八王子めじろ台バプテスト教会

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みんなで歌おう!共に話そう!そして一緒に祈ろう! 〒193-0833 東京都八王子市めじろ台2-15-2 ℡.042-663-7036

タビタ起きなさい

テーマ:いのち
聖書:使徒言行録9:23~43 
2017年7 月23 日                協力牧師 北島靖士

今読みました二つの物語りはペトロの伝道の物語りです。この中にリダ、シャロン、
ヤッファという三つの地名が出てきます。新共同訳聖書をお持ちの方は後ろの地図6
を見てください。これらはエルサレムから、地中海に向かう途中と地中海沿岸にあ
ります。少し前の8章の終わりのところに出て来るフィリポの伝道では同じ地中海沿
岸のガザやアゾトが出て来ます。すなわちこの頃、初代教会はこの地方で盛んに伝
道していたのです。
わたしもイスラエルを旅行した時にヤッフアに行ったことがあります。そして海岸
の皮なめしシモンの家があったと言われる場所に案内されました。そこには今、そ
んなに大きくはありませんが、正教会の教会堂が立っていました。わたしも教会の
前に立って、ああここでペトロはやもめたちやドルカスと出会ったのだという感慨
にふけりました。
今、わたしたちは二つの物語りを読みました。病気のアイネアが癒された話と死ん
だタビタが生き返った話です。病人が癒された話、死人が復活した話は聖書の中に
たくさん出てくることをみなさんはご存知です。癒しとか復活は何でしょうか。そ
れは神さまの力をあらわしています。ペトロはアイネアに向かって「アイネア、イ
エス・キリストがいやしてくださる」と言っています。ペトロは「わたしがあなた
を癒やす」とは言いません。ペトロが癒すのではありません。ここが大切なところ
です。イエス・キリストが癒してくださるのです。ですから、35節にあるように、
「リダとシャロンに住む人は皆アイネアを見て、主に立ち帰った。」のです。42節
では「このことはヤッファ中に知れ渡り、多くの人が主を信じた。」でした。
病気やいろいろな苦難がわたしたちの人生にはつきものです。しかし、その中で主
イエス・キリストに信頼して生きることによって希望を与えられたひとびとのあか
しをわたしたちはたくさん聞いているのです。
(これは今日のメッセージの冒頭部分です。引用聖句は裏面にあります。)


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# by hachimejibap | 2017-07-26 13:00 | メッセージ

何を議論していたのか

テーマ 教会
聖書 マルコによる福音書 9章30~37節
2017年7月16日      主日礼拝              牧師 左右田 理

 人が議論をするとき、往々にして何が正しいのかということがテーマです。どういう考え
方、どういう行いが正しいのかがテーマとなります。そしてそれは自分たちのうち、その
正しさに近い“偉い人は誰か(34節)”という比較優劣へ誘惑されることもあります。並行
記事であるマタイ18:1~5 ではこのことについて弟子たちがイエス様に直接尋ねる描写に
なっていますが、本日の34節、およびルカ9:46~48 では尋ねるどころか口を閉じるしかな
かったようです。主の十字架の預言に対し、弟子でありながら怖くて何も尋ねられなかっ
た自分たちの弱さに直面させられた直後ということもあり(32節、ルカ9:45)、自己肯定に飢
え渇きながら、さぞや心苦しい沈黙だったことでしょう。
 わかっちゃいるけど やめられない…昔懐かしの流行語ではありませんが、ついつい
人は自分の“偉さ”探しをしてしまいます。それは単なる自己肯定ではなく、他者に対す
る自己優位性探しであり“見下し”です。せっかく十字架の主を信じたのに、信じていな
い人は天国へ入れない人種として論じてしまうのです。(ローマ10:6~8) 何しろイエス様と
共に歩んでいた弟子たちですら陥っていた誘惑なのですから…ここで突然イエス様は不
思議な宣言をします。当時の封建的宗教社会において子どもとは“想定外”をもたらす
半人前でした。しかしイエス様はそのような“想定外”な存在を受け入れる者こそ、救い
主イエスを遣わした神を、人知を越えた神を受け入れる者だと宣言したのです。(37節)
すなわちそれは社会的ルール、常識においては“偉い”どころか見下されている命と共
に生きるところにこそ神の国があるという宣言に他ならないでしょう。(ルカ17:20~21) イエ
ス様は弟子たちにこの世の比較優劣を越えた自己肯定を証しするのです。
 古今東西、国籍や人種、さまざまな違いが差別、排除の根拠とされてしまったのも、自
己肯定がこの世の比較優劣に基づいていたからです。社会や共同体に“想定外”をもた
らす存在が警戒されたり、敵視されたりしてきたのも、自己肯定が家内安全商売繁盛の
上に成り立ってきたからです。しかし初代教会は十字架の主を誇りとしました。(1コリント1:
18,30) それはあらゆる比較優劣、敵意から解放された自己肯定であり、他者肯定の
無限の広がりです。十字架の言葉によって肯定された存在として他者と出会い、他者と
共に死に、他者と共に生きる群れとして教会は全世界へ遣わされていくのです。


