命の水の泉

テーマ:召天者記念礼拝
聖書: ヨハネの黙示録7:9~17 
2017年10 月29 日              協力牧師 北島靖士

 わたしは、この八王子めじろ台バプテスト教会で協力牧師を務めて
います北島靖士と申します。今日の召天者記念礼拝にお出でください
ました関係者の方々の中には初めてお会いする方、お久しぶりの方も
あるかも知れませんが、よろしくお願いいたします。
何度もお話しした逸話ですから、ああ又かと思われる方もあるかもし
れませんがお許し願います。戦後1968年になくなったスイスの神学者
でカール・バルトという方がおられました。この人はスイスの小さな
村の牧師でしたが、1918年に書いたローマ書の講義が有名になり、ド
イツの有名な大学の教授として迎えられました。しかし、ナチス時代
にヒットラーに対する忠誠誓約を拒否したために追放されて、故郷の
バーゼルに戻ってそこで教えておられました。
 ある時、一人の年配の婦人がバルトにたずねました。「先生、教え
ていただきたいのですが、死んだら天国では親しかった人達ともう一
度会えるというのは本当でしょうか」バルトは度の強いメガネの奥か
らじっとこの婦人を見つめて答えました。「ええ本当です。しかし、
天国ではあなたがいつも口喧嘩していた隣りの奥さんとも会うので
す。」
 これは、天国はわたしたちが考える理想郷ではないということを表
しています。わたしたちは死んだら天国にゆくのか、地獄に行くのか、
いやそんなものはないのだ、無になってしまうのだと考えます。しか
し、これは全てわたしたちが考えることです。天国は聖書では神の国
とも言われています。そして、神の国を聖書の原語どおりに直訳する
と「神の支配」となります。天国とか、神の国とか、國ということば
を使いますから、わたしたちは日本とかアメリカとか地上の国家と同
じものがどこかにあるのだと誤解します。しかし、イエスさまは言わ
れました。
 ルカ17:20~21「ファリサイ派の人々が、神の国はいつ来るのかと
尋ねたので、イエスは答えて言われた。「神の国は、見える形では来
ない。『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に、
神の国はあなたがたの間にあるのだ。」


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# by hachimejibap | 2017-11-01 09:56 | メッセージ

この目で神を仰ぎ見る

テーマ 悔い改め
聖書 ヨブ記 42章1~17節
2017年10月22日    主日礼拝               牧師 左右田 理

 パラダイム・シフト(発想の転換)とは現代の悔い改めである…本日は先主日に引き続
き、9/10教会形成研修会の恵みから聴くメッセージです。もしキリスト教会がヨブ記最終
章をヨブの繁栄が回復された大団円のメッセージとして受けるなら御利益宗教と何が違
うのでしょうか。…治る見込みの見えない痛みを抱えた方々がつぶやく…「福音書でイエ
ス様が多くの病を治したりしなければ自分にも救いの希望があったのに」…今までも、ま
たこれからも、そのような場に居合わせて私にできることは、ただ答に窮し、苦しむこと
だけだと思います。かつてヨブの三人の友人たちがそうだったように。(2:13)
 7節は不思議です。神はそれまで裁き続けてきたヨブを突如として正しい応答をしたと
擁護するのです。そしてヨブが神に向かって挑戦的言葉を吐き続けていたときに、せっ
かく神を擁護しようとしてきた三人の友の言葉の方が正しくないと断罪され、ヨブの執り
成しのおかげで ようやく赦されたようです。(8節) しかし、これでは迫害や苦難の中で
信仰を守ろうという気に誰がなるでしょうか。後代の加筆と考えられる“エリフ(32~37章)”
に神擁護の復権が託された時代背景、宗教事情には同情します。とは言え、やはり私
たちはイエス様が証しする“正しさ(義)”に立ち返らねばならないでしょう。(マタイ5:20)
 純白な布に黒一点…全財産が倍増する大団円となるためには子宝だけが欠落してい
ます。ちょうど失われた子どもたちの人数分…(1:2、42:12~13) 目の前の子たちが輝け
ば輝くほど、無残な最後を遂げた子たちの姿も…(42:14~15、1:18~19) ヨブは繁栄の回
復を謳歌する余生ではなく、繁栄の中でこそ、塵灰(滅び)に伏す明日を待ち望む余生を
選び取ったのではないでしょうか。(6節) 贖い主が塵灰(滅び)に降り立ってくださる明日
を(19:25)、すなわち世から排除され忘れ去られていく無数の命に自らも連なり、共に救
われる明日を、今後の喜びと定めたのではないでしょうか。(マタイ5:10~12参照)
 ヨブがその余生で喜びとして見たものは快楽だったのでしょうか。苦しみだったのでし
ょうか。もしくは、もっと別の何かだったのでしょうか。ヨブ記の中にその答は見いだせま
せん。けれども その答は、ヨブ記と出会った私たち教会のこれからの歩みに書き記さ
れ、全世界に広く読まれていくに違いありません。(2コリント3:2~3参照)
「…御心が行われますように、天におけるように地の上にも。」(マタイ6:10)


