八王子めじろ台バプテスト教会

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カテゴリ:メッセージ( 235 )

テーマ 主を待ち望む
聖書 使徒言行録 16章 6~10節
2018年12月9日    アドベント(待降節)第二主日礼拝     牧師 左右田 理

 今はクリスマスを待ち望むアドベント(待降節)…しかし聖書の時代に生きていた人々
は、自分たちが誰を待っているのか、いったい誰と出会うことになるのか、さっぱりわか
っていませんでした。“アドベント”は、(キリスト、救い主の)“出現”、“到来”という意味で
すが、関連語に“アドベンチャー”があります。古くは“未知の存在に近づくこと”という意
味で、現代では“危険な冒険”という意味になっています。アドベントは本来、ただ恒例の
年中行事として巷を彩るイルミネーション、クリスマス・ツリー、サンタグッズでは出会うこ
とのできない何かを待つときなのではないでしょうか。
 本日の聖書箇所で伝道者パウロは、新しい出会いを求めて旅をしています。それでも
直前の聖書箇所では、出会いに備えて下準備をしていたようにも見えます。伝道方針の
違いによる仲間割れを経て(15:39~40)、出会いが受け入れられるにはどうしたら良いの
か、伝道者パウロの葛藤、試行錯誤がにじみ出ているような気がします。(16:1~3) いよ
いよ出会いが実を結ぶことを期待して出発…ところが本日の聖書箇所、行く先々で伝道
が妨げられます、聖霊、イエスさまによって。その地方のユダヤ人のご機嫌を損ねない
よう取り組んだせっかくの下準備も実を結ぶことはなかったのです、神によって。
 すでに申しましたように、アドベント(待降節)とアドベンチャー(危険な冒険)は関連語で
す。主を待ち望むところでは、人としての情緒、都合、好みをすりあわせて平穏無事を
かたちづくろうとする道がことごとく閉ざされていくのでしょう。替わりにまだ見ぬ地での
出会い、あらかじめ根回しなどできない うめき、叫び(9節)とへ招かれていくのでしょう。
主を待ち望むとは、待ちぼうけではありません。未知なる出会いにこそ福音が実ること
を信じ、絶えず向こう岸へ渡る決断です。(10節)
 パウロが向こう岸に渡ったことで何が起こったのか…福音が前進したのです、パウロ
の身に降りかかった苦難を通して。(フィリピ1:12~14) すなわち十字架の苦難の主の言葉
が神の力(1コリント1:18)として“到来”、“出現”したのです。主を待ち望む私たちは、身内、
仲間内では味わうことのなかったような困難な対話へ招かれることでしょう。それでもな
お、十字架の言葉を携えて、より広い出会いを祈り求めましょう。未知なる対話にこそ十
字架の言葉による神の力が、豊かに“到来”、“出現”するのですから。


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by hachimejibap | 2018-12-15 13:20 | メッセージ

テーマ 主を待ち望む
聖書 使徒言行録 27章 13~15,23~26,33~38節
2018年12月2日    アドベント(待降節)第一主日礼拝     牧師 左右田 理


