八王子めじろ台バプテスト教会

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カテゴリ:メッセージ( 226 )

大切なこと

テーマ 教会学校
聖書 ガラテヤの信徒への手紙 6章 11~18節
2018年9月30日    教会学校月間  主日礼拝        牧師 左右田 理

 本日の聖書箇所で伝道者パウロは、大切なのは新しく創造されることだ(15節)と訴え
ています。ではパウロ自身は、どのように創造されていると自覚していたのでしょうか。
パウロにとって新しく創造されるとは、イエスの焼き印を身に受けることだったのではな
いでしょうか。(17節) 当時、焼き印とは家畜や奴隷の印でした。自分が厚遇される印で
はなく、他者が厚遇されるために“仕える印”でした。(マルコ10:42~45) 日頃、この大切な
ことを教会学校は共有できているでしょうか。
 大切なこと…とくに主イエスにとってそれは神の御前に他者が贖われる身代金として、
自らが献げられていくことでした。(マルコ10:45) イエスは十字架で処刑されていく犯罪者
たちのただ中に自らを献げました。この世で邪魔者とされる者たちが神の子の一人とし
て贖われるために、彼らの真ん中にお立ちになったのです。.復活には「直立させる」とい
う意味もあるそうですが、十字架の主は世から排除されていく者たちのただ中において
まさしく復活の主でした。教会の群れはこのようなお方に仕えていくため贖われたので
す。教会学校はこの大切なことを共有できているでしょうか。
 大切なこと…パウロにとってそれは十字架のイエスを主と仰ぐことでした。主イエスと
出会うまでのパウロは、当時のイスラエル宗教国家、ユダヤ教社会においてエリート街
道をまっしぐらでした。(フィリピ3:4~7) しかし苦難のイエスと出会い、イエスを主として仕え
ていくことこそが何にも代え難い大切なこととなったのです。(2コリント11:23~29) 私たちは
世の誘惑に抵抗しなければなりません。まわりから後ろ指を指されたくない、迫害された
くない、まわりから認められたい、また少しでも高く評価されたい…十字架の主以外に
誇らしい何かが心を支配し始める…ここに律法主義、割礼主義の問題があります。(12
~14節) 律法主義の問題を通して、十字架の主イエスを仰ぐことの大切さを、教会学校
は絶えず共有していく必要があるのではないでしょうか。
 パウロにとって困難、苦難は煩わしさではなかったはずです。逆に、苦難の主を誇りと
する生き方を妨げるような誘惑こそが煩わしかったのでしょう。(17節) 「わたしたちを誘
惑に遭わせず、悪い者から救ってください。」(マタイ6:13) 「わたしたちの主イエス・キリス
トの恵みが、あなたがたの霊と共にあるように」(18節)


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by hachimejibap | 2018-10-04 14:20 | メッセージ

