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救いは近づいている

テーマ 十字架の希望
聖書 マタイによる福音書 24章29~35節
2017年4月9日      受難週消火礼拝           牧師 左右田 理

 本日の聖書箇所は、イエス様が世界的規模での苦難を予告している描写の一部分と
して見ることができます。しかしイエス様はことさらに人々を悲観的な思いに突き落とす
ために、それをお語りになったわけではありません。その点、かつて一世を風靡したノス
トラダムスの大予言とは逆なのです。いちじくの木の成長が夏の到来を告げるように、
その苦難が深刻であればあるほど、主の来臨が近い希望であると、イエス様は励まし
てくださっています。(32~33節) とくに本日の聖書箇所は、並行記事(ルカ21:25~33)に比
べ、天変地異の描写のただ中に主の来臨が描かれています。日本にも“バチが当た
る”などという残念な言葉もありますが、マタイは、苦難を救いから見放されてしまって
いる証拠と見なす世の“誤解”を解きたかったに違いありません。
 イエス様のエルサレム入場を大歓迎した群衆が、一週間も経たずにイエス様を十字
架に置き去り、見殺しにしたのはなぜか…それは苦難の中に救いなどあるはずがない
という“誤解”が世を支配していたことと無関係ではないでしょう。そのような誤解によ
る支配は聖書が指摘する罪であり、霊的な病です。しかし聖書はそのような人々の弱さ、
愚かさをただ突き詰めていって断罪するようなことはしません。替わりに救い主に対す
る“負い目”を意識させることを通して、神との関係性を再発見させてくれるのです。そ
れは“主の祈り”にある赦しの支配としての関係性です。「わたしたちの負い目を赦して
ください、 わたしたちも自分に負い目のある人を 赦しましたように。」(マタイ6:12)
 本日の聖書箇所で、主の来臨を仰ぎ見て流される世界中の涙は、自分たちの罪、霊
的病であるところの弱さ、愚かさ、虚しさをただ嘆いて終わりません。(30~31節) それは
自分たちの弱さ、愚かさ、虚しさのただ中に降り立ってくださった主に対する感謝の涙と
なり、主のもとへ招き寄せられる世界中の人々の嬉し涙となるのです。なぜそのように
言い切れるのでしょうか。それはキリストの約束の言葉だからです。たとえ天地が滅び
ようとも決して滅びることのない十字架の言葉だからです。(35節、1コリント1:18) 私たち
の罪、霊的病のために十字架の苦難の死に来臨してくださった主イエスこそ、永遠の命
の希望です。この受難週消火礼拝を通して、見殺しにした私たちを永遠に赦してくださ
った十字架の主を共に仰ぎ、共に永遠の命の希望を受けましょう。(ゼカリヤ12:10)
by hachimejibap | 2017-04-22 15:30 | メッセージ

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