八王子めじろ台バプテスト教会

hachimejib.exblog.jp
ブログトップ

カテゴリ:メッセージ( 217 )

神の愛が私たちの心に

テーマ 愛
聖書 ローマの信徒への手紙 5章 3~11節
2018年7月22日    主日礼拝              牧師 左右田 理

 “苦難”(3節)とは迫害です。キリストを主と信じ、従うがゆえに受ける攻撃です。しかし
伝道者パウロによればその被害は“誇り”となります。その被害が大きければ大きいほ
ど、豊かな誇りとなっていきます。それは苦難の中でこそ神の愛が豊かに、私たちの心
に注がれるからです。(5節) 苦難の中で私たちの心の中に豊かに描き出され、映し出
されてくる愛…それは十字架の愛でしょう。(ガラテヤ3:1、6:12) 苦難が大きければ大きい
ほど主の十字架が自分に対する神の愛の迫りとして心に映し出され、描き出されてくる
…被害に遭っている自分はどれほど主イエスに近い存在とされていることか…誇りと喜
びに満ちてくる…これは伝道者パウロの生涯にわたる原体験と言えましょう。
 とはいえ苦難は いきなり誇りとはなりません。苦難から忍耐、忍耐から練達、そして練
達から希望が生み出されてくる過程で誇りとなっていくのではないでしょうか。(4節) そ
して希望は私たちを裏切らない、とパウロは断言します。(5節) この希望も愛の場合と
同様、十字架の希望でしょう。十字架の希望の第一段階は、神の忍耐から始まります。
主を裏切り、いわば信仰を捨てた弟子たちを愛し、受け入れた神の側の忍耐です。(ルカ
22:31~32) 信じない者たちをなお愛し、受け入れた忍耐です。この愛が私たちの心に注
がれているなら、信仰の有無などあらゆる違いに囚われることなくあらゆる命を愛し、迎
えようとする神の忍耐が私たちの内にも宿るでしょう。(6~8節)
 十字架の希望の第二段階は、神の“実証”から始まります。(“練達”は“実証”とも訳せ
る新約聖書ギリシャ語) 主は十字架から降りて反逆の民を成敗するようなことはなく(マ
タイ26:52~54)、神は十字架の主の死の向こうに復活の希望を実証してくださいました。そ
れはあらゆる敵意を愛へと招き入れるキリストの明日です。(マタイ5:43~44) この愛が私
たちの心に注がれているなら、世がキリストから義を賜わり、神の怒りから救われ、神と
和解する明日を信じる信仰で私たちは練達されていくことでしょう。(9~10節)
 そして十字架の希望の最終段階は、ひたすら世の救いを希望してくださる主によって
成就します。(ヨハネ12:47) それは相手の非を問うことなく和解の可能性のみを問う愛で
す。(2コリント5:19) この愛が私たちの心に注がれているなら、与え尽くして報われなかっ
た生涯を全うされた主こそ自分たちの生きる喜び、生きる誇りとなるのです。(11節)


