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八王子めじろ台バプテスト教会 hachimejib.exblog.jp

〒193-0833 東京都八王子市めじろ台2-15-2 ℡.042-663-7036  礼拝(日)AM10:00~12:10              祈り会( 水曜日 午前10時~11時20分


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カテゴリ:メッセージ( 255 )

20196 2                協力牧師 北島靖士

聖書: ヨハネによる福音書14:1531

テーマ:聖霊  メッセージ「心を騒がせるな おびえるな」

週報にあるように来週はペンテコステ=聖霊降臨祭の祝日です。ペンテコステはとは五十という意味です。復活祭イースターから五十日目ということで五旬祭とも言われます。この日に起こった出来事が使徒言行録1章に記されています。

使徒言行録1:8

あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。

この言葉どおりにキリスト者たちは中近東、ヨーロッパから世界中に伝道して行きました。そして、このことをわたしたちもまた同じ経験をしているのです。1947年太平洋戦争敗戦後2年目ですが、日本バプテスト連盟が結成された時に東京には二つのバプテスト教会(旧西部組合系)しかありませんでした。目白ヶ丘教会と東京第一教会の前身の西巣鴨教会です。わたしたちの八王子めじろ台バプテスト教会は19686月に福生のアメリカ軍基地の近くにある英語の関東プレインズ教会の伝道所として伝道をはじめました。今から51年前のことです。そして教会として独立する教会組織をしたのが1980年、来年は40周年です。そして八王子めじろ台バプテスト教会と改称してから30周年です。何かのお祝いをすることができるでしょうか。

このような教会の歴史を見ると使徒言行録の通り、聖霊がこの地域にたしかに働いていると思わされるのです。

さて、今読みました聖書の箇所の少し前1333でイエスは言われました。

子たちよ、いましばらく、わたしはあなたがたと共にいる。あなたがたはわたしを捜すだろう。『わたしが行く所にあなたたちは来ることができない』とユダヤ人たちに言ったように、今、あなたがたにも同じことを言っておく。

つまり「わたしはまもなくあなたがたの所から去ってゆく」とイエスさまは言われました。

(これはメッセージの冒頭部分です。アウトラインではありません)


by hachimejibap | 2019-06-05 12:56 | メッセージ

あなたは私を愛するか

2019512日        主日礼拝           吉村知子

聖書:ヨハネによる福音書 2115-19

メッセージ題: 「あなたは私を愛するか」

 イエス様は十字架にかかり、よみがえり、40日間地上におられました。この短い間に是非とも会いたい人がいたのです。それは3年間寝食をともにし、イエス様の言葉、行動をつぶさに見た弟子たち。しかしイエス様が捕らえられた時、怖くなり逃げ去った弟子たちです。イエス様が弟子たちに再会した時、弟子の人生を変える何かが起こりました。本日は、イエス様とペトロの対話を通して、失望のどん底にいたペトロが再出発した出来事をご一緒に見てまいりましょう。

 本日のキーワードは、「ガリラヤ湖」と「あなたは私を愛するか」の二つです。ガリラヤ湖は、ペトロがイエス様と出会った場所であり信仰の出発点です。弟子となり3年間、イエス様と行動を共にし、弟子の中ではリーダー格、行動的で一途なペトロ。イエス様のためならこの命も捧げますと勇敢に言ったその直後、イエスなど知らないと公言したペトロ。イエス様を裏切ったという重い気持ちを抱えて故郷のガリラヤへ戻った彼の前に、イエス様が現れます。

イエス様は「あなたは私を愛していますか」と3度尋ねます。その問いは、ペトロが消したくても消せない過ち、イエスを3度否んだという自分の姿を思い出させます。「私があなたを愛していることをあなたはご存知です」。もう愛される資格はない。今にも消えそうだけれど、消えなかったイエスへの思い。「彼は傷ついた葦を折ることなく、暗くなってゆく燈心を消すことなく…」(イザヤ423)。

「あなたは私を愛していますか」。イエス様のこの言葉によって、ペトロは、自分の弱さ、醜さを照らし出され、同時にイエス様への愛も再確認します。そこから、信仰の再出発が始まるのです。