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# by hachimejibap | 2017-07-26 12:00 | メッセージ

テーマ 神の宣教
聖書 使徒言行録 15章36~41節
2017年7月9日      主日礼拝             牧師 左右田 理

 本日の聖書箇所冒頭の“数日の後”…それは世界初の教会総会から数日後、激しい
意見の対立と論争が一定の妥結に至ってから数日後、ということでした。(15:1~35) 伝
道者パウロにとってその総会は、宗教儀式、社会的慣例において不適格と見なされて
いる者たちが適格者として明らかにされた論争の場でした。(1コリント11:19) 伝道、証しの
日々は戦いの日々でもあります。しかしそれは人の知恵や力による戦いではありませ
ん。ひたすら十字架の主の言葉を誇り、掲げ続ける戦いです。(1コリント1:18,30) 疲れも
まだあったかも知れませんがパウロたちは出発しました。従来の秩序において不適格
とされてきた者たちと囲む食卓に起こる神の養い(ヨハネ4:34)にすべてを委ねて。
 適不適を逆転させる十字架の救いは従来の秩序に対する問い直しであり、挑戦となり
ます。(ヨハネ9:39~41) 伝道、証しの前に迫害が立ち塞がる現実は避けられません。そこ
には倫理以上に忍耐、勇気が必要とされる現実があったことでしょう。(ヨハ黙21:8) 本日
の聖書箇所で、以前の伝道で挫折、離脱したマルコに再びチャンスを与えようとしたバ
ルナバに対し、パウロは忍耐、勇気が必要とされる伝道の現実を訴えて譲らなかったよ
うです。この衝突は妥結に至ることなく双方は別々に伝道することになりました。対立し
た意見の適不適もすべて益としてくださるキリストの明日に委ねて。(ローマ8:28)
 マルコがその後どうなったのか、使徒言行録には描かれていません。ただ、いわゆる
パウロ書簡にはマルコという名前が登場します。同じ名前でも別人かも知れません。た
だ激しい対立、論争の妥結点を見出してまだ日も浅かった初代教会にとって、当時の代
表的伝道者たちの分裂はかなりのショックだったはずです。そしてパウロ署名の手紙に
マルコという記述があれば誰もがその騒動を思い起こしたことでしょう。しかしその手紙
から見えてくるのは和解の福音の希望でした。(コロサイ4:10、2テモテ4:11、2コリント5:19)
 キリストの証し人である私たちのわざは、いつでも罪人のわざです。キリストの赦し、平
和、恵みの支配によって生かされていくわざです。(ガラテヤ2:19~20) 伝道活動にともなう
私たちの思惑、期待は挫折したり覆されたりすることでしょう。しかし伝道そのものは人
知を越えたご計画として必ず実を結ぶのです。「…御心が行われますように、天におけ
るように地の上にも。」(マタイ6:10)


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# by hachimejibap | 2017-07-26 11:00 | メッセージ