[PR]
by hachimejibap | 2018-07-22 13:00 | メッセージ

希望は揺るぎません

テーマ 希望
聖書 コリントの信徒への手紙 二 1章 3~7節
2018年7月15日    主日礼拝              牧師 左右田 理

 希望を抱くことができれば(7節)、多くの苦しみに耐え、また乗り越えることができます。
初代教会以来、キリスト教会は主イエスの十字架を福音の中心として受け、告げ広めて
きました。しかし当初、主の十字架は、弟子たちにとって紛れもなく絶望のしるしでした。
それは“すべてが無駄になる予感”と言えましょう。決して裏切らないという舌の根も乾か
ないうちに、弟子たちが主を十字架に置き去りにし、見殺しにしたのも、十字架に掛けら
れていく“無駄死にイエス”に希望を見いだせなかったからでしょう。にもかかわらずキリ
スト教会は復活のみを福音とせず、十字架を福音として告げ広めてきたのはなぜだっ
たのでしょうか。
 初代教会の慰め(3節)…それは迫害が激しくなる時代の慰めだったでしょう。そしてそ
れは当初、復活後、昇天された主が再臨してくださるという希望だったでしょう。(使徒1:9
~11) しかしなかなか主の再臨は起こりませんでした。(2ペテロ3:4) さらには復活の希望
を無駄呼ばわりする声すらあがり始めていたようです。(1コリント15:12) 苦難を耐え忍ぶ
ための希望がどんどん揺さぶられ、“無駄”、“無意味”という失望が洪水のように押し寄
せていた時代…初代教会時代は、慰めを見失った人々が教会を去っていく後ろ姿に執
り成しの祈りを捧げる時代でもありました。(2テモテ4:9~10,16) こうして再臨、復活の慰め
が霞んで見えなくなっていく時代に、それでもなお、彼らが慰めの最後の拠り所として見
上げ続けたのが主の苦難の十字架だったのではないでしょうか。(ガラテヤ3:1)
 神は、あらゆる苦難に際してわたしたちの傍らに主の十字架を指し示して慰めてくださ
るので、わたしたちも神からいただくこの十字架の慰めによって、あらゆる苦難の中に
ある人々を慰めることができます。(4節) 人は自らの人生に“無駄”を見るとき失望しま
す。しかしクリスチャンは自らの人生に“無駄”を見るときこそ希望の始まりです。無駄、
無意味という言葉に押し潰されている世の人々と広くつながり、一つになる希望がある
からです。“無駄”、“無意味”という苦難、苦悩においてあらゆる人々と一つになってい
く、決して ひとりぼっちにさせない、ここに福音宣教の希望があります。(5~7節)
 “無駄”、“無意味”に覆われた生き様を世は“弱い”と見下すでしょう。しかし“無駄死
にイエス”を仰ぎ見るとき、弱いときにこそ強いのです。(2コリント12:7~10)


[PR]
by hachimejibap | 2018-07-19 18:00 | メッセージ

舟に乗って向こう岸へ

テーマ 信仰
聖書 マルコによる福音書 8章 11~21節
2018年7月8日    主日礼拝              牧師 左右田 理

 当時の指導者たちの“パン種”…それは、どんどん膨れあがっていく何か悪いもの…
マタイによる福音書にある並行記事では、“パン種”は当時の“教え”です。(マタイ16:12) 
しかし本日のマルコによる福音書では、主イエスが「悟れ」とおっしゃって終わりです。な
らば私たちも悟らなければならないでしょう。“パン種”とは“教え”なのか、だとしたら“教
え”とは何なのか…
 主イエスは弟子たちに“パン種”について注意喚起する直前、指導者から“天からのし
るし”を要求されていました。(11節) 主イエスの賛美と感謝の祈りにより、わずかな食
べ物が大勢の人々の空腹を満たしたという不思議な出来事(マルコ6:42、8:8)は、指導者
にとって“天からのしるし”とは関係なかったのです。天からのしるしとは神からの証拠で
あり、神の裁きです。指導者たちは“自分たちよりもおまえの方が正しいという証拠を出
してみろ”と主イエスに挑戦していたのでしょう。しかし神の裁きを比較優劣、隔ての壁(エ
フェソ2:14)として決めつけているなら、天からのしるしは無いのです。(12節)
 主イエスは指導者たちを後にして、向こう岸へ渡ります。(13節) しかし舟の上でも弟
子たちは、パンを準備していなかったことが悪かったのかと、自分たちの善し悪しに囚
われているのです。(16節) 主は弟子たちを叱責します。主の共食により、わずかな食
べ物で多くの人の空腹が満たされたとき、パンを持っていたか否かなどは何ら問題にな
らないことは一目瞭然だったではないか、と。(17~21節) 主との共食には、人が“持って
いる”、“持っていない”をはるかに越えた恵みの しるし があったのではないでしょうか。
古今東西、社会的な条件、資格などを“持っている”、“持っていない”によって、比較優
劣、合否など隔ての壁が四方八方に張り巡らされてきています。けれども主の食卓は、
“持っていない”ところにこそ無限の恵みが実現する天からのしるしだったのではないで
しょうか。<イエスは言われた、まだ悟らないのか。>
 主の不思議な共食で集まった五千世帯、また四千世帯もの人々は、主と向き合うた
めに集まった人々です。主の食卓ではお互いの素性、社会的条件、資格を知る必要な
どありません。主を仰ぐ場や主の食卓で出会った人々はすべて、救い主の祝福のもと
にあることを子どものように信じれば良いのですから。(マルコ10:13~16)