福音に共にあずかるため

テーマ 教会学校
聖書 コリントの信徒への手紙 一 9章 16~23節
2018年9月23日    教会学校月間  主日礼拝        牧師 左右田 理

 昔、ある方が教会学校に要請したそうです。「私の子どもを一学年上のクラスに入れ
てください」。何か得るものがあるから子どもを通わせる…いわば塾感覚として時代の
先端を行っていたのかも知れません。しかし本日の聖書箇所全体を見渡して思うので
すが、何か得るもののための出会いは福音ではないでしょう。次から次へ出会うために
出会っていく、出会わないこと自体が不幸(16節参照)、それが福音なのでしょう。私たち
の教会学校には福音が満ちあふれているでしょうか。
 (小学校)一年生になったら、友だち100人できるかな…懐かしい童謡ですが、ある有名
人は異議を唱えます。「100人も必要ない。信頼できる2,3人で十分」。たしかに100人も
出会えば、馬の合わない人とも出会い、苦労もあることでしょう。信頼や安心のための
少数精鋭というのも現代の知恵かも知れません。けれども福音は違います。福音にお
いて集まりが2,3人で十分(マタイ18:20)というのも、信頼や安心が確保されるためではあ
りません。主イエス・キリストと出会えるからです。そして伝道者パウロ自身、キリストに
仕える者として限りなく“出会い”に身を捧げていくのです、十字架の苦難の主と出会う
ための“出会い”に向かって。(2コリント11:23~29)
 福音の報酬は無報酬です。福音を告げ広めるために権利、報いから自由にされる恵
みです。(18節) 見返りなど下心からまったく解放された自由意志が与えられます。それ
は無償の愛を全うして死なれた十字架の主が復活され、私たちのために生きて働いてく
ださっている証しでしょう。福音伝道の場は、福音を伝えられる者がキリストと出会うだ
けでなく、福音を伝える者が、その相手のために無償の愛をもって生きている復活の主
と出会わせてもらうのです。福音は伝える者、伝えられる者が共に福音にあずかる恵み
です。(23節)
 無償の愛に生きる復活の主は、異なる者どうしが共に御言葉を分かち合うことを望ん
でいらっしゃることでしょう。価値観の異なる者どうしが、お互い相手の中に復活の主を
見いだすために仕え合うことを望んでいらっしゃることでしょう。出会っていく相手が自分
たちと異なっていれば異なっているほど、その教会学校は復活の主の豊かさに満ちあ
ふれるのです。(19~23節)


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by hachimejibap | 2018-10-04 14:10 | メッセージ

神を見いだす

テーマ 教会学校月間
聖書 使徒言行録 17章 16~34節
2018年9月16日    教会学校月間  主日礼拝       牧師 左右田 理

 アーメン、ソーメン、冷やそうめん…子ども時代にこれを聞かされるたびに、私はやた
ら義憤に駆られていました。「神さま、イエス様はスゴいんだぞ!」…クリスチャンではあ
りませんでしたが、妙に気負っている自分がいました。本日の聖書箇所でも伝道者パウ
ロは憤慨しています。(16節) そして神さまについて熱く訴え始めるのです。相手が聖書
の神を知っているか否かを越えて。(17~18節) さながらパウロの“教会学校”です。そし
て“教会学校”は「万物の創造主を見よ!」から始まりました。(23~26節)
 パウロは熱く訴えます。「(神は)何か足りないことでもあるかのように、人の手によって
仕えてもらう必要もありません。」(26節) すなわち神のご支配は唯我独尊、人間界も自
然界もその歴史の一切が(お釈迦様の手のひらで踊らされる孫悟空のごとく)、神によっ
て自由自在に動かされているに過ぎない!そして、神こそ時代、地域を越えたあらゆる
命の統治者、主権者であるという真実に向けて世の無知を悔い改めさせ、正すための
裁きの日がついに来る、復活の主イエスによって来る!(30~31節)
 もしパウロが、全能者キリストにひれ伏す会衆の姿を予想していたなら、それはまった
くの期待外れでした。主の復活の宣言を通して皆が神を見いだすどころか、多くの者が
嘲笑って立ち去りました。(32~33節) パウロの“教会学校”は失敗だったのでしょうか?
違うと思います。十字架の主の叫びに聴く“教会学校”へ進歩したのではないでしょう
か。(マルコ15:34) さらに十字架の主から託される使命を分かち合う“教会学校”へと進歩
したのではないでしょうか。(2コリント11:23~29) 涙色のパウロの後ろ姿こそが、十字架に
現れた神を見いだす“教会学校”を生んだのではないでしょうか。(33~34節)
 パウロは当初、知られざる神(23節)が、知ったら誰もが敬服、称賛するような神として
皆に見いだされていくことを期待していたことでしょう。しかし本当は、誰からも知られる
ことなく、うち捨てられていく命の傍らに立つ神だったことを、自ら見いだしたのではない
でしょうか。だとしたらパウロの“教会学校”は他者を造り替えるためでなく、十字架の主
の御前に自分の方が新しく創造されていく“教会学校”でした。(2コリント4:16) 教会学校は
涙を造り替え世を喜び一色にする神を見いだすのでしょうか。それとも涙の出会いの喜
びを創造し、その涙の出会いを世に広げていく神を見いだすのでしょうか。(ローマ12:15)


