2023年6月18日 主日礼拝 メッセージ要旨
牧師:小河義伸
◎聖書:ガラテヤの信徒への手紙1:13~17
◎メッセージ:「胎内にあるときから」
■神の招きとパウロ
パウロの回心の出来事は、キリスト教会とキリスト者を迫害していた者が、どのようにしてイエス・キリストを信じるようになったかということについては、パウロ自身は関心がありません。むしろ迫害していたキリスト教(キリストの福音)を宣べ伝える者とされたということに関心があります。そのためにキリスト教会を迫害していた時の自分がどのような生き方をしていた者であったかということを、多くは語りませんが赤裸々に告白しています(ガラテヤ1:13~14、フィリピ3:5~6)。そして、「わたしを母の胎内にあるときから選び分け、恵みによって召し出してくださった神が、御心のままに、御子をわたしに示して、その福音を異邦人に告げ知らせるように」(1:15~16)されたから、迫害していた者が宣べ伝える者とされたのだと告白します。「キリスト・イエスの僕、神の福音のために選びだされ、召されて使徒となったパウロ」(ローマ1:1)も、パウロに起こった同じ事態を背景にしています。パウロにとって神の招きは、神の福音を宣べ伝える者への招きであり、そのことのために神はパウロのうちに御子(イエス・キリスト)を示された(啓示された)のです。
■胎内にあるときから
パウロはキリスト教会を迫害していた頃の自分のことを、どちらかというと否定的に紹介しています。そしてその頃のことを、「わたしにとって有利であったこれらのことを、キリストのゆえに損失と見なすようになった」、また、「キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それを塵あくたと見なしています」とも言っています(フィリピ3:7以下)。それらのパウロの言葉を読むと、パウロはキリストを宣べ伝える前(キリストを信じる以前)の自分が歩んできた人生を否定的にとらえているようで、それらはすべて無駄だったと思っているとも思えます。しかし果たしてそうなのでしょうか?
パウロ自身は神の招きについて、わたしは「母の胎内にあるときから選び分け」(1:15)られていたと告白します。「母の胎内にあるときから」は、原文では「わたしの母の胎から」でその意訳になっています。しかし翻訳は「胎内にあるときから」で、「胎内にいるときから」とは訳していません。この違いは大きいと思いますし、「あるとき」の方がパウロの思いを表していると考えられます。「いるとき」だと、母の胎にいることも自分の意思だということになりますが、「あるとき」は、それは自分の意思ではなく、母の意思、そしてそれは神の意思によるのだと考えられるからです。
神の招きは、徹底的に神の意志によるものでした。そしてその意思は、母の胎内にあるときからすでにパウロに働いている恵み(1:15)でした。そうだとすると、キリストの福音を宣べ伝える前の自分、ユダヤ教徒としての自分を否定的にパウロは紹介しているようにも思えますが、その時もまた母の胎内にあるときと同じように、神の意志が働いていたということにならないでしょうか。パウロ自身が「塵、芥(あくた)」と思えるような人生だと言ったとしても、「母の胎内にあるときから選び分け」られる神は、決して無駄な人生を歩んで来たとは言わないし、これからも無駄な人生を歩むことはない、無駄な人生なんて何もないと言われるのではないでしょうか。
パウロがそうであるように、私たちも「胎内にあるときから」神の意志のもとに無駄のない人生を歩んでいる、それが神の恵みなのです。
幼児さんびか80は、次のような詩で子どもたちと賛美されます。
1.生まれる前から神さまに/守られてきたともだちの/誕生日ですおめでとう!
2.生まれてきょうまでみんなから/愛されてきたともだちの/誕生日です、おめでとう!