私たちも信仰生活が長くなると、いつしかイエス様を信じたときの感動、喜びを忘れがちです。「あなたは初めのころの愛から離れてしまった。だから、どこから落ちたかを思い出し、悔い改めて初めのころの行いに立ち戻れ」(ヨハネ黙示録24)。

ペトロは信仰の出発点であるガリラヤで復活のイエス様に出会い、再出発しました。あなたのガリラヤはどこですか。イエス様は今日も問いかけておられます。「あなたは私を愛するか」。あなたは何と答えるでしょう。


by hachimejibap | 2019-05-12 21:16 | メッセージ

さあ来て食事をしなさい

20195 5                 協力牧師 北島靖士

聖書: ヨハネによる福音書21114

テーマ:主の晩餐式 メッセージ「さあ来て食事をしなさい」

(前略)

イエスさまの弟子たちも青年たちでした。イエスさま自身、おそらく30歳頃に伝道を始められて、33歳で十字架にかけられて死なれたと思われます。ペトロやヨハネたち最初の弟子たちも大体イエスさまと同じ年齢の青年たちであったと考えられます。たしかにヨハネの21章に出てくるのは青年たちです。ペトロは水に飛び込むという無鉄砲なこともしますが、ここを読んで気がつくことは青年たちの無気力さです。

3節にシモン・ペトロが「わたしは漁に行く」と言ったとありますが、これは「さあ、これから漁をするぞ」という決断を表すような言葉ではない。「しかたがない、漁にでもゆこうか」と訳したほうがよいという聖書学者がいます。

何か弟子たちのけだるさが伝わってくるような感じがします。イエスさまに従って熱中した神の国運動はイエスさまの十字架の死によって挫折した。故郷のガリラヤに帰るほかない。帰ってはみたものの何もすることがない。昔とった杵柄で、漁でもしてみようか。不承不承腰を上げる弟子たちです。このあたりのことを明治時代のキリスト教会の指導者であった植村正久牧師は次のように言っています。因みに植村正久はもう一つのキリスト教発祥のグループである「横浜バンド」の一人です。そして他に「熊本バンド」というものもあります。植村牧師は言います。

「無聊(ぶりょう)に苦しみ、物思いに堪えぬ折から、かつは生活の必要もありしなるべく、胸の内晴れもやらず、世の中にとかく面白からず、それこれの動機より心苦しい者うち寄りて、さて漁(すなどり)に出(い)でたるならん。かかる精神の境遇におる者の漁りを思い立つは珍しきことに非ず。」

最後のところは「何もすることがないから、魚釣りにでも出かけようか、というのは珍しいことではない」という意味です。

(これはメッセージの冒頭部分です。アウトラインではありません。)


by hachimejibap | 2019-05-06 22:35 | メッセージ

シャローム シャローム

2019421                

聖書: ヨハネによる福音書201929

テーマ:復活  メッセージ 「シャーロム シャーロム 」                 協力牧師 北島靖士 

このところ何回か、教会暦=教会の暦についてお話ししたり、書いたり致しました。今日は復活祭=イースターです。日本ではクリスマスがよく知られていて、冬の風物詩として定着していると思いますが、イースターはそれほど知られているとは言えません。しかし、教会の中ではクリスマスは比較的おそく、4世紀以後になってようやく定着いたしました。それに対して十字架につけられて殺されたイエスさまの復活の日として日曜日の礼拝が1世紀の後半には始まりました。またユダヤ教の過越祭(パスカ)と結びついたイースターは2世紀にはもう行われていたといわれます。

さて、聖書の復活の主イエスとの出会いであります。今お読みしましたヨハネによる福音書20章の19節にも26節にも弟子達は「自分たちの居る家の戸に鍵をかけていた」と書かれています。彼らは何をそのようにおそれていたのでしょうか。一つは19節にあるように「ユダヤ人」を恐れていたのです。勿論これはイエスさまを十字架にかけて殺したユダヤ人の指導者たちのことです。自分たちも先生であるイエスさまと同じ目には会うのではないかと恐れていたのです。またこのヨハネによる福音書が書かれたのは紀元90年ごろのことであると言われます。その頃のキリスト教会はユダヤ教の激しい迫害に逢っていました。ですから、そのころのキリスト者たちは内に内に閉じこもって、心にも、住まいにも鍵をかけたような状態になっていたに違いありません。