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by hachimejibap | 2018-10-04 14:00 | メッセージ

その話は夜中まで続いた

テーマ 教会学校
聖書 使徒言行録 20章 7~12節
2018年9月2日    教会学校月間  主日礼拝        牧師 左右田 理


 教会には夜を徹して話したいことがあるでしょうか。本日の聖書箇所にはそれがあっ
た様子が描かれています。しかもその話は“パンを裂くこと”(7,11節)と大いに関係があ
ったことがわかります。伝道者パウロはコリント教会に宛てて、十字架で裂かれたキリ
ストの身体を象徴するパン、そして流された血潮を象徴する杯を分かち合って主イエス
の死を告げ知らせていこう、と招きます。(1コリント11:23~26) 本日の聖書箇所においても
パウロたちは、主の死を告げ広めるという、主からキリスト教会に託された使命につい
て熱く語り合っていたのではないでしょうか。
 十字架の主は苦難の主です。十字架の主の苦難は救おうとして訪れた相手から拒ま
れ、辱められ、排除されていく死でした。パウロたち初代教会にとって“主の死”とは“苦
難の出会い”、また“恩を仇で返される出会い”へ自分たちを招く道しるべだったことで
しょう。十字架の“出会い”はこの世の文化、知恵からすれば愚かの極みです。けれど
も初代教会にとって十字架の“出会い”こそが主イエスのもとへ引き上げられる希望で
あり、生きる喜びでした。(使徒5:40~42)
 青年エウティコは居眠りして三階から落ちて死んでしまいました。(9節) パウロの話は
若いクリスチャンを熱狂に駆り立てることなく、深い深い眠りに誘いました。華々しい成
功物語や時代の先端を行くような知恵を耳にしてまどろむ若者は少ないでしょう。コリン
ト教会宛にパウロは自らについてこのように証ししています。「わたしの言葉もわたしの
宣教も、知恵にあふれた言葉によらず、“霊”と力の証明によるものでした。」(1コリント2:4)
伝道者パウロを支えた霊と力は、十字架の主に仕え続け、苦難の主の中に生き続ける
ための霊と力でした。(2コリント11:23~29)
 “大いに慰められた”(12節)…“慰め”と訳されている新約聖書のギリシャ語パラカレオ
ーには、呼び寄せ、勧め、招くなどの意味があるそうです。息を吹き返した青年エウティ
コと共に人々が受けた大きな勧め、招きはどのようなものだったのでしょうか。そして私
たち教会は主の食卓で、また教会学校分級で十字架による勧め、招きをどれほど豊か
に受けているでしょうか。苦難の主の中で呼び集められる人々との出会いを喜び、共に
涙していく明日へ豊かに招かれていきましょう。(ローマ12:15)



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by hachimejibap | 2018-09-06 15:30 | メッセージ