[PR]
by hachimejibap | 2018-07-19 17:30 | メッセージ

一緒にいた者たちにも

テーマ 救い
聖書 マルコによる福音書 2章 23~28節
2018年7月1日    主日礼拝              牧師 左右田 理

 救われるために何をすべきか、してはならないのか…イエスの時代、異教国家の支配
下にあったイスラエルの指導者たちは、社会不安を治めるべく救いの合否の線引き(戒
め、生活規定)に躍起になっていたようです。しかし、その細かい規定に引っかかった弟
子たちの食事作法(23節)について主イエスは言うのです、“旧約時代の英雄ダビデだっ
て、供の者たちと掟破りの共食(26節)をしたではないか”と。ここで興味深いことは、主
イエスは弟子たちの聖書的正当性を訴えたわけではなく、さらにはその頃ダビデは命が
けの逃亡中だったわけで、供の者などいなかったということです。(サムエル記上21章参照)
主イエスが…いや福音書の書記者が間違ってしまったのでしょうか?しかし本日、私た
ちはここから聖霊の言葉を聴きたいのです。
 その掟破りな共食は実際にはなかったとしても、やがて“供の者たち”がダビデのまわ
りに集まってきたことは真実です。(サムエル上22:1~2) 身内以外では困窮する者、負債の
ある者、不満を持つ者…また ならず者もいたようです。(サムエル上30:22) たしかにダビ
デの食卓はその顔ぶれからして掟破りだったようです。しかし主イエスはそのような食
卓にこそ神の安息を見ていたのではないでしょうか。弟子たちの食事作法についても聖
書的な“正当性”を越えて、共食そのものに神の安息があることを証しされたかったので
はないでしょうか。
 救いは神の安息です。当時の指導者は安息日の規定に奉仕する人に神の安息があ
ると考え、安息日規定の他にも多くの掟を掲げることで民を救いに導けると考えたので
しょう。しかし主イエスは安息日が人の救いのために奉仕することを宣言し(27節)、掟に
合う、合わないを越えて多くの人々と積極的に食卓を囲み(マルコ2:15)、またそれが食事
作法にかなうか かなわないかを越えて、弟子たちの食事そのものを慈しみをもって肯
定されました。
 食卓を囲む主こそ安息日の主です。(28節) 教会がまだ見ぬ人々と積極的に食卓を
囲もうとするならそこにはすでに神の安息が訪れ、救いはすでに成っているのではない
でしょうか。「御国が来ますように。御心が行われますように、天におけるように地の上
にも。わたしたちに必要な糧を今日与えてください。」(マタイ6:10~11)


