八王子めじろ台バプテスト教会

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すべての国の人のため

テーマ 礼拝
聖書 マルコによる福音書 11章 15~19節
2019年1月13日    主日礼拝             牧師 左右田 理


 「…両替人の台や鳩を売る者の腰掛けをひっくり返された。(15節)」…この光景の背
後には、異文化社会からエルサレム神殿礼拝に集まる人々の姿があります。歴史的動
乱で、遠隔地に散らされていたイスラエル人たち(離散の民、ディアスポラ)が、巡礼の長
旅、その危険で疲労困憊した果てに要求されたのは、神殿で通用する通貨への両替、
そして捧げ物にふさわしい生け贄の調達でした。しかもその一つ一つの段取りの手数料
の相場も巡礼者には不明だったようです。神殿管理側からすれば巡礼を助けてあげて
いるつもりだったとしても、イエス様の見方とは大きくくい違っていました。(17節)
 当時のユダヤ教社会には異邦人改宗者を受け入れる“寛容さ”が開花していました。
とは言っても彼ら外国人改宗者には神殿まわりの経済事情の難解さに加え、礼拝領域
に制限があり、しかもその礼拝可能域に商人たちが集中したとも言われます。なお本日
の聖書箇所の出来事は、四福音書すべてに並行記事として載っています。それら主イ
エスの神殿礼拝批判について、もしマタイ21:12~17を経済格差批判、ルカ19:45~48を利
潤追求批判、ヨハネ2:13~22を命の犠牲(生け贄)批判および利潤追求批判として受ける
なら、本日のマルコは人種差別批判として聴くことができましょう。
 イスラエルの選民思想の歴史において、神の民でない者たち(異邦人、よそ者)に対す
る寛容さは、そのよそ者の歴史的功罪によって増減されていたようです。(申命記23:4~
9) 同じように礼拝したくとも、過去の功罪によって礼拝に制限が割り振られていたこと
になります。しかし初代教会のクリスチャンはイエスの教えを受け、あらゆる人があらゆ
る功罪差別から解放され、誰もが等しく礼拝の民として受け入れられていくキリストの明
日を信じて、バプテスマを受けてきたのではないでしょうか。(ガラテヤ3:27~28) 
 キリストの礼拝は福音に満ちた家として、すべての国の人の祈りの家です。より広く、
共に祈ることのできる環境に向け改革していくことは礼拝者の使命と言えましょう。けれ
ども時に礼拝の改革は、従来の慣例や信仰的平安をもたらす作法を根底から見直し、
揺さぶり、また中断させる出来事へと発展します。(15~16節) 改革に対する反発も激し
くなります。(18節) しかしそれでも、“すべての国の人の祈りの家であるべき”というキリ
ストの熱情は永遠に変わらないのです。


# by hachimejibap | 2019-01-14 14:30 | メッセージ

多くの人のために

テーマ 神の国の食卓
聖書 マルコによる福音書 14章 22~26節
2019年1月6日    主日・新年礼拝            牧師 左右田 理

 本日は、2019年最初の主の日、このメッセージに続いて主の食卓を覚える主の晩餐
式があります。なお本日の聖書箇所について歴史的には“最後の晩餐”として紹介され
ることがあります。十字架で裂かれる主のからだ、流される主の血、そのような主の最
期から証しされる救い(贖い)が意識されているのかも知れません。しかし最後の晩餐は
“始まり”の食卓だったのではないでしょうか。より「多くの人のために」(24節)…それこそ
救い主イエスが思い描き、飢え渇き待ち焦がれている食卓なのではないでしょうか。
 イエスのからだであるパンを「取りなさい」(22節)…並行記事であるマタイによる福音書
26:26では「取って食べなさい」と記され、イエスとの一体化(贖い)がイメージされますが、
本日マルコ14:22では「取りなさい」と、招きに集中しています。“どのようなものかわから
なくとも、まずは手に取ってごらん、どのような食卓かわからなくとも、まずは共に食卓に
ついてごらん…” 主イエスの切実な招きです。主の晩餐が過越の祭の出来事であった
ことを思えば、マタイのように贖いを意識して主の言葉に耳を傾ける大切さも認めつつ、
四福音書の中で執筆時期がもっとも早いと考えられるマルコを軸にさらに聴きましょう。
 「パン」に続き「杯」についても、マタイ26:28では「罪のゆるし」という旧約概念、
贖いの契約が反映された招きになっていますが、本日マルコ14:24では“救い主の”血の契約と
して聴くことができます。(ゼカリヤ9:9~12) それは強い者勝ちの世から諸国の民が解放さ
れる希望の契約です。マルコにおいて主の食卓は、世の虐げられし万民が解放される
その時まで、神の国は成就しない、イエス自身も自らを楽しませることはない、という世
の救い主としての強い決意が証しされる食卓となるのです。(24~25節) マタイ26:28~29
が「あなたがた」という弟子たちへの呼びかけを通して、キリストに贖われた教会が「多く
の人々」となる“広がり”に神の国(の食卓)を期待しているとすれば、マルコは救い主か
らの“一方的福音的宣言”として神の国(の食卓)を保証しています。(マルコ1:15)
 ここから主イエスの進む先に待ち受けていたのは十字架の死です。しかしそれは単な
る最期ではなく、賛美の始まりです。(26節) 十字架の向こうに神の国の食卓を証ししよ
うという主の決意に満ちた賛美です。多くの出会い、その痛みの向こうにこそ備えられて
いる神の国の食卓に向け、共に賛美し、共に食卓を囲みましょう。


