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何を議論していたのか

テーマ 教会
聖書 マルコによる福音書 9章30~37節
2017年7月16日      主日礼拝              牧師 左右田 理

 人が議論をするとき、往々にして何が正しいのかということがテーマです。どういう考え
方、どういう行いが正しいのかがテーマとなります。そしてそれは自分たちのうち、その
正しさに近い“偉い人は誰か(34節)”という比較優劣へ誘惑されることもあります。並行
記事であるマタイ18:1~5 ではこのことについて弟子たちがイエス様に直接尋ねる描写に
なっていますが、本日の34節、およびルカ9:46~48 では尋ねるどころか口を閉じるしかな
かったようです。主の十字架の預言に対し、弟子でありながら怖くて何も尋ねられなかっ
た自分たちの弱さに直面させられた直後ということもあり(32節、ルカ9:45)、自己肯定に飢
え渇きながら、さぞや心苦しい沈黙だったことでしょう。
 わかっちゃいるけど やめられない…昔懐かしの流行語ではありませんが、ついつい
人は自分の“偉さ”探しをしてしまいます。それは単なる自己肯定ではなく、他者に対す
る自己優位性探しであり“見下し”です。せっかく十字架の主を信じたのに、信じていな
い人は天国へ入れない人種として論じてしまうのです。(ローマ10:6~8) 何しろイエス様と
共に歩んでいた弟子たちですら陥っていた誘惑なのですから…ここで突然イエス様は不
思議な宣言をします。当時の封建的宗教社会において子どもとは“想定外”をもたらす
半人前でした。しかしイエス様はそのような“想定外”な存在を受け入れる者こそ、救い
主イエスを遣わした神を、人知を越えた神を受け入れる者だと宣言したのです。(37節)
すなわちそれは社会的ルール、常識においては“偉い”どころか見下されている命と共
に生きるところにこそ神の国があるという宣言に他ならないでしょう。(ルカ17:20~21) イエ
ス様は弟子たちにこの世の比較優劣を越えた自己肯定を証しするのです。
 古今東西、国籍や人種、さまざまな違いが差別、排除の根拠とされてしまったのも、自
己肯定がこの世の比較優劣に基づいていたからです。社会や共同体に“想定外”をもた
らす存在が警戒されたり、敵視されたりしてきたのも、自己肯定が家内安全商売繁盛の
上に成り立ってきたからです。しかし初代教会は十字架の主を誇りとしました。(1コリント1:
18,30) それはあらゆる比較優劣、敵意から解放された自己肯定であり、他者肯定の
無限の広がりです。十字架の言葉によって肯定された存在として他者と出会い、他者と
共に死に、他者と共に生きる群れとして教会は全世界へ遣わされていくのです。


by hachimejibap | 2017-07-26 12:00 | メッセージ

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