欲しいと神に願いましたが、最後は「御心が成りますように」と祈り、眠っている弟子たちに「時が来た。立て,行こう」と毅然と十字架の死を受け入れる覚悟を表します。しかしイエスは十字架上で死にましたが、3日目に復活し、弟子たちに新しい使命を託します。それはイエスこそこの世の救い主、私たちはそのことの証人であるということです。ゲッセマネで眠ってしまった弱い弟子たちは、イエスの深い愛と憐みによって、新しい者へと変えられ て、この世へと立ち上がって行くのです。ここに神のはかり知れない救いのご計画が現れたのです。


by hachimejibap | 2019-04-16 20:14 | メッセージ

黙っているな

今日のメッセージ  八王子めじろ台バプテスト教会

20194 7                 協力牧師 北島靖士

聖書: 使徒言行録18111

テーマ:教会の原点  メッセージ 「黙っているな! 」

今、朗読しました聖書、使徒言行録18111はわたしたちの教会の2019年度聖句が含まれている箇所であります。今年度聖句は週報の第1面を見てください。

 「恐れるな。語り続けよ。黙っているな。わたしがあなたと共にいる。だから、あなたを襲って危害を加える者はない。この町には、わたしの民が大勢いるからだ。」(使徒言行録189,10

わたしたちは先日の総会でこの聖句を選びました。ですから、ただ、週報の表紙に書いて置くだけでなく、今年度中に何度も思い起こし、吟味して見なければならないと思うのです。今日は年度の初めの主日ですから、その第1回目としたいと思います。

そして、総会の席上では「この聖句は教会の原点をあらわしていることばであるだろうか」という質問がありましたが、わたしはまさしくこの聖句は教会の原点を指し示している言葉だと考えます。なぜなら、発言せずに黙っている教会はもはやキリストの教会ではないからです。4節に「パウロは安息日ごとに会堂で論じ」たとありますが、最初期のキリスト者たちはエルサレムの神殿にも行きましたし、各地方にあるシナゴーグという会堂にも集まりました。そういうところから、はじめキリスト教はユダヤ教の一分派と見られていた節があります。しかし、次第に根本的な違いが明らかになってくると、会堂から追い出され、迫害を受けることになります。この箇所は丁度その時代のことが記録されている箇所だと考えることができます。

わたしたちバプテスト教会は17世紀のイギリスで始まりました。その頃のイギリスでは「国教会(チャーチ オブ イングランド)」と言って国王を頂点にいただく教会が正統派でした。しかし、バプテスト教会はそのような政教分離ではなく、政教一致体制を痛烈に批判したために迫害を受け、殉教者も出ることになりました。けれどもかれらは決して黙らず語り続けたために、歴史の中に位置を占め、今日世界に一億人ものバプテストが存在するようになったのです。

(これはメッセージのアウトラインではありません。冒頭部分です)


by hachimejibap | 2019-04-08 08:20 | メッセージ

見よ、万物を新しくする

テーマ 十字架の勝利
聖書 ヨハネの黙示録 21章 1~5節
2019年3 月31日                  牧師 左右田 理

 現世の最期を描写するヨハネの黙示録で救い主イエスは小羊と呼ばれること40回以
上、またヨハネによる福音書では神の小羊として証しされています。(ヨハネ1:29) これは
過越の祭の際に殺された十字架の主を、過越の祭で捧げられる生け贄の小羊に比し
て理解するメッセージと言えましょう。だとしたら現世の最期に来るべき神の国とは十字
架の栄光で照らし出された世でしょう。(ヨハネ黙示録21:23、22:5) 現世の栄光で照らし出
される世は比較優劣に彩られた世です。誰かが合格すれば誰かが不合格になる世で
す。優位に立つ者が裁き、劣位に立たされる者が裁かれる世です。裁かれる者たちの
涙が果てしなく続く世です。しかし十字架の栄光で照らし出される世は、裁かれる者たち
の涙をぬぐう神が彼らの真ん中に立ち続けていく世です。
 人の義憤の背後には被害者意識、復讐心、怨念が隠れているときがあります。赦そう
と努めて憎しみが滲み出るときがあります。往々にしてそこには、外からは見えなくとも
内側に蓄積されている悔し涙があります。誰からも顧みられることなく悔し涙でいっぱい
になっていくなら、きっと愛も冷え切ってしまいます。(マタイ24:10^12) 愛が冷え切ってしま
った人を、いったい誰が救うことができましょう。しかし神の小羊は、あらゆる悔し涙をも
ぬぐい去る贖い主として十字架におかかりになったのです。(マタイ5:4,6) 十字架の光は
あらゆる悔し涙を顧み、慰め、満たすことでしょう。
 本日の聖書箇所に続いて、いわゆる天国行きと地獄行きとの分かれ目が描かれてい
ます。(6~8節) 地獄行きの人々の悔し涙を連想させる聖書箇所もあります。(マタイ25:30)
迫害の時代には、迫害に耐えられなかった者を落伍者と見なす傾向があります。日本
でも武士全盛のキリシタン迫害時代に、踏み絵を踏んだ者は失格者と見なされました。
悔し涙は失敗者のしるしとして映し出されたのです。しかし十字架の光はあらゆる涙が
顧みられ、慰められ、満たされる世界を映し出す光です。万物を新しくする光として、
“第二の死”(8節)をも、裁かれる者すべてが救われる世界、十字架が勝利する世界とし
て新たに映し出してくれることでしょう。
 私たちは絶えず、今“見えている”世界を越え、やがて十字架の光で照らし出される世
界を、信仰をもって望み見ていきましょう。