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# by hachimejibap | 2017-10-29 22:08 | メッセージ

神が定めたこと

テーマ 神の裁き
聖書 ヨブ記 40章1~14節
2017年10月15日    主日礼拝            牧師 左右田 理

 パラダイム・シフト…発想の転換…先の教会形成研修会(9/10)の恵みは聖書教育誌
の今のテキストであるヨブ記から聴くこともできると思います。物語後半でヨブは裁きの
嵐に見舞われているようです。生き地獄のヨブにさらに情け容赦ない鉄槌が下された悲
劇と見るのか、神の偉大さが証しされた栄光として見るのか、それとも…受け取り方は
様々でしょう。かつて ある人はヨブ記の解釈に正解は無いと言いました。しかし、そうだ
とすれば、多様性の迷路から性急に抜け出そうと焦り、断定断罪の虜と化しつつある現
代世界に発想の転換がもたらされるよう、ヨブ記に期待したいのです。
 「出しゃばるな!勝手に自らを高めて正当化しようなどとするんじゃない!」…ヨブに対
する神からの裁きは(38章~)、それに先立ってエリフからもヨブに突きつけられていま
す。(32~37章) 神はエリフの裁きに便乗しただけなのでしょうか?…エリフの言い分は
こうでしょう。「神は人知を越えて崇高だ。ヨブよ、人間に過ぎないお前は無に等しい」。
エリフはヨブの三人の友人と違い、憶測でヨブや家族を前科者扱いするような因果応報
的断罪に陥ってはいません。しかし神との身分の違いをまくし立てることによって、実質
的に「もう黙れ」へと突き進むのです。(33:31~33参照)
 では本日の聖書箇所で神もまた身分の高低を盾にヨブを裁いているのでしょうか?し
かし、もし身分の高低に主眼を置いているなら、義人ヨブを自慢したり(1~2章)、“化け
物”のたぐいを自慢したりする(40:15~41章)のは支離滅裂ではないでしょうか。しかし も
し、まことの神が全被造物を誇ろうとされていただけなら…人の世から遠い存在、また
は目を背けられている存在であればあるほど自慢してみせようと力を尽くすお方なら…
(マタイ5:43~48参照) まるで“化け物”のように人の世から排除されていたヨブが神賛美の
念をもって再び口を開き、息を吹き返していくのも うなずけるのです。(3節) エリフの神
理解は対話に終止符を打つことが定まっていたのに対して、神ご自身の証しは対話の
仕切り直しへの招き、希望となる定めだったのです。「黙れ、出しゃばるな、このわたし
がおまえを自慢する」…ここに神の裁きの奥義があります。(コヘレト3:11参照) 神があらゆ
る命を自慢してくださる、このわたしも共に…自らではなく、神が自慢してくださるその
ときにすべてを委ねるなら、あらゆる命の使命はこれでしょう。あらゆる断罪を世から滅
ぼすことです。
 自分の存在の不安に苛まれ、悪者を断定、断罪することで安心を得ようとする世相で
あればこそ、私たち教会は神の裁きの奥義を告げ広めようではありませんか。



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# by hachimejibap | 2017-10-29 22:04 | メッセージ