狭い戸口から入るように

テーマ 悔い改め
聖書 ルカによる福音書 13章 22~30節
2018年8月26日    平和月間  主日礼拝          牧師 左右田 理


 救われる者は少ないのでしょうか(23節)…どうして「救ってください」と必死に訴えない
のでしょうか。23節はどこか他人事です。本日の聖書箇所で主イエスは、“信じる”こと
が緊張感の喪失を招く場合があるという、罪の世の誘惑を指摘なさっているのではない
でしょうか。自分は救われているという安心感が“緊張感の喪失”をもたらすとき、他者
への心配が“高みの見物”に変質していても気づかないでしょう。信仰とは果たして自分
が天国に入る保証書、いわゆる天国行きの切符なのでしょうか。
 狭い戸口から入るように努めなさい。(24節)…並行記事(マタイ7:13)では、「滅びに通じ
る門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い」とあり、救いに入る難しさは
前提です。しかし本日の聖書箇所では救いに入ることが実際に難しいわけではなく“難
しいかのように必死に求めなさい”とも読めます。だとしたら この招きは、“自分は信者
(クリスチャン)になったから救われた”という慢心に対する警鐘に通じるでしょう。未信者
(ノンクリスチャン)を“求道者”という呼び方をして信者と区別するのも不思議な話です。
なぜならクリスチャンこそが“永遠の”求道者のはずだからです。(ヨハネ14:6)
 神の国の食卓、神の平和を満喫した経験者なら神の民でしょう。(26節) しかし神の民
でありながら神の国の外側に出てしまっていたというのは不思議です。(25節) 理由を
本日の聖書箇所全体から探るなら、冒頭で言及したように一つには“緊張感の喪失”が
考えられるでしょう。そしてもう一つは“高みの見物”ではないでしょうか。主イエスの証し
する神の国は民を世界各地から呼び集める活動です。(29節) 一口に神の民と言って
も出身の文化、性別、個性など千差万別です。ここで神の民は問われます。救われた
ときの安堵感を保つため、神の国の食卓に飛び込んでくる混乱、喧噪を避けて外野席
に身を遠ざけるのか、混乱、喧噪があっても神の国の食卓にとどまるのか…
 神の国からはるか遠く、まだ救われていない、だから救われたいと集まる人々は切実
でしょう、まるで狭い戸口からもぐり込もうとするかのように…切実な“求道者”たちと一
つ食卓を囲み、彼らに倣い、立ち帰る者たちは幸いです。初心に立ち帰る者たちこそが
神の国にいるのですから。(ローマ5:6,8,10、ヨハネ黙示録2:4~5) この8月平和月間に際し、
十字架の救いに共に立ち帰りましょう。(ルカ23:39~43参照)


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by hachimejibap | 2018-09-06 15:00 | メッセージ

