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まだ席があります

テーマ 悔い改め
聖書 ルカによる福音書 14章 15~24節
2018年8月12日    平和月間  主日礼拝          牧師 左右田 理


 主イエスが証しする神の国(ご支配)に幸いを見る人たちは少なくない、しかし、実際に
その御国に入ろうとする人は少ない…本日の聖書箇所で主は世の不可解を指摘されて
いるのではないでしょうか。主と食卓を囲む人が聴き取った幸い(15節)は、12~14節にあ
るとおりです。返礼を求めない食卓、すなわち無償の愛による交わりは、復活の希望に
満ちた神の国です。なんと幸いなことでしょう。にもかかわらず、人がその食卓に背を向
けてしまうとすれば、それはどういうことなのでしょうか。
 本日の聖書箇所で主の食卓、神の国の食卓は宴会に例えられます。当然ご馳走も
用意されていたことでしょう。しかし招待客は一様に断るのです。ここにはこの世の繁
栄、安定を求めるとき、神の国の宴会に対する期待、感謝が失われてしまうという真理
が証しされているのではないでしょうか。(18~20節) 神の国の宴会は当時、世の繁栄、
安定に向かう希望を持っていなかった人々、その社会、その共同体で“身の置き所の
無い人々”に開かれていきます。(21節)
 この世で身の置き所の無かった人々が、方々で招かれていきます。広場、路地、通
り、小道…(21,23節) 街中でも何事かと、ひとしきり注目されるような騒動だったことで
しょう。しかし“僕”は言うのです。「まだ席があります」。(22節) 先の招待客は、なぜ思
い直して宴会に来なかったのでしょうか。冒頭で申しましたように、神の国の交わりが無
償の愛の交わりであることを称賛した人(12~15節)に対する応答として、本日の例え話が
語られていることに留意したいと思います。そこには、身の置き所の無い人への施しは
好んでも、彼らと同席し並ぶこと(同じ扱いを受けること)は嫌うという、罪の世に生きる
人の“本性”が指摘されているのではないでしょうか。
 宴会の主人による最後の言葉(24節)を冷たい断罪宣告として聴くのか、“まだ席があ
る”ことが伝わらないもどかしさ、歯ぎしりせんばかりの口惜しさ、救い主の飢え渇きとし
て聴くのかは、聞き手(読み手)に委ねられていると思います。(ルカ8:8,8:18,6:37) 神の
国の幸いは神の平和です。平和月間に際し当教会も連盟諸教会と共に、“まだ席があ
る”ことを、すなわち世で身の置き所の無い人々と“共に”生き、“共に”歩むところにこそ
神の平和が成ることを、身をもって証しし、世に告げ広めていきましょう。(エフェソ2:17)




by hachimejibap | 2018-09-06 14:00 | メッセージ

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