[PR]
by hachimejibap | 2018-07-19 17:00 | メッセージ

イエスが歩まれたように

テーマ 神の愛
聖書 ヨハネの手紙 一 2章1~11節
2018年6月24日    主日礼拝              牧師 左右田 理

 「自分が正しい」という宣言は、孤立宣言になりかねない危険な賭です。初代教会時
代、神の高みに達する者のみが救われるという神秘思想が蔓延し始めていました。(グ
ノーシス主義) しかし、もし「自分は正しい」という意識に生きようとするなら“正しい方”
の弁護(1節)に背を向けることになるでしょう。なぜなら“正しい方”の弁護とは、犯罪者
たちの真ん中に降り立った十字架の主による弁護だからです。
 神の高みに近づくなら、問答無用の清さに近づくはずです。そのために気をつけなけ
ればならないことは、人間関係でその清さが傷つけられ、損なわれてしまうことです。で
すから神の高みに達しようとする人には出会い、対話に限界が生じます。たとえば否定
的感情(悲しみなど)を肯定的感情(喜びなど)へ悔い改めることのできない人などとの対
話、出会いに限界が来るのです。しかし先日、「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きな
さい。(ローマ12:15)」について北島協力牧師とお話ししていたとき、当時は迫害の嵐の中
で誰かと出会えること自体が喜びだったのではないか、ということを教わりました。愛す
る者の命を奪われ泣き続ける人との出会いそのものが喜びだったのではないか…
 主イエスは歩まれました。(6節) その歩みの先で出会った人々は、徴税人、遊女と呼
ばれ社会的に敬遠され続けていた人々でした。(マルコ2:15) 彼らの魂は涙を流し続けて
いたことでしょう。しかし主イエスは彼らをご自分の家族と呼んだのです。(マルコ3:31~34) 
だとしたら、一般社会において身の置き所の無い、そのような悲しみを抱えた人々のも
とへ歩み寄り、共に涙し、神の家族と呼びかけることを何よりの喜びとする…ここにキリ
ストのからだと呼ばれるにふさわしい、教会の歩みがあるのではないでしょうか。(6節) 
 日本バプテスト連盟に加盟する諸教会は昨日、沖縄の日(命どぅ宝の日)をどのように
覚えたのでしょうか。私たちは沖縄の悲しみにどれほど寄り添えているのか…いや、寄
り添ったのは私たちの方ではなかったはずです。東日本大震災の傷み、痛みに沖縄バ
プテスト連盟の皆さんは いち早く寄り添ってくださったのですから。(日本バプテスト連盟
七十年史 p.351より) “兄弟を愛する光”(10節)は沖縄の方から私たちにすでに届けら
れています。その光に応えるまで私たちは兄弟を憎む闇の中にいますが(11節)、応える
ときには、全世界の罪を償う弁護(1~2節)は私たちをも満たしてくれることでしょう。


[PR]
by hachimejibap | 2018-07-19 16:30 | メッセージ

光の中を歩むなら

テーマ 神の愛
聖書 ヨハネの手紙 一 1章1~10節
2018年6月17日    主日礼拝              牧師 左右田 理

 “光”の中を歩むとは喜びに満たされることです。(4節) しかし、これは単に人々の喜
びではありません。神と人との喜びです。神はご自分だけの喜びで満足するお方ではな
く人々が内輪で喜ぶことを放置するお方でもありません。神と人との喜びのために命の
主キリストが世に現れました。(3~4節) ここに神の愛があります。(4:9) ヨハネの手紙が
執筆された頃、神の高みに達することを救いとする神秘思想が蔓延し始めていたようで
す。(ex.グノーシス主義) しかし救い主キリストは人々の間に降り立ち、人々との触れ合
いに身を捧げました。(1節) 初代教会はここに まことの救い、神の愛を見たのです。
 “光”の中を歩むとは交わりに生きることです。(7節) 初代教会のその交わりについて
伝道者パウロは、世の比較優劣を問い直し、世の価値観に再考をうながすために神は
キリスト者を選び集め、イエスの十字架に現れた神のみを誇りとする群れとしてくださっ
たと証しします。(1コリント1:25~29) だとしたら教会の交わりによって照らし出されるべき真
理は、“世の比較優劣、価値観によって排除され、見過ごされている命であればこそ、
神が愛してくださっている”ということでしょう。“光”の中を歩むとは世の評価から遠ざけ
られた命に耳を傾け、向き合っていく、そのような触れ合いに生きることです。(1節)
 “光”の中を歩むとは闇の中を歩んでしまっている罪を告白することです。(9節) 罪と
は殺されゆく犯罪者たちの中にお立ちになった十字架の主を見捨てた不義、世の評価
において軽んじられた命を見捨てながら生きながらえている不義です。しかしその罪を
公に言い表すなら闇から“光”へとすでに清められています。“光”の中を歩むとは闇の
中の“光”に生きるということです。(ヨハネ1:5,3:19) ここに闇の中を歩んでしまっていなが
らも“光”の中を歩ませていただくという人知を超えた救い、神の愛があります。
 日本バプテスト連盟諸教会はこれから、6/23“沖縄の日(命どぅ宝の日)”、8月“平和月
間”に向かいます。その時代、その社会において見過ごされている命に寄り添いきれな
い罪を公に告白し、それらの命から表れる十字架の主の うめきにくり返し耳を傾け、再
び出会い触れ合うことのできる明日を共に祈り求めましょう。この祈りを“光”の主は喜
んでくださいます。“光”の主の喜びを自分たちの喜びとするとき、私たちは光の中を豊
かに歩んでいるのです。