聖書 :マタイ福音書26章47~54節
中心聖句 :マタイ26:51~52
2018年8月19日  主日礼拝                  鈴木 重義 
                 
 そのとき、イエスと一緒にいた者の一人が、手を伸ばして剣を抜き、大祭司の手下に打ちかって片方の耳を切り落とした。そこで、イエスは言われた。「剣を鞘に納めなさい。剣を取る者は皆、剣で滅びる。・・・」
 裏切者ユダの先導により、祭司長以下の一群の捕り手が主イエスを取り囲んだ。そのとき、イエスの側にいた者の一人が、大祭司の手下に打ちかかり、片方の耳を切り
落とした。・・・この場面についてヨハネ福音書18:10では、この者は、他ならぬシモン・ペテロだという。彼・ペテロは最後の晩餐の場で「たとえ、御一緒に死なねば
ならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません」と主イエス
に決死の意志表明をしていました。
 そのため、捕り手に囲またとき、ペテロは主イエスを助ける思いで剣を抜いたと想像することができるのでしょう。然し、この場面で、異なった推測もできます。剣や
棒を持った多勢の捕り手に囲まれたとき、ペテロは主イエスを守ろうとして、死ぬ気で勇敢に剣を振ったのだろうか?と疑問を呈してみましょう。
宗教改革者ジョン・カルヴィンは、この場面のペトロについて「この男は、一見、
自分の弱さを忘れて、主イエスを身をもって守り、仕えているように見えるけれども、
彼が、ここで選んだのは滅びでしかなかった」と述べています。
 主イエスは、ペトロの危うい心を見抜いたように「剣を鞘に納めなさい。剣を取る
者は皆、剣で滅びる」と制止の声かけ給いました。主イエス御自身は、仮りに戦うなら天の神は12軍団以上の天使を派遣することができる、との確信を持ちつつも断乎
として平静に捕縛を受け入れました。これは、十字架への道に連なっています。その
剣と不法を受け入れる、一見、弱さ(・・)と見える主イエスの御姿は、万人に救いの道を開
く愛(・)の(・)強さ(・・)を秘めた御姿でした。
(Ⅱコリント13:4 キリストは弱さのゆえに十字架につけらましたが、・・・・)
 さて、聖書の文脈で知る限り、「剣を取る者は皆、剣で滅びる」の一言は、十字架
への道を進む主イエスだけが宣告できる言葉にちがいありません。
 けれども、この御言葉は「平和を実現する人々は幸いである。」(マタイ5:9)と連関して、反戦平和を奨励する御言葉として、キリスト者間で尊重されています。
古来、人類の歴史に戦争は付き物でした。そして、勝利した国家権力が紡ぐ歴史において正義の戦争の大義名分は、概ね手前味噌に粉飾されたものでした。
 ヤコブ4:1~2 何が原因で、あなたがたの間に戦いや争いが起こるのですか。あなた
がた自身の内部で争い合う欲望が、その原因ではありませんか。あなたがたは、欲しても得られず、人を殺します。・・・・
ところで最近の北朝鮮・アメリカ両国の核・ミサイル問題をめぐる外交的確執が極限まで暴走してきた愚かな出来事を思い起してみましょう。核ボタンを押す国家権力者
が人間性を喪失した暴発寸前・地球的規模の緊張状態を惹起した出来事をお互いに体
験しました。この間、メディヤで知る限り、日本社会では、多くの人が核戦争に巻き込まれる不安を増幅させ、世論でも、防衛戦力強化を必要とする声が高まりました。そこに便乗して防衛大臣も防衛システム強化、米国製新兵器購入の予算計上を発表しました。
 このような事態に直面し、日本国に生きるキリスト者として、私たちはいかに対応
すべきでしょうか。この場合、私たちを困惑させるのは、パウロのローマ書13:1です。
 すべての人間は、上位にある権威に服従しなさい。神によらない権威はないからであり、存在している権威は神によって定められてしまっているからである。
(岩波書店版・青野太潮訳)
ここで、「上位にある」とは、天的、超越的な上、絶対的な上ではなく、地上的・相
対的な上でしかありません。それ故、上位と訳すのが、適訳となるのです。
権威とは、直接的には国家権力を意味しますが、その統治能力は、神の容認と委託を
受けたものとしての国家権力であり、その限りにおいて権威なのです。国家権力は、人が構築した統治機構でありつつ、見えない超越的な支配力をもって、神意が許容する範囲で国家統治をするべきです。その意味で国家権力は、相対的に善政(・・)を担います。但し、時に、その超越的な支配力は神意に背き、その許容範囲を逸脱し、堕落し、その極限として悪魔化し反キリストの牙をむくこともあるのです。(ヨハネ黙示録13章:ローマ皇帝礼拝の迫害)
そのため「権威に従う」とは、無気力な絶対的服従ではなく、キリスト者として、
良心的に従うことが求められます。別言すればキリスト者が良心的に従うとは、神の
御心に従う延長線上で、国家権力にも従うということです。そのため、パウロは、弟
子テモテに「願いと祈りと執り成しと感謝とを、すべての人々のためにささげなさい。
王たちやすべての高官のためにもささげなさい」(Ⅰテモテ2:1~2)と奨めています。
 このようなキリスト者の執り成しの祈りは、国家が、善政に値するか否かを問わずにささげるべきでしょう。仮りに、国家が反人権、反平和の悪虐を強めるような事態でも、祈りの責任は減退することなく、寧ろ、深刻化します。ペテロ第一書は悪魔的な国家権力の極限状態で良心的に従う祈りに生きる姿をキリスト者に教えています。
 Ⅰペトロ2:13~14 主のために、すべて人間の立てた制度に従いなさい。それが統治者としての皇帝であろうと、あるいは、悪を行う者を処罰し、善を行う者をほめるために皇帝が派遣した総督であろうと、服従しなさい。
 Ⅰペトロ5:8~9 身を慎んで目を覚ましていなさい。あなたがたの敵である悪魔がほえたける獅子のように、誰かを食い尽くそうと探し回っています。信仰にしっかり踏みとどまって、悪魔に抵抗しなさい。
 このように種々相を見せる国家権力に祈り人(・・・)として対峙するキリスト者は、国家権力と距離をおき、近視眼的な判断や行動で混迷に巻きこまれる愚を戒め、冷静に、是々非々主義に生きなければならないでしょう。そして、あるときは非協力、あるときは反対声明そして、あるときは〝デモ“を、しかし、バプテストとしては、あくまで、人権尊重反戦平和の基本線に沿って決断的に、非暴力的に実践したいものです。
 話を核戦争の危機に対峙するキリスト者の問題に戻しましょう。
 古来、戦争は、人間に、人殺し、その他あらゆる残虐行為を強制し、人は非人間化させられることに不感性になってしまいます。今や、現代戦争は相互に国家全滅的消耗戦になるのが常です。そして地球崩壊的な核兵器の大量拡散は、地球規模の〈恐怖の均衡〉を現出し、ある意味、不安定な平和が保たれているに過ぎません。そこで、
私たちは、地球上に吹き荒れる政治的・軍事的旋風に振り回されず、天からの神の声
に傾聴すべきです。昔、アッシリアの侵略の魔手に怯えたイスラエルに告げられた
神の言葉の中の一句に耳を傾けましょう。
 イザヤ30:15 まことに、イスラエルの聖なる方、わが主なる神は、こう言われた
「あなたたちは、立ち帰って静かにしているならば救われる。安らかに信頼してい
ることにこそ、力がある」と。
                                 アーメン



