わたしたちに必要な糧を今日
2016年 06月 07日
テーマ :新生
聖書 マタイ福音書 6章9~13節
2016年5月1日 主日礼拝 牧師 左右田 理
本日の聖書箇所は、イエス様が弟子たちに教えて下さった祈り、通称「主の祈り」で
す。私は教会付属の幼稚園時代より、文語訳聖書による「主の祈り」を通して、「自分た
ちの食生活が、今日も、明日も、いつまでも変わることなく、平穏無事でありますように」
といった祈りのイメージが強かったように思います。しかし、「新共同訳聖書(マタイ6:9~13)
+日本キリスト教協議会統一訳頌栄」としての「主の祈り」を唱える時、自分の必要が
何であるを、その日ごとに、神さまにお尋ねし、お委ねし、また神さまからのお応えに従
う自由を感じます。祈りを捧げるたびに、食欲など、ただ人の側の願望の中へと閉じこ
もってしまうことなく、神さまとの豊かなやりとりへと、無限に招かれていく解放感です。
食に関する祈りの前には、神の御旨を求める祈りがあります。御旨を求めてから食に
向かう、それが主の祈りの順序です。食に関する神の御旨については、イエス様も荒れ
野でサタンからの試練に遭われた際、お応えになっていますが(マタイ4:3~4)、それは旧
約聖書の申命記8章3節からの引用でした。そこから見えてくることは、モーセに率いら
れて荒れ野を旅した救いの民イスラエルには、食に関する神の御旨がこめられていた
ということです。その御旨とは、食を通して人が試練を受け、人としての欲求よりも神の
言葉に従うようになるためだったということです。そこで心にとめたいことは、食を通し
て与えられる御旨、その試練の一つに、断食があったのではないかということです。
出エジプト記には、モーセが民を束縛から解放しようとしたことによって、逆に支配者
からの抑圧が厳しくなったという皮肉な展開が描かれています。しかし、悪に逆らうこと
によって、乏しさ、貧しさを分かち合っていく先にこそ、神の御旨にかなう断食があるの
かも知れません。(イザヤ58:6~7) そのような神の御旨を分かち合うための力こそが、
「私たちに必要な糧として今日与えられる」のではないでしょうか。だとしたら、ただ慣
例、習慣のようにして「日用の糧が与えられる」わけではありません。
教会はキリストのからだであり、頭であるキリストの言葉、十字架の苦難の主から、
日々語りかけられて、「絶えず新しい言葉に生きる」群れです。出エジプトの招きに応え
て、それまでの慣例や習慣を乗り越えて前進する群れです。絶えず新しい言葉と出会っ
ていく歩みの中で、命の糧を受けていく群れです。
聖書 マタイ福音書 6章9~13節
2016年5月1日 主日礼拝 牧師 左右田 理
本日の聖書箇所は、イエス様が弟子たちに教えて下さった祈り、通称「主の祈り」で
す。私は教会付属の幼稚園時代より、文語訳聖書による「主の祈り」を通して、「自分た
ちの食生活が、今日も、明日も、いつまでも変わることなく、平穏無事でありますように」
といった祈りのイメージが強かったように思います。しかし、「新共同訳聖書(マタイ6:9~13)
+日本キリスト教協議会統一訳頌栄」としての「主の祈り」を唱える時、自分の必要が
何であるを、その日ごとに、神さまにお尋ねし、お委ねし、また神さまからのお応えに従
う自由を感じます。祈りを捧げるたびに、食欲など、ただ人の側の願望の中へと閉じこ
もってしまうことなく、神さまとの豊かなやりとりへと、無限に招かれていく解放感です。
食に関する祈りの前には、神の御旨を求める祈りがあります。御旨を求めてから食に
向かう、それが主の祈りの順序です。食に関する神の御旨については、イエス様も荒れ
野でサタンからの試練に遭われた際、お応えになっていますが(マタイ4:3~4)、それは旧
約聖書の申命記8章3節からの引用でした。そこから見えてくることは、モーセに率いら
れて荒れ野を旅した救いの民イスラエルには、食に関する神の御旨がこめられていた
ということです。その御旨とは、食を通して人が試練を受け、人としての欲求よりも神の
言葉に従うようになるためだったということです。そこで心にとめたいことは、食を通し
て与えられる御旨、その試練の一つに、断食があったのではないかということです。
出エジプト記には、モーセが民を束縛から解放しようとしたことによって、逆に支配者
からの抑圧が厳しくなったという皮肉な展開が描かれています。しかし、悪に逆らうこと
によって、乏しさ、貧しさを分かち合っていく先にこそ、神の御旨にかなう断食があるの
かも知れません。(イザヤ58:6~7) そのような神の御旨を分かち合うための力こそが、
「私たちに必要な糧として今日与えられる」のではないでしょうか。だとしたら、ただ慣
例、習慣のようにして「日用の糧が与えられる」わけではありません。
教会はキリストのからだであり、頭であるキリストの言葉、十字架の苦難の主から、
日々語りかけられて、「絶えず新しい言葉に生きる」群れです。出エジプトの招きに応え
て、それまでの慣例や習慣を乗り越えて前進する群れです。絶えず新しい言葉と出会っ
ていく歩みの中で、命の糧を受けていく群れです。
by hachimejibap
| 2016-06-07 12:41
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