 救い主のご降誕を祝うクリスマスを待ち望む一ヶ月、すなわちアドベント(待降節)。本
日はそのアドベント第一主日です。救いの訪れを待ち望むときは、弱々しく膝を抱え込
み、うずくまるようなときではありません。なぜなら“雄々しく、心を強くせよ”と招かれて
いるときだからです。(詩編31:25) 本日の聖書箇所には、暴風と闇が支配する海上で、
絶望が支配している難破船で、「食卓を囲んで元気を出そう」と呼びかける伝道者パウ
ロの姿が描かれています。まだ一寸先が闇の時点で。本日は、クリスマスを待ち望むア
ドベントに際し、当教会が心すべき救いのメッセージを共に求めましょう。
 本日の招詞(箴言4:25~26)は、先月天城で開催された日本バプテスト連盟第64回定期
総会のテーマ聖句です。当教会も加盟している日本バプテスト連盟は今、嵐の中を進ん
でいるのかも知れません。先の総会では、加盟する諸教会の教勢低下が顕著な昨今、
数値的低下に対する対策を正面から取り上げようという声があがった一方で、正面から
向き合うべきは数値なのか、という問いもありました。いずれにせよ従来の考え方、生
き方にあぐらをかいている場合ではない、という点では、皆が一致していたように思えま
す。そして本日の招詞“目をまっすぐ前に注げ”を拠り所にしつつ議論を重ねたのです。
 本日の聖書箇所には、総会最後の閉会礼拝の聖書箇所が含まれています。メッセン
ジャーは言いました、追い風だけでなく逆風もまた、神の風、神の霊としての働きだった
のではないか、と。(13~15節) 少なくともパウロはそのように、前向きに受けとめていた
のではないでしょうか。そして逆風をも神の霊の働きとして受けとめる秘訣は、暴風吹き
すさぶ闇を前にしても、神からの使命に対してまっすぐ耳を澄ましていく生き方にあるの
ではないでしょうか。(24~25節)
 神からの使命に耳を澄ましていくとき、人としての気分、思惑から解放されます。人とし
ての気分、思惑に囚われている隣人を主の食卓へ招きます。「どうぞ何か食べてくださ
い。…一同の前でパンを取って神に感謝の祈りをささげてから、それを裂いて食べ始め
た。そこで、一同も元気づいて食事をした。」(34~36節) 救いを待ち望むなら、主の食卓
を囲みましょう。招き合いましょう。神からの使命にまっすぐに向き合おうとする食卓から
は、暗闇の逆風を軽やかに進む群れが生まれるのです。(38節)


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by hachimejibap | 2018-12-15 13:10 | メッセージ

鹿が水を求めるように

テーマ 賛美
聖書 詩編 42編 1~12節
2018年11月25日      主日礼拝                牧師 左右田 理

 旧約聖書に登場する鹿はカモシカ類と言われます。そしてイスラエル文化においては
“美”の形容詞的な存在でもあったようです。(雅歌2:9、3:5) 神の民が憧れる生き物だっ
たと言えましょう。しかし本日の詩編に描かれる鹿の姿に、いったい誰が憧れるというの
でしょうか。渇きを癒すために涸れた谷をさまよっている鹿の姿…人々の目には死を間
近にした絶望的な生き様として映るのではないでしょうか。もちろん、ここでの鹿の姿は
神を慕い求める姿としての比喩です。(2~3節) 絶望的なまでの渇き…救いの民、神の
民とは、神を慕うその求め方が絶望的なまでの渇きとなっている群れを指しているので
はないでしょうか。神の民に見られる究極的な美は賛美する姿です。そして賛美とは本
来、いわゆる満腹満足としての楽しみ、喜びとはまったく異なるのではないでしょうか。
 主イエスは飢え渇きを、その乏しさ、悲しみを神の幸いとして証しされました。(ルカ6:20~
26) それは人から来る幸いではありません。神の幸いを受ける者にとって人から来るも
のとは、「神から見捨てられた者、忌み嫌われた者」という蔑み、罵りのたぐいでしかな
いことでしょう。(4、11節) 主イエスが証しする幸いによれば、神の幸いは、“人から来る
幸い”に対する絶望から生まれます。そして賛美は神の幸いの中にあります。だとしたら
賛美もまた、“人から来る幸い”に対する絶望から生まれることでしょう。(ルカ6:24~26)
 先にも申しましたように、神を慕うその求め方が絶望的なまでの渇きとなっている群れ
が神の民だとすれば、彼らは具体的に何を求め続けるのでしょうか。それは礼拝賛美
に満ちた群れです。礼拝賛美の喜びに満ちた群れを、魂を注ぎ出すほどまでに、ひたす
ら思い起こそうとするのです。(5節) けれども救いの民がくり返し堕落の民となったこと
は聖書的現実です。(ルカ6:24~26) それは礼拝賛美に満ちた群れを思い起こそうとすれ
ばするほど、うなだれてしまう救いの民の歴史的現実です。(6節) それゆえに神の民は
礼拝堂をはみ出して広く神を慕い求めます。森羅万象すべてに、昼夜を問わず、神の
御顔を尋ね求めます。(6~9節) 
 私たち教会の民は、神の御顔を知っています。それは十字架に掛けられた主イエス・
キリストの御顔です。十字架の叫びの主こそ“人から来る幸い”の絶望を証しする御顔で
す。(マルコ15:29~34) 鹿が水を求めるように、十字架の主を共に慕い求め賛美しましょう。