by hachimejibap | 2019-03-31 12:00 | メッセージ

互いの足を洗いなさい

テーマ:愛の関係
聖書: ヨハネによる福音書13:1~15
2019年3 月24日                協力牧師 北島靖士

イエスさまが弟子の足を洗うという前代未聞の事件が起こったのは、イエスさまが十字架につけられる前の晩の最後の晩餐の席上でした。イエスさまが十字架にかかったのは過越しの祭の日でしたから、足を洗われたのは木曜日ということになります。そこで、教会暦―教会の暦では受難週の木曜日を洗足木曜日と呼ぶようになりました。教会暦と言う言葉はみなさんにとって聞きなれない言葉だと思いますので、今日、「教会暦って何?」という紙を週報の中に入れておきました。表、裏ともごらんください。簡潔に書きましたので、分かりにくいかもしれません。あとで遠慮なくご質問ください。
さて、この教会暦に従って受難週の木曜日に洗足式として、足を洗う儀式をする教会が沢山あります。中には主日ごとに洗足式をする教会もあります。バプテスト教会の中にもあります。わたしも三鷹バプテスト教会の牧師をしていた時に行いたいと思いましたが、実現することができませんでした。しかし、今の秋山献一先生は受難週の金曜日、すなわち受難日に祈祷会をして、その中で洗足式を行っておられるようです。多分、印象深い式になっていることと思います。カトリック教会では勿論木曜日に洗足式を行います。ローマの聖ペテロ大聖堂―いわゆるバチカンではこの日、ローマ市内からホームレスのような人びとを12人連れて来て、ローマ教皇(法王)が自ら足を洗うのだそうです。しかも、ホントかどうかわかりませんが、金のタライを使ってするのだ、というカリカチュアのようなことがあると聞きました。
しかし、皆さん、こんな話をしたからといって、わたしがカトリック教会をからかっているのだと誤解しないでください。第二次大戦後、台湾に派遣されたカトリックの宣教師にヨーゼフ・オイグスターと言う人がいます。彼は自分の体が弱いことに永年悩んでいました。ところが台湾でリフレクソロジーという療法に出会うのです。これは足をもむことによって健康を回復するという療法です。オイグスターはこのリフレクソロジーによって健康を回復しました。それから、イエスさまの洗足に示された愛や謙遜や奉仕の模範に従って、教会の信徒たちや教会外の人々への健康奉仕として足をもむことを広めていったのです。今日、台湾を中心にアジア、日本でもこのリフレクソロジーが普及しています。
(以上はメッセージの冒頭部分です。アウトラインではありません。)


by hachimejibap | 2019-03-28 17:39 | メッセージ

神の業が現れるため

テーマ 救い
聖書 ヨハネによる福音書 9章 1~7,21~22,32~41節
2019年3月17日    主日礼拝               牧師 左右田 理

