八王子めじろ台バプテスト教会

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喜びが満たされるため

テーマ 神の友
聖書 ヨハネによる福音書 15章11~17節
2017年9月24日(フレンズディ)    主日礼拝        牧師 左右田 理


 イエス様の友は一方的なイエス様からの選びです。(16節) イエス様の友は神の友と
されます。(9節) 本日の聖書箇所からは、神の しもべに過ぎないはずの者が、イエス
様の方から、すなわち神の方から“一方的に喜んで”友にしてもらえるという特権的恵
みを聴くことができます。そして友から見捨てられ、十字架で殺されていくイエス様の友
となるとき、自らも友から見捨てられる定めと向き合うことになるけれども(19~21節)、
そのときこそ“他の誰でもないイエス様によって選ばれている”という喜びが豊かに実り、
神の栄光として捧げられていくのです。(5、8、25節)
 しもべであれば主人の願いを知らなくとも“言いなり”で生きていくこともできましょう。
しかし友は相手の願い、目標等を弁え知るのです。(15節) もし私たちが神の友なら、イ
エス様の目標、行き着く先へ共に前進することは自然です。(ヨハネ19:28,30) ただここに
興味深いことがあります。ヨハネによる福音書では、イエス様がその傍らで十字架に掛
けられている者たちと声掛けなどして関わる描写がありません。ただ排除、孤立、そして
殺されゆく者たちの真ん中に立つだけです。(19:18) イエスの友、神の友として生きると
いうことは、裁く側としての立場を誰かに奪い返してあげるというような活躍ではありませ
ん。裁かれる側、排除される側、殺される側に踏みとどまる忍耐です。(13節)
 私たちが神の友として選ばれるということは神が必要としてくださっているということで
す。神の必要に応えて生きるということです。そして神から派遣された先々で出会う人々
の友となるのです。しかしイエス様の十字架を仰ぐとき、神から必要とされているというこ
とと貢献する(何かの役に立つ)ということとはまったく異なるということが明らかです。十
字架の群れの真ん中に立ったイエス様を主と仰ぎつつその十字架の群れに連なるよう
神はあらゆる命を招いておられるに違いありません。
 裁かれるより裁く側へ、排除されるより排除する側へ、殺されるより殺す側へという誘
惑に負け続けてきた人類の歴史…それはイエス様を中心にした十字架の群れに対する
無限の負い目です。しかし神は今も変わらず十字架“群”へ私たちを招き続けます。こ
こに神の愛、神の赦しがあります。私たちも互いに十字架“群”へ招き合いましょう。そ
こにこそ愛の掟(12節)、イエス様の喜び(11節)が豊かに実り、神の栄光が成るのです。


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by hachimejibap | 2017-09-30 20:30 | メッセージ

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