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by hachimejibap | 2018-12-15 13:00 | メッセージ

悲しみが喜びに変わる

テーマ:悲しみ、喜び  
聖書:ヨハネによる福音書16:16~24
2018年11 月18 日                  協力牧師 北島靖士

今日のメッセージは、今読みましたようにヨハネによる福音書からお話ししたいと思います。ヨハネによる福音書はヨハネという名前の人によって指導されていた教会で書かれたものです。書かれた時期は1世紀の末ごろと考えられています。そのころのヨハネ教会の人々の様子が今読みましたところにもよく現れています。
1) 18節に「『しばらくすると』と言っておられるのは、何のことだろう。何を話しておられるのか分からない。」とあるように、彼らは「分からない」という不安の中にありました。よく、キリスト教はむずかしい、わかりにくいという人がありますが、初代教会の人々も分からなかったのです。その点では安心していいのです。初代教会の人々も分からなかったのですから、わたしたちにとってむずかしいのは当然だと考えてください。ヨハネの教会の人々は19節にあるように、いくら論じあってもわかりませんでした。この「論ずる」という言葉はまた「求める」とも訳することができることばです。かれらは論じ合ったけれども分からない。求めたけれども、与えられない、得られない、その焦燥感の中にあったのです。
2) この分からない事が次には「悲しみ」になってきます。20節。いくら論じ合っても分からない。求めても得られないと、はじめは怒ります。次に深い悲しみになってきます。相手の言う事がわからないということは相手と言う人そのものがわからないということです。こちらのいうこともわかってもらえない、自分をわかってもらえない、悲しみです。相手から切り離された、相手と関係がなくなった悲しみと不安です。
3) 21節。ここでは悲しみは苦痛になると言われています。ヨハネの教会の人々は外側からはユダヤ教によって迫害される苦痛の中にありました。しかしそれ以上に大きかったのが内面の苦痛、苦しみでした。かって自分達が人生の杖とも頼んだイエスさまが、最早よく分からなくなってしまった苦しみ、悲しみの中にあったのです。
(これはメッセージの冒頭部分です。)


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by hachimejibap | 2018-12-15 12:50 | メッセージ