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by hachimejibap | 2018-09-06 14:30 | メッセージ

まだ席があります

テーマ 悔い改め
聖書 ルカによる福音書 14章 15~24節
2018年8月12日    平和月間  主日礼拝          牧師 左右田 理


 主イエスが証しする神の国(ご支配)に幸いを見る人たちは少なくない、しかし、実際に
その御国に入ろうとする人は少ない…本日の聖書箇所で主は世の不可解を指摘されて
いるのではないでしょうか。主と食卓を囲む人が聴き取った幸い(15節)は、12~14節にあ
るとおりです。返礼を求めない食卓、すなわち無償の愛による交わりは、復活の希望に
満ちた神の国です。なんと幸いなことでしょう。にもかかわらず、人がその食卓に背を向
けてしまうとすれば、それはどういうことなのでしょうか。
 本日の聖書箇所で主の食卓、神の国の食卓は宴会に例えられます。当然ご馳走も
用意されていたことでしょう。しかし招待客は一様に断るのです。ここにはこの世の繁
栄、安定を求めるとき、神の国の宴会に対する期待、感謝が失われてしまうという真理
が証しされているのではないでしょうか。(18~20節) 神の国の宴会は当時、世の繁栄、
安定に向かう希望を持っていなかった人々、その社会、その共同体で“身の置き所の
無い人々”に開かれていきます。(21節)
 この世で身の置き所の無かった人々が、方々で招かれていきます。広場、路地、通
り、小道…(21,23節) 街中でも何事かと、ひとしきり注目されるような騒動だったことで
しょう。しかし“僕”は言うのです。「まだ席があります」。(22節) 先の招待客は、なぜ思
い直して宴会に来なかったのでしょうか。冒頭で申しましたように、神の国の交わりが無
償の愛の交わりであることを称賛した人(12~15節)に対する応答として、本日の例え話が
語られていることに留意したいと思います。そこには、身の置き所の無い人への施しは
好んでも、彼らと同席し並ぶこと(同じ扱いを受けること)は嫌うという、罪の世に生きる
人の“本性”が指摘されているのではないでしょうか。
 宴会の主人による最後の言葉(24節)を冷たい断罪宣告として聴くのか、“まだ席があ
る”ことが伝わらないもどかしさ、歯ぎしりせんばかりの口惜しさ、救い主の飢え渇きとし
て聴くのかは、聞き手(読み手)に委ねられていると思います。(ルカ8:8,8:18,6:37) 神の
国の幸いは神の平和です。平和月間に際し当教会も連盟諸教会と共に、“まだ席があ
る”ことを、すなわち世で身の置き所の無い人々と“共に”生き、“共に”歩むところにこそ
神の平和が成ることを、身をもって証しし、世に告げ広めていきましょう。(エフェソ2:17)