さらに、もし今のパレスチナの民衆がこの箇所を読むならば、これは文字通り自分たちのことを書いているのだと思うに違いありません。アメリカのトランプ大統領がエルサレムはイスラエルの首都だと宣言して、テル・アビブにあったアメリカ大使館を移転したり、北のゴラン高原の領有権をイスラエルに認めたりしたために、今また緊迫した状況になっていることを御存じのことと思います。パレスチナの民衆は何時イスラエルの軍隊が押し入ってくるかとおびえながら、しっかりと戸口に鍵をかけているに違いありません。

(これはメッセージの冒頭部分です。アウトラインではありません)


by hachimejibap | 2019-04-22 00:47 | メッセージ

ゲッセマネの祈り

ゲッセマネの祈り

     マルコによる福音書 14章32~42節


 マルコによる福音書は16章から構成され、他の福音書に比べて一番短く、

かつ一番早い時期に書かれたと言われています。イエスの誕生や幼少期、家庭環境などには一切触れられておらず、イエスの宣教活動

特に最後の一週に展開する「受難」の事柄が福音書全体の中心になっています。今日は「受難」の中でもとりわけ重要な「ゲッセマネの

祈り」を中心に、そこに映し出される「イエスの苦しみと弟子たちの弱さ、そしてそれらを超える神の救いのご計画」についてご一緒に

考えてまいりましょう。

ユダヤ教三大祭の一つである過ぎ越し祭のためにエルサレムに入城したイエスは、群衆から熱狂的に歓迎されました。しかし宗教指導者との軋轢により、彼らはイエスを殺害しようと計画します。そのような中、イエスは弟子たちと共にゲッセマネの園で父なる神に祈ります。「わたしは死ぬばかりに悲しい(苦しい)」と弟子たちに語り、共に祈るように懇願します。そして「この杯を私から取りのけてください」と神に祈るのです。それほどまでに苦しい杯とは一体何でしょうか。それは神の裁きを意味します。神に背いた私たちの罪を神の子イエスが背負ってくださるのです。しかし弟子たちにはイエスの真意が分からず、日頃の疲れが出て、眠ってしまうのです。ここに私たちの姿が映し出されています。神様のために何かしようと熱い思いがあっても、いざとなると自分のことで精いっぱい、神様や隣人のことが見えなくなる私たちがいるのです。その私たちに、イエスは「誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。」と諭すのです。私たちは弱いからこそ、祈り続けなければならないのです。神につながっていなければならないのです。十字架にかかる直前、ご自身も苦しみの中にあったイエスは、弱く疲れている弟子たちをも心に留めて、自分亡きあと、弟子たちがしっかりと信仰に立ち、福音を宣べ伝える”器“となるようにと教えられたのです。

イエスは苦しい杯(十字架での死)を取り除いて欲しいと神に願いましたが、最後は「御心が成りますように」と祈り、眠っている弟子たちに「時が来た。立て,行こう」と毅然と十字架の死を受け入れる覚悟を表します。しかしイエスは十字架上で死にましたが、3日目に復活し、弟子たちに新しい使命を託します。それはイエスこそこの世の救い主、私たちはそのことの証人であるということです。ゲッセマネで眠ってしまった弱い弟子たちは、イエスの深い愛と憐みによって、新しい者へと変えられ て、この世へと立ち上がって行くのです。ここに神のはかり知れない救いのご計画が現れたのです。


by hachimejibap | 2019-04-16 20:14 | メッセージ

黙っているな

今日のメッセージ  八王子めじろ台バプテスト教会

20194 7                 協力牧師 北島靖士

聖書: 使徒言行録18111

テーマ:教会の原点  メッセージ 「黙っているな! 」

今、朗読しました聖書、使徒言行録18111はわたしたちの教会の2019年度聖句が含まれている箇所であります。今年度聖句は週報の第1面を見てください。

 「恐れるな。語り続けよ。黙っているな。わたしがあなたと共にいる。だから、あなたを襲って危害を加える者はない。この町には、わたしの民が大勢いるからだ。」(使徒言行録189,10

