八王子めじろ台バプテスト教会

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2018 チャペルコンサート

今年もお皆様のお越しを
お待ちしています!

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# by hachimejibap | 2018-10-04 14:30 | 教会からのお知らせ

大切なこと

テーマ 教会学校
聖書 ガラテヤの信徒への手紙 6章 11~18節
2018年9月30日    教会学校月間  主日礼拝        牧師 左右田 理

 本日の聖書箇所で伝道者パウロは、大切なのは新しく創造されることだ(15節)と訴え
ています。ではパウロ自身は、どのように創造されていると自覚していたのでしょうか。
パウロにとって新しく創造されるとは、イエスの焼き印を身に受けることだったのではな
いでしょうか。(17節) 当時、焼き印とは家畜や奴隷の印でした。自分が厚遇される印で
はなく、他者が厚遇されるために“仕える印”でした。(マルコ10:42~45) 日頃、この大切な
ことを教会学校は共有できているでしょうか。
 大切なこと…とくに主イエスにとってそれは神の御前に他者が贖われる身代金として、
自らが献げられていくことでした。(マルコ10:45) イエスは十字架で処刑されていく犯罪者
たちのただ中に自らを献げました。この世で邪魔者とされる者たちが神の子の一人とし
て贖われるために、彼らの真ん中にお立ちになったのです。.復活には「直立させる」とい
う意味もあるそうですが、十字架の主は世から排除されていく者たちのただ中において
まさしく復活の主でした。教会の群れはこのようなお方に仕えていくため贖われたので
す。教会学校はこの大切なことを共有できているでしょうか。
 大切なこと…パウロにとってそれは十字架のイエスを主と仰ぐことでした。主イエスと
出会うまでのパウロは、当時のイスラエル宗教国家、ユダヤ教社会においてエリート街
道をまっしぐらでした。(フィリピ3:4~7) しかし苦難のイエスと出会い、イエスを主として仕え
ていくことこそが何にも代え難い大切なこととなったのです。(2コリント11:23~29) 私たちは
世の誘惑に抵抗しなければなりません。まわりから後ろ指を指されたくない、迫害された
くない、まわりから認められたい、また少しでも高く評価されたい…十字架の主以外に
誇らしい何かが心を支配し始める…ここに律法主義、割礼主義の問題があります。(12
~14節) 律法主義の問題を通して、十字架の主イエスを仰ぐことの大切さを、教会学校
は絶えず共有していく必要があるのではないでしょうか。
 パウロにとって困難、苦難は煩わしさではなかったはずです。逆に、苦難の主を誇りと
する生き方を妨げるような誘惑こそが煩わしかったのでしょう。(17節) 「わたしたちを誘
惑に遭わせず、悪い者から救ってください。」(マタイ6:13) 「わたしたちの主イエス・キリス
トの恵みが、あなたがたの霊と共にあるように」(18節)


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# by hachimejibap | 2018-10-04 14:20 | メッセージ

福音に共にあずかるため

テーマ 教会学校
聖書 コリントの信徒への手紙 一 9章 16~23節
2018年9月23日    教会学校月間  主日礼拝        牧師 左右田 理

 昔、ある方が教会学校に要請したそうです。「私の子どもを一学年上のクラスに入れ
てください」。何か得るものがあるから子どもを通わせる…いわば塾感覚として時代の
先端を行っていたのかも知れません。しかし本日の聖書箇所全体を見渡して思うので
すが、何か得るもののための出会いは福音ではないでしょう。次から次へ出会うために
出会っていく、出会わないこと自体が不幸(16節参照)、それが福音なのでしょう。私たち
の教会学校には福音が満ちあふれているでしょうか。
 (小学校)一年生になったら、友だち100人できるかな…懐かしい童謡ですが、ある有名
人は異議を唱えます。「100人も必要ない。信頼できる2,3人で十分」。たしかに100人も
出会えば、馬の合わない人とも出会い、苦労もあることでしょう。信頼や安心のための
少数精鋭というのも現代の知恵かも知れません。けれども福音は違います。福音にお
いて集まりが2,3人で十分(マタイ18:20)というのも、信頼や安心が確保されるためではあ
りません。主イエス・キリストと出会えるからです。そして伝道者パウロ自身、キリストに
仕える者として限りなく“出会い”に身を捧げていくのです、十字架の苦難の主と出会う
ための“出会い”に向かって。(2コリント11:23~29)
 福音の報酬は無報酬です。福音を告げ広めるために権利、報いから自由にされる恵
みです。(18節) 見返りなど下心からまったく解放された自由意志が与えられます。それ
は無償の愛を全うして死なれた十字架の主が復活され、私たちのために生きて働いてく
ださっている証しでしょう。福音伝道の場は、福音を伝えられる者がキリストと出会うだ
けでなく、福音を伝える者が、その相手のために無償の愛をもって生きている復活の主
と出会わせてもらうのです。福音は伝える者、伝えられる者が共に福音にあずかる恵み
です。(23節)
 無償の愛に生きる復活の主は、異なる者どうしが共に御言葉を分かち合うことを望ん
でいらっしゃることでしょう。価値観の異なる者どうしが、お互い相手の中に復活の主を
見いだすために仕え合うことを望んでいらっしゃることでしょう。出会っていく相手が自分
たちと異なっていれば異なっているほど、その教会学校は復活の主の豊かさに満ちあ
ふれるのです。(19~23節)


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# by hachimejibap | 2018-10-04 14:10 | メッセージ