テーマ 神の家族
聖書 使徒言行録 16章25~34節
2017年7月2日      主日礼拝               牧師 左右田 理

 幼少の頃から、ときどき教会で耳にしてきた掛け声があります。「家族皆がクリスチャ
ンになりクリスチャンホームになることで神の家族としての祝福を受けよう」。あわせて本
日の聖書箇所(31節)なども引用されていました。しかしイエス様ご自身が、いわゆるクリ
スチャンホームが神の家族の祝福であると弟子たちに教えていたとは思えないのです。
(ルカ21:16,18:29~30) では身内、友だちに伝道していくところにどのような祝福をイエス様
は備えてくださるのでしょうか。本日の聖書箇所から あらためて神の家族の祝福につい
て共に聴きましょう。
 初代教会時代、囚人が昼夜問わず鎖でつながれっぱなしということは珍しいことでは
ありませんでした。(26節) “疑わしきは罰せず”など通用しない世界です。(使徒22:24)
そういう社会においては裁かれる側に立つこと自体が人として信用できないという人間
観になることでしょう。本日の聖書箇所に登場する看守も、囚人が裁かれていく段取り
をいかに滞りなく進めるかという社会的責任を負っていたことでしょう。枷が外れても脱
走しない囚人など考えられないこと、裁き罰する段取りに支障を来した看守には厳罰が
跳ね返ってくる(使徒12:19)ことも仕事柄よくわかっていたことでしょう。(27節)
 伝道者パウロは自害寸前の看守に呼びかけます、「わたしたちは皆、裁かれる側にと
どまっている」。(28節) 皆の裁きを背負い込むはずだった看守にしてみれば、「皆、罰
せられる側にいる、君と共に」という励ましの言葉として響いたことでしょう。十字架の主
を仰ぐ賛美と祈り(25節)は皆に、共に裁かれる側、罰せられる側に踏みとどまる主の力
を満たしました。これこそ罪の赦しに満ちた神の国の平和であり、神の家族の祝福でし
た。(エフェソ2:14~21)
 世から裁かれる者を通して救いが来るという信仰告白は(30節)、すでに十字架の主と
向き合う信仰告白です。バプテスマは世から裁かれる者たちと共に生きる主の使命の
共有です。(33節) そして世から罰せられる者たちと共に囲む食卓を通して神の家族の
喜びに満たされます。(34節) 神の家族とはクリスチャンという肩書きが勢揃いした状態
ではありません。赦され生かされている罪人どうしの自覚的交わりです。「私たちの負い
目を赦してください、私たちも自分に負い目のある人を赦しましたように。」(マタイ6:12)


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# by hachimejibap | 2017-07-26 10:00 | メッセージ

テーマ:悔い改め
聖書: 使徒言行録17:22~31 
2017年6 月25 日                協力牧師 北島靖士

 今読みました使徒言行録の17章22節にアレオパゴスという言葉が出てきます。わたし
もここに行ったことがありますが、アテネの象徴でありますアクロポリスの神殿の斜め
下にある何の変哲もない小さい岩山です。ここには紀元前にはアテネの裁判所があった
と言われます。裁判所と言っても使徒パウロがアテネに行った頃には単なる犯罪を裁く
裁判所ではなくなっていました。アテネはプラトン以来の哲学が盛んな所でした。この
ころにも、エピクロス派やストア派の哲学者達がいたとあります。色々な人が演説し、
討論する場所がアレオパゴスだったのです。そして、議員と呼ばれる裁判人がその考え
方はアテネという都市国家にとって、有益であるか、不要なものかを決めていたと考え
られます。パウロの第一声「アテネの皆さん、あらゆる点においてあなたがたが信仰の
あつい方であることを、わたしは認めます。」これも修辞学といいますが、討論の一つ
の方法です。最初に相手との共通点を語り、次第に自分の陣営に引き込んで行くという
方法です。
パウロは何とかして、アテネの人々に自分が語ることを聞いてもらいたいと努力しまし
た。しかし、彼のアテネ伝道は結局失敗に終わったと言わざるを得ないのです。32節に
「死者の復活ということを聞くと、ある者はあざ笑い、ある者は、『それについては、
いずれまた聞かせてもらうことにしよう』と言った。」とあります。
パウロは哲学ではなく、福音を語らざるをえなかったからです。パウロは哲学者ではなく、
福音伝道者でした。「復活」すなわち「イエス・キリストの十字架と復活」これこそ福音
です。のちにパウロはⅠコリント1:22~23で「ユダヤ人はしるしを求め、ギリシア人は
知恵を探しますが、 わたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えています。」
と言っていますが、これはアテネ伝道の失敗が背景にあるとも言う人もいるのです。
しかし、アテネ伝道は全く失敗であったかというとそうではありません。数人の信仰に入
った人々もいたとあります。ほんとに少数ですが、のちのアテネ教会の小さな種がまかれ
たのです。議員ディオニシオはのちにアテネの司教になったという伝説もあるのです。
(これは今日のメッセージの冒頭部分です。引用聖句は裏面にあります。)


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