 主イエスは世を裁くために来たのでしょうか?神の業が現れるため(3節)というのは、
救いが現れるためではないのでしょうか?実際、別の記述(12:47)として、主は世を裁く
ためではなく救うために来たと証しされています。にもかかわらず本日の39節で裁くた
めに来たと証しされているのはどういうことでしょうか。世の光イエスが共に いる間は、
私たちの業が神の業として照らし出されます。(4~5節) それが救いだとしたら、主(の言
葉)を拒むとき(12:48)、目の前に神の業が現れているのに見えなくなる、神の業だと認
識できなくなってしまう、それこそ裁きなのではないでしょうか。(15:22)
 主の十字架は神の業の成就であり(19:28~30)、私たちの業が神の業となっていく十字
架の道を照らし出す光です。本日の聖書箇所で主によって目が開かれた人の前には、
十字架の道がどのように照らし出されたのでしょうか。まず最初に彼が目にしたのは、
いわゆる身内の“和”は命を救ってはくれなかったということです。(21~22節)  古今東
西、身内や仲間内による情愛や結束が、この世の秩序によって裁かれようとしている命
を救うどころか、その断罪に協力することも珍しくありません。(戦時中の隣組) 彼の前
に照らし出された十字架の道は、この世の秩序、安定からの解放でした。(マタイ 19:29)
 次に彼が見たのは、裁かれる側に立つことによる救い主との出会いです。(34~37節) 
弟子たちが主イエスに、彼の目が見えない原因を尋ね求めたのは問題解決を図りたい
善意からでしょう。(2節) とはいえ原因究明することで、いつの間にか神の側、裁く側に
立ってしまっていた弟子たち…しかし、やがて彼らの前にキリストの十字架が現れまし
た。すなわち救い主が犯罪者の一人として、裁かれる側にお立ちになったという神の業
が現れたのです。
 目に見える世界に於いて救われた者とは裁く側に身を置くことのできた者です。十字
架に上げられた晒し者は、誰の目にも裁かれた者、救われなかった者です。けれども
主の十字架は、裁かれる側にこそお立ちになる救い主を照らし出します。(5節) 救いの
見えない裁かれ行く者の側に立つ救い主です。(39~41節) 十字架の救い主を認める者
は、天に昇られた主を見ます。そして自分を裁いた者たちのために最期まで赦しを祈り
求める生涯が照らし出されるのです。(使徒7:55~56,59~60)


by hachimejibap | 2019-03-22 10:35 | メッセージ

天の故郷

テーマ 信仰
聖書 ヘブライ人への手紙 11章 13~16節
2019年3月10日    主日礼拝                牧師 左右田 理

 この人たちは皆…(13節) ヘブライ人への手紙の著者は11章で旧約聖書に登場する
信仰の英雄たちを列挙します。そして著者は彼らのことを天の故郷を熱望していた人々
だったと証しします。(16節) ヘブライ人への手紙に於いて“天の故郷”とはこの地上の
聖域を乗り越えていくための合い言葉ではないでしょうか。(13:11~14参照) 著者は十字
架の道の果てに天の故郷を見据えつつ、なかなか地上で手放せないものを手放し続け
ていこうとする、いわば自分との戦いに生きる信仰を描き出してくれています。「信仰に
よって、アブラハムは、自分が財産として受け継ぐことになる土地に出て行くように召し
出されると、これに服従し、行き先も知らずに出発したのです。」(ヘブライ11:8)
 今から8年前、2011年3月11日にあの東日本大震災が起こりました。先日のニュース
で生存者のコメントがありました。「大切なものなどを自宅に取りに戻った人たちが津波
にやられた」…福音書にも世の終わりの艱難が預言されていますが、何も取りに戻って
はならないと警告されています。(マルコ13:15~16) たとえその大切さに、物的価値のみな
らず、思い出など情緒的な価値があっても、取りに戻ってはなりません。そもそも“懐か
しさ”、“居心地の良さ”をもたらす対人関係すらも捨てた先にこそ、新たな出会いに満ち
た永遠の命の福音が約束されているのですから。(マルコ10:29~30)
 ヘブライ人への手紙11章の多くはアブラハムなど創世記の人物が登場していますが、
出エジプト記の中心人物モーセも登場します。出エジプト後の荒れ野の旅路は、郷愁の
念に囚われた民が指導者モーセに逆らい、未知なる約束の地への前進を拒み、くり返
し後戻りしようとする旅路でもありました。(出エジプト17:3~4、民数記11:4~5、14:4) しかし
神はモーセに民を前進させるよう命令し、その命令を翻すことは決してありませんでし
た。聖書は信仰を、神の前進命令に対する服従として描きます。
 地上の故郷は、記憶を辿り、過去へさかのぼる者を迎え入れますが、天の故郷は未
知なる出会いを探し求めていく者を迎え入れます。(14節) 懐かしく居心地の良かった
時に戻りたいという誘惑に抵抗し(15節)、人知を越えたキリストの明日をひたすら熱望し
た者は、神によって地上での恥辱をことごとくぬぐい去られ、天の故郷へと豊かに迎え
入れられることでしょう。(16節) 