[PR]
by hachimejibap | 2018-07-19 16:00 | メッセージ

人々が満腹したとき

テーマ 悔い改め
聖書 ヨハネによる福音書 6章1~15節
2018年6月3日    主日礼拝              牧師 左右田 理

  本日の聖書箇所は、いわゆる“五千人の共食”の物語です。新約聖書の四福音書
すべてに並行記事があります。しかし本日はヨハネによる福音書の特徴的な部分から3
点を意識したいと思います。
 A.捧げる 
 この物語は、わずかなパンと魚が主イエスの祝福により“男”五千人を満腹させるに
至ったという描写です。女性、未成年など成人男性以外の存在が軽んじられていた当
時の社会的現実がこの物語にも映し出されています。そして他の福音書では五つのパ
ンと二匹の魚の提供者は不明です。ところがヨハネによる福音書では、主イエスの祝福
に向かって捧げた人物が描かれています。無駄呼ばわりのただ中でパンと魚を捧げた
少年です。(9節) これは物語“ナルドの香油”の女性マリアに通じる姿です。(ヨハネ12:3~8) 
 B.少しも無駄にならないように 
 「…残ったパンの屑を集めなさい」(12節)…この主イエスの言葉を“モノ”を大切に有効
活用しましょう、と解釈するなら、物語“ナルドの香油”のマリアは失格者になってしまうで
しょう。(ヨハネ12:3) しかし主イエスは、人の目に無駄なことをこそご自分の葬りの備えと
して肯定されるお方でした。(ヨハネ12:7~8) そこには需要と供給に役立たない捧げもの(ヨ
ハネ12:5)を無駄と見なさない、また見なさせまいとする救い主の意志を感じます。本日の
聖書箇所で人々は満腹しています。少年にとって精一杯だったであろう捧げもの…しか
し人々は忘却の彼方に葬り去っていくであろう捧げもの…だからこそパンの屑を集めさ
せ、その無駄こそが祝福となったことを証ししたかったのではないでしょうか。
 C.人々の王(庇護者、保護者)となることを拒む
 “今の充実”を守る庇護者、保護者を欲する民心(ヨハネ6:26)に主は応えません。(15節)
命の主の御旨である“終わりの日の復活”に応えます。(ヨハネ6:38~39) それは他者を生
かすために捧げられた命に、十字架の主の栄光が満ちあふれる日です。(ヨハネ6:54、12:
23~25) 私たち教会は自分たちの庇護者、保護者としてのイエス像を葬り、復活の主と
他者(後生)との出会いのためにすべてを捧げていく群れとして、絶えず新しい明日、新
しい出会いに向け、共に前進していきましょう。