わたしたちは先日の総会でこの聖句を選びました。ですから、ただ、週報の表紙に書いて置くだけでなく、今年度中に何度も思い起こし、吟味して見なければならないと思うのです。今日は年度の初めの主日ですから、その第1回目としたいと思います。

そして、総会の席上では「この聖句は教会の原点をあらわしていることばであるだろうか」という質問がありましたが、わたしはまさしくこの聖句は教会の原点を指し示している言葉だと考えます。なぜなら、発言せずに黙っている教会はもはやキリストの教会ではないからです。4節に「パウロは安息日ごとに会堂で論じ」たとありますが、最初期のキリスト者たちはエルサレムの神殿にも行きましたし、各地方にあるシナゴーグという会堂にも集まりました。そういうところから、はじめキリスト教はユダヤ教の一分派と見られていた節があります。しかし、次第に根本的な違いが明らかになってくると、会堂から追い出され、迫害を受けることになります。この箇所は丁度その時代のことが記録されている箇所だと考えることができます。

わたしたちバプテスト教会は17世紀のイギリスで始まりました。その頃のイギリスでは「国教会(チャーチ オブ イングランド)」と言って国王を頂点にいただく教会が正統派でした。しかし、バプテスト教会はそのような政教分離ではなく、政教一致体制を痛烈に批判したために迫害を受け、殉教者も出ることになりました。けれどもかれらは決して黙らず語り続けたために、歴史の中に位置を占め、今日世界に一億人ものバプテストが存在するようになったのです。

(これはメッセージのアウトラインではありません。冒頭部分です)


by hachimejibap | 2019-04-08 08:20 | メッセージ

見よ、万物を新しくする

テーマ 十字架の勝利
聖書 ヨハネの黙示録 21章 1~5節
2019年3 月31日                  牧師 左右田 理

 現世の最期を描写するヨハネの黙示録で救い主イエスは小羊と呼ばれること40回以
上、またヨハネによる福音書では神の小羊として証しされています。(ヨハネ1:29) これは
過越の祭の際に殺された十字架の主を、過越の祭で捧げられる生け贄の小羊に比し
て理解するメッセージと言えましょう。だとしたら現世の最期に来るべき神の国とは十字
架の栄光で照らし出された世でしょう。(ヨハネ黙示録21:23、22:5) 現世の栄光で照らし出
される世は比較優劣に彩られた世です。誰かが合格すれば誰かが不合格になる世で
す。優位に立つ者が裁き、劣位に立たされる者が裁かれる世です。裁かれる者たちの
涙が果てしなく続く世です。しかし十字架の栄光で照らし出される世は、裁かれる者たち
の涙をぬぐう神が彼らの真ん中に立ち続けていく世です。
 人の義憤の背後には被害者意識、復讐心、怨念が隠れているときがあります。赦そう
と努めて憎しみが滲み出るときがあります。往々にしてそこには、外からは見えなくとも
内側に蓄積されている悔し涙があります。誰からも顧みられることなく悔し涙でいっぱい
になっていくなら、きっと愛も冷え切ってしまいます。(マタイ24:10^12) 愛が冷え切ってしま
った人を、いったい誰が救うことができましょう。しかし神の小羊は、あらゆる悔し涙をも
ぬぐい去る贖い主として十字架におかかりになったのです。(マタイ5:4,6) 十字架の光は
あらゆる悔し涙を顧み、慰め、満たすことでしょう。
 本日の聖書箇所に続いて、いわゆる天国行きと地獄行きとの分かれ目が描かれてい
ます。(6~8節) 地獄行きの人々の悔し涙を連想させる聖書箇所もあります。(マタイ25:30)
迫害の時代には、迫害に耐えられなかった者を落伍者と見なす傾向があります。日本
でも武士全盛のキリシタン迫害時代に、踏み絵を踏んだ者は失格者と見なされました。
悔し涙は失敗者のしるしとして映し出されたのです。しかし十字架の光はあらゆる涙が
顧みられ、慰められ、満たされる世界を映し出す光です。万物を新しくする光として、
“第二の死”(8節)をも、裁かれる者すべてが救われる世界、十字架が勝利する世界とし
て新たに映し出してくれることでしょう。
 私たちは絶えず、今“見えている”世界を越え、やがて十字架の光で照らし出される世
界を、信仰をもって望み見ていきましょう。


