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殺されるが、三日目に復活する

テーマ 救い
聖書 マタイによる福音書 17章22~23節
2017年1月29日       主日礼拝            牧師 左右田 理

 イエス様ご自身がそうであったように、イエス様の弟子たちの多くも、ガリラヤ出身で
した。本日の聖書箇所も、お里帰りの場面として見ることもできましょう。故郷というこ
とで私が思い出すのが、詩人の室生 犀星(ムロオ サイセイ)です。「ふるさとは遠きにありて思ふ
もの/そして悲しくうたふもの/よしや/うらぶれて異土(いど)の乞食(かたい)となると
ても/帰るところにあるまじや」 本日の聖書箇所でも、イエス様の死の予告は、お里帰り
の懐かしさどころか、穏やかな気分など ぶちこわしにしてしまうような、不吉な響きをも
って弟子たちを悲しませたのではないでしょうか。(23節)
 このイエス様の死の予告は、すでに2回目として記されていますが、並行記事(マルコ9:
30~32、ルカ9:43b~45)では、弟子たちがイエス様の死の予告に怯え、それを受けとめ切
れない様子が描かれています。しかしマタイでは、弟子たちは怯えではなく、悲しんでい
ます。悲しむということは、受けとめつつあると言えましょう。並行記事に比してマタイ
では、イエス様の死の予告を弟子たちが受けとめつつあります。一つ、考えられることは
マタイが、1回目の予告の際に起きた出来事(マタイ16:21~23)が、2回目の際の弟子たち
に悔い改めをもたらし始めていたと、理解していた可能性があるということです。“イエ
スは振り向いてペトロに言われた。「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする
者。神のことを思わず、人間のことを思っている。」”(マタイ16:23)
 十字架の救い、その御計画を前にして、弟子たちにできる最善は、悲しむことでした。
しかし、主の十字架と向き合うところに起こされる悲しみは、復活の希望となるのです。
(23節) 人知を越えた幸いによって慰められるのです。(マタイ5:4) 救いとは、十字架の主
を仰ぐところに起こされる悲しみを、しっかり受けとめることです。マタイにおいて、こ
こでの弟子たちの悲しみこそが、復活の希望です。
 私たち人類には人知を越えた救いとして、神の救いの約束、すなわち復活の希望が
与えられています。信仰生活の報いは、ひたすら復活の希望です。この世をひたすら愛
し、すべてを私たちに与え尽くした後に、裏切られ、殺されていった まことの救い主イ
エス・キリストを共に見上げつつ、みことばに対して全身全霊を耳にしつつ、共に前進
していきましょう。(ヘブライ11:13~16)
by hachimejibap | 2017-02-14 13:20 | メッセージ

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