by hachimejibap | 2019-03-22 10:32 | メッセージ

新しい ぶどう酒

テーマ 希望
聖書 マルコによる福音書 2章 18~22節
2019年3月3日    主日礼拝              牧師 左右田 理


 日本では保守的思想家が聖徳太子などを引き合いにして和の精神、和の文化を唱え
ます。日本人は和の文化を持っている民族であり、秩序や安寧を乱すような個性や自
由は許されない、というような思想です。けれども本日の聖書箇所でユダヤの人々が
主イエスに投げかけている問い(18節)にも、和の精神、和の文化に通じる感覚がある
ように見えます。だとしたらこのユダヤの人々の問いは、現代日本に生きる私たちが抱
える問いでもあり、主イエスの応えは私たちに対する答えでもあるでしょう。
 和の精神、文化ということで、某政党のキャッチコピーを思い出します。それは“安定
は希望”です。しかし一方で“安定は衰退の始まり”と言う企業家もいます。では希望は
どこにあるのでしょうか。その企業家は希望について、人生は自分が主役だという信念
を持ち、自分に期待することである、と謳っていますが…和の精神、文化を自力で突破
しようとしても、多くの人が孤立し失意と失望の底に沈むだけではないでしょうか。孤立
の厳しさはとくに身内や仲間との別れです。ところが本日の聖書箇所で主イエスは、そ
のような別れの失意のただ中に希望を見ているのではないでしょうか。(20~22節) 
 主イエスに問うた人々にとって断食は、民族の誇り、身内の結束や仲間の証明といっ
た、いわば秩序と安定の象徴だったのかも知れませんが、主イエスにとって断食は、別
れがつらくて食事も喉を通らない、というような人の世の常として起こる一過性の出来事
を象徴しているに過ぎなかったのでしょう。本日の聖書箇所で、今ある環境を守ることは
明らかに主イエスの関心事とは異なります。主イエスの関心は、出会いがあれば別れも
ある、人の世の常であるその“別れにこそ訪れる新らしさ”、すなわち十字架の福音とし
ての希望へとひたすら向かいます。
 “別れに訪れる新しさ”は復活の命です。伝道者パウロによれば復活の命は“過去と
の決別”として現れます。(2コリント5:15~18) 昨日までの対人関係、さらにイエス・キリスト
との関係や理解すら“肉”として、日々くり返し葬り去られていかなければならないという
ことでしょう。こうして古い布、古い ぶどう酒に執着する人々が、新しい布、新しい ぶど
う酒に生きる人々へと創造されるとき、世に復活の命が広がり、和解の福音で世が満
ちる希望が成就するのです。