by hachimejibap | 2019-03-31 12:00 | メッセージ

互いの足を洗いなさい

テーマ:愛の関係
聖書: ヨハネによる福音書13:1~15
2019年3 月24日                協力牧師 北島靖士

イエスさまが弟子の足を洗うという前代未聞の事件が起こったのは、イエスさまが十字架につけられる前の晩の最後の晩餐の席上でした。イエスさまが十字架にかかったのは過越しの祭の日でしたから、足を洗われたのは木曜日ということになります。そこで、教会暦―教会の暦では受難週の木曜日を洗足木曜日と呼ぶようになりました。教会暦と言う言葉はみなさんにとって聞きなれない言葉だと思いますので、今日、「教会暦って何?」という紙を週報の中に入れておきました。表、裏ともごらんください。簡潔に書きましたので、分かりにくいかもしれません。あとで遠慮なくご質問ください。
さて、この教会暦に従って受難週の木曜日に洗足式として、足を洗う儀式をする教会が沢山あります。中には主日ごとに洗足式をする教会もあります。バプテスト教会の中にもあります。わたしも三鷹バプテスト教会の牧師をしていた時に行いたいと思いましたが、実現することができませんでした。しかし、今の秋山献一先生は受難週の金曜日、すなわち受難日に祈祷会をして、その中で洗足式を行っておられるようです。多分、印象深い式になっていることと思います。カトリック教会では勿論木曜日に洗足式を行います。ローマの聖ペテロ大聖堂―いわゆるバチカンではこの日、ローマ市内からホームレスのような人びとを12人連れて来て、ローマ教皇(法王)が自ら足を洗うのだそうです。しかも、ホントかどうかわかりませんが、金のタライを使ってするのだ、というカリカチュアのようなことがあると聞きました。
しかし、皆さん、こんな話をしたからといって、わたしがカトリック教会をからかっているのだと誤解しないでください。第二次大戦後、台湾に派遣されたカトリックの宣教師にヨーゼフ・オイグスターと言う人がいます。彼は自分の体が弱いことに永年悩んでいました。ところが台湾でリフレクソロジーという療法に出会うのです。これは足をもむことによって健康を回復するという療法です。オイグスターはこのリフレクソロジーによって健康を回復しました。それから、イエスさまの洗足に示された愛や謙遜や奉仕の模範に従って、教会の信徒たちや教会外の人々への健康奉仕として足をもむことを広めていったのです。今日、台湾を中心にアジア、日本でもこのリフレクソロジーが普及しています。
(以上はメッセージの冒頭部分です。アウトラインではありません。)


by hachimejibap | 2019-03-28 17:39 | メッセージ

神の業が現れるため

テーマ 救い
聖書 ヨハネによる福音書 9章 1~7,21~22,32~41節
2019年3月17日    主日礼拝               牧師 左右田 理