[PR]
by hachimejibap | 2018-06-03 13:00 | メッセージ

わたしたちの言葉で

テーマ:聖霊降臨
聖書: 使徒言行録2:1~13
2018年5 月27 日                協力牧師 北島靖士

降臨祭またはペンテコステといいまして、クリスマス、イースター、復活
祭と並んで、キリスト教の3大祭りと言われるものの一つです。
聖霊とは何でしょうか。よく精霊や妖精や幽霊などと間違えられます。結
論からいうと、キリスト教の神さまは三位一体の神さまであることはご存
知のことと思いますが、三位は位格(ペルソナ)と言いまして父、子、聖霊
を指します。この三位が一体であるということです。信仰の内容を理解し
てもらうために「信仰問答」というものが使われました。1543年にドイツ
のハイデルベルグというところで作られた信仰問答書には次のように書か
れています。
第53問 聖霊についてあなたは何を信じていますか。
答  え 第一は聖霊が父と子同様に永遠の神であられるということを信
じます。第二に聖霊はわたしにも与えられており、真の信仰によってわた
しにキリストとキリストのすべての恵を与え、わたしを慰め、永遠に至る
まで、わたしの許に留まってくださる方であることを信じます…とありま
す。
―どうでしょうか。これで聖霊についておわかりいただけたでしょうか。
あるいはますますなんだかわからなくなったという方もあるかもわかりま
せん。
大事なことは聖霊とは永遠に至るまで、わたしのもとに留まってくださる
神さまであるということです。
父なる神さまはわたしたちの上に(ON)おられてわたしたちの歩みを導
いてくださる神さまですが、目に見ることはできません。 
子なるイエス・キリストはわたしたちの(かたわに)BESIDE居られる神さ
まですが、十字架、復活ののちに天に帰られました。 
聖霊なる神さまはわたしたちの中に(IN)住まわれる神さまで、わたした
ちの内に永遠にとどまってくださるのです。 3節に「留まった」とあると
おりです。しかし、留まるというときに何か、いつまでもよどんで動かな
いもののように考えるならそれはあやまりです。炎は燃える時、一瞬もじっ
とはしていません。絶えず動き、激しく形を変えますね。聖霊とはそのよう
にダイナミックな動きがあるものなのです。
第2に聖霊がわたしたちに与えられる時、どんなことがおこるかということ
です。
(これはメッセージの冒頭部分です。要約ではありません。)


[PR]
by hachimejibap | 2018-05-27 13:00 | メッセージ

あなたがたのためになる

テーマ 賛美
聖書 ヨハネによる福音書 16章5~11節
2018年5月20日    主日礼拝              牧師 左右田 理

 その昔、私は大人の方に尋ねました。「復活したイエスさまは、なぜ居なくなってしまっ
たのか」。本日の聖書箇所で、その問いに対して主イエスご自身がお応えくださっていま
した。“あなたがたのためになる”から…(7節) ヨハネによる福音書は新約聖書の四福
音書の中で最も後代に執筆された書と言われています。“あなたがたのためになる”か
ら…これは生前のイエスの言葉というよりは、主から遣わされた聖霊なる神の言葉だっ
たのではないでしょうか。(14:16~17a) イエス・キリストの名のゆえに迫害が激しくなって
いくただ中に訪れた聖なる“弁護”は、初代教会にとってさぞや大きな励ましだったことで
しょう。神が弁護してくださる…これこそ殉教を前にしてなおクリスチャンたちの唇からあ
ふれ出た祈り、そして賛美の原動力だったことでしょう。
 待ち望んでいた主の再臨のないまま、初代教会は世から裁かれ、排除され、死に別
れが繰り返されました。しかし初代教会はそのような悲惨な死に別れのただ中に聖霊
の“弁護”を聴きました。“十字架のイエスこそ昇天の主、神の栄光、神の右に座したも
う主”(使徒7:55~60)…この聖霊の“弁護”こそが初代教会を支える信仰告白であり賛美
でした。罪とは、世から裁かれ排除されていく者たちのただ中にこそ命の主が降り立っ
てくださるという十字架の救いを信じないことです。(9節) 義とは、主の昇天を喜ぶこと
によって(14:28)地上の保護者イエスを見なくなることです。(10節、17:12,13a) 裁きとは、
裁く側の安定が滅ぼされるということです。(11節、フィリピ2:6~11) 聖霊の弁護に反撃、復
讐はありません。なぜなら聖霊の弁護は“抗弁”ではなく“賛美”だからです。
 主の復活はその再会によって賛美する人々の間に起こされた出来事です。その再会
に至るまでは悲しみに満たされていた人々の間に起こされた出来事です。(6節) だとし
たら別れの悲しみがどれほど繰り返されても、初代教会はそのたびごとに復活を保証す
る聖霊の弁護として賛美の言葉を受け、その賛美がますます満ちあふれたのではない
でしょうか。聖霊による賛美の群れは知っていたのです。十字架に上げられ悲惨な別れ
を世に証しされた主こそ天に昇り神の栄光に座し、世から裁かれ排除されし者たちを贖
う主であることを。「御国が来ますように。御心が行われますように、 天におけるように
地の上にも。」(マタイ6:10) 賛美は“あなたがたのために成る”のです。