テーマ 賛美
聖書 詩編 8編 1~10節
2018年11月11日      主日礼拝                牧師 左右田 理

 賛美とは神の“みわざ”に圧倒されることです。森羅万象が“みわざ”として迫り全身全
霊が楽器のように打ち鳴らされます。(2節) そしてすべてが“みわざ”として迫るとき、自
分(の力)で生きているのではなく、生かされていることに気づかされます。賛美は、神に
生かされているという実感です。生かされているという実感を全身全霊で受けとめてい
るのは乳飲み子、幼子です。おとなになるに連れ、生かされているという実感が失われ
ていきます。賛美とは乳飲み子、幼子をかたち造る霊に満たされつつ、生かされている
恵みが実感せしめられる出来事です。復活の力です。賛美を捧げるとき、すでに神の国
に生きているのです。(3節a、マルコ10:35)
 生かされていることに気づいたなら、“生きること(存在)がゆるされている”という感謝、
喜びで満たされます。さらにその感謝と喜びが満ち満ちて、あふれ出るなら、森羅万象
にまで、そのゆるしが満ちることを祈ります。森羅万象というからには自分を悲しませる
ような存在、苦しめるような出来事も含まれでしょう。賛美は、自分を悲しませ、苦しめる
相手も自分と共にその存在がゆるされていくこと、共に生かされていくことを喜び、祈り、
感謝する力となるのです。(3b~4節、マタイ5:44~45、1テサロニケ5:15~18)
 賛美は、人が神より少し低いものとして造られ、神の威光の冠にあずかり、森羅万象
を治める存在とされている恵みを思い起こさせてくれます。(6節) 森羅万象を治めると
いう人の威光については、神の子イエス・キリストが十字架の栄光を指し示してください
ました。(マタイ18:4、23:11、20:28)  羊や牛が、野の獣が、空の鳥、海の魚、海路を渡る
ものが養われるよう、人が身を低くして仕え、命を捧げていくところに神の威光が満たさ
れ、天の冠が授与されるのです。(7~10節) 主を賛美せよ!
 やがて世界は一つになります。世においてもっとも低くされた主、十字架に上げられた
イエス・キリストのもとにあらゆるものが、天も地もすべてが集められるのです。その救
い(エフェソ1:10)を共に賛美するために。十字架の主のもとでは、あらゆる合否、比較優劣
を生むルールが廃棄され、あらゆる敵対関係が無効となるでしょう。すべてがキリストの
もとでゆるされた存在、生かされている存在として和解し、一つになるのです。「…天に
おられるわたしたちの父よ、御名が崇められますように。」(マタイ6:9)


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by hachimejibap | 2018-12-15 12:40 | メッセージ

苦しめる者を前にしても

テーマ 賛美
聖書 詩編 23編 1~6節
2018年11月4日      主日礼拝                牧師 左右田 理

 クリスマス・シーズンまであとわずかとなりました。クリスマスのルーツは春を待ち望む
北欧の宗教儀式だったと言われます。クリスマス物語には天使たちが野宿する羊飼い、
および羊の群れに救い主誕生が告げられる場面がありますが、12月末に野宿などした
ら羊飼い(人間)も羊の群れも凍死の危機です。キリストの福音がユダヤ地方から北欧
に伝道されていった際、日照時間がほとんど無くなり暗く凍てつく冬に春の光を待ち望
む北欧の宗教儀式が人々の希望でした。そこで伝道者が永遠の春の光として世の救い
主キリストを証ししたのがクリスマスの始まりだったのではないでしょうか。そして本日の
聖書箇所も、春の光を待ち望む多くの人々にとって希望となったかも知れません。
 「【賛歌。ダビデの詩。】主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。」(1節) 聖書
において救いの民は羊の群れに例えられます。.羊は方向音痴で臆病だと言われていま
す。驚くとすぐに浮き足だって道から逸れ、戻ってこられなくなると。しかし羊飼いの声を
聞き分ける能力には秀でていて救われると。同じように、救いの民は神の声、神の言葉
によって確かな方向性を得るのです。(マタイ11:15、13:9、13:43、マルコ4:9、4:23、7:16、ルカ
8:8、14:35) 本日の聖書箇所はダビデの詩です。ダビデは絶望の闇の中でも、救いの
方向性は“人知を越えた明日”だということを聞き分けていました。(サムエル下12:13~23)
 詩編でダビデの詩と銘打たれている一連の詩は22編に続くかたちで本日の23編が位
置しています。しかし22編はまるで地獄の責め苦の描写のようにも見えます。地獄の責
め苦のような描写に続いて春の光を思わせる23編が位置するというのも不思議です。
ただ22編後半には春の光を予感させる描写もあります。(詩22:27~28,31~32参照) 春の
光の予感…それは地獄の底にこそ証しされる“人知を越えた明日”だったのではないで
しょうか。
 「わたしを苦しめる者を前にしても/あなたはわたしに食卓を整えてくださる。わたしの
頭に香油を注ぎ/わたしの杯を溢れさせてくださる。」(5節) わたしたちの羊飼いである
主イエスは、自分を苦しめる者と共にも食卓を囲む“明日”に備えよ、と招いておられる
のではないでしょうか。(ルカ6:27) 苦しみの闇が深ければ深いほど、“人知を越えた明
日”に招く主をひたすら信じ、賛美しましょう。(6節、1テサロニケ5:15~18)



