見えないものをよく見ると
2011年 08月 29日
使徒言行録11:1~18
協力牧師 北 島 靖 士
ペトロはヤッファの「皮なめし」シモンの家に滞在していました。皮なめしは当時賤
しい職業とされ、一般社会から離れて生活するように強いられていました。ペトロはイ
エスさまに従うことによって、職業や身分の差別からは自由になることができました。
しかし、ユダヤ人と異邦人の差別というもっとも大きな差別についてはレビ記11章に
ある食物規定のように神さまによって定められたものであるとさえ思い込んでいたのです。
神さまはペトロを差別から解放するために、天から下ってくる大きな布のような入れ物
を用意されました。彼はその中を「よく見る」(口語訳では「注意して見つめる」)必要
がありました。そこにはユダヤ人が食べてはならないとされている動物が入っていました。
これが異邦人を指していることは明らかです。神さまはペトロに「ペトロよ、身を起こし、
屠って食べなさい」と言われました。異邦人と交わることを避けてはいけない。異邦人に
イエス・キリストの救いという神さまの大きな恵みを語りなさいということです。
「その時」(口語訳では「ちょうどその時」)異邦人であるコルネリウスの使いが門口に
到着しました。この言葉の原語は「見よ」です。わたしたちが抜きがたく持っている自分
の差別体質から解放されるためには「神さまの時」を見ることが必要です。神さまはペト
ロの内に新しいことを起こそうとされているのです。ペトロが今や「身を起こすべき」時
が来たのです。神さまは歴史の中で「異邦人の救い=全人間の救い」という新しい出来事
を起こそうとされているのです。マルコ13:28「いちじくの木から教を学びなさい。
枝が柔らかくなり、葉が伸びると、夏の近づいたことが分かる」(マルコ13:28)とあり
ます。わたしたちは「時」そのものを肉眼でみることはできません。しかし時の「徴」は
見えるのです。それがペトロの場合は大きな布の入れ物であり、コルネリユウスの使いで
あったのです。
伝道も同じです。わたしたちは「見えないものに目を注」(Ⅱコリント4:17~18)が
なければなりません。先週の主の晩餐式の研修会で、残ったパンやブドウ酒が大切だとお
話ししました。それは今日ここに来てない兄弟姉妹たちのために用意されたものだからです。
わたしは伝道に行き詰まった時に「この町にはわたしの民が大勢いる」(使徒言行録18:10)
という言葉に励まされたことが何度もあります。
わたしより先に神さまがこの町をゆきめぐり、ご自分の民を用意しておられます。
神さまご自身が宣教されるのです。わたしたちの伝道とは今は見えていない神さまの民を、
一人一人見つけ出し、出会ってゆくということなのです。わたしの前任教会では教会学校
の「出席簿」ではなく、「出欠簿」と名付けていました。
今日、ここにいない人、見えない人を覚える時、教会の体質も変わってくる筈です。
今、わたしたちは未曽有の苦難の中にあります。しかし、涙がぬぐい去られ、死もなく、
悲しみも嘆きも労苦もない時に目を注がなければなりません。それこそがわたしたちの希
望であります。(参考:「キリスト者も異邦人も」ボンヘッファー)
キリスト者も異教徒も
ディートリッヒ・ボンヘッファー
困窮の中にある人間は、神のもとに行き、
助けを求め、幸福とパンを乞い、
病と罪責と死からの救いを求める。
キリスト者も異教徒も、みなそうする。
人間は、困窮の中にある神のもとに行き、
貧しく、ののしられ、枕するところもパンもない神を見いだし、
罪と、弱さと、死に飲み込まれている神を見る。
キリスト者は苦しむ神のもとに立つ。
神は、困窮の中にあるすべての人間のもとに行き、
神のパンを持って肉体と魂を飽かせ、
キリスト者と異教徒のために十字架の死に赴く。
神は、すべての人間を許す。
2011年8月21日の宣教より