八王子めじろ台バプテスト教会

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2018 クリスマス

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# by hachimejibap | 2018-12-15 13:30 | 教会からのお知らせ

テーマ 主を待ち望む
聖書 使徒言行録 16章 6~10節
2018年12月9日    アドベント(待降節)第二主日礼拝     牧師 左右田 理

 今はクリスマスを待ち望むアドベント(待降節)…しかし聖書の時代に生きていた人々
は、自分たちが誰を待っているのか、いったい誰と出会うことになるのか、さっぱりわか
っていませんでした。“アドベント”は、(キリスト、救い主の)“出現”、“到来”という意味で
すが、関連語に“アドベンチャー”があります。古くは“未知の存在に近づくこと”という意
味で、現代では“危険な冒険”という意味になっています。アドベントは本来、ただ恒例の
年中行事として巷を彩るイルミネーション、クリスマス・ツリー、サンタグッズでは出会うこ
とのできない何かを待つときなのではないでしょうか。
 本日の聖書箇所で伝道者パウロは、新しい出会いを求めて旅をしています。それでも
直前の聖書箇所では、出会いに備えて下準備をしていたようにも見えます。伝道方針の
違いによる仲間割れを経て(15:39~40)、出会いが受け入れられるにはどうしたら良いの
か、伝道者パウロの葛藤、試行錯誤がにじみ出ているような気がします。(16:1~3) いよ
いよ出会いが実を結ぶことを期待して出発…ところが本日の聖書箇所、行く先々で伝道
が妨げられます、聖霊、イエスさまによって。その地方のユダヤ人のご機嫌を損ねない
よう取り組んだせっかくの下準備も実を結ぶことはなかったのです、神によって。
 すでに申しましたように、アドベント(待降節)とアドベンチャー(危険な冒険)は関連語で
す。主を待ち望むところでは、人としての情緒、都合、好みをすりあわせて平穏無事を
かたちづくろうとする道がことごとく閉ざされていくのでしょう。替わりにまだ見ぬ地での
出会い、あらかじめ根回しなどできない うめき、叫び(9節)とへ招かれていくのでしょう。
主を待ち望むとは、待ちぼうけではありません。未知なる出会いにこそ福音が実ること
を信じ、絶えず向こう岸へ渡る決断です。(10節)
 パウロが向こう岸に渡ったことで何が起こったのか…福音が前進したのです、パウロ
の身に降りかかった苦難を通して。(フィリピ1:12~14) すなわち十字架の苦難の主の言葉
が神の力(1コリント1:18)として“到来”、“出現”したのです。主を待ち望む私たちは、身内、
仲間内では味わうことのなかったような困難な対話へ招かれることでしょう。それでもな
お、十字架の言葉を携えて、より広い出会いを祈り求めましょう。未知なる対話にこそ十
字架の言葉による神の力が、豊かに“到来”、“出現”するのですから。


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# by hachimejibap | 2018-12-15 13:20 | メッセージ

テーマ 主を待ち望む
聖書 使徒言行録 27章 13~15,23~26,33~38節
2018年12月2日    アドベント(待降節)第一主日礼拝     牧師 左右田 理


 救い主のご降誕を祝うクリスマスを待ち望む一ヶ月、すなわちアドベント(待降節)。本
日はそのアドベント第一主日です。救いの訪れを待ち望むときは、弱々しく膝を抱え込
み、うずくまるようなときではありません。なぜなら“雄々しく、心を強くせよ”と招かれて
いるときだからです。(詩編31:25) 本日の聖書箇所には、暴風と闇が支配する海上で、
絶望が支配している難破船で、「食卓を囲んで元気を出そう」と呼びかける伝道者パウ
ロの姿が描かれています。まだ一寸先が闇の時点で。本日は、クリスマスを待ち望むア
ドベントに際し、当教会が心すべき救いのメッセージを共に求めましょう。
 本日の招詞(箴言4:25~26)は、先月天城で開催された日本バプテスト連盟第64回定期
総会のテーマ聖句です。当教会も加盟している日本バプテスト連盟は今、嵐の中を進ん
でいるのかも知れません。先の総会では、加盟する諸教会の教勢低下が顕著な昨今、
数値的低下に対する対策を正面から取り上げようという声があがった一方で、正面から
向き合うべきは数値なのか、という問いもありました。いずれにせよ従来の考え方、生
き方にあぐらをかいている場合ではない、という点では、皆が一致していたように思えま
す。そして本日の招詞“目をまっすぐ前に注げ”を拠り所にしつつ議論を重ねたのです。
 本日の聖書箇所には、総会最後の閉会礼拝の聖書箇所が含まれています。メッセン
ジャーは言いました、追い風だけでなく逆風もまた、神の風、神の霊としての働きだった
のではないか、と。(13~15節) 少なくともパウロはそのように、前向きに受けとめていた
のではないでしょうか。そして逆風をも神の霊の働きとして受けとめる秘訣は、暴風吹き
すさぶ闇を前にしても、神からの使命に対してまっすぐ耳を澄ましていく生き方にあるの
ではないでしょうか。(24~25節)
 神からの使命に耳を澄ましていくとき、人としての気分、思惑から解放されます。人とし
ての気分、思惑に囚われている隣人を主の食卓へ招きます。「どうぞ何か食べてくださ
い。…一同の前でパンを取って神に感謝の祈りをささげてから、それを裂いて食べ始め
た。そこで、一同も元気づいて食事をした。」(34~36節) 救いを待ち望むなら、主の食卓
を囲みましょう。招き合いましょう。神からの使命にまっすぐに向き合おうとする食卓から
は、暗闇の逆風を軽やかに進む群れが生まれるのです。(38節)