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by hachimejibap | 2018-09-06 14:00 | メッセージ

急いで降りてきなさい

テーマ 悔い改め
聖書 ルカによる福音書 19章 1~10節
2018年8月5日    平和月間  主日礼拝          牧師 左右田 理


 徴税人とは、侵略者であるローマ帝国に貢ぐための税を同胞のユダヤ人から取り立
てるお仕事、まさに売国奴です。徴税人は開き直り、空威張りでもしなければ生きてい
けない哀れな立場だったことでしょう。徴税人ザアカイがイエス一行に近づけなかったの
も(3節)、群衆が意地悪だったというより、今さら人々に頭を下げて頼むような真似は優
越願望がゆるさなかっただけではないでしょうか。だとしたら木に登り高みから見下ろそ
うとしたその姿は(4節)、ザアカイが抱えていた霊的問題を象徴的に表していたと言えま
しょう。そして主イエスの「ザアカイ、急いで降りて来なさい」(5節)という招きこそ、優越願
望からの解放という霊的救いを象徴的に表していたと言えましょう。(ルカ22:26~27)
 広島原爆(8/6)、長崎原爆(8/9)、そして敗戦(8/15)…高みから降り注いだあの殺人光
線から73年が経ちます。今でもアメリカ社会ではあの原爆こそが戦争終結を早めたと肯
定する声が少なくないそうです。長崎での被爆体験を訴えても、被爆に負けない強い人
といったような羨望のまなざしが返ってくることさえあるそうです。正義、平和の希望が、
高みから力を行使するスーパーヒーロー願望、待望に飲み込まれてしまうとき、結局そ
の先に待ち受けているのは優生思想、現代版弱肉強食なのではないでしょうか。
 「ザアカイ、急いで降りて来なさい」…ザアカイは急いで降りました。主をお迎えしたこと
によって、優越願望からも急いで降りました。(6,8節) 人々の窮乏に応える道、自らの
過ちを償う道へと降りていきました。それは所有を半減させる道であり、自己正当化を
手放す道でした。それに対して主は言われます、「今日、救いがこの家を訪れた。この
人もアブラハムの子なのだから。」(9節) その昔、アブラハムは面倒を見てあげていた
甥が豊かな方の土地を選び取ることをゆるしました。(創世記13:5~11) ザアカイは今、
すべてを与え尽くした十字架の主の幸いを迎え入れたのです。(使徒20:35)
 古今東西、多くの人が蓄え積み上げ、高みから見下ろすところに栄光を見ようとしてき
ました。しかし福音は低められている命と一つになるため降りていく十字架の主の栄光
を証しします。(フィリピ2:6~11) 私たちはひたすらこの主の栄光に永遠の幸い、平和、正
義を期待し、多くの人々を招きましょう。栄光の食卓を共にしようと、主は今も人々の心
の扉をたたいています。(ヨハネ黙示録3:19~20)



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by hachimejibap | 2018-09-06 13:30 | メッセージ

聖書箇所  :ヨハネによる福音書4章16-26節
2018年7月29日礼拝メッセージ要旨  吉村知子


”霊“と言う言葉には「風、息」という意味がある。創世記2章にあるように、
私たちは神によって造られ、命が与えられ、今生かされている。人はイエスに出会い、愛され、赦されて新しい人生を歩む。サマリアの女性もイエスと出会い、人生が変えられた。

 当時、ユダヤ人とサマリア人は数世紀にわたって、宗教的な理由で反目していた。ユダヤ人であるイエスとサマリアの女性の出会いは、その意味でも画期的な出来事であり、そこから”神の救いの出来事”が始まる。

