人気ブログランキング | 話題のタグを見る

一緒にいた者たちにも

テーマ 救い
聖書 マルコによる福音書 2章 23~28節
2018年7月1日    主日礼拝              牧師 左右田 理

 救われるために何をすべきか、してはならないのか…イエスの時代、異教国家の支配
下にあったイスラエルの指導者たちは、社会不安を治めるべく救いの合否の線引き(戒
め、生活規定)に躍起になっていたようです。しかし、その細かい規定に引っかかった弟
子たちの食事作法(23節)について主イエスは言うのです、“旧約時代の英雄ダビデだっ
て、供の者たちと掟破りの共食(26節)をしたではないか”と。ここで興味深いことは、主
イエスは弟子たちの聖書的正当性を訴えたわけではなく、さらにはその頃ダビデは命が
けの逃亡中だったわけで、供の者などいなかったということです。(サムエル記上21章参照)
主イエスが…いや福音書の書記者が間違ってしまったのでしょうか?しかし本日、私た
ちはここから聖霊の言葉を聴きたいのです。
 その掟破りな共食は実際にはなかったとしても、やがて“供の者たち”がダビデのまわ
りに集まってきたことは真実です。(サムエル上22:1~2) 身内以外では困窮する者、負債の
ある者、不満を持つ者…また ならず者もいたようです。(サムエル上30:22) たしかにダビ
デの食卓はその顔ぶれからして掟破りだったようです。しかし主イエスはそのような食
卓にこそ神の安息を見ていたのではないでしょうか。弟子たちの食事作法についても聖
書的な“正当性”を越えて、共食そのものに神の安息があることを証しされたかったので
はないでしょうか。
 救いは神の安息です。当時の指導者は安息日の規定に奉仕する人に神の安息があ
ると考え、安息日規定の他にも多くの掟を掲げることで民を救いに導けると考えたので
しょう。しかし主イエスは安息日が人の救いのために奉仕することを宣言し(27節)、掟に
合う、合わないを越えて多くの人々と積極的に食卓を囲み(マルコ2:15)、またそれが食事
作法にかなうか かなわないかを越えて、弟子たちの食事そのものを慈しみをもって肯
定されました。
 食卓を囲む主こそ安息日の主です。(28節) 教会がまだ見ぬ人々と積極的に食卓を
囲もうとするならそこにはすでに神の安息が訪れ、救いはすでに成っているのではない
でしょうか。「御国が来ますように。御心が行われますように、天におけるように地の上
にも。わたしたちに必要な糧を今日与えてください。」(マタイ6:10~11)


by hachimejibap | 2018-07-19 17:00 | メッセージ

〒193-0833 東京都八王子市めじろ台2-15-2 ℡.042-663-7036  礼拝(日)AM10:00~12:10              祈り会( 水曜日 午前10時~11時20分


by hachimejibap