人気ブログランキング | 話題のタグを見る

栄光をお受けになるとき

テーマ 召天
聖書 マルコによる福音書 10章 35~45節
2018年10月28日   召天者記念礼拝              牧師 左右田 理

 子どもの頃、天国は高いところにあって、光り輝いているイメージでした。“栄光”と聞
けば高みからまわりを見下ろせるような場所のような気がしていました。実際、小学校
の運動会であれオリンピックであれ、一等賞の人は表彰台の一番高いところに立ちま
す。主イエスの弟子たちも主が世の救い主、神の栄光に満ちたお方であることを信じ、
きっと高みを目指して主に付き従っていたのでしょう。だから本日の聖書箇所でも二人
の弟子が、主が栄光をお受けになるとき、その両脇に立ちたいとコッソリ頼み込んでい
るのではないでしょうか。出し抜かれた弟子仲間は怒ります。高みを目指すことで争い
が生じてしまうなら、天国に行くということは、果たしてまわりを見下ろせるようなところに
登ることなのでしょうか。
 世の救い主の栄光に近く立ちたいなら、主イエスの杯を受け、主イエスのバプテスマ
を受ければ良いのです。(マルコ1:9~12、14:36) それは十字架の苦難に向かう主の道へ
招かれるということです。十字架の主の道は、その時代、その社会から無用なものとし
て排除されていく命の傍らに立つ道でした。十字架の主の苦難は、世において低くされ
ていく命の隣人として立ち続ける苦難でした。(43~44節) そのような苦難の道の完成者
としての栄光こそ、十字架の主の栄光でした。
 もし十字架の主の栄光が世に満ちたら世界は平和になります。争いはありません。あ
るのは、ひたすら無償の愛です。天国は報いを求めない愛で満ちています。しかしその
ような栄光に誰が入りたがるでしょうか。(38節) 十字架を前にして弟子たちは逃げ出し
ます。弟子仲間を出し抜いてでも主の近くを求めた二人の弟子も。出し抜かれたことを
怒った残りの弟子たちも。すべての人が十字架の主の栄光に背を向けました。
 しかし十字架の主の栄光は、主を見捨てて逃げ去った者たちが贖われる(買い戻され
る)ための“身代金”でした。(45節) それは買い戻された者たちの中に、復活の主が生
きるためでした。“高み”に囚われていた者たちが買い戻され、世において低くされた者
たちの傍らに仕えていく群れが起こされていく…それは教会の目標であり、十字架の主
の栄光が成就した天国の姿です。十字架を仰ぐ礼拝に立ち帰るとき、先に天に召され
た方々が互いに仕え合う姿に私たちが連なる明日が見えてきます。(マルコ10:26~27)


by hachimejibap | 2018-12-15 12:20 | メッセージ

〒193-0833 東京都八王子市めじろ台2-15-2 ℡.042-663-7036  礼拝(日)AM10:00~12:10              祈り会( 水曜日 午前10時~11時20分


by hachimejibap