イエスが歩まれたように
2018年 07月 19日
テーマ 神の愛
聖書 ヨハネの手紙 一 2章1~11節
2018年6月24日 主日礼拝 牧師 左右田 理
「自分が正しい」という宣言は、孤立宣言になりかねない危険な賭です。初代教会時
代、神の高みに達する者のみが救われるという神秘思想が蔓延し始めていました。(グ
ノーシス主義) しかし、もし「自分は正しい」という意識に生きようとするなら“正しい方”
の弁護(1節)に背を向けることになるでしょう。なぜなら“正しい方”の弁護とは、犯罪者
たちの真ん中に降り立った十字架の主による弁護だからです。
神の高みに近づくなら、問答無用の清さに近づくはずです。そのために気をつけなけ
ればならないことは、人間関係でその清さが傷つけられ、損なわれてしまうことです。で
すから神の高みに達しようとする人には出会い、対話に限界が生じます。たとえば否定
的感情(悲しみなど)を肯定的感情(喜びなど)へ悔い改めることのできない人などとの対
話、出会いに限界が来るのです。しかし先日、「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きな
さい。(ローマ12:15)」について北島協力牧師とお話ししていたとき、当時は迫害の嵐の中
で誰かと出会えること自体が喜びだったのではないか、ということを教わりました。愛す
る者の命を奪われ泣き続ける人との出会いそのものが喜びだったのではないか…
主イエスは歩まれました。(6節) その歩みの先で出会った人々は、徴税人、遊女と呼
ばれ社会的に敬遠され続けていた人々でした。(マルコ2:15) 彼らの魂は涙を流し続けて
いたことでしょう。しかし主イエスは彼らをご自分の家族と呼んだのです。(マルコ3:31~34)
だとしたら、一般社会において身の置き所の無い、そのような悲しみを抱えた人々のも
とへ歩み寄り、共に涙し、神の家族と呼びかけることを何よりの喜びとする…ここにキリ
ストのからだと呼ばれるにふさわしい、教会の歩みがあるのではないでしょうか。(6節)
日本バプテスト連盟に加盟する諸教会は昨日、沖縄の日(命どぅ宝の日)をどのように
覚えたのでしょうか。私たちは沖縄の悲しみにどれほど寄り添えているのか…いや、寄
り添ったのは私たちの方ではなかったはずです。東日本大震災の傷み、痛みに沖縄バ
プテスト連盟の皆さんは いち早く寄り添ってくださったのですから。(日本バプテスト連盟
七十年史 p.351より) “兄弟を愛する光”(10節)は沖縄の方から私たちにすでに届けら
れています。その光に応えるまで私たちは兄弟を憎む闇の中にいますが(11節)、応える
ときには、全世界の罪を償う弁護(1~2節)は私たちをも満たしてくれることでしょう。