# by hachimejibap | 2019-01-06 13:00 | メッセージ

本当に価値あるもの

テーマ 主の十字架
聖書 ルカによる福音書 16章 1~13節
2018年12月30日    主日礼拝                  牧師 左右田 理

 福音書には、主イエスが神の国イスラエルに於いて非国民的存在とされていた人々と
共に生きる姿を、指導者層が批判する場面が描かれています。本日の聖書箇所はその
ような批判に対して、主イエスが弁明のために用いた一連のたとえ話の一つだったと考え
られます。(ルカ15:2、16:14) 本日の聖書箇所の一つ前は、いわゆる“放蕩息子”のたとえ
話です。そこでは神の国に負い目のある者の側に立ちつつ和解の福音に向け苦闘する
神が描かれています。そして本日のいわゆる“不正な管理人”では、神の国に負い目の
ある者どうしの連帯をほめる神が描かれ(8節)、神の国に対する負い目の連帯が永遠
の住まい(9節)、すなわち“新たな”神の国として証しされています。
 神の国イスラエルは神の裁きであるバビロン捕囚前に、預言者イザヤ、エレミヤなどを
通してくり返し悔い改めが迫られていました。しかし、その頃に公表されたと考えられる
申命記を見ると、神の民が、イスラエル草創期からすでに自己正当化に固執していた様
子がうかがい知れます。(申命記9:6) そのような神の民の頑なさに対して主イエスは、
低評価しか受けられない働きに忠実な者こそが、本当に価値ある大仕事にふさわしい、
とおっしゃっているのではないでしょうか。(10~11節) 主イエスは、いわゆる失格者の苦
しみに仕える忠実さに、“新たな”神の民を見るのです。
 指導者層には金に執着している者がいて、主イエスの一連のたとえ話を嘲笑ったとあ
ります。(14節) 金とは欲しいものを手に入れるなど、思い通りにまわりを動かす力で
す。宗教社会においては神の側(裁く側)に身を置くこともできましょう。ところが主イエス
の一連のたとえ話に聴き従うなら、裁かれる側に立つ一方ではありませんか。主イエス
は“まことの人”として裁かれる側へ招きます。本当に神の側に立つ(創世記1:27~28参
照)つもりなら“他に仕え、他を生かす側”に立ちなさいと招くのです。(ルカ22:25~27)
 人生の失格者として裁かれる者たちの中に立ったのが主の十字架です。人が裁かれ
る側に立つとき、たとえ人生の最後までダメ出しされようとも、主イエスと共に命の希望
を分かち合っています。(ルカ23:39~43) 裁く側に固執するのか、主イエスの招きに応えて
裁かれる側に立とうとするのか…主の十字架は、世を永遠の命へ招くための“本当に
価値ある問い”として今、教会に任されています。(11~12節)


