イエスが行く手に立っていて

テーマ 復活
聖書 マタイによる福音書 28章1~15節
2017年4月16日      イースター礼拝        牧師 左右田 理

 イエス様ご復活の朝は、四つの福音書それぞれの視点から描かれています。復活の
朗報と最初に向き合うことになった女性たちについてもそれぞれの描写があります。た
とえばルカ24:1~12では主の復活を素直に信じ弟子仲間に伝え、ヨハネ20:1~10では墓が
空だったという事実を伝え、マルコ16:1~8では恐怖のあまり押し黙り、そして本日のマタ
イでは恐怖と喜び(8節)、相反するような心情を抱えつつ主の復活を弟子仲間に伝えよ
うとします。復活の恵みは決して人の納得の上に成り立つ出来事ではありません。どこ
までも人知を越えた出来事として人は復活の恵みを受けるのです。
 復活の恵みを受けた人は立ち上がります。悲しみと喜び、不安と平安など、相反する
ものを抱えつつ前進します。(2コリント6:8b~10) イエス様の墓に向かった女性たちもそうだ
ったはずです。マルコやルカでは、当時の常識的作法である遺体処置を施そうとしてい
た女性たちの姿が描かれていますが、本日のマタイではただ墓参りする姿になっていま
す。死と向き合うということは、人としてできること、できると思っていたことの終わりを
意味します。マタイは死の支配に対する人としての無力、その絶望をマルコ、ルカ以上に
鮮明に描こうとしたのでしょう。しかし「死の絶望こそが復活の希望となる」、この十字架
の福音こそがあの女性たちを支配し、立ち上がらせたのです。この世の力、この世の知
恵は情報戦の様相を呈していきます。(11~15節) 不都合なことを隠蔽しようと情報操作
に溺れるなら復活の力、永遠の命は見えなくなっていくだけです。しかしだからこそ復活
の主は、この世の力や知恵に溺れているあらゆる命が十字架の道の出発点に立ち返
るよう永遠の招きに生きてくださっているのです。(7,10節)
 復活の恵みを受けた人は立ち上がります。どれほど悲観的になるような出来事が立
ち塞がっても、その困難の向こうからキリストの招きを聴き、人知を越えたご計画が成
就するという楽観的視点で「アーメン」と祈る人になるからです。(2コリント1:17,20) それは
人としての知恵、自分の力が消え失せたところにこそ神の知恵、力が勝利するという希
望の祈りです。「…御名が崇められますように。…御心が行われますように、天における
ように地の上にも。…み国も力も栄光もとこしえにあなたのものだからです。アーメン」
(新共同訳聖書マタイ6:9-13とNCC統一訳より)
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# by hachimejibap | 2017-04-22 16:00 | メッセージ