 主イエスは世を裁くために来たのでしょうか?神の業が現れるため(3節)というのは、
救いが現れるためではないのでしょうか?実際、別の記述(12:47)として、主は世を裁く
ためではなく救うために来たと証しされています。にもかかわらず本日の39節で裁くた
めに来たと証しされているのはどういうことでしょうか。世の光イエスが共に いる間は、
私たちの業が神の業として照らし出されます。(4~5節) それが救いだとしたら、主(の言
葉)を拒むとき(12:48)、目の前に神の業が現れているのに見えなくなる、神の業だと認
識できなくなってしまう、それこそ裁きなのではないでしょうか。(15:22)
 主の十字架は神の業の成就であり(19:28~30)、私たちの業が神の業となっていく十字
架の道を照らし出す光です。本日の聖書箇所で主によって目が開かれた人の前には、
十字架の道がどのように照らし出されたのでしょうか。まず最初に彼が目にしたのは、
いわゆる身内の“和”は命を救ってはくれなかったということです。(21~22節)  古今東
西、身内や仲間内による情愛や結束が、この世の秩序によって裁かれようとしている命
を救うどころか、その断罪に協力することも珍しくありません。(戦時中の隣組) 彼の前
に照らし出された十字架の道は、この世の秩序、安定からの解放でした。(マタイ 19:29)
 次に彼が見たのは、裁かれる側に立つことによる救い主との出会いです。(34~37節) 
弟子たちが主イエスに、彼の目が見えない原因を尋ね求めたのは問題解決を図りたい
善意からでしょう。(2節) とはいえ原因究明することで、いつの間にか神の側、裁く側に
立ってしまっていた弟子たち…しかし、やがて彼らの前にキリストの十字架が現れまし
た。すなわち救い主が犯罪者の一人として、裁かれる側にお立ちになったという神の業
が現れたのです。
 目に見える世界に於いて救われた者とは裁く側に身を置くことのできた者です。十字
架に上げられた晒し者は、誰の目にも裁かれた者、救われなかった者です。けれども
主の十字架は、裁かれる側にこそお立ちになる救い主を照らし出します。(5節) 救いの
見えない裁かれ行く者の側に立つ救い主です。(39~41節) 十字架の救い主を認める者
は、天に昇られた主を見ます。そして自分を裁いた者たちのために最期まで赦しを祈り
求める生涯が照らし出されるのです。(使徒7:55~56,59~60)


by hachimejibap | 2019-03-22 10:35 | メッセージ

天の故郷

テーマ 信仰
聖書 ヘブライ人への手紙 11章 13~16節
2019年3月10日    主日礼拝                牧師 左右田 理

 この人たちは皆…(13節) ヘブライ人への手紙の著者は11章で旧約聖書に登場する
信仰の英雄たちを列挙します。そして著者は彼らのことを天の故郷を熱望していた人々
だったと証しします。(16節) ヘブライ人への手紙に於いて“天の故郷”とはこの地上の
聖域を乗り越えていくための合い言葉ではないでしょうか。(13:11~14参照) 著者は十字
架の道の果てに天の故郷を見据えつつ、なかなか地上で手放せないものを手放し続け
ていこうとする、いわば自分との戦いに生きる信仰を描き出してくれています。「信仰に
よって、アブラハムは、自分が財産として受け継ぐことになる土地に出て行くように召し
出されると、これに服従し、行き先も知らずに出発したのです。」(ヘブライ11:8)
 今から8年前、2011年3月11日にあの東日本大震災が起こりました。先日のニュース
で生存者のコメントがありました。「大切なものなどを自宅に取りに戻った人たちが津波
にやられた」…福音書にも世の終わりの艱難が預言されていますが、何も取りに戻って
はならないと警告されています。(マルコ13:15~16) たとえその大切さに、物的価値のみな
らず、思い出など情緒的な価値があっても、取りに戻ってはなりません。そもそも“懐か
しさ”、“居心地の良さ”をもたらす対人関係すらも捨てた先にこそ、新たな出会いに満ち
た永遠の命の福音が約束されているのですから。(マルコ10:29~30)
 ヘブライ人への手紙11章の多くはアブラハムなど創世記の人物が登場していますが、
出エジプト記の中心人物モーセも登場します。出エジプト後の荒れ野の旅路は、郷愁の
念に囚われた民が指導者モーセに逆らい、未知なる約束の地への前進を拒み、くり返
し後戻りしようとする旅路でもありました。(出エジプト17:3~4、民数記11:4~5、14:4) しかし
神はモーセに民を前進させるよう命令し、その命令を翻すことは決してありませんでし
た。聖書は信仰を、神の前進命令に対する服従として描きます。
 地上の故郷は、記憶を辿り、過去へさかのぼる者を迎え入れますが、天の故郷は未
知なる出会いを探し求めていく者を迎え入れます。(14節) 懐かしく居心地の良かった
時に戻りたいという誘惑に抵抗し(15節)、人知を越えたキリストの明日をひたすら熱望し
た者は、神によって地上での恥辱をことごとくぬぐい去られ、天の故郷へと豊かに迎え
入れられることでしょう。(16節) 


by hachimejibap | 2019-03-22 10:32 | メッセージ