希望は揺るぎません
2018年 07月 19日
テーマ 希望
聖書 コリントの信徒への手紙 二 1章 3~7節
2018年7月15日 主日礼拝 牧師 左右田 理
希望を抱くことができれば(7節)、多くの苦しみに耐え、また乗り越えることができます。
初代教会以来、キリスト教会は主イエスの十字架を福音の中心として受け、告げ広めて
きました。しかし当初、主の十字架は、弟子たちにとって紛れもなく絶望のしるしでした。
それは“すべてが無駄になる予感”と言えましょう。決して裏切らないという舌の根も乾か
ないうちに、弟子たちが主を十字架に置き去りにし、見殺しにしたのも、十字架に掛けら
れていく“無駄死にイエス”に希望を見いだせなかったからでしょう。にもかかわらずキリ
スト教会は復活のみを福音とせず、十字架を福音として告げ広めてきたのはなぜだっ
たのでしょうか。
初代教会の慰め(3節)…それは迫害が激しくなる時代の慰めだったでしょう。そしてそ
れは当初、復活後、昇天された主が再臨してくださるという希望だったでしょう。(使徒1:9
~11) しかしなかなか主の再臨は起こりませんでした。(2ペテロ3:4) さらには復活の希望
を無駄呼ばわりする声すらあがり始めていたようです。(1コリント15:12) 苦難を耐え忍ぶ
ための希望がどんどん揺さぶられ、“無駄”、“無意味”という失望が洪水のように押し寄
せていた時代…初代教会時代は、慰めを見失った人々が教会を去っていく後ろ姿に執
り成しの祈りを捧げる時代でもありました。(2テモテ4:9~10,16) こうして再臨、復活の慰め
が霞んで見えなくなっていく時代に、それでもなお、彼らが慰めの最後の拠り所として見
上げ続けたのが主の苦難の十字架だったのではないでしょうか。(ガラテヤ3:1)
神は、あらゆる苦難に際してわたしたちの傍らに主の十字架を指し示して慰めてくださ
るので、わたしたちも神からいただくこの十字架の慰めによって、あらゆる苦難の中に
ある人々を慰めることができます。(4節) 人は自らの人生に“無駄”を見るとき失望しま
す。しかしクリスチャンは自らの人生に“無駄”を見るときこそ希望の始まりです。無駄、
無意味という言葉に押し潰されている世の人々と広くつながり、一つになる希望がある
からです。“無駄”、“無意味”という苦難、苦悩においてあらゆる人々と一つになってい
く、決して ひとりぼっちにさせない、ここに福音宣教の希望があります。(5~7節)
“無駄”、“無意味”に覆われた生き様を世は“弱い”と見下すでしょう。しかし“無駄死
にイエス”を仰ぎ見るとき、弱いときにこそ強いのです。(2コリント12:7~10)