救いは近づいている

テーマ 十字架の希望
聖書 マタイによる福音書 24章29~35節
2017年4月9日      受難週消火礼拝           牧師 左右田 理

 本日の聖書箇所は、イエス様が世界的規模での苦難を予告している描写の一部分と
して見ることができます。しかしイエス様はことさらに人々を悲観的な思いに突き落とす
ために、それをお語りになったわけではありません。その点、かつて一世を風靡したノス
トラダムスの大予言とは逆なのです。いちじくの木の成長が夏の到来を告げるように、
その苦難が深刻であればあるほど、主の来臨が近い希望であると、イエス様は励まし
てくださっています。(32~33節) とくに本日の聖書箇所は、並行記事(ルカ21:25~33)に比
べ、天変地異の描写のただ中に主の来臨が描かれています。日本にも“バチが当た
る”などという残念な言葉もありますが、マタイは、苦難を救いから見放されてしまって
いる証拠と見なす世の“誤解”を解きたかったに違いありません。
 イエス様のエルサレム入場を大歓迎した群衆が、一週間も経たずにイエス様を十字
架に置き去り、見殺しにしたのはなぜか…それは苦難の中に救いなどあるはずがない
という“誤解”が世を支配していたことと無関係ではないでしょう。そのような誤解によ
る支配は聖書が指摘する罪であり、霊的な病です。しかし聖書はそのような人々の弱さ、
愚かさをただ突き詰めていって断罪するようなことはしません。替わりに救い主に対す
る“負い目”を意識させることを通して、神との関係性を再発見させてくれるのです。そ
れは“主の祈り”にある赦しの支配としての関係性です。「わたしたちの負い目を赦して
ください、 わたしたちも自分に負い目のある人を 赦しましたように。」(マタイ6:12)
 本日の聖書箇所で、主の来臨を仰ぎ見て流される世界中の涙は、自分たちの罪、霊
的病であるところの弱さ、愚かさ、虚しさをただ嘆いて終わりません。(30~31節) それは
自分たちの弱さ、愚かさ、虚しさのただ中に降り立ってくださった主に対する感謝の涙と
なり、主のもとへ招き寄せられる世界中の人々の嬉し涙となるのです。なぜそのように
言い切れるのでしょうか。それはキリストの約束の言葉だからです。たとえ天地が滅び
ようとも決して滅びることのない十字架の言葉だからです。(35節、1コリント1:18) 私たち
の罪、霊的病のために十字架の苦難の死に来臨してくださった主イエスこそ、永遠の命
の希望です。この受難週消火礼拝を通して、見殺しにした私たちを永遠に赦してくださ
った十字架の主を共に仰ぎ、共に永遠の命の希望を受けましょう。(ゼカリヤ12:10)
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# by hachimejibap | 2017-04-22 15:30 | メッセージ

ただ主に従いなさい

テーマ 主の食卓
聖書 ルカによる福音書 5章27~39節
2017年4月2日      主日礼拝             牧師 左右田 理

 本日の聖書箇所は、徴税人たちと囲む“食卓”、次に“断食”問答という、二つの物語
で構成されていますが、共観福音書(マタイ9:9~17、マルコ2:13~22、そして本日のルカ)の
いずれでも同じ順序になっています。本日は、この順序そのものからも、メッセージを聴
きたいと思います。マタイ、マルコの“食卓”では、罪人を無条件で招くイエス様が描かれ
ているのに対して、本日ルカの“食卓”では、罪人を悔い改めに招くイエス様が描かれて
います。(32節) 神の民としての正しさに熱心だったファリサイ派の人々は、神の民らし
く悔い改めた人だけで食卓を囲むよう迫ります。しかしイエス様は続く“断食”問答で、新
しい悔い改めを指し示すのです。
 イエス様によって徴税人レビの身の上に成就した悔い改めは、“慣習、慣例としての正
しさに安住することなく、絶えず新しい出会いに生きる”という生き方でした。(36~39節)
レビは徴税人仲間だけで収税所に詰める慣習、慣例を一切捨て(27~28節)、徴税人仲
間と他の人々とを出会わせる食卓に献身奉仕しました。(29節) それまで顔を合わせる
ことも、分かち合いもなかった者どうしが出会わされる、ここに主の食卓としての豊かさ
があります。だとしたらファリサイ派の人々こそが罪人を招く主の食卓に、豊かに招かれ
ていたはずです。本日この後、主の晩餐式を執り行いますが、それがもしクリスチャン
限定の場だったら、主の食卓としての豊かさは霞んでしまったことでしょう。
 ファリサイ派の人々は神の国イスラエルの秩序、安定のため悔い改めに熱心でした。
だから神の民“らしさ”、神の民と異邦人との“区分”を曖昧にして神の国を滅ぼしかねな
い危険人物としてイエス様を十字架で殺しました。しかし十字架の主こそ、復活の主で
す。今も生きて働いてくださり、身内、仲間どうしの付き合いに安住したい衝動を悔い改
めさせ、復活の豊かさに満ちた主の食卓を成就してくださるのです。(ルカ14:12~14)
 平穏無事志向は秩序、安定のために人種差別を生み出します。しかし神の平和は、
“人を見ずして神を見よ”です。それはただ人が見えなくなってしまうのではなく、十字架
に現れた神の視点で人を見よ、という招きです。(ゼカリヤ12:9~10) キリストの言葉は初代
教会を異邦人伝道へ招いた言葉として、今も「絶えず新しい言葉」に生きるよう私たちを
招いています。この招きに応えて礼拝、祈り、賛美を捧げましょう。
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# by hachimejibap | 2017-04-22 15:00 | メッセージ