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by hachimejibap | 2018-12-15 12:30 | メッセージ

栄光をお受けになるとき

テーマ 召天
聖書 マルコによる福音書 10章 35~45節
2018年10月28日   召天者記念礼拝              牧師 左右田 理

 子どもの頃、天国は高いところにあって、光り輝いているイメージでした。“栄光”と聞
けば高みからまわりを見下ろせるような場所のような気がしていました。実際、小学校
の運動会であれオリンピックであれ、一等賞の人は表彰台の一番高いところに立ちま
す。主イエスの弟子たちも主が世の救い主、神の栄光に満ちたお方であることを信じ、
きっと高みを目指して主に付き従っていたのでしょう。だから本日の聖書箇所でも二人
の弟子が、主が栄光をお受けになるとき、その両脇に立ちたいとコッソリ頼み込んでい
るのではないでしょうか。出し抜かれた弟子仲間は怒ります。高みを目指すことで争い
が生じてしまうなら、天国に行くということは、果たしてまわりを見下ろせるようなところに
登ることなのでしょうか。
 世の救い主の栄光に近く立ちたいなら、主イエスの杯を受け、主イエスのバプテスマ
を受ければ良いのです。(マルコ1:9~12、14:36) それは十字架の苦難に向かう主の道へ
招かれるということです。十字架の主の道は、その時代、その社会から無用なものとし
て排除されていく命の傍らに立つ道でした。十字架の主の苦難は、世において低くされ
ていく命の隣人として立ち続ける苦難でした。(43~44節) そのような苦難の道の完成者
としての栄光こそ、十字架の主の栄光でした。
 もし十字架の主の栄光が世に満ちたら世界は平和になります。争いはありません。あ
るのは、ひたすら無償の愛です。天国は報いを求めない愛で満ちています。しかしその
ような栄光に誰が入りたがるでしょうか。(38節) 十字架を前にして弟子たちは逃げ出し
ます。弟子仲間を出し抜いてでも主の近くを求めた二人の弟子も。出し抜かれたことを
怒った残りの弟子たちも。すべての人が十字架の主の栄光に背を向けました。
 しかし十字架の主の栄光は、主を見捨てて逃げ去った者たちが贖われる(買い戻され
る)ための“身代金”でした。(45節) それは買い戻された者たちの中に、復活の主が生
きるためでした。“高み”に囚われていた者たちが買い戻され、世において低くされた者
たちの傍らに仕えていく群れが起こされていく…それは教会の目標であり、十字架の主
の栄光が成就した天国の姿です。十字架を仰ぐ礼拝に立ち帰るとき、先に天に召され
た方々が互いに仕え合う姿に私たちが連なる明日が見えてきます。(マルコ10:26~27)


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by hachimejibap | 2018-12-15 12:20 | メッセージ