# by hachimejibap | 2018-12-30 19:30 | メッセージ

テーマ 救い
聖書 ルカによる福音書 2章 1~12節
2018年12月23日    クリスマス礼拝              牧師 左右田 理

 2節の住民登録…それは侵略国家の都合でした。植民地化されていたイスラエルの民
には、いわゆる国粋主義的な愛国心が強要される結果となりました。従わなければ反逆
者として排除されます。本日の聖書箇所では身重のマリアが、自分と胎児イエス、二つの
命の危険をはらんだ長旅が強要されています。国粋主義的に強要される愛国心の残酷
さが見えてきます。しかし愛国心と愛郷心(故郷愛)とは違う、という考え方もあります。だと
したら危険を乗り越え故郷に帰り着いたマリアたちを、故郷は温かく迎えてくれたのでしょ
うか?残念ながら故郷でも彼らの居場所はありませんでした。(7節)
 愛郷心(故郷愛)の背後には、ある種の防衛本能があるようです。その昔、日本にも座
敷牢がありました。地域の安定、平穏無事を脅かすならたとえ身内であっても排除する
ということは古今東西、珍しいことではありません。懐かしい人が身重になって里帰りと
もなれば、いつもなら温かく迎える人たちだって、お上からの命令に不手際があっては
なりません。自分たちだって命が掛かっているのです。もはや身重のマリアのことなど
皆の意識の外へ排除されていたとしても不思議はありません。国粋主義的愛国心に対
するとき愛郷心はひれ伏すのです。こうして故郷からも背を向けられてしまったマリアと
夫ヨセフのもとに赤ん坊救い主、神のひとり子が生まれました。
 赤ん坊イエスを受けとめたのは飼い葉桶です。(7節) 家畜小屋のエサ箱です。家畜を
生かし、人を生かします。しかし誰からも顧みられることはありません。そしてこの飼い
葉桶の赤ん坊の行く末に待っていたは、他を生かし、自らは捨てられていくキリストの十
字架でした。(マルコ15:34) その飼い葉桶に招かれたのは羊飼いたちです。(12節) 当時
のイスラエルに羊の牧畜は欠かせなかったのに、牧草を求め放浪生活に生きる彼らは
住民登録からも外れ、社会的には“ものの数”にも入りませんでした。世界で最初のクリ
スマスは、他を生かしながらも報われない者どうしの出会いでした。それこそがまことの
神と人との出会い、まことの人と人との出会い、すなわち救いでした。(12節) 多様化社
会の現代、人々は性急に報いを求めて、民族主義、国家主義を台頭させています。しか
し私たちは飼い葉桶にまことの神、まことの人を見ましょう。そこから出会うべき人たちと
出会っていく先々で、救いの力が満ちあふれていくのですから。(1コリント1:18,25~29)


# by hachimejibap | 2018-12-30 19:00 | メッセージ

テーマ 和解の福音
聖書 ルカによる福音書 1章 50~53節
2018年12月22日    クリスマス・イブ礼拝          牧師 左右田 理

 クリスマス物語でひときわ輝いている神の恵みは“憐れみ”です。旧約聖書においては
“慈しみ”という言葉にも対応していますが、“憐れみ”が神の言葉として、代々にわたっ
て後生に受け継がれていくことは神の定めです。(詩編103:17~18) クリスマス物語で主
要人物であるエリサベトには、子宝に恵まれないことで社会的に肩身の狭い思いをして
いる者の希望として“憐れみ”が臨み、救い主イエスを胎に宿したマリアには、社会から
抑圧され、排除されてきた未婚の母、婚外子の救いとして“憐れみ”が臨みました。こう
してクリスマスの“憐れみ”は、社会的に抑圧され、口を塞がれていた者どうしを出会わ
せ、その唇から賛美を満ちあふれさせ、歌い交わす輪を生み出したのです。
 “憐れみ”は代々にわたって栄枯盛衰をもたらします。(51~53節) しかしそれは単なる
諸行無常ではなく、歴史の主の御旨です。さらにそれは単なる下克上とも違います。下
克上は復讐を招きます。ルワンダは第一次世界大戦以降、ベルギーの支配下に置か
れました。ベルギーは支配しやすいよう、ルワンダ内部に民族間の格付けを強要し、や
がて1994年、フツ族過激派によるツチ族に対する復讐、大量虐殺へとつながってしまい
ました。ルワンダに日本バプテスト連盟が派遣している佐々木和之さんは今、和解の福
音の重責、その困難に奉仕しています。そして“憐れみ”は和解の福音にあらゆる人々
を招く神の言葉として(ルカ6:33~36)、そのような奉仕を祝福しています。“憐れみ”が歴史
に栄枯盛衰をもたらすのは単なる下克上のためではなく、和解の福音にもとづく出会い
と対話に全世界が従うようになるためです。(詩編103:17~18、2コリント5:18~20)
 かつて日本バプテスト連盟ホームレス支援委員会主催シンポジウムで、ホームレス相
互にも格差が生じてしまっているという悲しい報告がありました。“自分の惨めさも、アイ
ツ(ら)よりはマシだ…” 誰かを貶め、見下すことで自らを慰めようとする風潮は現代の
国粋主義、民族主義台頭をも後押ししていないでしょうか。しかし“憐れみ”の歴史的ご
支配は、世の栄枯盛衰を通して、見下される惨めさも、見下す惨めさもコインの裏表、
一体であることを証ししています。そして紙一重としてお互いを受けとめ合う和解の福音
の希望を証ししていきます。世の救い主、まことの王が家畜小屋のエサ箱に生まれたと
ころ(ルカ2:7,12)に起こされる出会い、対話に私たちも向かいましょう。


# by hachimejibap | 2018-12-30 18:30 | メッセージ

みんなで歌おう!共に話そう!そして一緒に祈ろう! 〒193-0833 東京都八王子市めじろ台2-15-2 ℡.042-663-7036


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