イエスの名によって

テーマ 福音のメッセージ
聖書 使徒言行録 4章16b~22節
2017年3月19日      主日礼拝            牧師 左右田 理

 人を見ずして神を見よ…この福音のメッセージは、本日の聖書箇所でも聴くことがで
きますし、イエス様ご自身に対する迫害の出来事からも聴くことができます。(マルコ11:31
~33) そもそもイエス様たちはユダヤ教が福音で満たされるために奉仕していたのであ
って、ユダヤ教を否定するつもりなどありませんでした。ただ、福音で満たされるために
は身内、仲間内のご機嫌をうかがう生き様には妥協できませんでした。(ガラテヤ1:10)
 本日の聖書箇所には福音に対する二通りの生き様が描かれています。一方はイエス
の名のゆえに、見ざる、言わざる、聞かざる、封じ込め作戦です。もう一方はイエスの名
によって、今神を見ようとしているのか、人を見ようとしているのか考えて欲しいと訴え続
けていく生き方です。イエス様曰く、「わたしが暗闇であなたがたに言うことを、明るみで
言いなさい。耳打ちされたことを、屋根の上で言い広めなさい。」(マタイ10:27) イエスの
名のゆえに抑圧された事柄であればこそ、あえてイエスの名によって告げ広めていく、
ここに歴史的教会による“人を見ずして神を見よ”という福音のメッセージがあります。
 歴史的教会の起源とも言うべきペンテコステの出来事(使徒言行録2章)は、従来ヘブ
ライ語が神の権威ある言葉として習慣化されてきた実態(使徒言行録22:2)を度外視して
その時代の諸国語でメッセージを始める出来事でした。同様に、ローマ・カトリック教会
全盛期に神の権威ある言葉として習慣化されていたラテン語(ヴルガータ訳聖書)を度
外視して、その時代の諸国語で聖書翻訳に乗り出したプロテスタントの宗教改革も、や
はり“人を見ずして神を見よ”という福音のメッセージでした。こうして歴史的教会による
福音のメッセージは、“みことばに触れてこなかった人々のために、くり返し聖書の言葉
を現代語化する”取り組みでした。
 現代語化の取り組みは、すでに八王子めじろ台バプテスト教会でも始まっています。
「広く共に生きる」、「絶えず新しい言葉に生きる」教会形成です。(2016.3.20総会資料)
教会形成に欠かせない みことば、礼拝、祈り、主の食卓、賛美、もろもろの恵みすべて
について、みことばに基づく対話を無限に広げましょう。今ままで みことばを知らなかっ
た人々とそれら恵みをより豊かに分かち合えるように、メッセージの現代語化、その創
意工夫、試行錯誤を共に喜び、共に受けましょう。
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# by hachimejibap | 2017-04-22 14:30 | メッセージ