わたしがお前に代わって

テーマ 命の主
聖書 サムエル記下 19章 1~9節
2018年10月14日      主日礼拝                牧師 左右田 理

 謀反を起こして父親であるダビデの王位を奪い、さらにダビデを殺そうとしていたアブ
サロム…けれどもダビデに忠義を尽くした家来の手によってついにアブサロムは殺され
ました。謀反人成敗の報を受けてダビデは叫びます、「わたしの息子アブサロムよ、わ
たしがお前に代わって死ねばよかった(1節)」。仲間たちを守るため命を賭して戦った部
下たちの勝利を祝うことよりも、裏切り者の死を嘆き悲しむことに身を捧げていくダビデ
…それが神の国の王でした。(7節、マタイ5:43~44)
 “わたしがお前に代わって死ねば良かった”…この 嘆きは、かつて わが子が自分の
罪のゆえに死んでしまったという“命の負い目”が、いまだダビデの中を貫いていること
を表しているのではないでしょうか。(サムエル下12:23~14) “命の負い目”に貫かれている
者にとって身内、仲間内の歓喜は、愛する者がそこにいないという自責の念が呼び覚ま
させる引き金になるだけのことでしょう。そして“命の負い目”のただ中にある魂は“和解
の完成としての再会”へ招いてくれる和解の福音に捕らえられ、敵と味方、生と死、あら
ゆる“隔ての壁”を越えていこうと苦しみもがくのでしょう。(エフェソ1:10,2:14~16,18参照)
 しかし敵の死を嘆くということは、味方の労苦、犠牲に対する冒涜です。(6節) 敵の命
を尊ぶなら味方が敵になります。しかし福音は、たとえ昨日の味方が今日の敵になるこ
とがあろうとも、敵を愛するよう招いているのではないでしょうか。(ルカ12:51~53) 家来 ヨ
アブは、このままではダビデがひとりぼっちになってしまうと警告をします。(8節) しかし
この時点で、実質的にダビデは身のまわりを不信感で取り囲まれていたのではないでし
ょうか。もう すでにひとりぼっちだったのではないでしょうか。霊的に、十字架の主のも
とへすでに招き入れられた者として。
 ダビデはヨアブの忠告に従って立ち上がり、味方の前にその姿を現します。(9節) と
はいえ、つい先ほどまで味方を意気消沈させていたのです。全面的な信頼を集めるに
はほど遠かったでしょう。すでに昨日の味方が今日の敵となっていたのではないでしょう
か。しかし、だとすれば新たに和解の福音が始まっているのではないでしょうか。昨日
の味方が今日の敵になったからこそ、新たに出会うのです。もはや死ぬためではなく、
“わたしがお前に代わって、お前たちの分までも、和解の福音に生きるために。”


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by hachimejibap | 2018-12-15 12:10 | メッセージ

テーマ 命の主
聖書 サムエル記下 12章 13~23節
2018年10月7日      主日礼拝                牧師 左右田 理

 小学校時代に「一生のお願い」という言葉が流行ったことがありました。命を引き替え
にしても良いくらい大切なお願いという意味だそうです。当時おとなたちは、何回分の人
生を引き替えにしてきているんだ、と笑っていましたが…本日、ひたすら断食するダビデ
はまさに、一生のお願いをしているのではないでしょうか。自分のせいで息子が死んでし
まう…どうか赦してください…家来たちにはダビデが自らの命を引き替えにするくらいの
祈願をしているのがわかっていたことでしょう。だとしたら、その子どもが亡くなったこと
を伝えたら、ダビデは自ら命を絶ってしまうのではないか…(18節) しかしダビデは子の
死を知ると立ち上がり礼拝へ、そして食卓へと向かうのでした。(20節)
 家来たちは不思議に思ったことでしょう。どうしても かなえて欲しい願いだったのでは
ないのか?(21節) かなえられないからと、すぐにあきらめ、気分を切り替えられるよう
な簡単な願いだったのか?しかしダビデの応え(22~23節)は、あきらめとは違ったのでは
ないでしょうか。「かなえてもらいたいからこそ、今を、最善を尽くして前進するのだ。あ
の子と再会する明日に向けて」。受け入れられない過去を取り戻すこと、やり直すことは
できません。しかし命の主を仰ぎ従う者は、自分の弱さ、愚かさを受けとめてもらう明日
へ招かれていきます。この子の死後、サムエル記、列王紀においてダビデは覇気が無く
なり、衰えていきます。惨めさをさらすためだけに生き続けているかのような印象さえ受
けます。それは、わが子に詫びるための再会のみが、ダビデにとって明日に向かう唯
一の希望だったからなのかも知れません。
 しかし惨めさをさらし続けたダビデの後半生を命の主、歴史の主は、決して無駄で終
わらせませんでした。.逆に、後生の希望とされたことが聖書によって証しされています。
(詩編51:1,2,12,14,15,19,21) とくにキリストの福音においては あらゆる弱さ、愚かさがす
べて後生に向けて生かされるのです。(ローマ8:28、2コリント12:10) パウロも大伝道者にな
る前は教会に対する大迫害者でした。しかしキリストのしもべになってからは迫害を甘ん
じて受け、苦難の中にこそ、キリストと共に生きているという喜びが満ちあふれているこ
とを身をもって証しし続けました。(1コリント4:9) 私たちも自分の弱さ、愚かさを通してキリ
ストの多くの実りを携えて死後の再会に向かいましょう。