by hachimejibap | 2019-03-22 10:29 | メッセージ

テーマ 平和
聖書 マルコによる福音書 9章 42,45,47~50節
2019年2月10日    主日礼拝               牧師 左右田 理


 「小さな者」(42節)については文脈的に、マタイによる福音書18:6が子どもを、ルカに
よる福音書17:2が“徴税人や罪人”を意識するのに対して、本日のマルコによる福音
書は、子ども(33~37節)の他に、共同体に未加入の賛同者を意識しているようです。(38
~41節) マルコでの小さな者とは、共同体にとって貢献度が見えづらく、やがて袂を分
かつ可能性すら秘めた存在でしょう。ここに礼拝共同体でも何らかの制限を設けたくな
る誘惑があります。(38節) しかし主イエスは、このような小さな者と互いに平和に過ご
すことをこそ、他の何を失ってでも求めよ!と心を込めて招くのです。(41~50節)
 片手、片足、片目を切り捨ててしまいなさい…本日の聖書箇所は、白内障手術後の
片目での生活を味わった私としては、少なからずドキッとさせられます。しかし主イエス
のこの過激な言葉には、じつは礼拝について旧約時代から語り継がれてきた差別(サ
ムエル下5:6~8)に対する厳しい批判がこめられていたのではないでしょうか。(マルコ12:37
参照) “昔の偉い人の言い伝え(マルコ7:9,13参照)により差別が紛れ込んだ礼拝に執着
したところで地獄の業火に投げ込まれるだけだ。それなら礼拝に制限を設けられた者
たちと連なる方が、よっぽど互いに平和に過ごすことができる!
 「塩気」はマタイによる福音書5:13では“迫害の苦難”との関係で、ルカによる福音書
14:34でも“十字架を背負う苦難”との関係で意識されています。しかし本日マルコによ
る福音書9章では「塩気」が“火”によって生まれ、“互いの平和”に至るという希望の出
来事(49~50節)として意識されています。塩気とは、さまざまな資格や条件による差別
の“火”によって焼け出された小さな者が、主イエスを頼りに、互いに平和に過ごす交
わりへ迎え入れられていく恵みの出来事でしょう。ですから十字架の主を仰ぐ礼拝の
交わりは、そのような「小さな者の一人」に資格や条件を問いません。(2012.3.25八王
子めじろ台バプテスト教会定例総会議決「主の晩餐式」式文参照)
 シャロームの会、NAミーティングなど、八王子めじろ台バプテスト教会は「小さな者の
一人」との出会いに取り組んできました。私たちとの平和は、すでに彼らが主イエスに
頼ってきた何よりの証しです。「主イエスを信じるこれらの小さな者の一人」との出会い
に向け、また交わりに向け、ますます、より広く取り組んでいきましょう。


by hachimejibap | 2019-03-22 10:24 | メッセージ

テーマ 悔い改め
聖書 ルカによる福音書 5章 27~32節
2019年2月3日    主日礼拝              牧師 左右田 理


 イエス様が招き、悔い改め(方向転換:32節)させようとしていたのは具体的に誰だっ
たのでしょうか。まず考えられるのはイエス様の招きに応え“何もかも捨てて立ち上が”
った徴税人レビでしょう。(28節) だとしたら、この悔い改めを知るには、まず徴税人に
ついて考察することは有益でしょう。徴税人は侵略者であるローマ帝国に上納するた
め同胞ユダヤ人から税を徴収する仕事です。誰が好きこのんで同胞を苦しめたりする
でしょう。背景にはもともと同胞社会であまり顧みられなかった徴税人たちの生い立ち
が透けて見えるのです。権力と富を笠に着て、なんとか“裁く側”へ“裁く側”へ立ち回ろ
うと、あがいてきた彼らの生き様が透けて見えるのです。
 とはいえ権力と富を笠に着ても同胞から裏切り者として命を狙われたのでは困りま
す。恨まれても存在意義は印象づけねばなりません。宗教社会イスラエルにおいて徴
税人が存在意義をアピールしやすいのは多額の献金でした。徴税人にはそれが可能
でした。侵略者ローマの権力を笠に着て大衆から余計に徴収、着服して神殿税として
大金を納めれば、侵略者ローマだけでなくイスラエル内の権力者である宗教指導者か
らの後ろ盾も取り付けることが出来ます。こうして徴税人は一般大衆から、また表向き
宗教指導者からどれほど非難されようとも、絶えず“裁く側”に立ち回れたことでしょう。
 古今東西、その社会また共同体の枠組みの中で無用なものとして裁かれ、差別、排
除されてきた命が無数にあります。人類の歴史は、生き残りをかけて裁く側に立ち回ろ
うとしてきた者たちの歴史でもあったのではないでしょうか。しかし主イエスは、裁く側に
執着する生き方に対して悔い改め(方向転換)を迫るのです。そして裁かれる側に立つ
者たちと囲む食卓へ招くのです。(30~32節) 主の食卓は裁かれる者たちとの連帯への
招きであり、十字架の側への招きです。(2018.12.30「今日のメッセージ」参照) 
 主は十字架からおりませんでした。(マルコ15:32、ルカ23:37) それは裁く側に転身した
くなる誘惑への「否」でもあります。なぜなら裁かれる側に踏みとどまるところにこそ復
活の命が出現するからです。(ルカ9:22) そして神の言葉にあらゆる裁きを委ね切る世
界の一員となるとき、永遠の命が成就するでしょう。(フィリピ2:6~11) だから祈りましょう。
裁く側に立ち戻らせようとする誘惑から救ってください。(マタイ6:13参照)


by hachimejibap | 2019-03-22 10:23 | メッセージ