[PR]
by hachimejibap | 2018-05-22 13:20 | メッセージ

テーマ 賛美
聖書 使徒言行録 3章1~9節
2018年5月13日    主日礼拝              牧師 左右田 理

 新約聖書には、身体的、精神的ハンディを負った人たちが、周囲からの施しで生きて
いた現実が描かれています。欧米などの“貧しい者に施すことは富める者の務め”とい
うチャリティー精神の歴史的起源を、当時のイスラエル社会に見ることもできましょう。
(箴言28:27) そしてハンディによって貧しさの中にある人々にとってそれは、施しを受け
ることは当然の権利だということを意味するでしょう。だとしたら本日の聖書箇所で身体
的ハンディを癒された人は施しを受ける社会的権利を失ったことになります。本日の聖
書箇所で賛美は、“してもらう権利”の終わりとともに始まるのです。
 では賛美を通して、いったい何が始まるのでしょうか。“躍り上がって立ち、歩き出す”
のです。どこに向かって?主の名によってこの世で裁かれる者の側に連なる場に向か
って。そして十字架の主こそ癒しの主であることを証しする場に向かって。(使徒4:14)
賛美は癒しをもたらすと同時に、十字架の苦難の主へ招きでもあるのでしょう。この点
については福音書からも聴きましょう。使徒言行録の前編に位置するルカによる福音
書(ルカ1:3、使徒1:1)では、人知を越えた招きとして、十字架の苦難の主に向かう歩みが
描かれています。(ルカ23:26) 側近の弟子たちの固い決意でも、十字架の苦難の主に従
うことは全うできなかったわけですが、神の招きが、人の服従を成就させてくれたのでは
ないでしょうか。(ルカ9:23) ここに賛美があります。本日の聖書箇所で癒された人も期せ
ずして、主の名によってこの世で裁かれる者の側に迎え入れてもらったように。
 賛美への招きは神のみわざとして始まり、神のみわざとして成就します。そしてそれは
“してもらう権利”を持たない外国人が招き入れられる癒しでもあります。その国、その
社会、その共同体のルールで裁かれてしまいやすい よそ者が招き入れられる癒しでも
あるのです。(ルカ17:17~18) 初代教会は賛美がもたらすその癒しを受けるために、同胞
ユダヤ人の特権意識(安息日規定、割礼主義)から解放され、“してもらう権利”、“救わ
れる資格”を持たない者たちを覚える異邦人伝道に向けて“躍り上がって立ち、歩き出
した”のでしょう。賛美は満足、安住ではありません。十字架の主の招きに応える歩み
です。その歩みのただ中で味わう幸いです。(使徒20:35) 私たちも主の招きに応える幸
いをもって大いに賛美しましょう。


[PR]
by hachimejibap | 2018-05-19 17:30 | メッセージ

みんなで歌おう!共に話そう!そして一緒に祈ろう! 〒193-0833 東京都八王子市めじろ台2-15-2 ℡.042-663-7036


by hachimejibap