テーマ 教会の明日
聖書 ローマの信徒への手紙 12章1~2節
2017年10月8日    主日礼拝              牧師 左右田 理

 歴史的バプテストは厳密には万人祭司ではなく無祭司であり、祭司はキリストのみ…
教会形成研修会(9/10)で松藤一作先生から受けた言葉は、プロテスタント他派の神学
校出身者である私がついつい忘れてしまいがちなことを思い起こさせてくれました。祭
司とは罪人を聖なる神さまに執り成す聖職、いわば選民思想的役職であり、ユダヤ人ク
リスチャン全盛の初代教会時代には当然の自負だったことでしょう。(1ペトロ2:9) しかし
本日の聖書箇所の直前(11章)では「救われた民=神に不従順」という公式が前提にな
っています。さぞ当時のクリスチャンは驚いたことでしょう。「それって自分たちも救われ
ていない民と同じってことじゃないのか?」 ひょっとすると現代のクリスチャンにも同じ
驚きがあるかも知れません。誰かを救いに導いてあげる責任ではなく、キリストによって
今も罪を赦され続けている自分たちを証しする責任、そういう発想の転換(パラダイム・シフ
ト)がこれからの教会形成に求められているのではないでしょうか。
 もう一つ研修会で心に残ったこととして“エコーチェンバー現象”という言葉があります。
スマホなどインターネット社会の広がりにともない、自分と同じ意見には応えるけれども
異なる意見には背を向けるという一種の社会現象です。松藤先生はそういう“対話能力
の欠如”が今までのキリスト教社会にもあったことをご指摘されました。たしかにノンクリ
スチャンをクリスチャンに変える一辺倒であれば、また転入者が慣習、慣例に従う一辺
倒であれば、教会の方こそがエコーチェンバー現象に堕していたと言えましょう。松藤先
生は、対話の可能性は自分自身に変わる用意があるかどうかに掛かっていることもご
指摘くださいました。対話の可能性は伝道の可能性でもあるのではないでしょうか。あ
わせてバプテスマは高みへ上がることではなく低みに立つことだという本田哲郎神父の
理解もご紹介くださいました。ここにも発想の転換への招きがあります。自分たちと異な
る相手との出会いのゆえにどれくらい教会の方が、クリスチャンの方が変わることがで
きるのか…そこにこそ教会の明日、伝道の明日があるのです。
 “北朝鮮の脅威”、“嫌韓流”など自分たちと異なる相手を排除する言葉、“一億総活
躍”、“都民ファースト”など身内、仲間内が向上するイメージの言葉が飛び交う現代日
本で、教会こそが発想の転換の旗手となろうではありませんか。


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# by hachimejibap | 2017-10-29 22:03 | メッセージ

めじろ台にある神の教会

テーマ:交わり
聖書:Ⅰコリント1:1~10
2017年10 月1 日  主日礼拝              協力牧師 北島靖士
 

9月10日に松藤一作先生を迎えて行われた「八王子めじろ台教会形成研修会」は大変
感謝なひと時でありました。みなさんお一人お一人がいろいろなヒントを与えられ
たのではないかと思います。それをこれからの教会形成に生かしてまいりたいと思
います。先生はバプテスト教会には権威者はいないと言われました。権威は主イエ
スのみとも言われました。その通りです。ではどのようにしてイエスさまの言葉を
聴くのでしょうか。聖書から聴くのです。聖書の言葉はどこで、聞くのでしょうか。
礼拝におけるメッセージと教会学校分級における聖書のみ言葉の分かち合いから聴
くのです。早速、先週のフレンズデーの時に配布された証集「聖書に言葉に生かさ
れて」で一つの実りを与えられました。本当に感謝です。
松藤先生が言われたもう一つのことは「パラダイムシフト」でした。これは今までの
歩みを振り返り、方向転換して、新しい道に歩み出すとゆうことです。このためには
教会の歴史を書いてこの教会が今日までどんな歩みをして来たかをきちんと振り返る
必要があります。ですから、わたしも研修会の最後に八王子めじろ台バプテスト教会
史を作ることを提案したのです。
しかし、考えてみますとわたしたちはすでにパラダイムシフトをしようとしているの
ではないかということです。
それは何かと言いますと今日も晩餐式の後で唱和する「八王子めじろ台バプテスト教
会の契約」です。教会の契約はすべてパラダイムシフトだと思いますが特に
①  わたしたちは、この教会が人によって成ったものではなく、神によって成った
ものと信じます。
に注目したいと思います。これこそがパラダイムシフトだと思います。すなわちわた
したちはどうしても教会は人によって成っていると考えてしまうのです。ですから、
教会は神によって成っているのだ、という所にパラダイムシフトしなければならない
のです。
(これはメッセージの導入部分です。引用聖句は裏面にあります。)


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# by hachimejibap | 2017-10-29 22:00 | メッセージ