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by hachimejibap | 2018-12-15 12:00 | メッセージ

大切なこと

テーマ 教会学校
聖書 ガラテヤの信徒への手紙 6章 11~18節
2018年9月30日    教会学校月間  主日礼拝        牧師 左右田 理

 本日の聖書箇所で伝道者パウロは、大切なのは新しく創造されることだ(15節)と訴え
ています。ではパウロ自身は、どのように創造されていると自覚していたのでしょうか。
パウロにとって新しく創造されるとは、イエスの焼き印を身に受けることだったのではな
いでしょうか。(17節) 当時、焼き印とは家畜や奴隷の印でした。自分が厚遇される印で
はなく、他者が厚遇されるために“仕える印”でした。(マルコ10:42~45) 日頃、この大切な
ことを教会学校は共有できているでしょうか。
 大切なこと…とくに主イエスにとってそれは神の御前に他者が贖われる身代金として、
自らが献げられていくことでした。(マルコ10:45) イエスは十字架で処刑されていく犯罪者
たちのただ中に自らを献げました。この世で邪魔者とされる者たちが神の子の一人とし
て贖われるために、彼らの真ん中にお立ちになったのです。.復活には「直立させる」とい
う意味もあるそうですが、十字架の主は世から排除されていく者たちのただ中において
まさしく復活の主でした。教会の群れはこのようなお方に仕えていくため贖われたので
す。教会学校はこの大切なことを共有できているでしょうか。
 大切なこと…パウロにとってそれは十字架のイエスを主と仰ぐことでした。主イエスと
出会うまでのパウロは、当時のイスラエル宗教国家、ユダヤ教社会においてエリート街
道をまっしぐらでした。(フィリピ3:4~7) しかし苦難のイエスと出会い、イエスを主として仕え
ていくことこそが何にも代え難い大切なこととなったのです。(2コリント11:23~29) 私たちは
世の誘惑に抵抗しなければなりません。まわりから後ろ指を指されたくない、迫害された
くない、まわりから認められたい、また少しでも高く評価されたい…十字架の主以外に
誇らしい何かが心を支配し始める…ここに律法主義、割礼主義の問題があります。(12
~14節) 律法主義の問題を通して、十字架の主イエスを仰ぐことの大切さを、教会学校
は絶えず共有していく必要があるのではないでしょうか。
 パウロにとって困難、苦難は煩わしさではなかったはずです。逆に、苦難の主を誇りと
する生き方を妨げるような誘惑こそが煩わしかったのでしょう。(17節) 「わたしたちを誘
惑に遭わせず、悪い者から救ってください。」(マタイ6:13) 「わたしたちの主イエス・キリス
トの恵みが、あなたがたの霊と共にあるように」(18節)


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by hachimejibap | 2018-10-04 14:20 | メッセージ

みんなで歌おう!共に話そう!そして一緒に祈ろう! 〒193-0833 東京都八王子市めじろ台2-15-2 ℡.042-663-7036


by hachimejibap