福音に仕えるからだ、すこやかに

テーマ からだをささげる
聖書 ローマの信徒への手紙 12章1~2節
2017年3月12日                      鈴木重義

1 二つのからだ
使徒パウロは、この聖句でキリスト者各人に生活指針たる慰め、励ましの言葉、また奨め
の言葉をあたえる。
先ず、自分のからだは信徒各人の人格的全存在を意味する。別言すれば、信徒の全身・全霊
・全生活、全生涯を献げよう、と奨めるのだ。その信仰の根拠としてパウロは「あなたがた
は、代価を払って買い取られたのです。」(1コリント6:20)と十字架のみわざを想起させる。
次に同じ箇所でパウロは、自分のからだを献げる先は、キリストをかしらとする教会である、
と教え示す。
(ローマ12:5)わたしたちも数は多いが、キリストに結ばれて一つの体を形づくってお
り、各自は互いに部分なのです。
(Ⅰコリント12:1~31)本文略:新共同訳P.291~2
2 ささげる(献げる)
A.十字架(贖いのみわざ)の意義
(ヘブライ10:10)この御心に基いて、ただ一度イエス・キリストの体が献げられたこと
により、わたしたちは聖なる者とされたのです。
(ヘブライ10:18)罪と不法の赦しがある以上、罪を贖うための供え物は、もはや必要で
はありません。
B.ささげるの語彙
ⅰ:さしあげる=神を畏れ、尊ぶ信徒の謙遜な振舞い。
ⅱ:側に置く=キリストの言葉を適正に聞き取ることができる側に、また、世の俗言に動揺し
たり、屈服したりしない程度のキリストの側に身(全存在)を置く。
3 聴いて従う
A.Ⅰペトロ2:21~25 あなたがたが召されたのはこのためです。というのは、キリスト
もあなたがたのために苦しみを受け、その足跡に続くようにと、模範を残されたからです。「こ
の方は、罪を犯したことがなく、その口には偽りがなかった。」
  「ののしられてもののしり返さず、苦しめられても人を脅さず、正しくお裁きになる方にお
任せになりました。そして、十字架にかかって、自らその身にわたしたちの罪を担ってください
ました。」<以下、略>
B.Ⅰコリント9:22b~23,25~26
すべての人に対してすべてのものになりました。何とかして何人かでも救うためです。福音のた
めなら、わたしはどんなことでもします。それは、わたしが福音に共にあずかる者となるためで
す。…競技をする人は皆、すべてに節制します。彼らは朽ちる冠を得るためにそうするのですが、
わたしたちは、朽ちない冠を得るために節制するのです。だから、わたしとしては、やみくもに
走ったりしないし、空を打つような拳闘もしません。
C.つまり、聴いて従う、とはキリストの言葉に聴従して福音宣教に仕える歩みを進めること、
世俗の誘惑や悪魔の制圧を排除してキリストの言葉のみに従うことだ。
(ローマ10:17)実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによっ
て始まるのです。
このように、聖句の〔聞く〕は聴従の意味であり、更に詳述すれば、〔キリストの言葉を注意深
く聞いて、御こころに応えて、キリストの証人として生きる(行動する)、奉仕に生きる。〕と
いうことである。聞くだけで従わない生き方は、この聞くの語彙にあてはまらない。なお、〔共
にキリストの言葉に聴く、という教会の交わりを喜び求めたい。〕
4 奉仕のわざに適した者とされ…
A.(エフェソ4:11~16)=以下で14節は省略
そしてある人を…ある人を牧者、教師とされたのです。こうして、聖なる者たちは奉仕のわざに
適した者とされ、キリストの体を造り上げてゆき、ついには、わたしたちは皆、神の子に対する
信仰と知識において一つのものとなり、成熟した人間になり、キリストの満ちあふれる豊かさに
なるまで成長するのです。…愛に根ざして真理を語り、あらゆる面で、頭であるキリストに向か
って成長していきます。キリストにより、体全体は、あらゆる節々が補い合うことによってしっ
かり組み合わされ、結び合わされて、おのおのの部分は分に応じて働いて体を成長させ、自ら愛
によって造り上げられてゆくのです。
B.なすべき、霊的な礼拝
ローマ12:1では〔自分の体を神に…献げる〕ことが「あなたがたのなすべき礼拝です。」と
確言する。これを具体的、実践的に受けてみよう。
  ① 教会員は主日礼拝を中心として、共にキリストの言葉を聞き、週日に及ぶ全生活をキリ
    ストの証人としてふさわしく整えるように奨められている。<礼拝の生活化>
  ② 教会員各人は、主日礼拝こそ福音宣教の主要な機会と信じ、特定の奉仕の有無にかかわ
    らず、未信の求道者にキリストの言葉が届くよう祈り、配慮する。
  ③ 教会員各人は、自分のからだをもって礼拝の生活化に取り組むと共に、キリストのから
    だの活性化と成長のため、それぞれの賜物に応じた協力奉仕を喜び、励むよう期待され
    ている。
結び 3月は、4月からの新年度のために、教会のかしら、イエス・キリストに向けて、からだ
   である教会の宣教・教育などの諸計画・財務計画をささげる時である。教会員各人が一つ
   のからだの充実  ・成長のため一つ祈り心に導かれるように期待する。
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# by hachimejibap | 2017-04-22 14:00 | メッセージ
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みんなで歌おう!共に話そう!そして一緒に祈ろう! 〒193-0833 東京都八王子市めじろ台2-15-2 ℡.042-663-7036


by hachimejibap
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