神を見いだす

テーマ 教会学校月間
聖書 使徒言行録 17章 16~34節
2018年9月16日    教会学校月間  主日礼拝       牧師 左右田 理

 アーメン、ソーメン、冷やそうめん…子ども時代にこれを聞かされるたびに、私はやた
ら義憤に駆られていました。「神さま、イエス様はスゴいんだぞ!」…クリスチャンではあ
りませんでしたが、妙に気負っている自分がいました。本日の聖書箇所でも伝道者パウ
ロは憤慨しています。(16節) そして神さまについて熱く訴え始めるのです。相手が聖書
の神を知っているか否かを越えて。(17~18節) さながらパウロの“教会学校”です。そし
て“教会学校”は「万物の創造主を見よ!」から始まりました。(23~26節)
 パウロは熱く訴えます。「(神は)何か足りないことでもあるかのように、人の手によって
仕えてもらう必要もありません。」(26節) すなわち神のご支配は唯我独尊、人間界も自
然界もその歴史の一切が(お釈迦様の手のひらで踊らされる孫悟空のごとく)、神によっ
て自由自在に動かされているに過ぎない!そして、神こそ時代、地域を越えたあらゆる
命の統治者、主権者であるという真実に向けて世の無知を悔い改めさせ、正すための
裁きの日がついに来る、復活の主イエスによって来る!(30~31節)
 もしパウロが、全能者キリストにひれ伏す会衆の姿を予想していたなら、それはまった
くの期待外れでした。主の復活の宣言を通して皆が神を見いだすどころか、多くの者が
嘲笑って立ち去りました。(32~33節) パウロの“教会学校”は失敗だったのでしょうか?
違うと思います。十字架の主の叫びに聴く“教会学校”へ進歩したのではないでしょう
か。(マルコ15:34) さらに十字架の主から託される使命を分かち合う“教会学校”へと進歩
したのではないでしょうか。(2コリント11:23~29) 涙色のパウロの後ろ姿こそが、十字架に
現れた神を見いだす“教会学校”を生んだのではないでしょうか。(33~34節)
 パウロは当初、知られざる神(23節)が、知ったら誰もが敬服、称賛するような神として
皆に見いだされていくことを期待していたことでしょう。しかし本当は、誰からも知られる
ことなく、うち捨てられていく命の傍らに立つ神だったことを、自ら見いだしたのではない
でしょうか。だとしたらパウロの“教会学校”は他者を造り替えるためでなく、十字架の主
の御前に自分の方が新しく創造されていく“教会学校”でした。(2コリント4:16) 教会学校は
涙を造り替え世を喜び一色にする神を見いだすのでしょうか。それとも涙の出会いの喜
びを創造し、その涙の出会いを世に広げていく神を見いだすのでしょうか。(ローマ12:15)


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# by hachimejibap | 2018-10-04 14:00 | メッセージ

その話は夜中まで続いた

テーマ 教会学校
聖書 使徒言行録 20章 7~12節
2018年9月2日    教会学校月間  主日礼拝        牧師 左右田 理


 教会には夜を徹して話したいことがあるでしょうか。本日の聖書箇所にはそれがあっ
た様子が描かれています。しかもその話は“パンを裂くこと”(7,11節)と大いに関係があ
ったことがわかります。伝道者パウロはコリント教会に宛てて、十字架で裂かれたキリ
ストの身体を象徴するパン、そして流された血潮を象徴する杯を分かち合って主イエス
の死を告げ知らせていこう、と招きます。(1コリント11:23~26) 本日の聖書箇所においても
パウロたちは、主の死を告げ広めるという、主からキリスト教会に託された使命につい
て熱く語り合っていたのではないでしょうか。
 十字架の主は苦難の主です。十字架の主の苦難は救おうとして訪れた相手から拒ま
れ、辱められ、排除されていく死でした。パウロたち初代教会にとって“主の死”とは“苦
難の出会い”、また“恩を仇で返される出会い”へ自分たちを招く道しるべだったことで
しょう。十字架の“出会い”はこの世の文化、知恵からすれば愚かの極みです。けれど
も初代教会にとって十字架の“出会い”こそが主イエスのもとへ引き上げられる希望で
あり、生きる喜びでした。(使徒5:40~42)
 青年エウティコは居眠りして三階から落ちて死んでしまいました。(9節) パウロの話は
若いクリスチャンを熱狂に駆り立てることなく、深い深い眠りに誘いました。華々しい成
功物語や時代の先端を行くような知恵を耳にしてまどろむ若者は少ないでしょう。コリン
ト教会宛にパウロは自らについてこのように証ししています。「わたしの言葉もわたしの
宣教も、知恵にあふれた言葉によらず、“霊”と力の証明によるものでした。」(1コリント2:4)
伝道者パウロを支えた霊と力は、十字架の主に仕え続け、苦難の主の中に生き続ける
ための霊と力でした。(2コリント11:23~29)
 “大いに慰められた”(12節)…“慰め”と訳されている新約聖書のギリシャ語パラカレオ
ーには、呼び寄せ、勧め、招くなどの意味があるそうです。息を吹き返した青年エウティ
コと共に人々が受けた大きな勧め、招きはどのようなものだったのでしょうか。そして私
たち教会は主の食卓で、また教会学校分級で十字架による勧め、招きをどれほど豊か
に受けているでしょうか。苦難の主の中で呼び集められる人々との出会いを喜び、共に
涙していく明日へ豊かに招かれていきましょう。(ローマ12:15)



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# by hachimejibap | 2018-09-06 15:30 | メッセージ

みんなで歌おう!共に話そう!そして一緒に祈ろう! 〒193-0833 東京都八王子市めじろ台2-15-2 ℡.042-663-7036


by hachimejibap