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# by hachimejibap | 2018-12-15 13:10 | メッセージ

鹿が水を求めるように

テーマ 賛美
聖書 詩編 42編 1~12節
2018年11月25日      主日礼拝                牧師 左右田 理

 旧約聖書に登場する鹿はカモシカ類と言われます。そしてイスラエル文化においては
“美”の形容詞的な存在でもあったようです。(雅歌2:9、3:5) 神の民が憧れる生き物だっ
たと言えましょう。しかし本日の詩編に描かれる鹿の姿に、いったい誰が憧れるというの
でしょうか。渇きを癒すために涸れた谷をさまよっている鹿の姿…人々の目には死を間
近にした絶望的な生き様として映るのではないでしょうか。もちろん、ここでの鹿の姿は
神を慕い求める姿としての比喩です。(2~3節) 絶望的なまでの渇き…救いの民、神の
民とは、神を慕うその求め方が絶望的なまでの渇きとなっている群れを指しているので
はないでしょうか。神の民に見られる究極的な美は賛美する姿です。そして賛美とは本
来、いわゆる満腹満足としての楽しみ、喜びとはまったく異なるのではないでしょうか。
 主イエスは飢え渇きを、その乏しさ、悲しみを神の幸いとして証しされました。(ルカ6:20~
26) それは人から来る幸いではありません。神の幸いを受ける者にとって人から来るも
のとは、「神から見捨てられた者、忌み嫌われた者」という蔑み、罵りのたぐいでしかな
いことでしょう。(4、11節) 主イエスが証しする幸いによれば、神の幸いは、“人から来る
幸い”に対する絶望から生まれます。そして賛美は神の幸いの中にあります。だとしたら
賛美もまた、“人から来る幸い”に対する絶望から生まれることでしょう。(ルカ6:24~26)
 先にも申しましたように、神を慕うその求め方が絶望的なまでの渇きとなっている群れ
が神の民だとすれば、彼らは具体的に何を求め続けるのでしょうか。それは礼拝賛美
に満ちた群れです。礼拝賛美の喜びに満ちた群れを、魂を注ぎ出すほどまでに、ひたす
ら思い起こそうとするのです。(5節) けれども救いの民がくり返し堕落の民となったこと
は聖書的現実です。(ルカ6:24~26) それは礼拝賛美に満ちた群れを思い起こそうとすれ
ばするほど、うなだれてしまう救いの民の歴史的現実です。(6節) それゆえに神の民は
礼拝堂をはみ出して広く神を慕い求めます。森羅万象すべてに、昼夜を問わず、神の
御顔を尋ね求めます。(6~9節) 
 私たち教会の民は、神の御顔を知っています。それは十字架に掛けられた主イエス・
キリストの御顔です。十字架の叫びの主こそ“人から来る幸い”の絶望を証しする御顔で
す。(マルコ15:29~34) 鹿が水を求めるように、十字架の主を共に慕い求め賛美しましょう。


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# by hachimejibap | 2018-12-15 13:00 | メッセージ

悲しみが喜びに変わる

テーマ:悲しみ、喜び  
聖書:ヨハネによる福音書16:16~24
2018年11 月18 日                  協力牧師 北島靖士

今日のメッセージは、今読みましたようにヨハネによる福音書からお話ししたいと思います。ヨハネによる福音書はヨハネという名前の人によって指導されていた教会で書かれたものです。書かれた時期は1世紀の末ごろと考えられています。そのころのヨハネ教会の人々の様子が今読みましたところにもよく現れています。
1) 18節に「『しばらくすると』と言っておられるのは、何のことだろう。何を話しておられるのか分からない。」とあるように、彼らは「分からない」という不安の中にありました。よく、キリスト教はむずかしい、わかりにくいという人がありますが、初代教会の人々も分からなかったのです。その点では安心していいのです。初代教会の人々も分からなかったのですから、わたしたちにとってむずかしいのは当然だと考えてください。ヨハネの教会の人々は19節にあるように、いくら論じあってもわかりませんでした。この「論ずる」という言葉はまた「求める」とも訳することができることばです。かれらは論じ合ったけれども分からない。求めたけれども、与えられない、得られない、その焦燥感の中にあったのです。
2) この分からない事が次には「悲しみ」になってきます。20節。いくら論じ合っても分からない。求めても得られないと、はじめは怒ります。次に深い悲しみになってきます。相手の言う事がわからないということは相手と言う人そのものがわからないということです。こちらのいうこともわかってもらえない、自分をわかってもらえない、悲しみです。相手から切り離された、相手と関係がなくなった悲しみと不安です。
3) 21節。ここでは悲しみは苦痛になると言われています。ヨハネの教会の人々は外側からはユダヤ教によって迫害される苦痛の中にありました。しかしそれ以上に大きかったのが内面の苦痛、苦しみでした。かって自分達が人生の杖とも頼んだイエスさまが、最早よく分からなくなってしまった苦しみ、悲しみの中にあったのです。
(これはメッセージの冒頭部分です。)


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# by hachimejibap | 2018-12-15 12:50 | メッセージ

みんなで歌おう!共に話そう!そして一緒に祈ろう! 〒193-0833 東京都八王子市めじろ台2-15-2 ℡.042-663-7036


by hachimejibap