神の偉大な業を
2016年 06月 09日
テーマ :聖霊
聖書 使徒言行録 2章1~13節
2016年5月15日 ペンテコステ礼拝 牧師 左右田 理
神の民イスラエルにとって大切な祭が年に三つ、その一つが五旬祭(ペンテコステ)、いわ
ゆる収穫感謝祭でした。当時、神の民イスラエルはイスラエル領土内だけでなく、国外
諸地方にも点在していて、彼らはディアスポラ(離散の民)と呼ばれていました。イスラ
エルの民はディアスポラの歴史的原因に、神の裁きを見ていました。(申命記29:26~27)
彼らディアスポラは、聖地エルサレム在住の民より、自らの罪深さを深刻に受けとめて
いたと考えられます。つまり聖地エルサレムから遠く離れ暮らすことになった自分たち
の歴史を振り返り、救いから漏れた落伍者として、神の裁きにあうことのないよう、熱
心に参拝していたと考えられます。そして、そのように自らの罪に悩むディアスポラと
信仰を共有していたであろう異邦人改宗者たち(11節)と共に、罪の赦しを切実に願い求
めながら参拝していたと考えられるのです。(詩編65:4~6)
本日の聖書箇所は、十字架で殺されたイエス様が復活、昇天された後、弟子たちに
神の霊が降った出来事が描写されています。歴史的に、ユダヤ教の収穫祭とも言われ
るペンテコステに起きたこの出来事が、私たちキリスト教会の起源とも言われています。
実際、イエス様は、まだ十字架にお掛かりになる前、霊的な収穫について語っていらっ
しゃいました(ヨハネ4:23~24,34~36) そのときイエス様は、自らの空腹のために弟子たち
が用意してくれた食物に手を伸ばそうとせず、当時、神の民イスラエルから罪に汚れた
民として遠ざけられていたサマリヤの住民と食卓を共にするに至ったのです。イエス様
は、救いから遠く縁がないと見なされていた者を最優先しようとする交わりにこそ、ま
ことの神礼拝、霊的な収穫を見ておられたのではないでしょうか。(マタイ20:16)
当時、ヘブライ語は聖地エルサレムの聖なる言語でした。それは多様な言語文化の
もとで生まれ育ってきた人々にとって、罪の世に生きている自分の罪深さ、神の裁きを
意識させられる悲しい現実でもあったのではないでしょうか。(創世記11:9) しかし聖
霊は、人の目には神の裁きの対象にしか見えないような過去をこそ、十字架の愛の広さ、
長さ、高さ、深さを告げ広める器として聖別してくださるのです。(エフェソ3:18~19) キリ
スト・イエスにあって「広く共に生きる」器として、すなわち多様な文化言語と出会い、
「絶えず新しい言葉」に生きるために、キリスト教会は生まれたのです。
聖書 使徒言行録 2章1~13節
2016年5月15日 ペンテコステ礼拝 牧師 左右田 理
神の民イスラエルにとって大切な祭が年に三つ、その一つが五旬祭(ペンテコステ)、いわ
ゆる収穫感謝祭でした。当時、神の民イスラエルはイスラエル領土内だけでなく、国外
諸地方にも点在していて、彼らはディアスポラ(離散の民)と呼ばれていました。イスラ
エルの民はディアスポラの歴史的原因に、神の裁きを見ていました。(申命記29:26~27)
彼らディアスポラは、聖地エルサレム在住の民より、自らの罪深さを深刻に受けとめて
いたと考えられます。つまり聖地エルサレムから遠く離れ暮らすことになった自分たち
の歴史を振り返り、救いから漏れた落伍者として、神の裁きにあうことのないよう、熱
心に参拝していたと考えられます。そして、そのように自らの罪に悩むディアスポラと
信仰を共有していたであろう異邦人改宗者たち(11節)と共に、罪の赦しを切実に願い求
めながら参拝していたと考えられるのです。(詩編65:4~6)
本日の聖書箇所は、十字架で殺されたイエス様が復活、昇天された後、弟子たちに
神の霊が降った出来事が描写されています。歴史的に、ユダヤ教の収穫祭とも言われ
るペンテコステに起きたこの出来事が、私たちキリスト教会の起源とも言われています。
実際、イエス様は、まだ十字架にお掛かりになる前、霊的な収穫について語っていらっ
しゃいました(ヨハネ4:23~24,34~36) そのときイエス様は、自らの空腹のために弟子たち
が用意してくれた食物に手を伸ばそうとせず、当時、神の民イスラエルから罪に汚れた
民として遠ざけられていたサマリヤの住民と食卓を共にするに至ったのです。イエス様
は、救いから遠く縁がないと見なされていた者を最優先しようとする交わりにこそ、ま
ことの神礼拝、霊的な収穫を見ておられたのではないでしょうか。(マタイ20:16)
当時、ヘブライ語は聖地エルサレムの聖なる言語でした。それは多様な言語文化の
もとで生まれ育ってきた人々にとって、罪の世に生きている自分の罪深さ、神の裁きを
意識させられる悲しい現実でもあったのではないでしょうか。(創世記11:9) しかし聖
霊は、人の目には神の裁きの対象にしか見えないような過去をこそ、十字架の愛の広さ、
長さ、高さ、深さを告げ広める器として聖別してくださるのです。(エフェソ3:18~19) キリ
スト・イエスにあって「広く共に生きる」器として、すなわち多様な文化言語と出会い、
「絶えず新しい言葉」に生きるために、キリスト教会は生まれたのです。
by hachimejibap
| 2016-06-09 10:44
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