 サマリアの町スカルにあるヤコブの井戸端で交わされた二人の会話は、最初は”水”に関するものだった。しかしある質問を通して話が急展開する。この女性には神の目から隠そうとしていたことがあったのだ。彼女はそれを直視し、認め、イエスに正直に告白し、イエスはその告白を受け入れた。

 神に愛され、赦されたサマリアの女性は、神を心から礼拝したいと思うが、そこにはユダヤ人とサマリア人の歴史的確執が横たわっていた。どちらの神殿が聖いのか。しかしイエスは「霊とまことをもって礼拝せよ」と言う。神は霊であるから、場所に制限されない方。イエス自身、私は救い主・メシアであると宣言する。

人目を避けていた女性は、イエスと出会い、その愛に触れ、罪赦されて、この喜びを伝える者へと変えられる。教会に集う私たちも礼拝からこの世へと遣わされる。


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by hachimejibap | 2018-09-06 13:00 | メッセージ

神の愛が私たちの心に

テーマ 愛
聖書 ローマの信徒への手紙 5章 3~11節
2018年7月22日    主日礼拝              牧師 左右田 理

 “苦難”(3節)とは迫害です。キリストを主と信じ、従うがゆえに受ける攻撃です。しかし
伝道者パウロによればその被害は“誇り”となります。その被害が大きければ大きいほ
ど、豊かな誇りとなっていきます。それは苦難の中でこそ神の愛が豊かに、私たちの心
に注がれるからです。(5節) 苦難の中で私たちの心の中に豊かに描き出され、映し出
されてくる愛…それは十字架の愛でしょう。(ガラテヤ3:1、6:12) 苦難が大きければ大きい
ほど主の十字架が自分に対する神の愛の迫りとして心に映し出され、描き出されてくる
…被害に遭っている自分はどれほど主イエスに近い存在とされていることか…誇りと喜
びに満ちてくる…これは伝道者パウロの生涯にわたる原体験と言えましょう。
 とはいえ苦難は いきなり誇りとはなりません。苦難から忍耐、忍耐から練達、そして練
達から希望が生み出されてくる過程で誇りとなっていくのではないでしょうか。(4節) そ
して希望は私たちを裏切らない、とパウロは断言します。(5節) この希望も愛の場合と
同様、十字架の希望でしょう。十字架の希望の第一段階は、神の忍耐から始まります。
主を裏切り、いわば信仰を捨てた弟子たちを愛し、受け入れた神の側の忍耐です。(ルカ
22:31~32) 信じない者たちをなお愛し、受け入れた忍耐です。この愛が私たちの心に注
がれているなら、信仰の有無などあらゆる違いに囚われることなくあらゆる命を愛し、迎
えようとする神の忍耐が私たちの内にも宿るでしょう。(6~8節)
 十字架の希望の第二段階は、神の“実証”から始まります。(“練達”は“実証”とも訳せ
る新約聖書ギリシャ語) 主は十字架から降りて反逆の民を成敗するようなことはなく(マ
タイ26:52~54)、神は十字架の主の死の向こうに復活の希望を実証してくださいました。そ
れはあらゆる敵意を愛へと招き入れるキリストの明日です。(マタイ5:43~44) この愛が私
たちの心に注がれているなら、世がキリストから義を賜わり、神の怒りから救われ、神と
和解する明日を信じる信仰で私たちは練達されていくことでしょう。(9~10節)
 そして十字架の希望の最終段階は、ひたすら世の救いを希望してくださる主によって
成就します。(ヨハネ12:47) それは相手の非を問うことなく和解の可能性のみを問う愛で
す。(2コリント5:19) この愛が私たちの心に注がれているなら、与え尽くして報われなかっ
た生涯を全うされた主こそ自分たちの生きる喜び、生きる誇りとなるのです。(11節)


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by hachimejibap | 2018-07-22 13:00 | メッセージ

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